更新日 2014年08月17日
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ハインリッヒ・シュリーマン(ドイツの考古学者)
ハインリッヒ・シュリーマン の紹介

ハインリッヒ・シュリーマン
 ハインリッヒ・シュリーマン(1822-1890)は1865年に中国(清国)と日本(江戸)を旅行し,フランス語で旅行記を書いた。これがシュリーマンの最初の作品ともなった。
この旅行記は前半で清国,後半で日本を取り上げている。
ハインリッヒ・シュリーマン の書籍
ハインリッヒ・シュリーマン『シュリーマン旅行記 清国・日本』

ハインリッヒ・シュリーマン『シュリーマン旅行記 清国・日本』
清国の旅行記
私はこれまで世界のあちこちで不潔な町をずいぶん見てきたが、とりわけ清国の町は汚れている。しかも天津はその筆頭にあげられるだろう。町並みはぞっとするほど不潔で、通行人は絶えず不快感に悩まされている。
私は城壁の内側でものすごく素晴らしいものに遭遇できると思っていた。しかし、それはひどい間違いだった。北京には、荷馬車ひきが泊まる、ぞっとするくらい不潔な旅籠を除けば、ホテルというものはない。
ほとんどどの通りにも、半ばあるいは完全に崩れた家が見られる。ごみ屑、残滓、なんでもかんでも道路に捨てるので、あちこちに山や谷ができている。
…寺を訪れた。シナの寺院建築はヨーロッパ最高の建築家も一目置くほどである。だがいまは、無秩序と頽廃、汚れしかない。…途方もない費用をかけて建設したこの壮大な建築物を、いまや頽廃し堕落した民族が崩壊するにまかせているのを目の当たりにするのは、じつに悲しく、心痛むことだ。
シナでは、女性の美しさは足の小ささだけで計られる。九センチあまりの小さな足の持ち主ならば、歯が欠けていようが、禿頭だろうが、十二センチの足の女性よりも百倍美しいとされる。例え後者がヨーロッパ風の基準に従えば目映いばかりの美しさをそなえていようとも、である。
(村人に)旅行の目的は何かと聞かれて、…長城を見ることだと答えてしまった。彼らはみんな大口を開けて笑い出した。石を見るためだけに長く辛い旅をするなんて何と馬鹿な男だろうというわけだ。どうしてもしなければならない仕事以外、疲れることは一切しないというのがシナ人気質である。
北京の街にはボロ布しか身にまとっていない女乞食があふれている。
無秩序と廃頽、汚れしかない。堕落した民族が崩壊するにまかせている。
清国の君主たち、また民の愚かさ加減、意気阻喪ぶり。
日本の旅行記
道を歩きながら日本人の家庭生活のしくみを観察することができる。家々の奥の方にはかならず、花が咲いていて、低く刈り込まれた木でふちどられた小さな庭が見える。日本人はみんな園芸愛好家である。日本の住宅はおしなべて清潔さのお手本になるだろう。 (p. 81)
日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。 (p. 87)
「なんと清らかな素朴さだろう!」始めて公衆浴場の前を通り、三、四十人の全裸の男女を目にしたとき、私はこう叫んだものである。私の時計の鎖についている大きな、奇妙な形の紅珊瑚の飾りを間近に見ようと、彼らが浴場を飛び出してきた。誰かにとやかく言われる心配もせず、しかもどんな礼儀作法にもふれることなく、彼らは衣服を身につけていないことに何の恥じらいも感じていない。その清らかな素朴さよ! (p. 88)
[豊顕寺の]内に足を踏み入れるや、私はそこに漲るこのうえない秩序と清潔さに心を打たれた。大理石をふんだんに使い、ごてごてと飾りたてた中国の寺は、きわめて不潔で、しかも退廃的だったから、嫌悪感しか感じなかったものだが、日本の寺々は、鄙びたといってもいいほど簡素な風情ではあるが、秩序が息づき、ねんごろな手入れの跡も窺われ、聖域を訪れるたびに私は大きな歓びをおぼえた。 (p. 104)
僧侶たちはといえば、老僧も小坊主も親切さとこのうえない清潔さがきわだっていて、無礼、尊大、下劣で汚らしいシナの坊主たちとは好対照をなしている。 (p. 105)
一方、金で模様を施した素晴らしい、まるでガラスのように光り輝く漆器や蒔絵の盆や壷等を商っている店はずいぶんたくさん目にした。模様の美しさといい、精緻な作風といい、セーブル焼き〔フランスの代表的な陶器〕に勝るとも劣らぬ陶器を売る店もあった。 (p. 134)
木彫に関しては正真正銘の傑作を並べている店が実に多い。日本人はとりわけ鳥の木彫に秀でている。しかし石の彫刻は不得手であり、たまに見かける軟石を使った石彫もつまらないものである。大理石は日本ではまったく知られていないようだ。 (p. 135)
さらに、大きな玩具屋も多かった。玩具の値もたいへん安かったが、仕上げは完璧、しかも仕掛けがきわめて巧妙なので、ニュルンベルクやパリの玩具製造業者はとても太刀うちできない。たとえば玩具の小鳥が入っている鳥籠は五~六スーで売られているが、小鳥は機械が起こすほんのわずかな風でくるくる廻るようになっているし、仕掛けで動く亀などは三スーで買える。日本の玩具のうちとりわけ素晴らしいのは独楽で、百種類以上もあり、どれをとっても面白い。 (p. 137)
日本人は絵が大好きなようである。しかしそこに描かれた人物像はあまりにリアルで、優美さや繊細さに欠ける。 (p. 137)
他国では、人々は娼婦を憐れみ容認してはいるが、その身分は卑しく恥ずかしいものとされている。だから私も、今の今まで、日本人が「おいらん」を尊い職業と考えていようとは、夢にも思わなかった。ところが、日本人は、他の国々では卑しく恥ずかしいものと考えている彼女らを、崇めさえしているのだ。そのありさまを目のあたりにして――それは私には前代未聞の途方もない逆説のように思われた――長い間、娼婦を神格化した絵の前に呆然と立ちすくんだ。 (p. 140)
日本の宗教について、これまで観察してきたことから、私は、民衆の生活の中に真の宗教心は浸透しておらず、また上流階級はむしろ懐疑的であるという確信を得た。ここでは宗教儀式と寺と民衆の娯楽とが奇妙な具合に混じり合っているのである。 (p. 141)