更新日 2014年08月17日
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「 青い眼の見た幕末の日本 」 徳島文理大学教授 岡崎豊
次に取り上げた人物は、幕末に来日した著名な西洋人で、国籍、職業、身分、滞在年数、滞在場所等それぞれ異なるが、例外なく使命感にもえて来日し、帰国後、いずれも、日本での経験や見聞を書き残している。
その中に出てくる風景・事件・人物などの描写は、すべて目撃者の筆になるもので、幕末の日本および日本人に対して、鋭い観察と率直な批判、適確精細な叙述を展開している。また、日本に住み慣れた日本人には見えない、外国人の目でしか捕らえられない多くの事象や抽象を含んでいるのが、共通の特色である。
ペリー ( 1794~1858 ) M.C.Perry
米フィルモア大統領により日本へ派遣。 1853年浦賀に到着、翌 1854年再度訪日、 日米和親条約を締結( 1854年)
『ペルリ提督 日本遠征記』刊行(岩波文庫)
ハリス ( 1804~78 ) T.Harris
米初代駐日総領事として 1856~63年滞日、日米修好通商条約締結( 1858年)に貢献
『ハリス日本滞在記』刊行(岩波文庫)
オールコック ( 1809~97 ) S.R.Alcock
英日本駐在総領事後公使として 1858~64 年滞日、対日貿易、外交に活躍
「大君の都-幕末日本滞在記-』刊行(岩波文庫)
ゴンチャロフ ( 1812~91 ) Gontcharov
ロシアの作家『オブローモフ』が代表作
1853 年プーチャーチン提督(遣日使節)の秘書としてパラーダ号で長崎に来航 『日本渡航記』刊行(岩波文庫)
シルバー J.M.W.Silver
英国海兵隊所属の中尉、 1864年~65 年日本駐在の英国陸戦隊に勤務
「日本の風俗・習慣の概要」 刊行
カッテンディーケ ( 1816~66 ) Kattendijke
1857 年ヤパン号で来日したオランダ士官
長崎海軍伝習所教官として、海軍の諸学術を教授、西洋近代科学並びに海軍に関する教育に貢献、 1859年帰国
「長崎海軍伝習所の日々」 刊行 (平凡社)
エルギン ( 1811~63 ) J.B.Elgin
イギリスの外交官。アロー号事件を機に特派使節として、 1857年にシナに派遣され、翌年天津条約を締結。同年日英修好通商条約締結のため来日。ヴィクトリア女王からの贈物-快走船エンペラー号(後の蟠竜丸)を将軍に献上。
オリファント ( 1829~88 ) Oliphant
イギリスの旅行家。ジャーナリスト。エルギンに随伴して、シナ、日本に使節秘書として来航。日英修好通商条約締結に参加。
『エルギン卿遣日使節録』の著者(雄松堂書店)
オイレンブルク ( 1815~81 ) Eulenburg
ドイツ(プロシア)の外交官。 1859年東方アジア遠征艦隊司令官兼全権公使として 60年来日。 61年修好通商条約を締結。帰国後ビスマルクの下で内相。
『日本遠征記 (上・下)刊行 (雄松堂書店)
アンベール ( 1819~1900 ) Aim Humbert
スイスの外交官。駐日公使として 1863~64 年在日、修好通商条約を締結。
『幕末日本図絵 (上・下)刊行 (雄松堂書店)
ポンペ (1829~1908 ) Pompe
オランダの海軍軍医。 1857年来日以来5年間在日。医官として日本人学生の教育に当たるとともに診療にも従事、医学の進歩に貢献。
帰国後日本人留学生の指導にあたる。日本に関する知識、理解は当代随一。
『日本滞在見聞記』刊行(雄松堂書店)
ウイリアムズ ( 1812~84 ) S.W.Williams
アメリカの宣教師、中国研究家
1853~54 年ペリー提督に随行、通訳官として幕府と折衝。以後アメリカ公使館付秘書兼通訳官として中国に駐在。天津、北京条約の締結に活躍。帰国後イェール大学中国語教授
「ペリー日本遠征随行記」 刊行 (雄松堂書店)
アーネスト・サトウ ( 1843~1929 ) Ernest M Satow
イギリスの外交官。 1861年通訳見習として中国に渡り、翌年来日、江戸の駐日公使館付となる。公使ハリー・パークスを助けて、幕末 維新の外交に大いに尽力。幕末から明治にかけて約 25年間日本に駐在。ヨーロッパの特にすぐれた日本学者として、又、 19世紀末~20世紀初頭のイギリス極東政策の指導的外交官として有名。
『一外交官の見た明治維新』刊行 (岩波文庫)
A ジーボルト( 1846~1911 )
ドイツの外交官。駐日イギリス公使館付通訳官。のち、日本政府に奉職。ベルリン公使館、ローマ公使館などに勤務。父の再航(1859~62 )に同伴して来日。維新時代の日本の外交、特に、条約改正に貢献。
『ジーボルト最後の日本旅行』刊行(平凡社)
日本の第一印象
日本の第一印象としては、日本のどこに来た西洋人も、日本の風土の美しさに感嘆の声を上げている。日本の象徴としての富士山の美しさを 「秀麗な円錐峰 「完全かつ壮麗な円錐体」で 「名状することのできない偉大な景観」などと賞賛している。」
ペリーは、7カ月半の長い航海の後、1853 年(嘉永6年)7月、日本に到着した際の深い感慨を 「塩辛い道を渡り、現に雪をいただいた富士を、その国を眺めてさえも、この地にやってくるとは、夢にも思いはしなかった」と述べ、さらに、日本を離れる時にも「艦隊が同湾を出るとき、前に当たりあるいは後に当たって富士山の高い頂きを、別れに当たって望むことができた」と回想している。
また 「士官達や部下達はすべて、日本人の親切な気質と国土の美しさに、有頂天になっていた。実際眼の向くどこでも、風光絵のごと 、く、それ以上麗しい風景は他になかった ・・至るところのよく耕されている土地、濃い豊かな緑のあらゆる草木・・麗しい、豊かな幸福 景色を呈しており」
アーネスト・サトウは 「青い海に洗われた遠くそそり立つ崖 、これが日本の第一印象だという
日本人観
日本人に対する見方としては 「日本人は喜望峰以東の最も優れた人民 (ハリス)だというのが一般的であるが、快活・勤勉・敏捷・優秀・勇敢などとほめる一方、狡 獪で、奸智にたけ、保守的であるともいう。
カッテンディーケは 「日本人の悪い一面は不正直な点である。私はこれを始終経験した 、ハリスは 「日本の役人は地上における最大の嘘つき」だと非難している。開国を強要する外国人に早く引き取ってもらうために、役人がいろいろ嘘をついたことは考えられるけれども。
ペリーは 「日本人は極めて勤勉で器用な人民」であり 「人民の発明力をもっと自由に発達させるならば、日本人は最も成功して い る 工 業 国 民 に いつまでも劣ってはいないことだろう」と、明治以後の日本の資本主義的発展を予言する慧 眼を示している。
ポンペも 「日本は、いつかは東洋のイギリス となることができる。」と 、予言している 。ただ ヨーロッパ文明の根底にキリスト教思想のあることを 日本人は理解できるかどうか懸念し、精神文明の面で アンベールは、「芸術作品を模写し、生産品の偽物をつくることは可能であるが、しかし、自由を真似ることは到底できない 」と指摘している。
日本の政治機構
日本の政治機構とくに、ミカドとタイクン-天皇と将軍-の存在という政治上の二重組織は、外国人には理解の困難な問題であった。A・ジーボルトはいう 「二人の元首をいただく特有の国法上の状態を、外国人は全く理解できずにいた。彼らは宗教的皇帝を天皇、世俗的皇帝を将軍と解釈した。16・7世紀には、旅行者や宣教師は、皇帝ということを度々無造作に口にしたが、彼らが言おうとしたのは天皇のことではなくて、将軍のことであった。・・・最初の条約は、大君殿下[将軍]と結ばれた。しかし、国内法では、日本の唯一の合法的な元首は、いつの時代でも日本の天皇すなわち皇帝であった 」
ペリーは 「日本は、同時に二人の皇帝を有するという奇異なる特質を有している 」
MIKADO(天皇)は、御門、元首、古来の最高権力者、儀礼的な主権者、形式上の王、宗教的皇帝で、政治権力はない。
TYCOON(将軍)は、大君、最高の主権者、エンペラー(皇帝 ) 、事実上の皇帝、現実の支配者、世俗的皇帝で、政治の最高責任者である。
周知のとおり、将軍は、天皇から征夷大将軍に任命されて、はじめて将軍の地位につき、武家の棟梁となったのである。
両者の関係について、オイレンブルクは巧みな比喩をしている 「両者の関係は、ちょうど絶えず病気で未成年である支配者と摂政との関係だと考えればよい。未成年というこの状態が終わらないように、将軍は配慮し、その代理である京都の所司代は、その宮廷を監視又は後見したのであった 。」
日本の外交
ペリーは、 年1月、日本再訪の途に上るため那覇に寄港した際、訪日の目的と意図について 『日本遠征記』の中で、次のように述べている 「もしも、日本政府が協定を拒絶するか或は又吾が商船或は捕鯨船集散の港を指定するのを拒むならば、日本帝国の属国たる大琉球島をアメリカ国旗の監理の下に置こうと用意していた。 」日本の史料には見られない、ペリーの覚悟と決心のほどが露骨に示されている点が注目される。
日本の社会と経済
日本人の職業と居住について 「概して、父業を継いでいる。日本人は、彼らの土地から他の土地へ、政庁の特別な許可がない限り、移動することができない。そして、その許可はめったに与えられない。巡礼にでも出ようと思う者は、その目的のための旅券(パスポート)を入手しなければならない 」
この時代、とくに問題になった浪人について、サトウは 「この時分[ 1863年頃]は、浪人という日本の一種不可思議な階級が抱いている目的と意図について、よほど警戒すべきものがあった。この浪人というのは、大名へ仕官せずに、当時の政治的な撹乱運動へとび込んできた両刀階級の者たちで、これらは二重の目的を有していた。
その第1は、天皇を往古の地位に復帰させること。
第2は、神聖な日本の国土から「夷狄」を追い払うことであった 」
と分析し、パット・バーは 「 ”浪人“ は“浪(ウエーブ) の人”と書く。あちらの戦いからこちらの喧嘩へと、浪(ウエーブ)のように渡り歩くから、こんな言葉が生まれたのであろう。・・・大小をたばさみ、肩で風を切って歩き、豹のようにしなやかですばしっこく、無謀な行為に出る怪物。その美しい刃がひとたび空中にひらめけば相手の胸は刺され、内臓は斬りとられ、首は打ち落とされ、最後の息をつく暇もない 。」
次に、犬の目にあまる跋扈について 「江戸の街には、犬がはびこっている。コンスタンティノープルのみじめで汚らしい野良犬やインドの宿なし犬の類ではない。つやつやして、よく肥えたずうずうしい獣で、主人はいないが、部落に育てられ、部落に反抗しているらしい。耳と尾を立てて傲然と走って行く。横町で出会うと実に恐ろしい。彼らには、極めて古い伝統[生類憐みの令のこと]がまつわっていて、殺せばきわめて重い罪になる 」
日本の刑罰について、拷問と刑罰の様子を具体的に説明している。訊問には竹が必ず伴い、雨のように肩に振り注ぐ。さらに 「堅い角材の上に座らせ、折った足の上に大きい角石を、ひざから血が出て、角材が赤くなり、激痛に耐えかねて、告発された罪について、真実であろうと、作りごとであろうと、自白するまで責めたてる (アンベール)
はりつけについても、具体的に描写している 「罪人はまず両手両足をできるだけ離して十字架に縛られる。次いで、左の肩胛骨の真下から槍を突き上げて、右の腋窩の上へ突き出す。こんどは、もう一本の槍を右から左へ同様に突き上げる。死刑執行人は、この場合に心臓を避けるように努める。罪人の息が絶えるまで、なるべく苦痛を長引かせながら、何本でも槍をこのように突刺すのである 」
次に、西洋人は、日本人が散歩という習慣を有しないことを、大変奇異に感じている 「彼らは、慰楽としての散歩を全くしないので歩き回ることを禁じられても、痛痒を感じないのである (ハリス)
オランダの海軍軍医ポンペは 「日本人の疾病についての観察記録」の中で、日本人は、運動不足のため腹部が充血するとみて 「決まった目的もなく、楽しみに散歩することを日本人はほとんど知らない」という。
少し古いが、 16世紀に来日した宣教師フロイスは 「われわれは、散歩を大きな保養で健康によく、気晴らしになるものと考えている。 日本人は全然散歩をしない。むしろ、それを不思議がり、それを仕事のためであり、悔悛のためであると考えている 」とみている。
それにしても、西洋の思想家がこよなく愛した散歩の習慣、とくに、毎日、決まった時刻に、決まったコースを、時計の針のように正確に歩いた有名なカントの散歩が想起される。
日本の文化と宗教
日本文化の源流あるいは言語について、中国との深い関係を詳細に考察している。文字は「日本人はシナ人と同様に縦に書く。紙の上から下へ、右側から書き始める (オリファント)
江戸時代のマス・メディア『瓦版』の中に 「アメリカの戦争[南北戦争 、リンカーン大統領、メリマック号[南軍の軍艦]とモニター号[北軍の軍艦]の戦闘を扱ったものもあった (アンベール)という。単に国内の情報のみならず、海外の最新の情報を掲載している点が注目される。
日本人の宗教に対する態度について 「日本人は必ずしも宗教を信ずるわけではないが、皆お勤めと思って信心をしている。だから、神道も仏教も、分別ある日本人にはなんの満足も与えていない。教養のない日本人は、ただ、信心は自分の義務であると悟っているから満足しているが、彼らには、神道であろうが、仏教であろうが、信心さえすればよいので、中には、この二つを一緒に信心している者すらある (カッテンディーケ)
仏教について 「お経の文句は、釈尊の本国語であると言われているが、これは、ちょうどヨーロッパの卑しい階層の人々には、宣教師の使うラテン語が分からないと同じように、日本人にはなんのことかわからない。僧侶のお経を上げる声は、まるで蝿のうなりによく似ていて、遠くからでもよく聞こえる一種独特の音声をもっている (カッテンディーケ)
キリスト教については 「真の文明はなんとしても、まだ、日本人の知らない宗教と不可分の関係があることを思わせる。彼らは、まだその宗教を知らないが、いったん布教されれば、日本人はどの東洋人よりも、その有難みを最もよく悟得するであろう、と私は信じている (カッテンディーケ)と、日本人のキリスト教への理解と信仰に対する可能性に期待している。
日本の風俗習慣 (1)家屋と習慣
日本の建物について、オールコックは 「彼らには、建築と呼びうるようなものはない。・・・建築学の第一の条件すなわち安定した基礎というものから拒まれている」
ハリスは、「引戸あるいはスクリーン( 襖などの)によって、いくつかの室に区切られていて、それらを取り払うことによって家屋全体が、すぐ単一の室に模様変えされ・・各部屋の側面には・・・一連の紙窓( paper window )があり、暴風や寒気の時にそれらを防ぐために雨戸 ( sliding shutters )がある。部屋には大変軟らかくてきれいな敷物[畳]が敷かれ、その寸法は日本中同一の規格・・・日本人は屋外に自分の草履(ぞうり)や草鞋(わらじ)をぬぎ、ストッキング[足袋]のまま室内に入る。従って、敷物はいつも清潔である。その敷物は、昼間は座席となり、夜間は寝床となる 」と考察している。
次に、西洋人の目に異様に映ったのが、日本人独特の休息法である 「日本人の男女や子供が気楽に休息したり、ねむったり、目覚めたりする方法は、私にとって非常な驚きであった。日本人は全く気楽に、そしてなんの気がねもなしに、ごく自然にかかとの上に腰を下ろしてうずくまる。その場合に、身体をしっかり支えるものは、足かかとしかない。これは、ちょうどイギリス人が疲れると、椅子にどさりと腰を下ろすようなものである (オールコック)
ゴンチャロフは、東西の生活習慣の違いを論じている 「東洋風の座り方と西洋風の座り方の相違は、最も自然的な原因からできたもの・・・ヨーロッパは暑くない。だから、我々は日光を求め、大きな窓のついた家を建て、光に近づくように高いところに座る。だから、我々は椅子や机が必要なのだ。アジアでは、その反対に日光を避ける。だから、窓というものがほとんどない。自分の立っているところにも座れるのだ」
日本人の挨拶について、オールコックは 「人は出会うたびにまじめに丁寧な挨拶を交わしていた。彼らは、両手をひざのところまで下ろし、身をかがめ、息を押し殺したような感じで、口上を述べる。その身のかがめ方の深さと敬意を表す程度とが密接な関係にあることは、一見してわかる 」
同じく、彼は、日本人の別れの挨拶について、興味ぶかい考察をしている。
「サヨナラ。この日本人の挨拶は、やさしさの点でフランス人のアデュー(フランス語のさよなら)やイタリア人のアディオ(イタリア語のさよなら)に決して負けない 」
日本の風俗習慣 (2)火事
来日した西洋人は 例外なく「火事」について書いている 木と竹と土と紙からできた燃えやすい日本の家 シルバーは 「日本人は 『火事は江戸の華だ』 というが 日本では年間をとおして咲くこの華を根絶しようとするのではなく むしろ 栽培しているような感がある。」と鋭く指摘している。
住民が火事にあうのは “7年1回説”から、のちには“3年1回説”になる。したがって “頻発する火事に対処して生きる知恵”が生まれる 「火事が近づいてくると、人びとは数少ない家財道具を布団に包み、背おい、逃げ出すのだった。翌日、さもピクニックから帰って来たかのように、人びとは焼跡に戻ってくる。横浜の火事では、次の日の朝、古い家がまだくすぶっているのに、その横ではもう新しい家がたちはじめ、夕方には屋根までがあたらしくふかれてしまった (シルバー)
日本の風俗習慣 (3)食事
日本人の食事の習慣と社交性の問題を関連づけたオールコックの考察は、われわれ日本人の気付かない鋭い見方で、大変興味ぶかい。「日本人は 畳の上に座りながら、高さ約1フィート、約18インチ四方の漆塗りの木製のスタンドを、各人の食卓として使用する。したがって、自分の食事を各自別々にするために非社交的な習慣になる 」
また、日本人の食事の様子は 「大きな子供たち」の「飯事(ママゴト)遊び (アンベール)のようだという。
日本側と外国側の招待の対比も、きわめて興味ぶかく描かれている。日本人が饗宴に招待されたときは、「貪欲ともいえるほどの猛烈な健啖ぶりを発揮し、また、食べ残りは必ずもち帰った 」(ハリス) 「彼らの多くは十分以上に飲むということ、彼らはあらゆる種類の酒類 を生のままで飲む 」(同) 「日本人の食欲は猛烈で、皿を選んだり、食事の順序の見境をつける余裕などほとんどなく、魚・獣肉・鶏肉・スープとシロップ、果物とフリカッセー、蒸し肉と煮肉、塩漬物と砂糖漬物とをゴチャゴチャに詰めこんで驚くべき無作法さを示した 」(ペリー)
饗宴に出された糖果や菓子など、「一切を自分の広大な蔵すなわち懐へしまいこんだ 」(ゴンチャロフ)と、和服の懐に物を入れる風習は、外人の目には奇異に映じたのである。
(追記)アメリカには、レストランなどで渡す (食べ残し持ち帰り袋)がある。いかにもアメリカ的合理主義を示すもの。
日本の風俗習慣 (4)衣服
日本人の衣服について、「着物の色は黒か灰色である。貴人のものだけが絹布で、その他すべての者の布は木綿である。日本人は、至って欲望の少ない国民である (ハリス)
式服の長袴について、「これは黄色の絹でつくられ、その脚部は、6フィートから7フィートほどの長さがある!従って、これを着用した者が歩行するときには、後方に長くひきずるので、あたかもひざで歩いているように見える。日本人は短躯で、それに肩の幅の広い裃を着けているので、一層その感を深くする (同)と感嘆している。
外国の衣類に対する好奇心、とくに、ボタンに対する異常な関心について、「殊に、ボタンに非常な欲望を示した。彼らは、何度も何度もボタンを乞い、その安価な贈物をもらうと直ちに満足を示し、かつ、あたかも極めて高価なもののように、それをしまい込んだ。彼らが、ボタンに恋着し、その価値を高く評価したのは、その品が日本にはまれだからによるらしい。なぜならば、不思議な事実ではあるが、簡単で便利なボタンが、日本の服装品にほとんど使用されていないのであって、紐と色々な帯だけが、衣服をしばる唯一の方法なのである (ペリー)
日本の風俗習慣 (5)女性
日本の女性が、外国人に異様な感じを与えたのは、「おはぐろ」である。「歯に黒いニスのようなもの(おはぐろ)を塗りなおして眉毛をすっかりむしろ取ってしまったときには、日本の婦人は確かにあらゆる女性の中で、人工的なみにくさの点で、比類のないほどぬきん出ている・・・このように醜くくされた彼女たちの口は、まるで口をあけた墓穴のようだ (オールコック)と奇異の感を抱いている。
ペリーも、「日本の既婚婦人だけが、歯を染める特権をもっており、おはぐろ( Oha gur or Camri)という鉄の粉と酒とを含んだ汚い成分の混合物を用いる」
日本の風俗習慣 (6)入浴
「入浴好き」は、かなり際立った日本人の習性だが、殊に、開けひろげの銭湯風俗は、異邦人の好奇心を強くそそったらしい。銭湯や行水風俗に強い関心をもたせた。「最も珍中の珍風景は、ぬれた布で湯上がりの体をふくことだ 」「湿ったふき布ばかりは、気持ちのよいものではない」
少し古いが、フロイスは、「われわれの間では、顔を拭くのに使うタオルと、足を綺麗にするためのタオルとは異なる。日本人は、身体を洗う時に、同じタオルをすべてに使う」という。入浴の際、一つの手拭で顔も足も洗い、また拭うことが珍しく思われたのであろう。
アメリカ人が、下田の町で見た男女混浴は、彼ら欧米人の眼には大変珍しい風俗に映ったらしく、二つの異なる見解が見られる。ペリーは、「男女混浴をもって日本人の淫蕩性の表れ」と見ている。が、ハリスは、「それが女性の貞操を危うくするものと考えられていないことは確かである。むしろ反対に、この露出こそ、神秘と困難とによって募る欲情の力を弱めるもの・・・」とみている。
日本の風俗習慣 (7)切腹
「切腹」は、自殺を罪とするキリスト教の倫理とは完全に相反する習俗、しかも、それが名誉ある死であり、サムライという騎士階級のモラルであることは、ヨーロッパの人びとを驚かせた。
「ハラキリ」 または 「ハッピー・ディスパッチ」 と記され、切腹の作法なども詳しく叙述している。
日本の風俗習慣 (8)日曜日
日本人の概念にはなかった“日曜日”を、西洋人の神聖な“安息日”の立場から論じている。
日本の風俗習慣 (9)相撲
日本人は、力士や相撲を外国人に大変自慢しているが、彼等の見方はクールである。「力士たちは牡牛のようだった。地をはい、埃りをあげ、唸り、相手を土俵から押し出そうと、その顔面ははれ、紅潮した。そして 「胸の悪くなるような演技」と不快感を表している。
「力士たちは一般に、クリスマス用に屠殺される品評会で入賞した牡牛と同じくらいふくれ上がり、食べ過ぎ、いやらしく見える」あんまり筋肉が豊かなので、独自の顔立ちを失い、脂肪の固まりに過ぎないように見える。・・・首はほとんど胴に密着し、普通あごを形作っているところは筋肉のひだになっている」
「かねがね日本人からその妙味を聞かされ」ていたが、「これは、ただ一団のたくましい町のいたずら小僧たちの間に演ぜられるけんかとなんら選ぶところもない 「その光景は人間の闘牛(human bull-fight)に類するものに相違ない」と酷評している。 」相撲(レスリング)は・・・諸侯はいずれも力士(レスラー)を何人も召し抱えていて、一番重く、一番肥えた者をもっていることが自慢となる」各地方にも地方的チャンピオンがいて、相撲はナショナル・ゲームだと見ている。
日本の風俗習慣 (10)乗物
自分たちの国の馬車の代わりをする日本の「ノリモノ」について、ハリスは、「ひどくいやなものだ。取ることのできる唯一の位置は、日本式にかかとの上に尻をのせるか、さもなければあぐらを組むにある 」
4名以上でかつぐかごは、「まるで荷づくりをするかのように手足やからだを折り曲げてかつがれてゆかなければならなかった。それは、野獣を安全に運ぶために、おりにいれてつるしてゆくのとそっくりであった。・・・せまい壁のなかに手足を閉じ込めて、背骨を半ば脱臼さ せるような苦しみ」であった。
二人の男に運ばれて行く町駕篭は、「ひざを折ってあごをつけるので、見ただけでもけいれんを起こすほどである。」(オリファント)と酷評している。
日本の風俗習慣 (11)旅行
いかにも日本的な風景である大名行列や土下座の様子、旅の習慣などを事細かに叙述している。
「東海道 ( トーカイドー)は日本第一の街道である 」からはじまって、もろもろの街道にふれている。
日本の風俗習慣 (12)病気と治療
日本人に多い病気は、胸部疾患(肺病・気管支疾患・心臓)で、心臓疾患の多い理由は、過度の濫用(強い酒の飲み過ぎ、たびたび熱湯に入り過ぎる、法外な放蕩に耽る)とみている (ポンペ)
また、眼病・・・盲目が多い、と天然痘・・・住民の3分の1は顔にあばたをもっている、の多いことを指摘している。治療法としての「 灸 」と「 鍼 」について、大変コミカルに描いている。
日本の風俗習慣 (13)冠婚葬祭
結婚について、鋭い分析をしている。「日本では、結婚しても別に公表することもなく、ヨーロッパで民法の規定によって、戸籍に登録の手続をとるようなことはない。・・・一切が口頭で行われて、書類を作成して双方が署名するようなこともなければ、同意書もない・・・この契約による保証がないということが、双方の個人的自由を保護することで、男性優先の特権を与えることであり、女性が反対を唱えるをこと拒み、人間として平等を許容するのは、男性の特権というわけである。女性解放の最高度を示すのはキリスト教であり、これが最も進んだ異教文明の最極限とを画する深い溝である (アンベール)
日本の風俗習慣 (14)その他
いかにも日本的な風景である正月の飾付や長崎や島原で正月に行われた踏絵、子守の様子、しつけと教育などについて考察している。
アーネスト・サトウの見た幕末土佐
アーネスト・サトウ Ernest M Satow( 1843~1929 )は、イギリスの外交官、日本学者として著名な人物である。1861年通訳見習として中国に渡り、翌年来日、江戸の駐日公使館付となる。ついで、通弁官、書記官となり、とくに、公使パークスを助けて、幕末維新の対外交に活躍した。幕末から明治にかけて約25年間日本に駐在、日本の古今の言語に習熟したばかりでなく、歴史、宗教、風俗なども底的に研究し、又、薩道と号してキリシタン研究にも新しい境地を開いた。とくに、風雲急な幕末の政情の中を縦横に活躍、多くの日本人と親交を結んだ。西郷隆盛、木戸孝允、伊藤博文、井上馨などをはじめ、討幕の志士や反幕府的な大名たちとの接触を通じて、維新政局の進行に大きな影響を与えた。他方、閣老をはじめとする幕府の高官連も慇 懃を尽くして、サトウの歓心を買うことに努めた。彼は、日本語が自由自在で、自分の名を日本語にして「佐藤愛之助」と改め、日本人にその熟練ぶりをほめられると、「おだてともっこには乗りたくねえ」と見事江戸弁でしゃれたというエピソードも伝えられている。
1867年(慶応3年)8月、たまたま長崎においてイギリス軍艦イカラス号水夫殺害事件が発生し、殺害容疑者として土佐藩所属の海援隊士が指目され、当時の重大な国際問題となった。英国公使パークスは、これを解決するため、自ら高知を訪問することになり、通訳官 ・サトウを同伴、英国軍艦バジリスク号で来航した。
「9月3日(慶応3年8月6日)の早朝…土佐の須 崎という小さな港の外に投錨」した。そこで接触した談判委員の感想や談判の経過などが記録されている。土佐藩では参政後藤象二郎が英国側との応接の全権を委任され、同地で4日と5日の両日にわたって談判が行われた 「犯人は土佐の人間と頭から決めてしまっていた。」パークスと、証拠のない推定をはね返して反論する後藤との間に激論があったが、ついに結論が出ず後日長崎で実地調査をすることになった。
サトウは、両者の調停に苦労しているが「後藤は、それまでに会った日本人の中で最も物わかりのよい人物の一人であったので、大いにハリー卿(パークス)の気に入った。そして、私の見るところでは、ただ西郷だけが人物の点で一枚後藤にまさっていたと思う (Sir Harry took a great fancy to him, as being one of the most intelligent Japanese we had as yet met with, and to my own mind Saig alone was his superior by force of character.  )と、後藤を高く評価している。
ある日「晩飯のあと、 後藤が政治問題を論じに艦へやってきた。彼は、イギリスを模範にして国会と憲法を作ろうという考えを述べ 、西郷もこれに似た見解をもっているといった。(He spoke of his idea of establishing a Parliament,and a constitution on the English model, and said that Saig entertained similar notions.  )…それから、後藤は大君(タイクン)の政府をさんざんに罵倒した。」という。大政奉還に先立つことわずか二か月前のことである。
サトウは、後藤からの「高知へ来て前大名と近づきになるようにという招待の手紙」をもらうと、9月7日の9時半過ぎ浦戸に入港した。そのときの印象を、「はるかかなたに小山が続いている。海岸沿いに生えている帯のような松並木の景色は、私にセイロン島のポアン・ド・ガル湾をまざまざと思いおこさせた。ポアン・ド・ガルは、コロンボの築港ができる以前は、東洋通いの郵便船がよく寄港した場所である。」そして、「高知湾は出入口が極めて狭隘で、岩礁が多く、湾とはいうものの実際には一つの入江をなしている。船は砂浜に向かってまっすぐに走っていたようだったが、やがて急に左に転じて船首を川の中へ乗り入れ、小さい入江の内側の水深15フィートのところに碇をおろした。この川は、ここから上流の方では川幅がかなり広くなっているが、しかし、吃水1フィート以下の船しか通れぬほど浅い」ので、「私は屋形船に乗り移ったが、すこぶる船脚が遅かった。2、3の広い湖水のようなところを過ぎると、やがて高知の城が見えてきた。四層の高い天守閣がそびえているので、城は遠方から望見できた。それから間もなく、堤防のある堀割を右にいき、町はずれの大きな新しい建物(開成館1866(慶応2)年2月5日設立)の下の岸に船が着いた 」
開成館で後藤の出迎えをうけ、山内容堂に面会した。まず、イカラス号事件の経過などについて話し合った後、「容堂と後藤は、ルクセンブルグ問題、憲法や国会の権能、選挙制度などについて質問した。彼らの心底には明らかに、イギリスの憲法に似たものを制定しようという考えが深く根をおろしていた。 (Y d and G t pleaded me with questions about the Luxemburg affair, the constitution and powers of parliament and the electoral system ; it was evident that the idea of a constitution resembling that of Great Britain had already taken deep root in their minds.)実に、その後に至り……天皇(ミカド)に仕えて日本の議会設立に力を貸してもらいたいという申し出があったのである。 to enter the service of the Mikado and assist in organizing their parliament for them.)この部分から判断すると、土佐藩では、大政奉還後の公議政体の構想を相当具体的に考えていたものと思われる。 サトウは、よく日本の事情に通じているし、語学は堪能なので、容堂はひざを交えて会談している。又、時期的にも、大政奉還を幕府に建白する直前のことゆえ、西洋の公議政体の話などは、とくに注意深く聴取している様子がよく分かって興味深い。
それから、サトウは皿鉢料理の接待を受け、白縮緬の反物7本を引出物として贈られて暇を告げた。容堂の印象について 「身の丈高く、すこし痘 痕顔で、歯が悪く、早口でしゃべる癖があった。彼は、確かにからだの 、 あばた具合が悪いようだったが、これは全く大酒のせいだったと思う」(Y d was a tall man, slightly pock-marked,with bad teeth,and a hurried manner of getting out his words. He certainly lookedvery ill, and over-indulgence in sake would quite account for that.)と述べ、彼の思想は、「容堂の意見から判断すると 彼は偏見にとらわれず その政治的見解も決して保守的なものではなかった ( 、、 。」 From some of the remarks he made,I gathered that he was free from prejudice,and not by any means conservative in his political notions,)と進歩主義で薩長とともに変革の線に沿う覚悟を見せたとあるが、「しかし、薩長や長州とともに、あくまで変革の方向に進んでいく用意があったかと言うと、それはどうも疑わしかった 」( 。 Still,it may be doubted whether he was prepared to go thesame lengths as Satusma and Choshiu in the direction of change,)と慧眼なサトウは、容堂と薩長との違いを鋭く感じとっている。容堂は、尊王主義者であったが、排幕論者ではなかった。公武合体は、容堂にとって最善の、唯一の願望であった。容堂が薩長と行動をともにして討幕挙兵に参加することを希望していなかったことは事実であろう。
その後、「高知の町を散歩することは、私にとって賢明とも安全とも考えられなかったので、無理に見物しようともしなかった。ゴンドラに似た船で浦戸まで戻ったが、その途中、群衆が小舟で追ってきた。彼らは、1596年にスペインの大 帆 船が漂着(慶長元年サン ギャリオンフェリペ号の浦戸漂着)して以来、初めてこの地方に出現したヨーロッパ人をしきりに見たがっていたのだ。そして、なるべく多く秩序を満足させようと、我々の船と触れ合うほど近くまでやってきた。好奇心もなにもあったものではなかった。もし、私が高知で散歩でもしたら、確かに一騒ぎがもち上がったことであろう 」と言っている。
翌日(9月9日) 、サトウは須崎へ移り、藩船シューエイリーン号(夕顔)に移乗して、長崎へ向かっている。英人殺害事件の調査にあたるためで、藩の大監察佐々木三四郎や坂本竜馬もこれに同乗したのである。
前述のように、サトウが開成館で容堂と会見したことは、彼の鋭い観察眼で容堂ないし土佐藩の動きを見抜いたのとともに、反面、容堂や後藤たちがサトウと接触したことは、これから後の幕末維新の回天の偉業で、イニシアチブをとる土佐藩の動向に大きな影響を与えたと言えよう。容堂と後藤が、先にサトウからしきりにイギリスの憲法、議会制度、選挙制度などについて、熱心に新知識を吸収しようと努めた理由がよく分かる。容堂が開成館でサトウと会見したのが、1867(慶応3)年8月11日、後藤象二郎らに命じて幕府に大政奉還を建白させたのが10月3日、会見後わずか2か月足らずである。将軍慶喜は、ついに土佐藩の建白をいれて、10月14日大政奉還を朝廷に請い、よく15日に勅許、やがて、12月9日には王政復古の大号令が出された。
しかし、周知のとおり、竜馬は中岡慎太郎とともに、11月15日、京都河原町の旅宿で暗殺されたのである。このことについて、サトウは 「この私が長崎で知った土佐の才 谷 梅 太 郎は、数日前京都の宿で三名 、 の姓氏不詳の徒に暗殺された」と記している。従って、 さえだにうめたろう竜馬とサトウの出会いの場所は長崎であることが分かる。ただ、これだけの極めて短い記述であるため、サトウの竜馬評を聞けないのが残念である。