更新日 2017年09月22日
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1898年 米西戦争  
米西戦争(べいせいせんそう) 1898年4月25日 ~ 8月12日
米西戦争の背景
世界的な強国としてのスペイン帝国の地位は19世紀後半までの数世紀の間に低下し、太平洋、アフリカおよび西インド諸島でのほんの少数の散在した植民地しか残らなかった。その多くも、独立のための運動を繰り広げていた。
キューバはハイチに代わってサトウキビの栽培とそれを原料とした砂糖の産地として重要になり、19世紀半ばにはキューバの砂糖は世界の生産量の4分の1を占めていた。サトウキビ畑の労働は、収穫期の4~5ヶ月に限定され、それ以外の半年以上は無収入となるため、農業労働者の貧困ははなはだしかった。そのような農業労働者の犠牲の上に生み出されたキューバの安価な砂糖は、世界市場の四分の一をしめるまでになったが、「砂糖モノカルチャー」はアメリカ資本と、それに結びついた一部の富裕層に利益を独占され、多くの労働者が貧困にあえぐ構造が出来上がった。
キューバは政治的にはスペインの植民地として残っていたものの、経済的にはアメリカに依存するようになっていた。
1895年から1898年に第二次キューバ独立戦争が起こり、革命軍は島の東半分を解放し、1897年秋革命政府を樹立、スペインは大軍を派遣して残虐な鎮圧作戦に訴え、長引く動乱のため島は荒廃した。

1898年撮影 カリスト・ガルシア(反乱軍指揮官、左中央)とウィリアム・ラドロウ(アメリカ軍准将、右中央)
米西戦争の始まり
1898年にアメリカ合衆国とスペインの間で起きた戦争である。アメリカ海軍の軍艦爆発を機にアメリカ世論の高まりなどもあり、アメリカとの戦争に突入した結果スペインは敗北し、カリブ海および太平洋のスペインの旧植民地に対する管理権をアメリカが獲得した。
1898年2月15日にハバナ湾でアメリカ海軍の戦艦メイン(USS Maine, ACR-1)が白人仕官の上陸後に爆発、沈没し266名の乗員を失う事故が発生した(この中には8名の日本人コックとボーイが含まれていた)。爆発の原因に関する証拠とされたものは矛盾が多く決定的なものが無かったがニューヨーク・ジャーナル、ニューヨーク・ワールドの2紙を始めとした当時の米国のメディアはスペイン人による卑劣なサボタージュが原因であると主張した。「Remember the Maine, to Hell with Spain!(メインを思い出せ!くたばれスペイン!)」という好戦的で感情的なスローガンを伴ったこの報道は、一層米国民を刺激することとなった。
戦艦メインの爆発原因を、ニューヨーク・ジャーナル、ニューヨーク・ワールドの2紙を始めとした当時の米国のメディアはスペイン人による卑劣なサボタージュが原因であると主張した。「Remember the Maine, to Hell with Spain!(メインを思い出せ!くたばれスペイン!)」という好戦的で感情的なスローガンを伴ったこの報道は、一層米国民を刺激することとなった。
ウィリアム・マッキンリー大統領は開戦に同意せず世論に対して長い間持ちこたえた。しかしメイン号の爆発は、戦争への世論を非常に強力に形成した。スペイン首相・サガスタ(en:Praxedes Mateo Sagasta)はキューバから職員を撤退させてキューバ人に自治を与えるなど、戦争を防ぐ為の多くの努力をした。
4月11日、マッキンレー大統領は内戦の終了を目的としてキューバへ米軍を派遣する権限を求める議案を議会に提出。4月19日に議会はキューバの自由と独立を求める共同宣言を承認し、大統領はスペインの撤退を要求する為に軍事力を行使することを承認した。これを受けて、スペインはアメリカとの外交関係を停止。4月25日に連邦議会はアメリカとスペインの間の戦争状態が4月21日以来存在することを宣言した(議会はその後、4月20日に戦争の宣言をさかのぼらせる議決を承認した)。

1898年2月15日 夜9時40分に爆発
1898年1月にメインはキューバのハバナで起きた暴動に対してアメリカ合衆国の権益を保護するため派遣された。三週間後の2月15日、夜9:40にメインはハバナ湾において爆発を起こす。後の調査で5トンにも及ぶ砲の装薬が艦の前方を吹き飛ばし、残骸は湾の底に沈んだ。メインの乗員の多くは艦の前方で就寝もしくは休憩中で、260名が爆発と同時に死亡し、6名が負傷が原因で死亡した。ジーグビー艦長を始めとする士官居室は艦の後部に位置していたため難を逃れた。
爆発原因
原因は今日に至るまで特定されておらず、諸説がある。何れも弾薬庫の爆発を沈没原因とする点は同じだが、その誘因として機雷説、積載燃料(石炭)の自然発火による引火説、対スペイン開戦を狙った米国による自作自演説、の主に三つの説が唱えられている。
「熟したフルーツ」理論
1823年4月28日新任のネルソン駐スペイン公使宛に出した訓令の中で、アダムズ国務長官が、嵐によってリンゴが木から地上に落ちざるを得ないように、キューバは米国に引き寄せられざるを得ないと述べた言葉をしばしば引用する。「熟したフルーツ」の理論の根拠となる有名なアダムズの「引力の法則」である。
19世紀国力が十分でなかった米国は、未だキューバを併合する機が熟していないとして、キューバがヨーロッパ列強、特に英国の手に落ちることを懸念し、それならばむしろスペインの植民地のままでいるという現状維持の方を望んだ。
1823年米国が発表した「モンロー宣言」も、その真意はキューバの現状維持を求めるという米国の下心であった。
1840年米国はキューバに対する野心から植民地キューバ防衛のため、スペインに軍事援助を申し出た程であった。
他方で1848年ポーク(James K. Polk)大統領(1835―49)は、スペインにキューバ購入の可能性を打診し断られたりもした。また南部が北部に対抗するため、奴隷制を維持していたキューバを併合する動きもあった。
19世紀後半以降キューバは米国との経済関係を深め経済的に米国の植民地となった。そして米国のキューバに対する野心は、併合、買収、軍事占領等手段こそ異なれ、歴代政権に受け継がれた米国の基本政策であった。19世紀末になって漸く米国は列強に互する国力を持つようになり、機が熟した判断するや、露骨にもキューバに対する帝国主義政策の本性を表した

モーニングコール、1893年1月29日 アンクル・サム 熟れたフルーツ 紙面の右下にリーバイスの広告
イエロー・ジャーナリズム
新聞の発行部数等を伸ばすために、「事実報道」よりも「扇情的である事」を売り物とする形態のジャーナリズムのこと。
米西戦争はイエロー・ジャーナリズムの影響が大きかったことで有名である。ウィリアム・ランドルフ・ハーストのニューヨーク・ジャーナル紙とジョーゼフ・ピューリツァーのニューヨーク・ワールド紙の2紙は発行部数競争で熾烈な争いを行い、無責任なニュースをでっち上げたりもした。このような競争の結果、ワールド紙が15,000部、ジャーナル紙が1,500部程度の発行数だったのがマニラ湾の戦いの時には160万部まで伸びた。オーソン・ウェルズは、映画『市民ケーン』の中でこの様子を皮肉った。

ニューヨーク・ワールド紙 戦艦メインが爆発した事を報道する。
米西戦争の結果
スペインは太平洋艦隊、大西洋艦隊を失い戦争を継続する能力を失った。交戦状態は8月12日に停止した。形式上の和平条約は12月10日にパリで調印され(パリ条約)、1899年2月6日にアメリカ上院によって批准された。
1898年末に講和が成立し、パリ条約でキューバの独立は承認され、アメリカはフィリピン・プエルトリコ・グアムを領有した。これはアメリカが行った帝国主義戦争であり、これによって海外に殖民地をもつ国家として一躍世界の強国となった。なお、米西戦争の時、アメリカがキューバに上陸した地点を、戦後に永久租借とした。キューバが社会主義国となってもアメリカは返還せず、グアンタナモ基地として使用し続けている

タンパの第1アメリカ志願兵連隊「ラフライダーズ」の参謀。
ウィーラーは左から3人目、右端は後の大統領セオドア・ルーズベルト。
米西戦争の時にキューバに向かう前に撮影。
パリ条約 1898年12月10日
パリ条約(パリじょうやく)は、1898年12月10日にアメリカ合衆国とスペインの間で調印された米西戦争の平和条約。
勝利を収めた米国が多くの利権を獲得した。主な取り決めは以下の通り。
  • Ⅰ. キューバ独立の承認。
  • Ⅱ. スペインが領有していたフィリピン群島、グアム島、プエルトリコをアメリカへの割譲。
  • Ⅲ. フィリピン割譲に対して、アメリカがスペインに2,000万ドルを支払うこと。
原因の一つであったキューバの反乱に伴い、米国はこのパリ条約で名目上キューバを独立(1902年)させた、しかしプラット条項により事実上保護国化(1901年~1934年)されていた。

ボストン・グローブ 1898年5月28日
アメリカの「すばらしい小さな戦争」
開戦から数日後、米西戦争最大の事件が、カリブ海ではなく、アジアを舞台にして起こった。ジョージ・デューイ総司令官の率いる米国アジア艦隊が、香港からマニラ湾に向かい、一夜のうちにスペイン艦隊を打ち破ったのである。アメリカ側の死者は1名であった。このニュースを、多くのアメリカ人は、驚きをもって受け止めることになる。彼らにとって、キューバをめぐる戦争が、なぜ遠く離れたフィリピンを舞台として戦われるのかまったくの謎だったのである。しかし、この戦略は、マッキンレー政権の下で、時間をかけて練り上げられていたものであった。・・・・何とかして東アジアにアメリカの足場を築きたいという考えた(海軍次官セオドア=ローズヴェルトらを中枢とする共和党の)マッキンレー政権にとって、スペインとの戦争は、フィリピンからスペインを駆逐し、アジア市場への拠点を築くまたとない機会だったのである。「素晴らしい小さい戦争」と呼ばれた米西戦争は、わずか三ヶ月で終了した。アメリカ側の死者は5000人余り、その大多数は熱帯病の犠牲者であった。義勇兵を率いて戦闘に参加したセオドア=ローズヴェルトのように、この戦争をアメリカの「男らしさ」を証明する絶好の機会として捉えた人も少なくなかった。また、戦争の果実も申し分なかった。1898年の暮れに締結されたパリ講和条約で、アメリカはスペインにキューバの独立を認めさせ、フィリピン、グアム、プエルトリコを獲得する。戦争中に併合が決議されたハワイを太平洋の十字路として、カリフォルニアからマニラを結ぶ「太平洋の架け橋」が誕生することになった。
上記引用<西崎文子『アメリカ外交とは何か -歴史のなかの自画像』2004 岩波新書 p.60>

米西戦争を揶揄した絵
表向き正義の戦争を口にしていたが、米国はこのキューバ問題を奇貨として、太平洋に進出しようとしたのだ。米西戦争を仕掛けた真の目的は、フィリピン所有にあったのではないかと思えるくらいである。