更新日 2014年08月17日
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ハワイ併合 1810~1898年の出来事
1810年 カメハメハがハワイ諸島を統一しハワイ王国を建国する
カメハメハ大王はハワイ島北部のカパアウで生まれた。ハワイ島の首長であったカラニオプウの甥にあたり、叔父の死後その長男のキワラオを倒してハワイ島を掌握する。その後、イギリスから武器や軍事顧問などの援助を受け、マウイ島やオアフ島など周辺の島々を征服して、1810年にハワイ諸島を初めて統一して、ハワイ王国を建国する。
カメハメハ大王は優れた外交手腕でイギリスやアメリカ合衆国などの西洋諸国との友好関係を維持してハワイの独立を守り、伝統的なその文化の保護と繁栄に貢献した。
カメハメハ大王は、ハワイ諸島を統一する為に外国人の知恵と武器を利用した
カメハメハは、実は語学にも堪能で、当時来航してきたイギリス人たちを先生として、た ちまち英語を話すようになったと言われています。カメハメハの有名なブレーンとしては、
  • フェアアメリカン号でやってきた-アイザック・デイビス
  • 米国船エレノア号でやってきた-ジョン・ ヤング[イギリス人船員]
  • クックと来た時と合わせて2度来航した-ジョージ・バンクーバー[イギリス海軍士官]
などがいます。カメハメハの圧倒的な強さは、彼らを通じて装備をすすめた近代兵器によるところも大きいようです。
カメハメハ大王は、[カプ制度]を用いて統治しようとする
マナ(神聖な力=自然界宿る力・氣・霊力など)
[カプ]は、マナに対する畏怖から生まれた戒律で、これを犯した者は死をもって償うこととされていました。
  • アリイ(王族)の影を踏んではいけない。(マナが盗まれると信じられていた。)
  • 女性は男性と一緒に食事を摂ってはならない。
  • 女性は豚肉やバナナを食べてはいけない。
などがあり、階級や性別などによって細かく定められていました。
[カプ制度]が行使されていたころ、犯罪者は誰にも許しを請うことができなかったため、アリィ(王族)達は、彼らが逃れ、生き延びることができる場所を作りました。その場所を「プウホヌア」=「逃れの地」「聖域」と呼びます。
カプの制度が廃止になったのは、1819年にカメハメハ大王がこの世を去った直後のことです。カメハメハ大王のお妃のひとりであるカアフマヌが正妻であるケオプオラニを誘ってリホリホ(カメハメハ2世)と一緒に食事を摂り、王族自らがカプを破ったことによります。
カアフマヌがカプを破っても天罰が下らないということを証明した事件でした。これによりリホリホ(カメハメハ2世)の名のもとにカプ制度は禁止され、原始宗教は廃止されることななりました。

キャプテン・クックがハワイを訪れた時に描かれた、ケアラケクア湾の地域宗教の教会のイラスト。1872年のイラスト
[カプ制度]の廃止と、外国人が持ち込んだキリスト教の影響で、これらの教会が破壊されてしまった。
カメハメハ大王が作った法律 [ママラホエ・カナヴィ]
ハワイには、カメハメハ大王によって作られた法律が今でも残っています。 ママラホエ・カナヴィ(Mamalahoe Kanawai)と呼ばれ、 「経験によって学ぶ」「同情、他人への思いやり、自分自身を大切にすること」という意味です。
そして「すべての老人、女性、および子供が、路傍で安全に休息できるように」との想いが込められているのです。 この法律はハワイ州の憲法第9項の第10章にも明示されています。 戦争に参加しない非戦闘員の老人や子供たち、女性が安全に過ごせるように配慮してあります。
この法律は、現代でも人権法のモデルにもなっているそうですが、カメハメハ大王が争いの時に、自分を攻撃した漁師をかばったことから生まれています。 ハワイアンらしい、人への思いやりを大切にする気持ちが、今でも息づいているのですね。
【ママラホエ原文】
Māmalahoe Kānāwai: E nā kānaka, E mālama ‘oukou i ke akua A e mālama ho‘i ke kanaka nui a me kanaka iki; E hele ka ‘elemakule, ka luahine, a me ke kama A moe i ke ala ‘A‘ohe mea nāna e ho‘opilikia. Hewa nā - Make.
【ママラホエ日本語訳】
私の同胞達よ。 なんじの神を讃えよう。 偉大な人にも、平凡な人にも、分け隔てなく敬意表そう。 見守ろう、 年寄り達が、女達が、子供達が、 死や隷従や、危害への恐怖を感じることなく、 道ばたに腰をおろし、静かな休息が取れるよう。

解説プレートの文字
8. Law of the Splintered Paddle “Ke Kānāwai Māmalahoe, or Law of the Splintered Paddle, was established by King Kamehameha I and assured that every man, woman and child would be able to travel freely and in peace, with the right ‘to lie down to sleep by the roadside without fear of harm’.”
プレートの意味
【 第8 砕けたパドルの法律 】カメハメハ大王が定めた法律 『すべての老人、女性、および子供が、自由に旅ができ、路傍で安全に休息できるようにする』
カメハメハ大王は、ハワイの宗教・習慣を大切にした。
カメハメハ大王は、優れた外交手腕で西洋諸国との友好関係を維持してハワイの独立を守り、伝統的なハワイの文化の保護と繁栄に貢献した。
また、カメハメハ大王が作ったママラホエと呼ばれる法律は、戦時における非戦闘員の人権を保護するものであり、今日では世界中で受け入れられている先駆的なものであった。
カメハメハ大王の治めていた時代は、外国人の持ち込む宗教・貿易・犯罪・病気などをある程度コントロールする事が出来ていた。しかし、西欧列強が植民地獲得競争を繰り広げる時代に太平洋の小さな島国が抵抗し、独立を維持する事が出来なくなっていたのも事実である。
西欧列強が太平洋の真ん中にある島国の[価値]に気づき、列強が競って宣教師の派遣、商人による取引の開始、軍隊の派遣を行うようになっていた。
日本でも織田信長が外国人と取引をし、武器を手に入れて日本統一を目指します。信長・秀吉・家康が日本統一に向かう時代に、外国人を政治には一切関与させませんでした。家康の時代にはキリスト教の禁止・鎖国へと向かい独立を保ち続けています。
カメハメハ大王は、古い伝統と外来の新し技術を融合させていた
カメハメハ大王は風貌・体力・武術・知力・そして人々の心を掴む力の全てに秀でた、まさにカリスマ中のカリスマの統治者であった。、英語も話し、優れた外交能力を持っていたので、クック以来植民地化の野心をいだいて頻繁に訪れるようになった外国人達も、少なくとも、カメハメハ大王の存命中は、ハワイ王国に対してそれなりの敬意を払って無茶はしなかったようです。
カメハメハ大王はハワイの古い伝統と外来の新しい技術を巧みに融合させ、白檀などの価値ある輸出品を王の独占事業としてハワイ経済を巧みに運営し、統一後は中央集権化を進めて強固なハワイ王国を築いた。
1819年5月8日 カメハメハ大王が死去
ハワイが一つの王国であったのは1795年から1898年までの100年余りですが、カメハメハ大王の24年間の在位期間(1795年から1819年)は、その中で最も平和な時代でした。カメハメハ大王が定めた「ママラホエ・カナヴァイ」という法律は、戦時に非戦闘員を守る人権保護の法律でした。1819年、カメハメハ大王はハワイ島のカイルア宮殿で死去し、その後ハワイ王国は徐々に国家崩壊への道を歩むことになります。
1819年5月20日 リホリホ(カメハメハ2世)が二代目国王になる。
カメハメハ大王とその第一王妃との間に生まれ、5歳の時から跡継ぎとして教育された。1819年5月に父カメハメハ大王が死去し国王の座に就任する。行政は父の寵愛を受けた継母で摂政のカアフマヌと首相の手に握られ、実質的な権力はほとんど持たなかったといわれる。
カメハメハ大王は愛妃カアフマヌの摂政を条件に、リホリホの第二代国王が実現する。
カメハメハ大王には多くの王妃がいたが、その中でも重要な「聖婚」で結ばれた第一王妃のケオプオラニとの間で長男として生まれた子供が[リホリホ]です。リホリホが5歳の時には跡取りと決められており、カメハメハ大王が亡くなった時には22歳になっていた。
カメハメハ大王はリホリホの政治能力を疑い、後継ぎとして評価はしていない様であった。リホリホにはギャンブル・女性を好み、西洋人が持ち込むウイスキーに溺れていたとの風評があった。
カメハメハ大王は亡くなる前に、愛妃カアフマヌを摂政(クヒナ・ヌイ)として自身の死んだ後に、カアフマヌが政治の実権を握るような体制を作っていました。カメハメハ大王がカアフマヌの為に新設した[摂政]は、実質的には[副王]の役職であろう。

カメハメハ大王は偉大な業績を残している。
その大王が摂生を決めたのだから、カアフマヌは政治の能力を持っていたのであろう。
カメハメハ大王が大切にしていた[カプ制度]を廃止する。
ハワイ社会の根幹を支えていたのが、カプ制度と呼ばれる伝統的宗教体系である。「カプ」とは、聖と俗とを区別して、両者が接触することを禁じる考えや規則を指し、タヒチ語のタプと同様、「タブー」の語源でもある。ハワイ人にとって、カプ制度は、神の加護を獲得し、万物のマナ(聖なる力が衰えるのを防ぎ、社会的秩序を維持するものであった。例えば、男女が同席して食事をすることを禁じる「アイ・カプ(ʻaikapu)」や女性に対する様々な食物タブーが課されたりした。ただし、人々の敬愛する首長が死んだ後の喪の期間は、カプが一時的に解かれるのが慣わしであった。
1819 年5 月にカメハメハ大王が死ぬと、その息子であるリホリホがカメハメハ2世に即位する。彼は、喪が明けてからカプの再開を宣言しなければならなかったが、摂政であったカアフマヌ王妃らに説得され、同年11 月に彼女達と共に食事をすることでアイ・カプを放棄し、続いて全てのカプの廃止を全島に告げた。ここにカプ制度は終わりを告げ、ヘイアウ(神殿)は取り壊され、神々の儀式は執り行われなくなり、カフナ(神官)は影響力を失い、人々は社会生活を支える法律や宗教を失うことになった。
[カプ制度]の廃止 【管理人の疑問】
歴史の出来事を時系列に並べると、それぞれの出来事が[原因]となり、その影響で[結果]が出てくる。[カプ制度]の廃止は、[原因]なのか? [結果]なのか?
女性に対する差別を取り除くために、摂生を行うカアフマヌとリホリホの母ケオプオラニが[カプ制度]を廃止した事が[原因]であれば、[結果]としてカフナ(神官)は影響力を失いカメハメハ二世の政治がやり易く成った事に成る。
カメハメハ大王は自らが政治を行う時にカフナ(神官)が抵抗勢力となり政治を行い難い事が有ったのではないか!? これが[原因]と成り、カメハメハ大王が自身の死んだ後の政治の混乱を憂慮し、[結果]としてカフナ(神官)の影響力を抑える為にカメハメハ大王が生きている間にカアフマヌとカメハメハ二世に[カプ制度]を廃止する事を指示していたのではないか!?
時間が有れば調べてみたい疑問である(管理人の独り言)
1820年3月、プロテスタントの宣教師達がハワイに来る
プロテスタントの宣教師達がハワイに来た頃は、カプ制度が廃止された直後で、ヘイアウ(神殿)は取り壊され、神々の儀式は執り行われなくなり、カフナは影響力を失い、人々は社会生活を支える法律や宗教を失うことになった。1820年3月に宣教師達が来た時は、ハワイ社会はこの伝統的宗教制度が崩壊していて宗教的真空状態に置かれていたのである。
ハワイには各国から宗派の異なる宣教師がやってくる事に成る。簡単にまとめると
  • 1820年、初めてハワイにやって来た宣教師達は、[アメリカ海外伝道評議会]によって派遣された一団であり、1848年までに計12回の宣教師団が派遣された。
  • 1827年、フランスのカトリックがハワイで宣教活動を開始する。しかし、カアフマヌ王妃を初めとする多くの王族達はすでにプロテスタントに改宗しており、カトリック伝道団は彼らの協力を得られないばかりか、布教活動の禁止や国外への退去を命ぜられたりした。1839年に弾圧が緩和されるまで、ハワイ人のカトリック信徒は反カトリック政策のもと迫害された。
  • 1850年、第3の宣教師団である末日聖徒イエスキリスト教会(モルモン教会)が活動を開始した。彼らは、初期の段階よりハワイ人を教会内の様々なポストに登用して、積極的に伝道活動を展開した。モルモン教宣教師はフラなどの伝統芸能に比較的寛容であり、ポリネシア人は古代ヘブライ人の子孫であるという独自の教義も手伝って、ハワイ人信徒を獲得していった。
  • 1862年、英国聖公会が本格的に始動し、カメハメハ4世が反米的立場を取っていたこと、英国聖公会の王室観がハワイ王朝に適合していたことなどから、一部の王族を教会のメンバーに迎え入れることができた。
以上の4つの宗派がハワイ人のキリスト教化において重要な役割を果たしたと言える。その中でも、会衆派教会はハワイにおける文化、政治、経済といったあらゆる分野に多大な影響を及ぼし、膨大な歴史的資料も残している。

1823年9月18日 カメハメハ大王の王妃で、キリスト教に最初に改宗したケオプオラニの葬式の様子である。このとき、キリスト教の伝統にのっとったものと、伝統文化にのっとったものとの、2とおりの葬儀がおこなわれた。衝突した2つの文明がまだ併存していた時代である。
異教による埋葬の儀式を見ていた宣教師は、次のような感想をもらしている。「なんと暗く、恐ろしく、絶望に満ちていることだろう。この埋葬の光景は、福音によって啓蒙されたすべての魂に虫酸(むしず)がはしる慣習を思い起こさせる」。
プロテスタントの宣教師達は布教の為に、ハワイ語の聖書を配布する
本来、ハワイには文字が存在していない。
宣教師たちは[ハワイの話言葉]をアルファベットの一種を使用して[ハワイの文字]を作りました。それを基に聖書を翻訳して布教に役立てていきます。
ハワイ語をアルファベット化し、ハワイ語聖書や教科書を出版、各地に学校を設立して、ハワイ人の教育に力を入れた。この教育活動は王族達にも支持され、1831年には学校数は1,100に達し、生徒数は52,000人に上った。しかしながら、本来の目的であったハワイ人の改宗は、1837年の時点で信徒数が1,049名であり、教育面の成果と比べると目を見張るものではなかった。
カメハメハ2世の私生活(女性と酒・衝動的)
カメハメハ2世として王位に就くまでに、既に4人の王族の血を引く女性達を妻として持っていました。2番目と3目の妻は、片親が違う姉妹で特に妹の3番目の妻ヴィクトリア・カマーマルは一番のお気に入りでした。
カマーマルの姉妹のエリザベス・キーナウは2番目にお気に入りの妻でした。彼女は後に再婚してクヒナ・ヌイ(王の補佐を行う摂生)となります。
最終的には5人の女性が彼の妻になったのですが、このうちの4人を捨てることを拒否し、大好きな酒をやめられなかったためにキリスト教徒になることはありませんでした。
彼はハワイの王様の中では最後の一夫多妻を実行した人でした。
カメハメハ2世は衝動的なことをする王としても知られます。ある時は莫大な金額に上る白檀と交換に船を購入したり、コンパスも持たずに危険なオアフとカウアイの海峡を越えてカウアイ島に航海することを指示したりしました。
カメハメハ2世はその後、お気に入りの妻カマーマルと数人の王族を伴いイギリス、ロンドンへの航海に旅立ちます。

1824年6月4日のロンドンのドルリーレーン劇場で、
観劇をしているカメハメハ2世と第3王妃ヴィクトリア・カマーマと第2王妃エリザベス・キーナウ
エリザベス・キーナウは、ロンドンで「マダム・ポケ」と呼ばれていた。
1824年7月14日 カメハメハ2世 はしかによりイギリスで死去
カメハメハ2世は1823年11月にカマーマル妃と共に英国の捕鯨船に乗りロンドンへ向けての航海に出ました。オアフ島知事夫妻ボキとリリハ、ジョン ヤングの息子が同行しています。
しかしロンドンで、カマーマルは7月8日に、王はその6日後に、はしかと思われる病気で命を落としてしまいます。
イギリス国王ジョージ四世の命により、王の遺体は名前と誕生日、死亡日が刻まれたマホガニーの棺に納められ、詩人バイロンの甥にあたるバイロン公が同行して1825年5月11日にホノルル港に無言の帰国を果たします。カーヒリの飾られたカワイアハオ教会に一度安置された後、イオラニ宮殿前庭にカマーマル王女と共に葬られました。
ハワイ王国の王は短命が多い。ハワイの人達には、西欧の病原菌に免疫がなかった。
19世紀の半ばになるとハワイ諸島では現地人住民の人口が激減していた。クックが訪れた18世紀後半のハワイ諸島の人口は、20~25万人と推計されるが、欧米人の持ち込んだインフルエンザ・結核・性病などの新たな病気や、酒の導入によるアルコール中毒、さらには火器による殺傷により、1820年の人口は13万5000人となった。
人口の減少は、その後も歯止めがかからず、840年には10万人前後になっていた。外来者と接触した王家の少なからぬ関係者が、病気で亡くなったばかりでなく、首長への貢納義務のため食糧生産に充てる時間を減少させざるをえなかった一般民衆も病気の流行により、大幅な人口減少を招いた。
1840年代終わりの麻疹や百日咳さらには1853年の天然痘の流行により、1853年にはハワイの人口は7万人前後まで落ちた。
東南アジアにおいても,植民地体制下での交通手段の発展により、コレラやインフルエンザ・天然痘などの新たな病気が持ち込まれた。これらの病気の流行により、命を落とす者も少なくなかった。ただし、港市周辺でそうした病気がしばしば流行したが、沿岸部から離れた内陸盆地の人口は、比較的安定していた。
むしろ東南アジア全体で見ると、食糧の増産との植民地政庁による衛生の向上を目指した政策により、人口は増加した。
1825年6月6日 カウイケアオウリがハワイ王国の第3代国王に即位
当時ハワイは重要な捕鯨地域として、また砂糖の産地として注目されていた。こうした中、カメハメハ3世は王国の改革に努め、1840年にハワイ語の憲法を制定し、1840年代半ばにはイギリス、フランス、アメリカから独立国として承認された。しかし、憲法制定後の政府では白人が要職を握り、ハワイ人が主体的に政治参加することが妨げられていた。近代的な土地制度も導入されたが、私有観念の希薄なハワイ人が土地を失う結果に終わった。
兄カメハメハ2世の死を受けて、カウイケアオウリが11歳で即位 
兄のカメハメハ2世のイギリスでの急死を受けて即位 カメハメハ3世(カウイケアオウリ)は11歳で即位している。1854年(41歳)で亡くなるまで王をおよそ30年間続けます。
リホリホ(2世)とカウイケアオウリ(3世)の二人は、カメハメハ大王とケオプオラニとの間に生まれた兄弟です。兄のリホリホ(2世)は1797年生まれ、弟のカウイケアオウリ(3世)は1813年生まれで、16歳の年の差があります。
1832年までは義母カアフマヌが摂政を務める。
カメハメハ大王(1819年歿)は生前に、愛妃カアフマヌを摂政(クヒナ・ヌイ)に任命し、カメハメハ2世の政治の実権を握るような体制を作っていました。摂生の地位は、[副王]と理解して良いようだ。
カアフマヌはカメハメハ2世の即位と同時に摂生に就いている。カアフマヌが亡くなる1832年まで摂生の地位に就いていたので、2世の在位の6年間、3世の在位の前半の13年間の間、ハワイの政治に大きな影響を与えていた。
特に、 カメハメハ3世は11歳で王位に就いたので、摂生のカアフマヌが王同然の政治を行った。
カアフマヌが[カプ制度]を廃止した直後にアメリカから宣教師が来て、キリスト教と英語がハワイにもたらされた。 カアフマヌはプロテスタント教会を支持し、自らも洗礼を受けてエリザベスと名乗ります。その後、宣教師達はカアフマヌにローマカトリック教会を追放するよう詰め寄り、それを受けて、カアフマヌは1830年にカトリック禁止の法令化を行います。
外国からの干渉で、ハワイ王国が大きく変化しようとしている。
習慣・宗教は、権力者だろうと一人の人間で変える事は出来ない。世界中の帝国主義の国が植民地獲得競争を繰り広げている中で、ハワイにも列強が大きなプレッシャーを加えてくる。ハワイ王国自体が内部から変わろうとする力と、外部からの変化を求める力が合わさり、ハワイの習慣・宗教・経済・政治が大きく変わる時期に達していたと考えるべきである。
日本も同じ様な事が何度か起きており、列強国が日本を植民地にしようと大きなプレッシャーを掛けてきた事が有る。だが、日本は外国からの影響を拒み[鎖国]を行い日本のオリジナルを守り抜いた。また、列強のアフリカ・アジアへの植民地政策に対する恐れから、日本では列強の軍事力を背景にした交渉に対して、対応できるように内部から変わろうとする改革が起こり、[明治維新]が起こり、[産業革命]が起こり、[富国強兵]を実現し、列強のプレッシャーを押し戻して独立を維持し続けた。
日本とハワイの大きな違いは、人口の変化である。日本は人口が大きく増えて外圧に負けないエネルギーを維持する事が出来たが、ハワイは外国人が持ち込む[病原菌]で人口を大幅に減らしてしまった。ハワイには列強の影響を受入れながら生き延びる道しか残って居なかったのである。
1832年 摂生をしていたカアフマヌが亡くなる。
1832年、死が近づいているのを感じ、彼女はボストン・スタイルの家でなく、マーノア・バレーにある草葺きの家で死にたいと希望し、マイレの香りとイリマやハイビスカスに囲まれた場所で死の床を迎えたのでした。
およそ64歳ぐらいだったと言われます。
[摂生]の意味は、カメハメハ大王がカアフマヌだけに命じた命令ではなかったのである。国王を補佐する為に[摂生]の役職を作ったのだから、カアフマヌが亡くなれば新しい者が[摂生]に就任する事に成る。
二代目の[摂生]に就任したのが、カメハメハ2世の第2王妃エリザベス・キーナウである。
余談だが、エリザベス・キーナウは、カメハメハ大王の妻のひとりであるカラクアの娘であり、後のカメハメハ4世と5世の母となる女性である。
ハワイ王国の家系図
これまでのハワイ王国の人物を家系図にしてまとめてみる。

大王・2世まで一夫多妻制、カメハメハ大王には22人の妻が居たと言われている。2世には5人の妻が居た。
カアフマヌとカラフアは姉妹である。
キーナウとカマーマルは異父姉妹である。
大王が亡くなってからカアフマヌが2世・3世の前半13年間の[摂生]を行っていた。
カアフマヌが64歳で亡くなると、キーナウが[二代目摂生]となる。
1839年 フランスと不平等条約を結ぶ
1839年、ハワイにおけるプロテスタント重視に不満を抱いたカトリック国のフランス が、ハワイに対して、武力を背景に5か条の要求をつきつけ、さらにはフランスとハワイ の間に、関税自主権の無い不平等条約を締結させます。(各国との不平等条約のはじまり)
1840年10月8日 ハワイ王国憲法を公布して、立憲君主政を成立する。
1840年の憲法制定後、諸外国とのあいだで独立承認交渉が進められ、1842年、アメリカのジョン・タイラー大統領がハワイ王国を独立国として承認し、 1843年にはヴィクトリア女王のイギリス、ルイ・フィリップのフランス王国が承認した。
1845年には基本法により行政府として国王、摂政、内務、財務、教育指導、法務、外務の各職を置き、15名の世襲議員と7名の代議員からなる立法議会が開かれた。
大きな特徴は、投票権を持つ男性はハワイ王国の全男性中30%に過ぎず、 そのほとんどが白人であった。投票権を持つためには3千ドル以上の財産または年収500ドル以上とされた。

1840年憲法はハワイの制度を西洋の国家制度と呼応させるための努力の始まりを体現するものであったが、まだ、ハワイ的要素を色濃く残していた。特に注目すべきことは男性も女性もともに政治に関わることが前提とされていたことである。つまり、代議院議員の被選挙権また選挙権資格に関してジェンダーによる差別はなく、それまで女性が独占してきたクヒナヌイの職に君主の政治権力にほぼ匹敵するほどの大きな政治権力を授けていた。また新たに設立された貴族院の議員として国王に任命された者の約3分の1は女性であった。
1843年2月 5ヵ月間、英国海軍大佐ジョージ・ポーレット卿に占領される。
イギリスが、といっても、ジョージ・ポーレット卿という男 の独断であったのですが、ハワイに対して、イギリスに暫定的に領土を割譲するよう要求 し、カメハメハ3世をラハイナに強制隠居させてハワイ王室にイギリス国旗を掲げさせる という事件が起こりました。
この事件は7月に来航したイギリスのトーマス少将が、ポーレットのやりすぎを認め、イ ギリス女王はハワイを併合する意思など無いことを確約して解決しましたが、瞬間的とは いえ、ハワイ王国が消滅していた時期があったのです。
カメハメハ3世は無事にオアフに戻り、1842年に完成したばかりのカワイアハオ教会 で、今でもハワイ州のモットーとされている「土地の命は正義と共に生き続ける(ua mau ke ea oka aina ika pono)」という有名な演説を行います。また、今でもホノルルの中心 に残るトーマス・スクエアは、このトーマス少将の名を記念したものです。
また、この事件に先立つ1842年、カメハメハ3世は欧米諸国に対して、ハワイ王国を 承認してもらうべく特使を派遣していました。まずアメリカのタイラー大統領が承認した のを皮切りに、1843年11月には英仏両国が共同宣言というかたちで承認します。
1844年にはイギリスとの間にも不平等条約を結ぶことになりますが、1849年にア メリカとハワイの間で、はじめての「平等条約」を結ぶことができ、これを根拠として、 1851年にはイギリスとの間で条約改正、ついでスウェーデン・ノルウェーとも平等条 約を締結していくことになります。

ジョージ・ポーレット卿(1803年8月12日- 1879年11月22日) 英国海軍 提督
1844年 帰化を条件とした欧米系白人の政府要職への着任を認める。
欧米文化の流入になじめない先住ハワイ人に対し、ハワイに帰化した欧米人はハワイ王国内での政治的発言力を強め、1844年にはハワイへの帰化を条件とした欧米系白人の政府要職への着任が認められた。

ゲリットP.ジャッド 1803年4月23日生まれ
ニューヨークで医師としての教育を受けた。1827年9月20日にローラ・フィッシュと結婚し、宣教師としてオアフ島のホノルルに派遣される。そして15年間布教活動を行った。
1842年に彼は任務を辞職し、カメハメハ三世の顧問と翻訳者になる。
彼はまた、島の市民の政治に関わるようになり、1843年11月から1845年3月まで外務大臣、1845年3月から1846年2月まで内務大臣、1846年4月から1853年9月まで財務大臣に、そして1858年から1859年には中衆議院 に、彼は1849年にはイギリス・フランス・米国への大臣全権大使の役も就任しています。
1850年にカメハメハ王から土地購入し、オアフ島のウィンドワード・コーストにクアロア牧場を拓く。 彼の子孫は今も牧場を所有し、経営している。

現在のクロアナ牧場 映画「ジェラシックパーク」「ゴジラ」、ドラマ「ロスト」の撮影で使われた。
古代には王族しか立ち入ることが許されなかった聖なる土地と言われていた。地元では「クアロア・ランチ」と呼ばれるクアロア牧場は、壮大な山並みや草原、プライベートビーチを含む4,000エーカーもの広大な牧場です。
1848年 土地法が制定される
ハワイにはもともと土地の個人所有という概念は無く、敢えて言うならば土地はすべて王 または酋長のものであって、人々はアフプアアでの自給自足経済で暮らしていました。
1848年に制定されたマヘレ法(分配という意味)では、土地を所有物・財産として見 る西欧型の考えが導入され、まずハワイの全ての土地はカメハメハ王と245人の族長の 間に分配されました。
また、王の領地の大半はハワイ政府の所有する官有地とされ、結果、 王領23.8%、官有地37%、族長領地39.2%という割合になったのです。
ハワイの先住民には土地所有の概念が無かった

アフプアア(Ahupua'a)は、古代のハワイ諸島における土地支配概念のこと。
火山島であるハワイ諸島は、溶岩の流れ道として無数の渓谷が誕生した。
山頂から海岸までの渓谷の範囲をひとつの共同生活区域と規定し、自給自足的な経済社会が発展した。
個人の土地所有の概念が無かった。
族長を中心とした民族集団が形成され、その土地で得られるすべてを共有しつつ生活を行っていた。
1848年の土地法成立によってそアフプアア(Ahupua'a)が崩壊した。
1850年 クレアナ法が制定される 後に4分の3が外国人の所有となる。
1850年にはクレアナ法(土地権)が制定され、庶民でも、自分の小作農地を請求すれ ばそれを自分の土地として所有が認められることになりました。これは画期的ともいえる 法律であったのですが、広報不足や手続きの複雑さで、成人男子の3割しか請求せず、請 求できた土地を合計しても、ハワイ全土の1%程度でした。
一方、同年、外国人による土地私有も認められたため、法律に強く、ある程度資金もあったハオレ(白人)たちは、対外債務を抱えていたハワイ政府から、格安で王領地や官有地 の売却を受け、1862年までにはなんとハワイ全土の75%がハオレの個人所有になっていったのです。
先住ハワイ人の生活基盤が損なわれるようになった。
1864年、ニイハウ島をエリザベス・シンクレアが購入
1864年にスコットランド人のエリザベス・シンクレア夫人がカメハメハ5世(1863年 - 1872年)から、ピアノ1台と 10,000 ドルで、島を島民付きで買い取った。現在も、シンクレア夫人の末裔であるロビンソン一家がニイハウ島を所有している。島に出入り出来るのは原則としてロビンソン一家とカウアイ郡の関係者だけで、一般人の出入りは難しいと言われている。現在では島の一部を散策できるツアーもあり、上陸については容易であるが、島民への接触は招待された者以外は認められていない。
面積は179km2で、人口約250人。島民はロビンソン一家とそれに仕える日系人の子孫を除けば全員が純粋なハワイ人であり、現在もハワイ語を使用し、プウワイと言う集落地で古来からの伝統的な生活を送っている。
しかし実際には、これらのニイハウ島民は外部世界とまったく接触がないわけではなく、船でオアフ島へ買い出しに出たり、他の島に移住している親類宅を訪問しているなど、一般に喧伝されているよりも普通の日常生活を送っているようである。

ニイハウ島は、太平洋のハワイ諸島のカウアイ島から、南西27kmにある個人所有の島である。
ニイハウ島の面積-179.9 km²
石垣島- 222.18 km² 利尻島-182.118 km² 山手線の内側(69.52 km²)の約2.6倍
1852年、ハワイ併合の提案がアメリカ議会に提出されて検討される。
 1851年3月セバランス駐布米公使は、ハワイ政府がアメリカによる併合を望んでいるとウェブスター国務長官に報告し、翌年、米上院はハワイの併合案を公式に結ぶことを二度提案したが、これはフィルモア大統領がこの時点でのさらなる領土膨張に懐疑的であったことから拒絶された。
しかし、支持派は議論を推し進め、カリフォルニア州選出マコークル下院議員は下院で、アメリカ太平洋沿岸防衛や対アジア貿易の要としてハワイの重要性を主張した。
この背景には1846年のテキサス併合や1848年の米墨戦争による太平洋に面した西部諸州の獲得及びゴールドラッシュなど、太平洋州の発展への関心があった。
ハワイからの要請と連邦議会での提案を経て、1854年ピアス大統領の指示を受けたマーシー国務長官は、グレッグ駐布米公使(後のハワイ財務大臣)に併合交渉を指示した。グレッグはハワイのアレソ財務大臣と交渉し、併合条約を調印した。しかし、この併合案はカメハメハ3世の死去により最終的に破棄となったのである。 
王政復興を目指す[ハワイ王朝] VS ハワイ併合の目指す[資本家] 
カメハメハ4世(弟)とカメハメハ5世(兄)が、貴族主義的な君主政を目指す切っ掛けとなる。ハワイ王朝の4代・5代の王が俳米・親英よりの憲法作成に向かう事に成り、それを阻止する為にアメリカ出身のプランテーション経営者達による「ハワイアンリーグ」が結成され、アメリカの資本による支配が計画的に進められたと理解するべきだ。
1855年 アレクサンダー・リホリホ(カメハメハ4世)が王位に就任
1855年 王権の強化と貴族主義的な君主政の確立を目指す。
アレクサンダー・リホリホ(カメハメハ4世)が王位に就いた1855年頃のハワイ王国政府には、アメリカ系、イギリス系、先住ハワイ人という3つの政治的グループが形成され、たがいに対立していた。アレクサンダー・リホリホは、前王が付与した一般成年男子の参政権が王権の失墜を招くのではないかと怖れ、兄のロト・カメハメハと協力して王権の強化と貴族主義的な君主政の確立を目指した。アレクサンダー・リホリホは、増大するアメリカ人実業家の勢力を制限してアメリカ世論におけるハワイ併合への動きを牽制する。

カメハメハ4世 (アレクサンダー・リホリホ )
在位 1855年1月11日 - 1863年11月30日    死去 1863年11月30日(満29歳没)
カメハメハ4世 とEmma(エマ) は、ハワイ人の人口激減と、病気に対する抵抗力の低さを心配していました。統治時代後半は病院建設に必要な資金集めに力を注ぎ、現在のクイーンズメディカルセンターとして知られるクイーンズ病院を設立しました。
1860年、「ハワイアン改革カトリック教」を設立
1860年、「ハワイアン改革カトリック教」という名の聖公会をハワイに設立し、英国よりトーマス・ステイリーをはじめとするイングランド国教会の聖職者を招いた。これには、息子のアルバートを洗礼させ、ヴィクトリア女王を教母として立てることで列強諸国と対等の関係を築こうとした政治的意図があったといわれている。
1863年11月 カメハメハ4世 死去
1862年にはアルバート王子が、翌1863年11月には王自身が死去して、この計画は頓挫した。王位は兄のロト・カメハメハが継承し、カメハメハ5世として即位した。
1864年8月 新王カメハメハ5世が新しい憲法を公布する。
王権復古と「異教復活」を掲げた新王ロト・カメハメハ(カメハメハ5世)は、1864年8月、新しい憲法を公布した。歴代王の親英政策により、ハワイ王国がイギリスに傾斜することを怖れたアメリカ合衆国は、秘密裏にハワイ王国の併合計画をすすめた。
かつての捕鯨業は衰退にむかい、製糖業が発展にむかった。とくに1860年代は、南北戦争で大打撃を受けたアメリカ本土にかわってハワイ諸島においてサトウキビ栽培がおおいに拡大した時期であった。しかし、いっぽうで白人がもちこんだ感染症のために先住ハワイ人(ポリネシア人)の人口が激減し、サトウキビ農場での労働力不足を補うため、中国系ないし日系の移民が多数ハワイに流入した。

カメハメハ5世 (ロト・カプイワ)
在位 1863年11月30日 - 1872年12月11日    死去 1872年12月11日(満42歳没)
カメハメハ1世の娘キナウの長男としてホノルルに生まれる。
カメハメハ5世は、親英主義の考えを持ち、米国による併合を危惧していた。
幼少期より欧米各国を訪問し、1849年には、カウイケアオウリ(カメハメハ3世)の元へ養子に出されていた弟のアレクサンダー・リホリホ(のちのカメハメハ4世)と共にアメリカ合衆国へ渡る。イギリスでは国賓として厚くもてなされたのに対し、アメリカでは冷遇され、ニガーの扱いすら受けたことなどから、親英主義の考えを持つようになった。カメハメハ4世が即位すると、その下で内務長官、財務長官の要職に就いた。
1864年 王権復古を目指した新しい憲法
1864 年憲法では王権と内閣の強化がおこなわれ、参政権付与に制限が設けられた。有権者は読み書きが出来ることに加え、ある程度の不動産を所有していることを条件とし、ハワイ人有権者を増加させた。
1840年制定の憲法では、議会は王が指名する貴族院と、選挙により選出された代議員議会による二院制とされていた。1864年の新憲法では、議会は貴族院と下院を合併して一院制とされた。
参政権での違いは、1840年の憲法では財産の有無を問わなかったが、1864年の憲法ではある一定の不動産の保有が義務付けられた。
1864年憲法では、識字率のテストを導入されて一定の知識・学力を持っていることも参政権の条件とされた。
1864年 新しい憲法の重要な条項の説明
ARTICLE 11.
Involuntary servitude, except for crime, is forever prohibited in this Kingdom. Whenever a slave shall enter Hawaiian Territory, he shall be free.
第11条は奴隷についての規定で、非自発的隷属は犯罪を除いて、いつまでもこの王国で禁止されています。 奴隷がハワイの国内に入る時には、自由でなければならない。
カメハメハ5世 がアメリカ合衆国本土で人種差別を受けた事が、この条項を盛り込んだ動機であろう。
ARTICLE 34.
The King is Sovereign of all the Chiefs and of all the people.
第34条で[主権]を明確にしています。このハワイ王国の主権者は国王である。
ARTICLE 21.
The Government of this Kingdom is that of a Constitutional Monarchy, under His Majesty Kalakaua, His Heirs and Successors.
第21条で[立憲君主制]を明確にしています。このハワイ王国は、陛下カラカウアを君主として、彼の相続人や後継者の下で[立憲君主制]で行われる。
ARTICLE 61.
No person shall be eligible as a Representative of the people, unless he be a male subject of the Kingdom, who shall have arrived at the full age of twenty-one years; who shall know to read and write either the Hawaiian, English or some European language; who shall understand accounts; who shall have been domiciled in the Kingdom for at least three years, the last of which shall be the year immediately preceding his election; and who shall own real estate within the Kingdom of a clear value, over and above all encumbrances, of at least five hundred dollars; or who shall have an annual income of at least two hundred and fifty dollars, derived from any property or some lawful employment.
第61条の内容は被選挙権について、21歳以上のハワイ王国の男性国民でなければならない。ハワイ語・英語・ヨーロッパの一部の言語のどれかの読み書きが出来なければならない。500ドル以上の不動産を3年以上所持していなければならない。250ドル以上の年収が無ければならない。
ARTICLE 62.
Every male resident of the Kingdom, of Hawaiian, American, or European birth or descent, who shall have taken an oath to support the Constitution and laws in the manner provided for electors of Nobles; who shall have paid his taxes; who shall have attained the age of twenty years; and shall have domiciled in the Kingdom for one year immediately preceding the election; and shall know how to read and write the Hawaiian, English or some European language (if born since the year 1840), and shall have caused his name to be entered on the list of voters of his district as may be provided by law, shall be entitled to one vote for the Representative or Representatives of that district; provided, however that the requirements of being domiciled in the Kingdom for one year immediately preceding the election, and of knowing how to read and write either the Hawaiian, English or some European language, shall not apply to persons residing in this Kingdom at the time of the promulgation of the Constitution, if they shall register and vote at the first election which shall be held under this Constitution.
第62条の内容は参政権について、20歳以上の男性でハワイ王国の憲法法律に従う事を宣誓している必要がある。税金を納めていなければならない。ハワイ語・英語・ヨーロッパの一部の言語のどれかの読み書きが出来なければならない。地域の参政権保持者のリストに登録されていなければならない。
1871年8月 日本とのあいだに日布修好通商条約が締結される。
カメハメハ5世は、在日ハワイ領事として横浜に滞在していたユージン・ヴァン・リードに日本人労働者の招致について、日本政府と交渉するよう指示した。ヴァン・リードは徳川幕府と交渉し、出稼ぎ300人分の渡航印章の下附を受ける。
その後日本側政府が明治政府へと入れ替わり、明治政府はハワイ王国が条約未済国であることを理由に、徳川幕府との交渉内容を全て無効化した。
これに対して彼は無効処分の取り消しか賠償金4,000ドルを要求する。
しかし、すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、1868年サイオト号で153名の日本人を無許可でホノルルへ送り出してしまうこととなる。こうして送られた初の日本人労働者は元年者と呼ばれた。

ユージン・ヴァン・リード (アメリカ人) 商人で日本への輸入業を行い東北諸藩と取引をし、武器も扱っていた。
日本での在日ハワイ領事の仕事も兼ねて横浜に滞在していた。
日本から無許可でハワイに出稼ぎ労働者を送り出し、日本・ハワイ・アメリカの政府間紛争を起こしている。
絵の作者は、Hashimoto Sadahide (Japanese (1807-1873)1861年作)
1868年 日本からの初めての出稼ぎ労働者[元年者]を無許可で送り出す。
幕末の幕府が「300人の出稼ぎ労働者」を認可したのに、明治新政府は早々とハワイ渡航許可の取り消しと印章(旅券)の無効を宣言するものの、すでに渡航準備を終えていたヴァン・リードは、1868年(明治元年)、イギリス船籍のサイオト号で153名の日本人を無許可で横浜港からホノルルへ送り出してしまい、こうして送られた初の日本人出稼ぎ労働者が「元年者」と呼ばれ、正式な移民ではなく3年年間の契約労働(出稼ぎ)であった。
出稼ぎ移民希望者は、
  • 契約期間3年間
  • 1ヵ月の賃金4ドル(当時は1ドル=約1両)
  • 渡航船賃や滞在中の住宅・食糧・治療費などは雇用主側が負担
などの条件で契約されていたようです。
ホノルルに到着した彼らは好意的に受け入れられたようですが、二十数人ずつにグループ分けされて、サトウキビのプランテーション農場に就労することになりました。
ユージン・ヴァン・リードの出稼ぎ労働者の募集方法に問題があり、出航の横浜近辺の京浜地区で口入屋を使い、農業経験の無い者達が集められてしまい、ハワイでの出稼ぎ労働者に大変な苦悩が起きる事に成る。
炎天下での長時間労働・低賃金・物価が高い・監督者が厳しい等の不満が高まりました。
初めての慣れない異国の地で、英語も判らず、食文化も違い、ましてや農業の経験も無く、亜熱帯気候で10時間以上の畑仕事です。日々相当なストレスも蓄積され、数か月もしないうちに彼らから不満が噴出するように至ったのは当然の成り行きでしょう。
移民元締の牧野富三郎らが日本政府に救出を求める嘆願書を寄せる事態になるまでの困窮ぶりであった。

官約移民時代初期の日本人移民の住んだキビの枯葉(オパラ)葺きの家
ユージン・ヴァン・リードがハワイでの生活環境・作業内容などを詳しく説明しないで、採用基準を無視し、人数を集めることを優先した結果です。日本人を奴隷の様に扱ったと評価されても仕方が無い扱いです。その後1924年までに約22万人の日本人がハワイへと渡る事に成る。最初の153人の元年者の責任ではなく、募集したハワイ国駐日総領事・ヴァン・リードに原因が有った事は明らかだ。
1871年8月 日布修好通商条約が締結される。
日本側は自国民を奪われたとして、1869年に上野景範、三輪甫一をハワイに派遣し、抗議を行った。折衝の結果、
  • 契約内容が異なるとして40名が即時に国費で帰国する。
  • 残留を希望した者に対しての待遇改善を取り付けた。
  • 募集と無許可で渡航させたハワイ国駐日総領事・ヴァン・リードの罷免も取り付けました。
この事件を契機として日本とハワイの通商条約が議論され、1871年8月、日布修好通商条約が締結された。

上野景範のハワイでの交渉記録
急増するサトウキビ畑や製糖工場で働く労働者を確保するため、1830年頃から移民の受け入れが始められ、関税が撤廃された1876年以降にその数が増え始めた。中国、ポルトガル、ドイツ、ノルウェー、スコットランド、プエルトリコなど様々な国から移民が来島したが、日本からやってきた移民が最も多かった。日本からの移民は1868年から開始され、1902年にはサトウキビ労働者の70%が日本人移民で占められるほどとなり、1924年の排日移民法成立まで約22万人がハワイへ渡っている。
1872年12月 カメハメハ5世が急死(満42歳没)
独身で、世継ぎの無いまま42歳で、次の王位継承者を指名することなく1872年12月11日に他界し、カメハメハ王朝は断絶する。
カメハメハ5世は死の床で、Bernice Pauahi(バーニース パウアヒ)(当時のビショップ)に王座に就くよう求めます。彼女はカメハメハ血統(カメハメハ大王のひ孫)最後の統治者でしたが、これを拒否します。政府は新王の選挙という課題を負うことになります。
主な王位への候補者は、カメハメハ1世の腹違いの兄弟の孫息子にあたるルナリロとデービッド カラカウアでした。政府はルナリロを王に決定する案を可決しますが、本人は選挙による選出を希望します。大量票により勝利し、1873年にカヴァイアハ オ教会にて宣誓を行いました。
1873年1月 第6代国王にルナリロが即位する。
この頃、砂糖の輸出には重い関税がかけられ、捕鯨業は衰退し労働賃金は高く、王朝は経済不況に苦しんでいました。
ルナリロはアメリカ人を閣僚にすえ、アメリカからの政治的・経済的援助を求める政策を採用した。アメリカとのあいだに互恵条約を結ぶことを目標にして外交交渉もなされた。

第6代国王 ウィリアム・チャールズ・ルナリロ 在位1873年1月8日 - 1874年2月3日
1874年2月 第6代国王のルナリロが死去(満39歳没)
だが、王位継承前からルナリロは結核とアルコール依存症を患っており、回復への努力もむなしく1874年2月3日に亡くなります。就任1年を過ぎたばかりでした。
1874年 第7代目国王の選ぶ国政選挙が行われる。
候補になったのが先の選挙でルナリロ王に敗れたディヴィッド・カラカウア公とカメハメハ4世の未亡人であるエマ・ナエア王妃でした。2人ともルナリロ王の曽祖父母を共通の祖に持つハワイ有数の名門の出身でしたが、エマ王妃はその血筋に加えて王妃として経歴と国民からの人気の高さから、当初はエマ王妃の勝利が予想されていました。

エマ王妃の功績
1860年 貧窮に苦しむ多くのハワイ国民の為にハワイで最初の病院を開業
(自身で直接市民へ呼びかけ1軒1軒ドアを叩き、資金集めた)
英国国教会を設立し、聖アンドリュース大聖堂の資金集めに奔走しまし、1867年に完成。
ディヴィッド・カラカウア公の功績
国王になる前の功績は殆ど見当たりません。アメリカ人の資本家に選ばれた候補者に過ぎない。
ディヴィッド・カラカウア公が勝利するが、不正選挙の疑惑で大規模な暴動が起きる。
しかし、英国人の血を引き親英派であるエマ王妃の影響力を恐れる親米派の巻き返しにより、ディヴィッド・カラカウア公が勝利することになりました。
選挙後に不正が行われたと言われ、エマ王妃の支持者が暴動を起こしている。ディヴィッド・カラカウアはアメリカとイギリスの海軍の力を借りてこの暴動を鎮圧した。300人のアメリカ・英国軍隊により暴動は鎮圧されるが多数の死傷者を出す事に成る。

1874年2月12日 ホノルルで起きたエマ王妃の支持者の不正選挙に対する不満がもたらした暴動(右建物が裁判所)
エマ王妃の支持者達が裁判所の囲み、不正選挙を訴え、カラカウアの国王就任を阻止しようとしました。真珠湾に停泊していたアメリカ海軍とイギリス海軍を合わせて300人の兵士が、ディヴィッド・カラカウアの要請に従い上陸し、銃の使用で暴動を静めたが、裁判所・刑務所・兵舎・武器庫・宮殿などに大きな被害が出た。
1874年2月13日 カラカウアが王位に即位。
王位継承の後続者を指名しないで亡くなった場合に、選挙で王位を決めると憲法で定められている。
カラカウアは、前任者の轍を踏まないよう、即位後ただちに弟・レレイオホクを後継者 として指名したため、選挙によって国王を選出する時代は終わりを告げた。しかし、1877年にレレイホクが死去したため、今度は妹・リディア(リリウオカラニ)を指名した。
カラカウア国王は、売国奴と批判される政策を推し進める。
カラカウア王はハワイ経済のためアメリカ合衆国との交渉を積極的に行い、1874年11月には自らワシントンに出向きグラント大統領と会談。1875年3月に、ハワイの主産品である砂糖や米の輸入自由化を認めさせた。
貿易関税撤廃相互条約(米布互恵条約)は、ハワイの全ての生産品が非課税でアメリカ合衆国本土への輸出が可能になった。
しかし、逆にアメリカ の工業製品を無税輸入することとなり、その影響で、ハワイでは、さとうきびプランテーショ ンを中心にアメリカ系の財閥が急成長した。1887年には条約更新の条件と してアメリカから真珠湾の軍事利用を押し切られ、カラカウアは売国奴という批判を浴びることにもなった。
条約の中に、ハワイのいかなる領土もアメリカ以外の他国に譲渡・貸与せず、特権も与えない項目が付け加えられている。これにより、ハワイのアメリカ傾斜に拍車がかかる。
1879年 当時のお金で36万ドルもの資金をつぎこんだイオラニ宮殿が完成
現在、アメリカ合衆国に存在する唯一の宮殿となっています。カラカウアの芸術・技術に対する情熱が結実したともいえる豪華な建造物です。イオラニとはロイヤル・ホーク。王家の鷹という意味で、ハワイの紋章にも使われています。
1883年に、ここで盛大な戴冠式が挙行され、また、1885年には王の生誕50歳を記念した大祝賀会が開かれたりもしました。
こうした、カラカウアの一連の行動は、ハワイ・ナショナリズムの復興そのものであり、アメリカに警戒心を抱かせるに充分でした。1887年にはアメリカ系の秘密結社「ハワイアン・リーグ」が作られ、彼らは武力を背景として王党派のギブソン首相ほか政府要人を次々と辞職させ、孤立したカラカウアに対して憲法改正を無理やりに承諾させたのです。

1879年 当時のお金で36万ドルもの資金をつぎこんだイオラニ宮殿が完成
1881年 カラカウア国王は、移民を求め10ヶ月の世界旅行に出る。
1881年より10ヶ月にわたる世界旅行を行った。ハワイ人の人口減少に憂慮し、移民について交渉することが主な目的であった。ローマ教皇・レオ13世やイギリス女王・ヴィクトリア女王とも会談している。
カラカウアは日本にも立ち寄りましたが、当時の明治政府にとってカラカウアははじめての元首訪問であり、カラカウアを大感激させるほどの歓迎を行いま した。このときカラカウアが提案したハワイのカイウラニ王女と日本の山階宮定麿の国際結婚は残念ながら実現しなかった。1885年には、日本から「官約移民」がハワイへ労働提供に進むことになる。
カラカウア国王が来日した時に、山階宮定麿とカイウラニ王女の国際結婚を望んだ
アメリカに対抗してハワイが生き延びるにはどうしたらよいか、というのがカラカウアの 終生の課題であった。そのプランの1つに、太平洋連合構想というものがありました。カラカウアはサモアに使者を送って同盟を結び、両国を代表して、カラカウアが外交折衝にあ たるというプランを考えていました。
もう一つのプランとして、アメリカに対抗できるように日本国からの支援を望んでいたのであろう。その切っ掛けに政略結婚として、山階宮定麿(当時3歳)とカイウラニ王女(当時5歳)の国際結婚を提案してきたのであろう。
カラカウア国王はアメリカとの併合よりも日本との併合を望んでいたとの説がある。興味ある方は調べてみてください。(管理人)

カイウラニ王女 第7代目の妹の娘 21歳の時にロスアンゼルスで撮影した写真 
1889年から、彼女はカラカウア王の指示でイギリスに留学します。留学中にカラカウアは死去し、叔母のリリウオカラニ(カラカウア国王の養女になっている)から王位継承権第1位を指名されることになります。 もともと美しい顔立ちだった彼女は、ヨーロッパ社交界の教養も身につけ、イギリスだけでなく、フランスでも社交界の華になっていました。
カラカウア国王が日本に立ち寄り、明治天皇にカイウラニと日本の山階宮の縁談を相談したとき、彼女はまだ5歳でした。明治天皇は日本にはまだそこまでの国力が有りませんとお断りしています。
1887年11月 米布互恵条約の更新で、真珠湾の独占使用権を認める。
米布互恵条約はこれまでに2回交渉されてきた。2回目の交渉は第6代ルナリロが進めていたが、短命で亡くなった為に成立までには至らなかった。
1874年、アメリカ政府は互恵条約を推進するため、即位したばかりのカラカウア新国王を国賓としてワシントンへ招待し、サンフラソシスコでは元陸軍長官スコフィールドが出迎え、ワシソトンでは国務省・陸軍省・海軍省共催のパーティーが催された後、国王はグラソト大統領と面談した。これを契機として交渉が再開され、1875年3月18日、カラカウア王の特使エリシャ・アレン及びカーターと、ハミルトン・フィッシュ国務長官の間で互恵条約が調印された。
米布互恵条約に、真珠湾の独占使用権を認める条項が含まれている。
この条約は、第4条にハワイ港湾の他、いかなるハワイ領土を相談なくアメリカ以外の国家に譲渡あるいは貸与しない、また特権も与えないとする領土特権条項を規定していた。アメリカがハワイ領土租借の優位性を規定するなどした膨張論的な系論(corollary)といえよう。
この条約が批准された背景として、戦略的観点からアメリカ陸軍長官ベルクナップの秘密指令のもとでハワイの軍事視察及び調査が行われ、真珠湾が海軍基地として理想的な場所であると1873年に報告されていた点を考慮しなければならない。
この調査はアメリカの西部港湾や通商の防衛にハワイが持つ利点を探るために二ヶ月に渡って行われた。これに参加した元陸軍長官スコフィールドは後年、この時の視察において、真珠湾を占領し、凌藻・改善するためには排他的特権を保有することが必要であり、そのためにハワイ併合の重要性を認識したと述べている。
互恵条約ではアメリカ側に経済的な利点が少ない事で、過去に二度の失敗を重ねてきた。今回の交渉では、条文に地政学的観点から領土特権を盛り込んだことにより連邦議会を通過したのである。
交渉の初期の段階から、カラカウア王の政治顧問や外務大臣は以前の失敗を鑑み、領土特権をアメリカに付託することをカラカウア王に提案し、国王はこれに同意して交渉が進められたのである。
カラカウア王自身はアメリカに真珠湾の独占使用権をあたえることに反対であり、王の妹リリウオカラニも反対したが、アメリカ上院の姿勢は強硬であり、トーマス・ヘンリー・カーターらの働きかけもあって、7年という期限付きでの独占使用を認めた。ハワイではカラカウアを「アメリカに国益を売りわたす王」として批判も多い。

19世紀の後半から20世紀初めにかけてのアメリカ軍の軍事拠点。
アラスカ-1867年、ハワイ・グアム・マニラ-1898年、サモア-1900年、パナマ-1903年、パナマ運河開通-1914年
サンフランシスコからの距離、ハワイ・グアムからの距離が書かれている。
色で囲んでいるエリアは植民地の宗主国を表している。

現在のオアフ島真珠湾の海図
地図上部中央のやや右寄りに、フォード島がある。
1825年の測量時には 135 ヘクタールだった島の面積は、1930年代に、真珠湾内に戦艦が進入できるよう、アメリカ海軍が浚渫した際の残土で埋め立てた結果、178 ヘクタールまで拡大した。
ハワイに配属されている第7艦隊は、航空母艦(原子力空母)「ジョージ・ワシントン」を戦闘部隊の主力艦とし、戦時には50〜60の艦船、350機の航空機を擁する規模となる。人的勢力も6万の水兵と海兵を動員する能力をもつ。平時の兵力は約2万。アメリカ本国の反対側に当たる地球の半分を活動範囲とし、アメリカ海軍の艦隊の中では、最大の規模と戦力を誇る。
1887年7月 急進的な改革派の圧力により、新憲法を承認
1887年の銃剣憲法では、不動産の価値に基づいて投票資格を与えるという新たな条件を規定し、すでに投票権にも変更を加え始めていました。 ハワイ先住民に加えて、王国のもとで 帰化し、人口の大部分を占めていた日本人や中国人など多くのアジア系住民も、投票権をはく奪されることになる。
完全な投票権を手に入れることができた裕福なアメリカ人やヨーロッパ人など、お金持ち財界貴族による投票権の独占が保障されました。
大多数の先住ハワイ人とごく少数の欧米人から成る貧しい人びとは選挙権を剥奪され、ごく少数のハワイ人エリートや富裕な欧米系住民の発言力が飛躍的に高まった。また、王権は制限され、枢密院や内閣は強い影響力をもつようになった。
アメリカ本国では1890年に連邦議会は新たに関税法案を通過させたため、ハワイの製糖業は大打撃を受けた。ハワイから輸入した砂糖は無関税であったが、アメリカ国内で生産された砂糖には奨励金がつけられたため、ハワイの砂糖生産はふるわなくなり、サトウキビ農園の地価も暴落し農園労働者の賃金も低下、さらには失業者もあらわれた。
ハワイ経済は砂糖に大きく依存しており、農園を所有して製糖業を経営していた者の多くが、アメリカの保護領となるか、編入してもらうかして事態を解決するよりほかに道はないと考えるようになった。
【 銃剣憲法 】砂糖産業の実業家が、武装民兵を盾にハワイ君主制の弱体化を強要した。
米国での南北戦争以降、アメリカやヨーロッパの強力な実業家たちは、ハワイ君主制の弱体化と企業利益の保護を目的として、秘密裏に武装民兵を編成し始めます。1875年には、米国と当時のハワイ王国との間で互恵条約が承認され、ハワイ産砂糖の米国への免税輸出が始まったことにより、アメリカ人実業家に多大な利益がもたらされ、砂糖産業の急激な拡大が進みます。
実業家たちは、その利権をさらに保護するため、1887年ハワイ王国憲法をカラカウア王に強要します。武装民兵の武力を盾に、憲法への署名に応じなければ武力に訴え、近臣も含めて危害を加える、と王を脅して署名を迫ったことから、それはのちに銃剣憲法として知られるようになります。決して批准されることのなかったこの「憲法」は、あたかも イギリスの立憲君主国を創造するかのように見せかけていました
しかしこの憲法は、君主制の権威をはく奪し、アメリカ人やヨーロッパ人及びハワイ先住民のエリートによって操られた政府の立法府や内閣に権力を与えるものだったのです。
これにより、ハワイ産砂糖の免税輸入を継続することと引き換えに、米国に真珠湾の排他的な使用権を与える新条約を議会で通過させることが可能となりました。
1891年1月 カラカウアの後任としてその妹リリウオカラニが王位に就任。
不満を募らせる王党派ハワイ人たちは、1864年の憲法をもとにして女王に多くの権力を集中させる新憲法制定を計画して親米派に対抗しようとした。こうした動きに危機感を覚えたアメリカの駐ハワイ公使ジョン・スティーブンスは、ハワイ王国の転覆と暫定政府の樹立を計画した。
1893年1月16日 アメリカ海兵隊ハワイへ上陸。
アメリカの駐ハワイ公使ジョン・スティーブンスは、米国軍艦ボストン艦長ギルバート・ウィルツに対し「ホノルルの非常事態を鑑み、アメリカ人の生命および財産の安全確保のため海兵隊の上陸を要請する」と通達した。同日午後5時、将校を含む武装したアメリカ海兵隊164名がホノルル港へ上陸した。
親米派によるハワイ暫定政府樹立宣言後、ハワイ政府庁舎に星条旗が掲揚された。
クリーブランド大統領は、スティーブンス公使と革命家たちの行動を「ホノルルの無法な占拠」と批判し、スティーブンス公使の更迭する。
新公使アルバート・ウィリスは、リリウオカラニ女王が革命家たちを処罰しないことを条件に復位させるというクリーブランドの指示のもと、暫定政府の取り消しと女王復位の道を模索した。1893年11月4日、ウィリスはリリウオカラニが軟禁されているホノルルへ赴き、国家を転覆させた反逆者の処遇をどのように希望するかを確認した。リリウオカラニは「法律上は死刑であるが、恩赦を認め、国外追放に止めるべきである」との見解を表明した。
リリウオカラニ女王には死刑であれ恩赦であれ、そうした処分を実行する力がもはやなかった。

1893年1月 米国軍艦ボストンに乗船していたアメリカ海兵隊164名(武装済)がホノルル港へ上陸
1893年1月18 ハワイ人の主権運動体「カ・ラーフイ・ハワイイ」が活動
1980年代に結成されたハワイ人の主権運動体の中で,最も活発に運動を展開したのが「カ・ラーフイ・ハワイイ(Ka LahuiHawai‘i) 」。この組織を率いたのが,弁護士のミリラニ・トラスクと彼の姉でありハワイ大学ハワイ研究センター教授:のハウナニーケイ・トラスク,同じく同センターの教授リリカラー・カメエレイヒヴアであった。彼女達は、10年間に渡る法律研究や歴史調査を経て、1987年に250名の代表委員の参加を得て第1回憲法会議を開催し、白らの“憲法"を起草して、カ・ラーフイ・ハワイイを立ち上げた。その後 1989年に第回憲法会議、 1992年に第3回憲法会議を聞き、それぞれ94名と100名の代表委員が参加して憲法の修正を進めた(KaLahui Hawai‘i1993)

オニパアで行進するカ・ラーフイ・ハワイイ
(The Honolulu Advertiser 1993/01/18より;The Honolulu Star-Advertiser提供)
1893年11月 日本は邦人保護に防護巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣
日本政府は、アメリカによるハワイ併合の動きを牽制するため、1893年11月、邦人保護を理由に東郷平八郎率いる防護巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてクーデター勢力を威嚇させた。この行為については、女王を支持する先住ハワイ人たちが涙を流して歓喜したといわれる。日本海軍は、翌年には「浪速」を「高千穂」と交替させている。しかし、1894年3月、日本政府は巡洋艦高千穂の撤収を決めた。日本の軍艦派遣は、米布併合の牽制には一定の成果をあげたものの、かつての親日的なハワイ王国政府を復活させることはできなかった。

1893年11月 日本政府は邦人保護を理由に防護巡洋艦「浪速」他2隻をハワイに派遣
1894年7月4日 親米派により暫定政府を「ハワイ共和国」に改称される。
暫定政府を恒久的な政府として運営するため、「ハワイ共和国」と改称し、1894年7月4日、新憲法の発布と新国家成立を宣言した。共和国大統領にはサンフォード・ドールが就任したが、結果としては、ハワイ共和国の最初で最後の大統領となった。アメリカ独立記念日に公布されたハワイ共和国憲法は多くの点でアメリカ合衆国憲法に似ていた。新憲法は、東洋人に対し選挙権や市民権をあたえず、公職勤務を禁じるいっぽう、白人団体が多くの点で権力を保持できるよう配慮されていた。
1895年1月6日 王政復古を目指し先住ハワイ人たちが共和国に対し武装蜂起
ワイキキでの小さな衝突が発端であった。2週間で武装蜂起は鎮圧されたが、政府軍にも死亡者が出た。リリウオカラニはこの件に直接関与していなかったが反乱を知りながら黙っていたことから問題視され、1月16日、弾薬や銃器を隠し持っていたという理由で他の王族とともに反逆罪によって逮捕され、イオラニ宮殿に幽閉された。
この蜂起のなかで多くの先住ハワイ人が虐殺されたという。
1月22日、リリウオカラニは約200人の命と引き換えに王位請求を断念し、今後は共和国への忠誠を誓い、一般市民として余生を送る趣旨の宣言書に署名した。こうしてハワイ王国は名実ともに滅亡した。リリウオカラニは2月27日、反乱に加担した罪で5,000ドルの罰金と5年間の重労働の判決を受けたが、9月6日に釈放された。
1898年8月12日 マッキンリー大統領は連邦議会でハワイ併合に署名
8月12日にはアメリカのハワイ編入が宣言され、同日正午少し前にハワイの国旗は下ろされ、星条旗がイオラニ宮殿の上に掲げられた。同日、ハワイ共和国の主権のアメリカ合衆国への委譲を記念する儀式が宮殿内でとりおこなわれた[34]。このとき、港に停泊中のアメリカ船フィラデルフィア号をはじめ、海岸の砲列から21発の礼砲が打ち出されている。併合後のハワイはアメリカ合衆国自治領として準州の扱いを受けることとなった。
ハワイ併合に利用された「日本人問題」
ハワイがアメリカへの併合問題で揺れている頃の在ハワイ日本人の関心は、併合そのものではなく、参政権を獲得して白人と対等な立場になることであり、日本政府などもそれに同調していた。以降、日本側はアメリカを刺激しない範囲で在ハワイ日本人の参政権回復を勝ち取ることを目標としていた。「居留民保護」や日本人の権利獲得のために威圧感を誇示するために、象徴的存在として軍艦を派遣したこともあった。しかし、それはハワイ併合派からは日本側の野心の証とみなされたのであった。この「日本側の野心」は実体のないものだったといわれているが、「ハワイの黄禍」は、アメリカに併合策をとらせる有力な脅しとなり得た。
また、一八九七年頃には、相次いで日本人移民の上陸拒否という問題が起こった。この頃になると、ハワイ併合派はわざと日本との間に紛争を起こすことで、アメリカ国内で併合への支持を得ようとたくらんでいたのである。日本人移民上陸拒否問題は日本の新聞でも取り上げられ、日本側からもハワイの併合問題は関心をひきはじめていた。また、日本政府はこの問題に抗議するため軍艦「浪速」を派遣した。これが併合派に都合の良い刺激的なニュースとなって伝わった。折から、併合派系の新聞が、アングロ・サクソンを日本化(ジャパナイゼーション)から救わなければならないと主張していたところに、さらに火をつけるかたちとなったのである。「日本から迫り来る危険」や「日本人問題」の深刻さを世論やアメリカの政策当局に訴えるというハワイ併合派の作戦は、期待どおりの効果をもたらしていた。
アメリカ国内でハワイ併合を主張していたのは、帝国主義的な一部の指導者たちであった。その代表が、後に大統領となったセオドア・ルーズベルトである。彼はマッキンリー大統領にハワイ併合を進言する中で、「日本からの危険」を強調し、一刻も早くハワイを併合すべきであると主張した。
そして、一八九七年六月一六日、米布併合条約が調印された。
ところが、ハワイのアメリカへの併合に反対する者がいなかったわけではない。
ハワイ併合論争は、従来アメリカの建国の理念としてきた二つの原則・主義によってもたらされる矛盾に陥っていたといえる。一つは、ヨーロッパ「旧世界」とは異なって、アメリカは君主制を否定し、より民主的な共和制社会を構築していくという共和制主義であり、もう一つは、「新世界」のアメリカは、「旧世界」の西欧列強のように海外植民地をもたず、また西欧からの干渉を受けることなく、アメリカ大陸の中で独自の道を歩むという原則(モンロー主義)であった。(中嶋弓子『ハワイ・さまよえる楽園――民族と国家の衝突』東京書籍、1993年)
このような原理によれば、ハワイを植民地として併合するわけにはいかない。ハワイを併合するためには、それに打ち勝つだけの「正当な」理由が必要である。
ハワイを他の州と同等の州として認め、植民地としてではなく、アメリカの共和政治に参加する対等の一員(州)として迎えるという方法もあった。(中略)しかし、この点に関しては併合派も反併合派も、ハワイを対等な州と認めることには反対であった。アメリカ人は、ハワイにいる白人以外の人種を併合への障害と位置づけたのである。彼らには、文化背景の異なる「劣等」「野蛮」な有色人種をアメリカ人として認めるわけにはいかないという白人(WASP)中心のアメリカ国民意識があった。(前掲書)
さらにこのような反併合派も、野蛮で劣った恵まれない人々に救いの手を施すべきだと主張する宗教的信念と使命感(「マニフェスト・デスティニー」)をもっていた。(中略)   さらにまた、深刻な問題として取り上げられたのが「日本・日本人問題」だった。ハワイを州として対等に扱えば、現地の日本人までもがやがてアメリカの政治に参加することになり、それは当然認めることができない、という論理は、著しく増加しつづける日本人は、やがてハワイを呑み込んで日本のハワイにしてしまうだろうから、その前にアメリカが何とか手を打たねばならない、という論理に発展した。(前掲書)
このような原理によれば、ハワイを植民地として併合するわけにはいかない。ハワイを併合するためには、それに打ち勝つだけの「正当な」理由が必要である。
ハワイを他の州と同等の州として認め、植民地としてではなく、アメリカの共和政治に参加する対等の一員(州)として迎えるという方法もあった。(中略)しかし、この点に関しては併合派も反併合派も、ハワイを対等な州と認めることには反対であった。アメリカ人は、ハワイにいる白人以外の人種を併合への障害と位置づけたのである。彼らには、文化背景の異なる「劣等」「野蛮」な有色人種をアメリカ人として認めるわけにはいかないという白人(WASP)中心のアメリカ国民意識があった。(前掲書)
さらにこのような反併合派も、野蛮で劣った恵まれない人々に救いの手を施すべきだと主張する宗教的信念と使命感(「マニフェスト・デスティニー」)をもっていた。(中略)   さらにまた、深刻な問題として取り上げられたのが「日本・日本人問題」だった。ハワイを州として対等に扱えば、現地の日本人までもがやがてアメリカの政治に参加することになり、それは当然認めることができない、という論理は、著しく増加しつづける日本人は、やがてハワイを呑み込んで日本のハワイにしてしまうだろうから、その前にアメリカが何とか手を打たねばならない、という論理に発展した。(前掲書)
ハワイ併合を決定的にしたのは、太平洋をも巻き込んだ米西(アメリカ・スペイン)戦争であったが、それに至るまでの過程において、人種差別である「日本人問題」が巧みに利用されたのは間違いない。