更新日 2017年09月22日
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1775年~1890年 太平洋へ向かい領土拡大を続ける
建国からインディアン制圧まで
1750年 1750年の北アメリカの植民地
1750年の北アメリカ地図、これは七年戦争(1756年-1763年)と呼ばれる世界的な紛争の一部であるフレンチ・インディアン戦争前のものである。

ピンクはイギリス、
青はフランス、
橙はスペイン領を示す。
1754年~1763年 フレンチ=インディアン戦争
ヨーロッパでの七年戦争(1756~)とほぼ同じ時期の、1754~63年まで、アメリカ大陸でのイギリスとフランスの植民地獲得の戦争が行われた。フランス軍がインディアン諸部族と結んで、イギリス植民地軍を攻撃したので、イギリス側でこのように呼ばれる。
インディアンすべてがフランス側についたわけではない。インディアンの中にはフランスではなくイギリス側についた部族もいたのであり、インディアンはイギリスとフランスの戦争に巻き込まれた、というのが正確な説明である。
北米中部から五大湖地方、ミシシッピ流域にいたる広大な地域には、イギリス殖民地を取り囲む形でフランス人が進出し、彼らはインディアンとの毛皮などの取引を行い、おおむね良好な関係を結んでいた。この地のインディアンは有力な五部族がイロコワ連合を結成していた。ヨーロッパ大陸で対立が厳しくなると、この北米中部がにわかにイギリス・フランス両国の衝突する地域となり、双方ともイロコワ連合を味方に引き入れるべく、さまざまな工作を開始した。しかし、フランス側の長年にわたる努力にもかかわらず、イロコワ連合は正式には中立政策をとり、非公式にはイギリス支持に傾いた。
フレンチ=インディアン戦争は1759年のイギリス軍によるケベック占領によって形勢が逆転し、1763年にイギリスの勝利に終わった。
それからわずか12年後の1775年にアメリカ独立戦争が始まると、インディアンはアメリカ独立軍とイギリス本国軍の戦争に巻き込まれる。
1763年 フランスが北アメリカの植民地を放棄
1763年のパリ条約でフランスが北アメリカの植民地を放棄した。
フランスは北アメリカでのほとんどの領土を放棄したが、ニューファンドランド島沖での漁業権とその漁獲を乾燥させるための2島、サンピエール島・ミクロン島の領有を維持。

黄色はイギリス、
茶色はフランス[サンピエール島・ミクロン島の領有を維持。]、
緑はスペイン
青がロシア領を示す。
1775年~1783年 アメリカ独立戦争
北アメリカには、スペイン・フランス・オランダ・スウェーデン・イギリスが植民地を作っていた。18世紀に繰り返される戦争で、その殆どをイギリスが植民地として治めることになった。フランスとの戦争で負債を抱えたイギリス本国は、アメリカの植民地に対し多くの税金(1764年砂糖法・1765年印紙法・1767年タウンゼント法・1773年茶法)を掛け負担させようとした。
1773年12月16日のボストン茶会事件を切っ掛けに、イギリス本国はマサチューセッツ州をイギリス国王の直轄地にし自治権を剥奪した。イギリス本国が強気な姿勢に出たことによりアメリカの人々が独立に向け団結していくことになる。
1774年にイギリスへの対応をめぐり第1回大陸会議がフィラデルフィアで開かれた。これにはジョージア州を除く12の植民地の代表が集まりイギリスに対して通商断絶の決議がなされます。植民地代表がいないところで決められた課税に対しては断固拒否しようと決めた。
1775年ボストン郊外でイギリスと植民地の人たちにおける武力衝突(レキシントンの戦い)が勃発し、これによりアメリカ独立戦争が始まった。
1776年 アメリカ独立宣言
1774年7月4日にはイギリスにより統治されていた13の州の代表による大陸会議でアメリカ独立宣言が採択されて批准された。
1783年 ミシシッピ以東の地を獲得
アメリカ独立戦争で勝利して独立を達成したアメリカは、1783年のパリ条約でミシシッピ以東の地を獲得した。
1787年 アメリカ合衆国憲法制定
それぞれが独立国家のような13州による連合国家であったが、統一の憲法の下で強力な中央政府が必要であるとの意見が高まり、1787年に憲法制定会議が発足し、アメリカ合衆国憲法が制定された。
1803年 ルイジアナを買収
ミシシッピ川の河口近くでメキシコ湾に面しているニューオリンズは交易の中心として繁栄し、西方への進出を望むアメリカ人はその獲得を強く望むようになった。ジェファーソン大統領は1802年に特使をパリに派遣し、ニューオリンズ買収を提案した。
当時フランスはナポレオンの執政下にあり、イギリスとは敵対していた。イギリスがカナダからルイジアナに侵攻した場合、これを防衛することはそもそも無理と結論したナポレオンは、むしろこれを売却してこれで得た利益をヨーロッパ大陸での戦費にあて、さらにアメリカのヨーロッパ政策をフランス寄りにすることができることも期待して、全ルイジアナを破格の1500万ドルでアメリカに売却することを決定した。
1812年 米英戦争の勃発
[戦争の本質]
アメリカ=イギリス戦争の開戦に対して特に東海岸の都市で貿易に従事する人々を始め、国内では無意味な戦争だとして反対する声も強く、国民も冷ややかで「マディソン氏の戦争」としか言わなかった。戦争の口実はイギリスによる貿易の妨害であるが、当時、タカ派(ウォー・ホークス)と言われた主戦派のもくろみは合衆国の領土の拡張であり、インディアンから土地を奪うことであった。
[背景 中立政策の行き詰まり]
フランス革命さらにナポレオン戦争というヨーロッパの激動に対し、独立したてのアメリカ合衆国は初代大統領ワシントンの退任演説に見られるように、中立政策を原則とし、英仏双方との貿易の利益を守っていた。第3代大統領ジェファソンも基本的には中立政策を維持した。しかし、英仏の対立が先鋭化し、1806年にナポレオンが大陸封鎖令を出し、イギリスの港へのすべての商船の入港を禁止したため、アメリカ船もイギリスに入れなくなった。さらにイギリスも逆封鎖に乗りだしたので、アメリカ船舶はフランス及びフランス植民地への入港が出来なくなってしまった。こうしてアメリカの中立政策は困難となり、いずれかの国との貿易を再開するには、いずれかの国と敵対しなければならない状況となった。
[タカ派の登場]
アメリカ国内にはイギリスに対する反発、フランスに対する反発の双方があったが、次第にイギリスに対する反発の方が強まっていった。その背景には、1783年の独立達成から約30年たち、独立戦争を知らない世代が増え、特に内陸部の開拓農民の中に、イギリス領のカナダへの進出やフロリダへの領土拡張を主張する主戦派(タカ派=ウォー・ホークス)が現れていた。また彼らは、西部開拓でインディアンの抵抗を受けていたが、インディアンの背後にはイギリスがいて、その支援を受けている事への反発があった。アメリカ議会の中にもタカ派が多数を占めるようになり、1808年に大統領となったマディソン(ジェファソンのもとで国務大臣を務めていた)も彼らをコントロールすることが出来なくなり、中立・平和政策は揺らいでいった。
1814年12月 米英戦争の講和
[講和成立後のジャクソンの勝利]
1814年にヨーロッパでナポレオン軍が敗れたことを受けて、同年12月のクリスマスイブにベルギーのガンで講和条約締結となった。ところが、講和成立の知らせが本国に届く前の1815年1月、ジャクソン将軍指揮のアメリカ軍がミシシッピ河口のニューオリンズに駐屯したイギリス軍を攻撃して大勝していた。そのため、厳密には勝敗がつかず痛み分けとなっていたにもかかわらず、アメリカ国民は戦争に勝利したと思い込み、合衆国の危機を救ったジャクソン将軍の名声が高まった。彼はその後、大統領選に出馬し当選、1829年からアメリカ合衆国第7代大統領を務める。

アメリカは勝利によりイギリスからの干渉を排除することができた。
インディアンとイギリスの同盟が解消され、白人開拓民はミシシッピー川を渡り、西のインディアンの土地に進出を始めた。
1817年~1818年 第1次セミノール戦争
第1次セミノール戦争の始まりと終わりの日付はしっかりと確立されていない。
インディアンにはヨーロッパ人がもたらした疫病に対する抵抗力がほとんどなく、またスペイン軍がフロリダ北部でインディアンの反乱を弾圧したことで、この地域にヨーロッパ人が渡来するとフロリダ・インディアンの人口は減少した。またカロライナの州兵とそのインディアン同盟がフロリダ半島全域で幾度も攻撃を仕掛け、18世紀初頭までには残るインディアンのほとんどを殺害したか、捕虜にした。
その空白地帯に、アメリカ南東部の様々な部族が、新天地フロリダへの移住を開始した。ヤマシー族、ロウワー・クリーク族、アッパー・クリーク族、ミカズキ族、カウキーパー率いるヒチティ語を話す他の集団が移り住むようになった。
また、18世紀のフロリダへの移住者には逃亡奴隷もいた。スペイン領フロリダに着くことができた奴隷は本質的には自由であった。スペイン当局は逃亡奴隷を歓迎し、セントオーガスティンに隣接したフォート・モーセの住民として居住することを許可し、都市防衛のため彼らを民兵として起用した。
フロリダに移り住んできたインディアンと逃亡奴隷をまとめて[セミノール]と称することが多い。
ジョージアの白人とフロリダのセミノールの間でセミノール側への逃亡黒人奴隷の処置や土地問題をめぐって紛争が絶えなかった。アメリカはこの逃亡奴隷の楽天地を覆滅し,あわせてアメリカ領土を拡大することを目指して,セミノールを攻撃した。 1816年の連邦政府軍の侵攻に続いて,18年には A.ジャクソン指揮下の約 3000人の軍隊がスペイン領フロリダに侵攻した。
スペイン領への侵略が、アメリカはスペイン,イギリス両国からの抗議を受けて外交問題となった。しかし,この事件によってスペインの無力さが露呈され,19年スペインはフロリダ地域をアメリカに割譲した。
1818年 イギリスとオレゴン地方を共同領有
1818年条約によって、ウッズ湖より西の北緯49度線がイギリス領との境界に設定され、アメリカとイギリスの共同領土としてオレゴン・カントリーが設立された。
1846年、アメリカはオレゴン地方をアメリカ領とすることでイギリスと合意。
1819年 フロリダをスペインから買収する。
独立後のアメリカ合衆国では南部のプランテーション農園での綿花栽培が拡大し、その南にあるフロリダへの領土拡大が叫ばれるようになった。1812年のアメリカ=イギリス戦争で活躍したジャクソン将軍(後の大統領)の率いるアメリカ軍は1817~18年の第1次セミノール戦争でセミノール=インディアンを制圧した。しかしインディアンは湿地に逃れて抵抗を続けた。フロリダ併合の要求が強まったことをうけて、1819年、モンロー大統領の時、スペインからアメリカ合衆国が500万ドルで買収した。その後フロリダは1845年、合衆国27番目の州となりった。
1823年 [モンロー主義]の宣言
スペイン、ポルトガルの混乱に乗じたラテンアメリカの独立運動が活発化するが、ウィーン体制を敷く各国は介入して植民地支配を継続しようとする。
これに対し、アメリカの第5代大統領のジェームス・モンローは1823年、[モンロー教書]を発表し、ヨーロッパ旧勢力が新大陸へ干渉するのに反対した。アメリカはヨーロッパに干渉しないが、南北アメリカ大陸はアメリカの勢力圏であり、ヨーロッパの干渉は許さない、というアメリカ流の孤立主義政策がこうして確立されていく。
19世紀を通じてモンロー主義はアメリカの外交政策の基本である孤立主義とされるが、19世紀末に帝国主義列強としてアメリカ自身も次第に植民地獲得競争に巻き込まれると、セオドア=ローズヴェルト大統領は、モンロー主義を拡大解釈(「ローズヴェルトの系論」という)し、カリブ海域の「慢性的な不正と無能」に対してはアメリカが武力干渉することを正当であると表明し「棍棒外交」を展開する。
1830年 [インディアン移住法]が可決
1830年、ジャクソン大統領はインディアンの強制移住政策である[インディアン移住法]を制定した。大統領在任中に94の移住条約を結び、西部に設定した保留地ヘインディアンを強制移住させた。チェロキー族は1300km離れたオクラホマまで移動させられたが、移動中は飢えと寒さ、病気に苦しめられ、約4000人が命を落とした。そのルートは「涙の道J Trail of Tearsと呼ばれている。しかも、たどり着いた保留地で貧困化したインディアンから容赦なく土地を奪い取り、彼らの生活基盤を根こそぎ奪っていった。