更新日 2014年08月17日
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ハワイ併合の予備知識 産業の変化
キャプテン・クックがハワイを発見するまで・・
ハワイの先住民はタヒチから渡ってきたと考えられている。食料として、タロイモ・サトウキビ・バナナ・ココナッツ・サツマイモを持ち込んでのであろう。また、主食作物と一緒に豚や鶏やパンノキをもたらした。
キャプテン・クックが来る(1778年)までは、サトウキビは育てていたが「砂糖」の生産はしていなかった。

カタマラン(双胴船)を漕ぐポリネシアン
タヒチとハワイを行き来するのに使われた船。
【 サンダルウッド(白檀)貿易時代 】 (1790頃~1830頃)
自給自足経済から商業経済にハワイを移動させることになる。
クック来航(1778年)以前は、漁業やタロ栽培などの農業を中心とした完全な自給自足状態で、 当時の人口は約30万人と言われてる。
白檀(びゃくだん:サンダルウッド)は、鯨油を煮込むための燃料として、山から木を切り出してる時に発見された、と言われてます。当時は清国との貿易をする為に、清国が興味を持ち積極的に買い付ける商品が必要であった。清国で家具・仏像の原木、香料の材料として珍重され、高価な価格で取り引きされた。
自給自足経済から商業経済にハワイを移動させることになった。これを切っ掛けに後の、サトウキビ・パイナップルの輸出活動が開始される事に成る。
カメハメハ大王が利益を独占し、王朝の基盤を作り上げる。
1811年、ボストン船の船長とカメハメハ大王の合意は、カメハメハが利益の25%を受け取ることで、白檀の輸出を独占した。貿易と海運がより広い世界との接触にハワイをもたらしたとして、それはまた、武器や弾薬などの西洋品の取得を可能にしました。
さらに港湾税を徴収することによって、財源を確保した。伝統的宗教制度を保持して社会秩序を維持しようとした。
カメハメハは白檀の森を守るためにいろいろなルールを作り維持に努めが、カメハメハが死去して王朝を継いだリホリホ(二世)は、白檀貿易に酋長クラスの参入を許してしまいます。そして乱伐がはじまりした。
1815~26年が最盛期でしたが、乱獲激しくサンダルウッドを見つけるために山を焼き払う (サンダルウッドは香りで判る)など無茶をしていたために資源が枯渇し貿易は衰退した。

カメハメハ大王が利益の25%を受け取ることで、白檀の輸出を独占した。

白檀の加工品 大航海時代の貿易品として大きな需要が有った。(写真は現在の加工品)
産出国はインド、インドネシア、オーストラリアなど。太平洋諸島に広く分布する。
白檀は、香木としてそのまま用いられるだけでなく、蒸留して取られる白檀オイルの主成分サンタロールには、殺菌作用、利尿作用の薬効成分があると言われ、薬用にも広く利用される。また、気分の薬として胸のつかえをとり、爽快感を与える。沈香とは違って熱を加えることをしなくても十分に芳香を放つため、置物である仏像、仏教儀式に欠かせない数珠等の仏具をはじめとして、日本では扇子の骨に使ってあおぐことで香りを発散させたり、匂い袋の香料の一つに利用するなど、身近なところで多種多様に使われている。線香の原料の中では最も一般的である。
【 捕鯨船寄港時代 】 (1810頃~1880頃)
クジラの油は、最初ロウソクや口紅用に、機械工業が盛んになってきてからは潤滑油用に使われてました。寒い海を泳ぐクジラの油は、不凍液として重宝するのです。
19世紀はじめに日本近海でマッコウクジラが発見され、米国の捕鯨船はここを有力な漁場とするようになった。3~4月頃にハワイに寄港して準備を整え、5月頃出航、9月頃に再びハワイに立ち寄るサイクルを繰り返した。
オアフ島ホノルルとマウイ島ラハイナが主要な寄港地として賑わい、最盛期の1855年頃には年間400隻もの捕鯨船が来航した。1846年にはハワイ諸島に596隻の捕鯨船が寄港したことが記録されている。捕鯨船団への水食糧薪の供給・船の修理・捕鯨船員の供給をし、当時で年間 数十万ドルの莫大な収入を得ていた。
しかしこれまた乱獲による資源の枯渇、石油の発見による鯨油需要の低迷、南北戦争勃発などの要因が重なり、捕鯨産業そのものが衰退していく。

アメリカ捕鯨船の捕鯨活動

捕鯨船(帆船)の航海日誌から調べた移動線(ハワイから出航または戻る)

1848年頃のホノルル 背景にダイアモンドヘッドが移っている。
ジョン万次郎が21才で二度目に訪れた頃
鯨油(げいゆ)について
クジラから採取された油のことである。灯火用の燃料油、ろうそく原料、機械用潤滑油、皮革用洗剤、マーガリン原料など多様な用途があり、過去においてその採取は捕鯨の重要な目的であった。
クジラの種類により、油の質が違い、使用方法も異なる。
  • マッコウ油(ハクジラ類)-人間には消化できない成分を含むため工業用途
  • ナガス油(ヒゲクジラ類)-食用を含め幅広く利用された。(狭義の鯨油)と呼ばれた。
 ハクジラ類:マッコウクジラを含む  ヒゲクジラ類:シロナガククジラを含む
分厚い皮下脂肪層からの採取が中心で、筋肉は脂肪分が一般に乏しいため、鯨油原料としては非効率で歓迎されなかった。通常は原料となる部位を細かくした後に、釜に入れて煮るなどして加熱する融出法で採油される。帆船時代の捕鯨船で遠洋に出るものは、船上で採油ができるように薪や煉瓦を搭載して出航し、鯨の捕獲後に煉瓦で炉を組みたてていた例がある。
鯨油の主な使用方法
  • 灯火用燃料 - 世界中での最も古くからの用途の一つである。
  • 洗剤 - 石鹸の原料となり、皮革製品の製造過程にも一時多用された。
  • 火薬 - 20世紀初期には、ダイナマイトの原料であるニトログリセリンの製造に用いられた。
  • 農業用資材 - 日本において水田の害虫駆除用に用いられた。
  • 機械用潤滑油 - 低温でも凝固しにくい利点があり、寒冷地における軍事用車両に用いられる。
  • 食用 - 太平洋岸北西部のヌートカ族をはじめとする先住民は鯨油を食用にしていた。
  • マーガリン - 20世紀初頭に水素化による硬化技術が開発され、かつては多用された。
捕鯨の最大の目的は、『鯨油』なので、鯨の肉・皮・骨は船外の海に捨てていた。
特殊な鯨油
  • 鯨蝋(げいろう)-マッコウクジラの頭部に詰まっている油脂である。温度による状態変化に特徴
  • 肝油(かんゆ)-肝臓から採取される油脂で、ビタミン類を豊富に含むため薬用に用いられる。

鯨油を採取する為に使われた鍋
捕鯨船には絞った鯨油を入れる木の樽と採取に使う薪が多く必用であった。
1859年 [ドレーク井の成功] 鯨油の需要が減る 
石油産業の始まりは、1859年に米国のペンシルベニア州タイタスビル近くのオイルクリークで、ドレーク(E.L.Drake)が油井(ゆせい)の機械掘りを行い、岩盤下の深度69.5フィートのところで30~35バレル/日の出油に成功した。
この段階における石油の利用は、灯油にほとんど限定されていました。しかし、産業革命による内燃機関の技術革新を経て、1908年にはフォードT型乗用車の量産が始まり、ガソリン需要が急増しました。

1859年にアメリカのペンシルバニア州で、ドレーク(E.L.Drake)が油井機械堀りを行い、岩盤下深度約70フィート(21m)のところで、約30バレル/日の出油に成功した。
【 サトウキビ・プランテーション時代 】 (1835年以降~)
1832年、砂糖キビの栽培のため、カメハメハ3世はカウアイ島のKōloa(コロア)の土地を3名の米国人に貸し付けました。19世紀中頃までに砂糖キビ農園は栄えますが、十分な労働力が確保できず海外からの労働者を連れてくるようになります。
サトウキビ栽培は、【広大な土地】が必要。
[広大は土地]の為に1848年にマヘレ法(土地法)が施行され、王家の持ち物であったハワイの土地が王領地・官有地・族長領地に分割された。1850年に外国人による土地の私有が認められ、対外債務を抱えていたハワイ政府は土地の売却で負債を補うようになり、1862年までの12年の間にハワイ諸島の約75%の土地が外国人の支配する土地となった。
サトウキビ栽培は、【安い労働力】が必要。
[安い労働力]の為に移民を受け入れた。8世紀後半のハワイ諸島の人口は20~25万人と推計されるが、欧米人の持ち込んだインフルエンザ・結核・性病などの新たな病気や、酒の導入によるアルコール中毒、さらには火器による殺傷により1820年の人口は13万5000人となった。
人口の減少はその後も歯止めがかからず、1840年には10万人前後になっていた。1840年代終わりの麻疹や百日咳さらには1853年の天然痘の流行により、1853年にはハワイの人口は7万人前後まで落ちた。
1852年に中国から初の移民受け入れ開始。 1881年中国からの出国禁止令が出るまでに18000人が渡来した。日本からは1893年までに約30000人が移民した。アジア以外からは12000人のポルトガル移民が多く、スカンジナビア、ドイツ、ロシア、プエ ルトリコからもあった。
サトウキビ栽培は、【豊富な水】が必要。
[豊富な水]サトウキビから砂糖を作る時に、砂糖1ポンドに作るために、1トンの水が必要と言われている。ハワイ全体でもサトウキビ栽培に適した土地は、水源の確保などの問題から限定されていた。水が少ない土地をサトウキビ畑にする為に、川の上流にダムを造りサトウキビ畑に水を誘導する様な、大がかりな河川・農地の変更が必要であった。
その結果、伝統的なタロ水田が衰退してしまった。先住民であったハワイの人達が望んだことではない。金儲けの為に移住してきた白人たちが選挙権・行政権を牛耳り押し進めた事が、先住民の既得権を奪い尽くすことに成って行くのである。
ハワイ先住民が少なくなり、王朝の支配力が薄れる事に成る。
捕鯨船が多く集まると、いろんな国籍の人達が出入りする事に成る。その結果先住民には抵抗力の無い病気を持ち込む事に成り、キャプテン・クックが来る前に比べ先住民が20%位までに減ってしまったのである。ハワイの地元なのに、地元の人達の為に行政を行えなくなってしまった。
日本からの移民は[契約移民]が多く、[奴隷契約]と揶揄されていた。
日本からの移民は[契約移民]が多く、住居・医療費は雇用者負担の場合が多く、長時間労働・低賃金で[奴隷契約]と揶揄されていた。
1885年から移民は始まっているが、日本政府が斡旋した移民を[官制移民]といい、1894年の26回目の移民をもって官約移民制度は廃止され、以後は日本の民間会社を通した斡旋[民間・私的移民]が行われるようになった。
農奴の如き過酷な労働条件下において、日本人移民は激しく抵抗し、度々ストライキを行った。1900年までのストライキ件数は数百件にのぼり、不当な扱いに対する改善が訴えられたが、こうした行いは当地法において違法とされ、牢獄送りとなっていたため、待遇改善には至らなかった。アメリカに併合後は1900年基本法において既存の労働契約が全て無効となったことから、過酷な労働条件の緩和に至り、ストライキの件数も減少していった。
待遇改善運動が展開され、1909年5月9日に日本人労働者ら7,000人により、オアフ島各農園で一斉にストライキが実施された。農園経営者協会は参加者らとその家族に対し受け入れを拒否し、立ち退き命令を出した。この結果5,000人以上のストライキ難民がホノルルなどに溢れ返った。煽動した日本人活動家らは耕地営業妨害罪などで逮捕され、ストライキは失敗に終わったが、200万ドル以上の損失を計上した経営者側も労働環境の見直しを図らざるを得ず、若干の増給が実施された。
1920年1月19日には他国出身者もあわせたハワイ史上最大のストライキがオアフ島にて実施され、全農園労働者の約77%がこれに参加した。このストライキでは1万人を超える日本人労働者が農園を退去させられ、その結果、野営していた労働者ら2,500人がインフルエンザに感染し150名が死亡するなど、深刻な被害をもたらした。結果的に5割の賃上げ、労働環境の改善を勝ち取ることができたが、多くは農場を去り、製糖産業における日本人労働者の割合は1902年の70%から19%へ急落した。また、こうした行動は後の排日運動を加速させ、日系人社会への圧力がより強められることとなった。

1920年、サトウキビ畑の過酷な労働条件改善のためストライキをする日本人移民たち。

移民が開始される前に、日本人に関して日本駐在の布哇総領事ヴァン・リード氏が次のように通信してきている。
「日本人は農夫として経験深く、またあらゆる技能に堪能である。 彼らは世界いずれの人種より従順なる者で、とりわけ役人に対しては最上の尊敬を払い絶対にその命令に服従する人間である。 彼らはまた労働に興味を有する事から、一度ハワイに慣れれば、 大いに満足し、契約期間を終わって日本へ帰ることになれば悲しみに至るだろう」

1778~1980年 ハワイの民族割合の変化
うすい珊瑚色(lightcoral)がハワイの先住民、緑が日本人
サトウキビの富で、「BIG5」と呼ばれる5大財閥が出来る。
さとうきびプランテーション産業によって莫大な富を築き、 少なくとも太平洋戦争まではハワイの隅々までを支配したのが、「BIG5」と呼ばれる5大財閥です。
  • C・ブリューア社(現:ブリューア・アギノミックス)
  • セオ・H・デイヴィーズ社(現:ジャーディン・マセソン)
  • アムファック社(現:アムファック・JMB
  • キャッスル&クック社(現:ドール・フード)
  • アレクサンダー・アンド・ボールドウィン社(現:CALIF)

日本人の移民労働者の写真 撮影年は不明
【 パイナップルプランテーション時代 】 (1901年以降~)
さとうきびプランテーションに続く基幹産業として育ったのが、パイナップル・プランテーションです。パイナップルはさとうきびとは対照的にわずかな水で栽培でき、大規模な灌漑用水を必要としない、というメリットもあります。
1901年オアフ島ワヒアワでジェームズ・ドールがハワイアン・パイナップル社を創設する、1901年の収穫は1893ケースだったが20年後には、280万ケースとなる。
1922年に同社はラナイ島を「まるごと」買い取り。売主はハワイ先住民ではなくボールドウィンという元宣教師の一族でした。
1940年同社のパイナップルは「全世界の生産量の80%のシェア」を占めていた。
1898年 ハワイ併合に、サンフォード・ドールが大きな影響を及ぼす
サンフォード・バラード・ドールは、ハワイ王国・ハワイ臨時政府・ハワイ共和国・およびアメリカ合衆国のハワイ準州(自治領)の政治家・裁判官を歴任しました。ハワイ共和国で唯一の大統領でハワイ準州初代知事です。
1898年ハワイはアメリカに併合される。1900年4月30日のハワイ基本法でアメリカの準州と承認されて、ドールは準州最初の知事となる。
1899年 ジェームズ・ドール[サンフォード・ドールの従弟]がハワイに移住する。
マサチューセッツ州ジャメイカ・プレインに生まれたジェームズ・ドールは、1899年にハーバード大学から農学と経営学の学士号を取得した後、従兄のサンフォード・ドールが大統領を務めていたハワイ共和国(当時)に移住した。
1901年 ハワイアン・パイナップル社を創業した。
オアフ島の中央部の平野に60エーカーの農園を開き、1901年にハワイアン・パイナップル社 (Hawaiian Pineapple Company) を創業した。
1911年にヘンリー・ガブリエル( Henry Ginaca)が、一回の操作でパイナップルの皮を剥き・芯をくり抜く事が出来る機械を発明する。

ヘンリー・ガブリエルが発明したパイナップルの皮剥離・芯抜きをする機械
缶詰加工技術の向上により、食物の長期保存できるようになったこともドールのビジネスにとってプラスとなりました。頑丈な輸送用缶への密封保存は、パインアップルを新鮮な状態で長期間保存できかつ長距離に輸送できる様に成った。
1922年 ラナイ島を購入し20000エーカーの敷地を確保する。
パインアップル需要は成長し1922年には農地拡大が必要となりました。ドールは20000エーカーの敷地をラナイ島を購入。世界最大の缶詰工場を移設し、農地を所有した。プランテーション村には1000人以上の労働者とその家族らが生活をした。
1940年代 ラナイ島を購入し20000エーカーの敷地を確保する。
1940年代には8社のパインアップル会社が操業していた。ドール社はラナイ島、オアフ島に工場と農地を所有し、3000人の社員と4000人の季節社員を抱えるハワイ第一位の会社となった。

アジア系の移民労働者の写真 撮影年は不明