更新日 2014年08月17日
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イザベラ・バード(イギリスの女性旅行家・紀行作家)
イザベラ・バード の紹介

イザベラ・バード

イザベラ・バード(Isabella Lucy Bird, 結婚後はIsabella Bird Bishop夫人, 1831年10月15日 - 1904年10月7日)はイギリスの女性旅行家、紀行作家。

イギリス・ヨークシャーで牧師の長女として生まれる。妹の名はヘニー。幼少時に病弱で、時には北米まで転地療養したことがきっかけとなり、長じて旅に憧れるようになる。アメリカやカナダを旅し、1856年"The Englishwoman in America"を書いた。その後、ヴィクトリアン・レディ・トラヴェラー(当時としては珍しい女性旅行家)として、世界中を旅した。
1893年英国地理学会特別会員となる。1878年(明治11年)6月から9月にかけて、通訳兼従者として雇った伊藤鶴吉を供とし、東京を起点に日光から新潟へ抜け、日本海側から北海道に至る北日本を旅した(所々で現地ガイドなどを伴うこともあった)。また10月から神戸、京都、伊勢、大阪を訪ねている。これらの体験を1880年 "Unbeaten Tracks in Japan" 2巻にまとめた。第1巻は北日本旅行記、第2巻は関西方面の記録である。
この中で、英国公使ハリー・パークス、後に明治学院を設立するヘボン博士(ジェームス・カーティス・ヘボン)、同志社のJ.D.デイヴィスと新島夫妻(新島襄・新島八重)らを訪問、面会した記述も含まれている。その後、1885年に関西旅行の記述、その他を省略した普及版が出版される。
本書は明治期の外来人の視点を通して日本を知る貴重な文献である。特に、アイヌの生活ぶりや風俗については、まだアイヌ文化の研究が本格化する前の明治時代初期の状況をつまびらかに紹介したほぼ唯一の文献である。

また、清国、クルディスタン、ペルシャ、チベットを旅し、さらに1894年から1897年にかけ、4度にわたり末期の李氏朝鮮を訪れ、旅行記"Korea and Her Neighbours"(『朝鮮紀行』)を書いている。

イザベラ・バード の書籍
イザベラ・バード『朝鮮紀行』

イザベラ・バード『朝鮮紀行』

知能面では、朝鮮人はスコットランドで「呑みこみが早い」といわれる天分に文字どおり恵まれている。その理解の早さと明敏さは外国人教師の進んで認めるところで、外国語をたちまち習得してしまい、清国人や日本人より流暢に、またずっと優秀なアクセントで話す。彼らには東洋の悪癖である猜疑心、狡猾さ、不誠実さがあり、男どうしの信頼はない。女は蟄居しており、きわめて劣った地位にある。(p. 24)

政治、法律、教育、礼儀、社交、道徳における清の影響は大きい。これらすべての面において朝鮮はその強力な隣国の貧弱な反映にすぎない。(p. 34)

朝鮮人はわたしの目には新奇に映った。清国人にも日本人にも似てはおらず、そのどちらよりもずっとみばがよくて、体格は日本人よりはるかにりっぱである。(p. 40)

城内ソウルを描写するのは勘弁していただきたいところである。北京を見るまでわたしはソウルこそこの世でいちばん不潔な町だと思っていたし、紹興へ行くまではソウルの悪臭こそこの世でいちばんひどいにおいだと考えていたのであるから! 都会であり首都であるにしては、そのお粗末さはじつに形容しがたい。礼節上二階建ての家は建てられず、したがって推定二五万人の住民はおもに迷路のような横町の「地べた」で暮らしている。路地の多くは荷物を積んだ牛どおしがすれちがえず、荷牛と人間ならかろうじてすれちがえる程度の幅しかなく、おまけにその幅は家々から出た固体および液体の汚物を受ける穴かみぞで狭められている。 (p. 58-59 )

外国人にとってはまったく安全である。舟を引いて急流をのぼっていく往々にして退屈な作業のあいだ、ロープをたぐるのはミラー氏と従僕たちにまかせて、わたしはいつもひとりで二、三時間土手を歩いたが、人里離れたところに出ても、あるいは村のなかを通っても、出会って不愉快なものといえば、おもに女性の示す不作法な好奇心くらいのものだった。(p. 112-113)

清風にかぎらずどこにおいても、一般庶民は、好奇心はすさまじいものの粗野ではなく、わたしたちが食事をするのを眺めるときでもたいがいある程度はなれて見物していた。しかし庁舎に必ずたむろしている知識層から、わたしたちは育ちの悪い無作法な行為を何度も受けた。わたしの居室のカーテンを勝手に開けて中をのぞき、やめていただけないかと慇懃に頼んでいる船頭に威嚇する者までいた。 (p. 128)

非特権下級であり、年貢という重い負担をかけられているおびただしい数の民衆が、代価を払いもせずにその労働力を利用するばかりか、借金という名目のもとに無慈悲な取り立てを行う両班から苛酷な圧迫を受けているのは疑いない。商人なり農民なりがある程度の穴あき銭を貯めたという評判がたてば、両班か官吏が借金を求めにくる。 (p. 138)

女たちと子供はわたしのベッドに群がるように腰掛、わたしの服を調べ、ヘヤピンを抜いて髪をほどき、室内ばきを脱がせ、袖をひじまでまくり、腕をつねって自分たちと同じ血肉でできているかどうかを試した。そしてわずかながらのわたしの持ち物をつぶさに調べ、帽子と手袋を試着し、ウォンに三度追い返されたあともさらに大人数で押しかけてきた。(p. 167)

長安寺から元山にいたる陸路の旅のあいだには、漢江流域を旅したときよりも朝鮮人の農耕法を見る機会に恵まれた。日本人のこまかなところにも目のいく几帳面さや清国人の手のこんだ倹約ぶりにくらべると、朝鮮の農業はある程度むだが多く、しまりがない。(p. 211)

朝鮮にいたとき、わたしは朝鮮人というのはくずのような民族でその状態は望みなしと考えていた。ところが沿海州でその考えを大いに修正しなければならなくなった。みずからを裕福な農民層に育て上げ、ロシア人警察官やロシア人入植者や軍人から勤勉で品行方正だとすばらしい評価を受けている朝鮮人は、なにも例外的に勤勉家なのでも倹約家なのでもないのである。彼らは大半が飢饉から逃げだしてきた飢えた人々だった。そういった彼らの裕福さや品行のよさは、朝鮮本国においても真摯な行政と収入の保護さえあれば、人々は徐々にまっとうな人間となりうるのではないかという望みをわたしにいだかせる。 (p. 307)

出発前、ほこりとごみと汚物にまみれた宿の庭にすわり、うつろに口をぽかんと開けた、無表情で汚くてどこをとっても貧しい人々に囲まれると、わたしには羽根つきの羽根のように列強にもてあそばれる朝鮮が、なんの望みもなんの救いもない哀れで痛ましい存在に思われ、ロシアの保護下に入らないかぎり一二〇〇万とも一四〇〇万ともいわれる朝鮮国民にはなんの前途もないという気がした。 (p. 425)

小金を貯めていると告げ口されようものなら、官僚がそれを貸せと言ってくる。貸せばたいがい元金も利子も返済されず、貸すのを断れば罪をでっちあげられて投獄され、本人あるいは身内が要求金額を用意しないかぎり笞で打たれる。(p. 433)少女向けのこの国独自の学校はなく、上流階級の女性は朝鮮固有の文字が読めるものの、読み書きのできる朝鮮女性は一〇〇〇人にひとりと推定されている。 (p. 439)

狭量、マンネリズム、慢心、尊大、手仕事を蔑視する誤ったプライド、寛容な公共心や社会的信頼を破壊する自己中心の個人主義、二〇〇〇年前からの慣習と伝統に隷属した思考と行動、視野の狭い知識、浅薄な倫理観、女性蔑視といったものは朝鮮の教育制度の産物に思われる。(p. 489-490)

まとめとして、わたしはあえてつぎのように提言する。朝鮮の国民の環境は日本もしくはロシアの援助を得て漸進的に改善されるはずである。 (p. 497-498)

朝鮮の重大な宿痾は、何千人もの五体満足な人間が自分たちより暮らし向きのいい親戚や友人にのうのうとたかっている、つまり「人の親切につけこんでいる」その体質にある。そうすることをなんら恥とはとらえず、それを非難する世論もない。ささやかながらもある程度の収入のある男は、多数いる自分の親族と妻の親族、自分の友人、自分の親族の友人を扶養しなければならない。それもあって人々はわれがちに官職に就こうとし、職位は商品として売買される。 (p. 556-557)

わたしは一八九七年の明らかに時代退行的な動きがあったにもかかわらず、朝鮮人の前途をまったく憂えてはいない。ただし、それには左に掲げたふたつの条件が不可欠である。
Ⅰ 朝鮮にはその内部からみずからを改革する能力がないので、外部から改革されねばならない。
Ⅱ 国王の権限は厳重かつ恒常的な憲法上の抑制を受けねばならない。 (p. 563)