更新日 2014年08月17日
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植民地の歴史 アフリカ
1884年 ベルリン会議 (アフリカ分割)

1884年 ベルリン会議
ベルリン会議は、1884年11月15日から1885年2月26日までドイツ帝国の首都ベルリンで開催された国際会議。
列強のコンゴ植民地化をめぐる対立の収拾が図られるとともに、列強による「アフリカ分割」の原則が確認された。
ベルリン会議を行わなければならない背景。
ヨーロッパ勢力のアフリカ進出は、15世紀のポルトガル・スペインの進出以来、ムスリム(イスラム教徒)やその他の様々な現地の王国との対立抗争をはらみつつ行われてきたが、いずれもアフリカ大陸の沿岸部に限られており、しかも多くの場合、沿岸の港湾を点として支配するのみであった。
支配が内陸部まで及ばなかったのは、アフリカにヨーロッパ人が求めたのは奴隷や若干の物産に過ぎず、沿岸の拠点地を通じて内陸部を支配する王国から購入すれば充分事足り、支配を広げるコストに見合う利益がアフリカには見当たらなかったためである。
しかし19世紀に入ると産業革命が進み、それに伴って奴隷貿易が禁止された。この結果、アフリカを奴隷や象牙などの珍品の供給地としてではなく、工業のための原料の供給地とし、さらに工業製品の市場として囲い込む植民地とするほうが経済的に見合うと判断されるようになり、列強は全面的な植民地支配を目指す政策へと大きく転換する。
この方向転換が、欧米による植民地獲得競争が激しくなり、宗主国同士で軋轢・対立・紛争が起きる様になった。
ベルギー国王レオポルド2世は、植民地帝国形成の第一歩として、コンゴ植民地化に関心をよせた。1878年、上コンゴ研究委員会(のちのコンゴ国際協会)のもとで探検家スタンレーをコンゴに派遣、現地の調査や交通網の整備にあたらせた。すでにこの段階でスタンレーは数十の基地を設置し、現地勢力の長たちと様々な取り決めを結んでいた。
こうした急速なベルギーのコンゴ進出に対し、以前より沿岸部の権益拡大を進めていたポルトガルが反発し、1882年にはコンゴ川河口地域における主権を宣言した。イギリスはこれを支持したが、アフリカ植民地化をめぐりイギリスと対立していたフランスは、ポルトガルを支持せずにベルギーを支持する一方、自ら探検家ピエール・ド・ブラザをアフリカ内陸部に派遣した。宰相ビスマルクのもとにあったドイツもポルトガル支持を見送った。このように、各国の思惑が錯綜する中で、ドイツのベルリンで、アフリカをめぐる一連の問題解決を目指し、国際会議が開催された。
参加国は、
  • イギリス
  • ドイツ帝国
  • オーストリア
  • ベルギー
  • デンマーク
  • スペイン
  • アメリカ合衆国
  • フランス
  • イタリア
  • オランダ
  • ポルトガル
  • ロシア帝国
  • スウェーデン
  • オスマン帝国
計14カ国。
ベルリン会議で合意された列強によるアフリカ分割の原則:しかし最も重要なことは第6章において、アフリカ植民地化の原則が合意されたことで、それは次のような2点からなる。
  • 占領が認められる条件はヨーロッパ人の活動(通交・交易)を保障できる実効支配が行われていることが必要である。
  • ある地域を最初に占領した国がその地域の領有権をもつという先占権をもつ。(沿岸部を占領した国が内陸部の併合も認められる)
これは、アフリカ現地の人々の意志は関係なく、ヨーロッパ各国がアフリカの土地と人間を勝手に区画して統治できるという、一方的なものであり、このベルリン会議の結果としてヨーロッパ列強のベルリン分割を加速させることとなった。列強は「早い者勝ち」に競って進出し、現地の黒人部族の首長との間で「保護条約」を締結し実効支配を打ち立てようとした。
その後、20世紀中ごろまでアフリカは植民地支配を受け、多くのアフリカ諸国がこの分割にそって独立したため、現在も部族的な対立や国境紛争が絶えない、不安定要素の原因となっている。
イギリスの大陸縦断政策

ケープタウンからカイロへ鉄道用の電線を敷設するセシル・ジョン・ローズ(イギリスの政治家)。同時代の諷刺画
19世紀には宗主国オスマン帝国の影響力が衰え、また自立した群小政権もヨーロッパ勢力の経済的・軍事的な発展に対してほとんど為す術がないほど弱体化していた。ここに入り込もうとしたのが当時の植民地大国であるイギリスとフランスであり、両国はナポレオン戦争時代からエジプトの支配権を巡って対立関係にあった。
1869年、フランスはエジプトと協力してスエズ運河を完成させたが、この建設はエジプト財政に対する過大な負担に跳ね返り、1875年になってスエズ運河会社の株を購入したイギリスがかわってエジプトの支配権を手に入れた。
1882年、イギリスはついにエジプトを保護国化し、さらに南のスーダンへと侵攻する。 イギリスは、エジプトとは別に、1815年のウィーン議定書でオランダから手に入れたアフリカ南端のケープ植民地領を拡大し、南アフリカの内陸部に植民地を広げつつあった。
イギリスはエジプトと南アフリカの南北ふたつの拠点から大陸を南北に貫くよう植民地の拡大に向かっていったので、これを大陸縦断政策という。
フランスの大陸横断政策
フランスはモロッコを影響下におくとともに、1830年にアルジェリア、1881年にチュニジアを保護国とした。フランスは北アフリカ西部のマグリブからサハラ砂漠を越えて大陸の中央部を西は大西洋から東は紅海、インド洋にいたる東西に広がった植民地の拡大を目指す大陸横断政策を推進した。1881年には東アフリカのアフリカの角西部にジブチ植民地を建設して大陸横断の東の終点とする。
1898年 ファショダ事件

1898年 ファショダ事件 南北に伸びるイギリスの植民地(黄色)と東西に伸びるフランスの植民地(赤色)の拡大政策が現在のスーダンで衝突した
ファショダ事件(ファショダじけん)は、1898年、アフリカ大陸の植民地化(アフリカ分割)を競う、イギリスの大陸縦貫政策とフランスの大陸横貫政策が衝突した事件である。この事件を契機として、英仏は接近することとなった。
イギリスは1815年、早くもアフリカ最南端のケープ植民地を領有して、その支配地を北に拡大し始めた。その後、1875年にはスエズ運河を確保し1882年にエジプトを事実上の保護国化した後、ナイル川に沿って南下し始めた。1885年、エジプト統治下のスーダンでマフディー教徒が蜂起し、スーダンを完全に支配下に置いたため10年間ほどイギリスの南下政策は停滞した(マフディー戦争)。しかしその後、イギリスは2万5千の大軍を動員し、鉄道を敷きながら南下し、マフディー教国を破ってスーダンを支配下に置いた。このとき、イギリス軍の先遣隊が、さらに南のファショダ村(現南スーダン上ナイル州)にフランス国旗が掲げられていることを発見し、急遽、軍を派遣した。
フランスは1830年にアルジェリアに進出して以来、1881年にはチュニジアを、次いでサハラ砂漠一帯を領有した。フランスはさらに東部への進出を図って、マルシャン大尉率いる200名の武装探検隊を送った。一行は2年間にわたって各地を探検しながら東進し、1898年、ナイル河畔のファショダ村に到着したのである。 ファショダに急行したイギリス軍とフランス軍はあわや衝突かと思われた。しかし両軍の司令官(キッチナーとマルシャン)会見で、事態の処理を本国にゆだねることになったが、相次ぐ軍部の不祥事で混乱していたフランス軍が譲歩し、翌年ファショダを撤退した。
本国交渉はもつれたが、ドイツ帝国の急速な進出に直面した1904年、両国は英仏協商を結んだ。その協商で、フランスはエジプト・スーダンでのイギリスの優越権を、イギリスはモロッコにおけるフランスの優越権をそれぞれ認めることで決着をみたのである。 その後、第一次世界大戦でイギリスが、敗北したドイツからドイツ領東アフリカ(タンガニーカ)を獲得したため、イギリスの大陸縦貫政策は完遂した。ファショダ事件でスーダンから撤退したため、フランスの横貫政策は成らなかったが、フランスはアフリカ大陸の西半分の広大な地とマダガスカルを領有し、事実上アフリカ大陸をイギリスと2分割したも同然であった。
1913年 第一次世界大戦前のアフリカの植民地

1913年 第一次世界大戦前 ヨーロッパの列強国がアフリカを植民地支配していた。
ヨーロッパ勢力のアフリカ進出は、15世紀のポルトガル・スペインの進出以来、ムスリム(イスラム教徒)やその他の様々な現地の王国との対立抗争をはらみつつ行われてきたが、いずれもアフリカ大陸の沿岸部に限られており、しかも多くの場合、沿岸の港湾を点として支配するのみであった。支配が内陸部まで及ばなかったのは、アフリカにヨーロッパ人が求めたのは奴隷や若干の物産に過ぎず、沿岸の拠点地を通じて内陸部を支配する王国から購入すれば充分事足り、支配を広げるコストに見合う利益がアフリカには見当たらなかったためである。
しかし19世紀に入ると産業革命が進み、それに伴って奴隷貿易が禁止された。この結果、アフリカを奴隷や象牙などの珍品の供給地としてではなく、工業のための原料の供給地とし、さらに工業製品の市場として囲い込む植民地とするほうが経済的に見合うと判断されるようになり、列強は全面的な植民地支配を目指す政策へと大きく転換する。
当時のヨーロッパの人々は、奴隷貿易の廃絶を求めるなど、アフリカの人々に人間としての権利を認めるようになっていたが、しかし一方で、アフリカの人々はヨーロッパの人々より人種的・文明的に劣等であるという意識を強烈に持つようになっていた。こうした考えを抱いたヨーロッパの人々にとって、アフリカ現地の人々を支配下に組み込み、ヨーロッパ式の宗教、政治制度、言語、文化を「与える」ことは、未開な人々を文明化する行為である(altruism)とみなされ、植民地獲得は文明の名のもとに正当化された。
一連の分割競争の結果、領土的に広大な土地を獲得したのはフランスであったが、植民地から産出される鉱物などの質的な面で言えばイギリスに軍配が上げられる。
また、植民地化を逃れたのはアメリカの解放奴隷が1847年に建国したリベリア共和国、峻険な高地に拠り強固な軍事力をもってイタリアを排除したエチオピアの2ヶ国のみであった。
ヨーロッパ各国はこれらの植民地政策に対し、必要に応じて白人優越主義やダーウィニズムの論理を唱え、「自己発展の能力に欠けるアフリカの文明を開化させることは先進国の責務である」などといった自己中心的な正当性を主張した。
アフリカはこれら植民地政策の手から完全に逃れるには、一部の国を除き、およそ半世紀の月日を待たねばならなかった。
アフリカ諸国の独立運動

クアメ・エンクルマ ガーナの初代大統領 独立運動のリーダー 1957年アフリカ英国植民地では初の独立を果たす。
植民地化政策が活発に行われていた時期から、アルジェリアのアブド・アルカーディルの闘争やスーダンのマフディー派の闘争など、枚挙にいとまがないほどの抵抗運動が各地で行われたが、これらの抵抗運動は第二次世界大戦後は独立運動という形でさかんに叫ばれるようになった。
第二次世界大戦後まもなく、イギリスのマンチェスターで第5回パン・アフリカ会議が開催された。パン・アフリカ会議自体は戦間期より開催されていたが、これまでの会議が欧米のアフリカ系知識人主導であったのに対し、この会議ではアフリカ内部の民族運動家が加わり、パン・アフリカ主義が高揚した。とりわけ西アフリカでは、民族運動に直面したイギリス政府が、英領ゴールド・コーストなどで徐々にアフリカ人の権利拡大に応じていった。
北アフリカでは、1951年のリビア独立(旧イタリア植民地)を皮切りに、1956年にはモロッコ、チュニジア(旧フランス植民地)が独立した。しかし、フランスによる植民地化が最も早かったアルジェリアでは、多くのフランス系白人(コロン)が独立に反対し、1954年よりアルジェリア戦争が勃発した。アルジェリア戦争に苦慮したフランス本国では第四共和政が支持を失ってゆき、アルジェリア駐留のフランス軍による反乱を背景としてド・ゴールを指導者とした第五共和政が成立した。ド・ゴールは、多大な費用を要する植民地帝国の維持より、産業発展や核開発を通じたフランスの威信回復を重視したため、サハラ以南における旧フランス植民地独立の流れが生み出された。
1957年、英領ゴールド・コーストがクワメ・エンクルマのもとでガーナとして独立を果たすと、アフリカの独立運動は勢いづいた。フランス植民地では、第五共和国政府が「フランス共同体」のもとでの大幅な自治を認めたため、「隷属の下での豊かさより、自由のもとでの貧困(Nous préférons la liberté dans la pauvreté à la richesse dans l’esclavage)」として1958年独立に踏み切ったギニア以外はフランス共同体にとどまった。しかし、結局は1960年にあいついで独立し、ベルギー植民地であったコンゴでも数ヶ月の準備期間しかないうちに独立が果たされた。こうして1960年には17カ国が独立を果たし「アフリカの年」とも称された。1963年にはエチオピアのアディスアベバでアフリカ統一機構(OAU)が発足した。
全てのアフリカ諸国が平和裏に独立を獲得できたわけではない。中にはアルジェリアやアンゴラ、モザンビークのように、武力によって独立を獲得した国もあった。また、植民地だけでなく、1990年のナミビア、1993年のエリトリアのようにアフリカ独立国の支配から解放された国もある。
ヨーロッパ各国の植民地化政策を経た末の独立という経緯から、アフリカの大地はきわめて不自然な形で細分化され、その不自然な国境線のまま独立を余儀なくされた。このため、分断された民族や文化の異なる民族の国家的な統合という課題が各国に共通する緊急の題目として掲げられている。ザンビア共和国の初代大統領カウンダはこれらの現状に対し、「我々の目的は植民地主義者が作り上げた無様な加工品から真のネイション(近代的な民族国家)を創作することである」と述べている。
アフリカ諸国の独立運動の背景 独立できた要因

撮影年・場所不明 
アフリカが植民地にされていった19世紀ですと、人口で言うと宗主国(支配国)の方が多かったのですが、植民地では20世紀に一気に人口爆発してます。もともとアフリカ(に限らず未開発地域)では、子供が大量に生まれて、大量に病気で死んでいってたんですが、医療技術が普及してしまったので人口が急増しました。人口が増えれば、不満・反乱・独立運動をする人口の割合も増える事になります。少人数の反乱であれば警察で対応できますが、多人数になると軍隊が必要になります。軍隊は経費が掛かります。植民地経営での利益と経費のバランスが逆転することになります。
武器の拡散も大きな要因です。要するに弓矢対鉄砲の時代ですと、先進国の軍隊の方が圧倒的に強かったから植民地にできたわけです。第二次世界大戦後は、兵器が余ってきて、銃(しかも連発銃)が安価に世界中で入手できるようになり、これで少人数のアマチュアでもかなりの武力を発揮できるようになりました。もちろん正面切って戦えば先進国の軍隊の方が強いのは相変わらず(最悪、空軍だの戦車だのを投入できますから)ですが、威力のある武器が普及したので、ゲリラ戦での損害は大幅に増えました。
第二次世界大戦後の世界の盟主となった米ソはいずれも植民地に反対していました。アメリカ人は基本的に植民地が嫌いでした(商売の邪魔になるから)し、ソ連は独立運動に乗じて共産主義を広めてやれと考えていろいろな援助を行っていました。