更新日 2017年09月22日
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重慶防空洞惨案 1941年6月
重慶防空洞惨案 1941年6月5日
重慶市の防空壕は、主に日中戦争期に作られた。蒋介石が率いる国民党政府が首都の南京を脱出し、最終的に首都機能を重慶に移したため、日本軍は1938年から43年にかけて、重慶市爆撃を実施した。
日本軍は政府・軍施設を攻撃目標にしていたが、当時は「ピンポイント爆撃」などがおよそ不可能で、市民や民間施設に大きな被害を出した。国民党兵士が防空壕に鍵をかけて避難した人を10時間以上閉じ込めたため、約1万人が窒息死するなどの「間接的な大量死事件」もしばしば発生した(1941年6月5日)
中国国民党兵士が防空壕に鍵をかけた為に、一般市民の、1151人の子供を含む9992人が亡くなった。

1941年6月5日 重慶防空洞惨案 
日本軍の空襲が始まる直前に防空サイレンを鳴らした為に、市民が防空壕の入口に殺到し、女性・子供たちが踏みつけられて圧死しました。
現在の重慶防空洞
重慶市の防空壕は、主に日中戦争期に作られた。蒋介石が率いる国民党政府が首都の南京を脱出し、最終的に首都機能を重慶に移したため、日本軍は1938年から43年にかけて、重慶市爆撃を実施した。

重慶の町の中心部 銀行の前に地下鉄の入口の様に、入口が有ります。


『6・5隧道惨案旧跡』

1938~1943年
重慶に日本軍の空爆があり
『行了五年野蛮空襲』
1941年6月5日の晩、5時間にわたる“疲労”爆撃
防空洞に避難した住民のうち、約2500人が窒息死します
『6・5大隧道惨案』と呼ばれる事件です。

隧道惨案旧跡の記念館

隧道惨案旧跡の記念館