更新日 2017年09月22日
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植民地の歴史
アメリカ大陸に、大航海時代が始まる前に住んでいた先住民

「 南北アメリカの先住民 」の総覧肖像画(1904年)作者不明

1. Aleut  2.?  3.4. Inuit (woman and man)  5. Harry Potter  6. Crow Indian  7. Blackfeet  8. en:Ojibwa  9.?  10.?  11. Shoshone  12. Dakota Sioux  13.?  14. Mandan  15. Apache  16. Pueblo  17. Mexican Indian  18.?  19. Omaguas  20. 21. Botocudo (man and woman)  22. 23. Ticuna (man and woman)  24.25. Peruvian from Cerro de Pasco  26.?  27.?  28.?  29. Moxos people  30.?  31. Patagonian  32. Mapuche 33. Fuegians
アメリカ大陸の原住民は、かつて氷期の終わり頃(約1万2500年前)アジア大陸からベーリング海峡(当時陸橋があった)を経て北アメリカへ渡った。彼らはニューメキシコ州、コロラド州、南アメリカのチチカカ湖盆地、中央アンデスを中心に狩猟採集・植物採集を行い、やがて独自に農耕文化を開始した。
メキシコではトウモロコシ、チチカカ湖盆地でジャガイモを作物化し、各地でインゲンマメ、カボチャ、トウガラシ、トマト、サツマイモ、タバコなどが作物化された。中央アンデスではリャマやアルパカなどのラクダ科動物が家畜化された。
ヨーロッパ人がアメリカ大陸に上陸したとき、南北アメリカ先住民の社会は、狩猟採集民の部族や焼畑移動農耕民の部族が多かったが、メソアメリカのアステカ帝国や中央アンデスのインカ帝国など高度に発達した国家もあった。
メソアメリカでは、紀元前1200年頃メキシコ湾岸に生まれたオルメカ文化、150年頃メキシコ中央高地にテオティワカン文化、600~900年頃ユカタン半島のマヤ文化、やがて1428年中央高地にテオティワカン文化を継承したアステカが全メソアメリカに覇を唱えた。中央アンデスでは、チャビン(紀元前1000~200年頃)、ワリ(600~10c頃)、インカ(15c半ば)が覇を唱えた。
16世紀のヨーロッパ人やアジア人は既に、牛、豚、羊、山羊、馬および様々な家禽といった家畜を飼い、住まいもそれらと近接しているという状態が長く続いていたが、アメリカ大陸ではそうではなかった。
1492年以降ヨーロッパ人が大挙してアメリカ大陸に押し寄せ、先住民族と接触するにつれて、先住民が経験したことのない、従って免疫性のない病原菌を持ち込むことになった。
  • 天然痘(1518年、1521年、1525年、1558年、1589年)
  • チフス(1546年)
  • インフルエンザ(1558年)
  • ジフテリア(1614年)
  • はしか(1618年)
といった疫病の大流行があり、先住民族人口のうち、1千万人ないし1億1200万人、95%ないし98%は減少したと考えられている。(減少数と割合には、数多くの説がある。それらの説の最小数と最大数と考えてください。)
この人口の減少に続いて文化的な混乱と政治的な崩壊が起こり、ヨーロッパ人による既存文明の征服と土地の植民地化が容易になったとされている。
コロンブスが到着した当時のアメリカ大陸推計人口についてはばらつきが大きく定説がない。この人口に関する議論はしばしば思想的基盤があった。コロンブス以前の先住民族人口が多かったとする当時の推計は、西洋文明とキリスト教の見方に対する偏見で決められたと論ずる者がいる。ロバート・ロイアルは「コロンブス以前の人口推計値は、特にヨーロッパに対して批判的な学者の政治的色彩を帯びたものであり、しばしば大きな数値を採用した」と書いている。コロンブス以前のアメリカ大陸では文明の興亡があり、1492年時点での先住民族人口は必ずしもそのピークではなく、既に減少し始めていた可能性もある。アメリカ大陸の先住民族人口は20世紀初頭までにその最低値まで減少し、それ以降、多くの地域では増加傾向になってきた。
1492年 コロンブス アメリカ大陸を発見

コロンブスが行った4回の航海
1492年4月17日、グラナダ郊外のサンタ・フェにて、コロンブスはスペイン王室と「サンタフェ契約」を締結した。
その内容は、
  • コロンブスは発見された土地の終身提督(アルーランテ)となり、この地位は相続される。
  • コロンブスは発見された土地の副王(ピリレイ)及び総督(ゴベルナドール・ヘネラール)の任に就く。
  • 各地の統治者は3名の候補をコロンブスが推挙し、この中から選ばれる。
  • 提督領から得られたすべての純益のうち10%はコロンブスの取り分とする。
  • 提督領から得られた物品の交易において生じた紛争は、コロンブスが裁判権を持つ。
  • コロンブスが今後行う航海にて、費用の1/8をコロンブスが負担する場合、利益の1/8をコロンブスの取り分とする。
というものだった。
航海の経費は、支援者から140万マラベディ、アラゴン王国の国庫から35万マラベディ、コロンブス自身で25万マラベディを調達した。
1492年8月3日、大西洋をインド(インディア)を目指してパロス港を出航した。この時の編成はキャラベル船のニーニャ号とピンタ号、ナオ船のサンタ・マリア号の3隻で総乗組員数は約90人(120人という説も)。
1492年10月11日、ピンタ号の水夫が陸地を発見した。翌朝、コロンブスはその島に上陸し、ここを占領してサン・サルバドル島(西インド諸島の一部)と名づける。
最初に上陸した島でコロンブス一行は、アラワク族インディアン達から歓待を受ける。アラワク族は船から上がったコロンブス達に水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものを持ってきた。
コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換した。
しかし、コロンブスの興味は黄金にしかなかった。彼はこう書き残している 。
「私がインディアに到着するとすぐに、私が見つけた最初の島で、彼ら原住民(アラワク族インディアン)たちに、私に差し出さなければならないものがこの品々の中にあるのかどうか教え込むために、私は力ずくで原住民の何人かを連行した。」
「彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の男達と共に、私は彼らすべてを征服し、思うままに何でもさせることができた。」
「原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは『みんなのものだよ』と申し出るのだ。彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。
彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。我々の言葉と神を教え込むために、私は原住民を6人ばかり連行した。」
コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在のキューバ島を発見。
その後、サンタ・マリア号が座礁する。39人を残し入植者する。1493年3月15日にパロス港へ帰還した。
帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。コロンブスは航海前に交わしていた「サンタフェ契約」に従い、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う。これにより、コロンブスはインディアンから強奪した金銀宝石、真珠などの戦利品の10分の1を手に入れた。また陸地を発見した者には賞金が王夫婦から与えられるとされていたのだが、コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、部下の賞金まで横取りした。
国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたコロンブスは、次の航海目標としてこう述べている。
「彼らが必要とするだけのありったけの黄金… 彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ。」
コロンブスが行った、インディアンの大虐殺
1493年の9月に17隻・1500人で出発したコロンブスの2度目の航海はその乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月にドミニカ島と名付けた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるインディアンにより破壊されており、残した人間は全て殺されていた。コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。しかし白人入植者の間では植民地での生活に不満の声が上り、周辺諸島ではアラワク族、タイノ族、ルカヤン族、カリブ族などのインディアンの間で白人の行為に対して怒りが重積していた。
これに対し、コロンブスの率いるスペイン軍はインディアンに対して徹底的な虐殺弾圧を行った。行く先々の島々で、コロンブスの軍隊は、海岸部で無差別殺戮を繰り返した。まるでスポーツのように、動物も鳥もインディアンも、彼らは見つけたすべてを略奪し破壊した。
コロンブスがイスパニョーラ島でしばらく病に臥せると、コロンブスの軍勢は凶暴性を増し、窃盗、殺人、強姦、放火、拷問を駆使して、インディアンたちに黄金の在処を白状させようとした。インディアンたちは、ゲリラ作戦でコロンブスに報復を試みたが、スペイン軍の軍事力と彼らがばら撒く疫病はインディアンの想像をはるかに超えていた。最終的に彼らは最善の策は「逃亡」であると決めた。 置き去りにされた作物は腐るにまかされ、やがてインディアンたちを飢餓が襲ったのだった。コロンブスが何カ月もの間病いに臥せっている間、コロンブスの軍勢はやりたい放題の大虐殺を続けた。
コロンブスが快復するまでに、5万人以上のインディアンの死が報告されている。やがて完全復帰したコロンブスの最初の仕事は、彼の軍勢に対し、略奪を組織化することだった。
1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。再び殺戮の船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病いに倒れ、非武装だったインディアンの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃戦略は、以後10年間、スペイン人が繰り返した殺戮モデルとなった
コロンブスと同行した、キリスト教宣教師のバルトロメ・デ・ラス・カサスの日記
「一人でもインディアンが森にいたら、すぐに一隊を編成し、それを追いました。スペイン人が彼らを見つけたときはいつも、柵囲いのなかの羊のように、情け容赦なく彼らを虐殺しました。
『残虐である』ということは、スペイン人にとって当たり前の規則であって、それは『単に残虐なだけ』なのです。
しかしそのように途方もなく残虐な、とにかく苛烈な取り扱いは、インディアンに対しては、自分たちを人間だとか、その一部だなどと金輪際思わせないよう、それを防ぐ方法になるでしょう。」
「そういうわけで、彼らはインディアンたちの手を切り落として、それが皮一枚でぶらぶらしているままにするでしょう。
そして、『ほら行け、そして酋長に報告して来い』と言って送り返すのです。 彼らは刀の切れ味と男ぶりを試すため、捕虜のインディアンの首を斬り落とし、または胴体を真っ二つに切断し、賭けの場としました。
彼らは、捕えた酋長を火炙りにしたり、絞首刑にしました。」
コロンブスは、イスパニョーラ島のインディアン部族の指導者と睨んでいた一人の酋長を殺さずに、引き回しの刑と投獄のあと、鎖に繋いで船に乗せ、スペインへ連行しようとした。しかし他のインディアンたちと同様に、この男性はセビリアに着く前に船中で死んでいる。
1498年 バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見

バスコ・ダ・ガマのインドへの航路
1497年7月8日 ヴァスコ・ダ・ガマ(1460ー1524年)は、国王マヌエルの命令により4隻の帆船(横帆式の旗艦サン・ガブリエル、同じくサン・ラファエル、第三角帆式カラベル船ベリオ、大型補給船一隻)でリスボア(リスボン)のテージョ河口からインドへ向け出帆した。マヌエル王(1495-1521年)(金持王)から、以下のように命令された。
プレスター・ジョンの王国を見つけ友好関係を築くこと、次にインドのカレクト王国にゆき、ポルトガル国王の親書を渡し友好関係を築くことであった。
1497年11月22日、彼はケイプターン(喜望峰)を回りさらに進んだ。途中の寄港地モンパサでは、100人ほどの武装集団に攻撃された。それら苦労ののち、1498年5月20日に艦隊はインドのカルカッタ沖に投錨した。この頃のインド半島下部の支配者はヒンズー帝国で、この地の藩主のひとりにカリカットのサムリがいた。ガマは彼と会見した
会見は最初の頃は友好的であったが、サムリへの贈り物が不満足なために、徐々に険悪な雰囲気になった。双方の意志の疎通 を欠いたために「東西文化交流」は、武力による威嚇と詭弁とともに始まった。このことは東方の諸国にとって大変悲惨なことであり、これが武力による征服への始まりとなった
ガマは、回教徒商人が貿易を握っている限り、通商はうまくいかないと感じた、3カ月間の滞在ののち、その地で香辛料を積み込み帰国のため出航した。出発の時170名ほどであったが、すでに60名ほどが死亡、残りも健康状態は悪いものばかりであった。 帰国の途中、乗組員の不足のためにサン・ラファエル号を廃棄して帰国した。
1499年、故国リスボアに到着した。 彼が持ち帰った香辛料とインドの情報は、ポルトガル国内を興奮の渦に巻き込んだ。特にガマのもたらした情報に寄れば、香料貿易を独占するには回教徒商人を追い出すことが必要である。このためポルトガルは平和的な交易より、確実な武力による征服をめざしたのである。
このガマの成功は、ヴェネツアやエジプトには衝撃を持って迎えられ、「いままでの最悪の知らせ」と受け取られた。これ以後、香辛料の覇権はポルトガルに移るのである。
1521年 スペイン人のコルテスがアステカ帝国を征服する

アステカ帝国の地図 15世紀前半に成立し、1521年に滅亡した。
新大陸発見といっても最初はカリブ海が中心で、1515年頃キューバに植民していたスペイン人達により、大陸内部への探検が始まります。その中でメキシコに住むマヤ族を発見。彼らはカリブ海の人達と違い、裸ではなく木綿の服を着て、筋の首飾りをしていました。それには「金」が使われていたのです。ここには金があるのか、とさらに探る内に見つけたのが、大国アステカ王国です。
アステカ帝国は、メソアメリカ最初で最後の帝国である。アステカの首都テノチティトランは、歴史上、最も壮麗な都市として知られている。ここを訪れたスペイン人が、「訪れた都市の中ではテノチティトランが一番素晴らしい」と証言した記録が多く残っている。中には、ヴェネツィアやコンスタンティノポリスを訪れた者も記録も残っている。だが、スペイン人により破壊されて跡形もなくなっている。
帝都テノチティトランは、テスココ湖の孤島に築かれ、島と陸地は3本の道路で結ばれていた。町中には無数の水路がはりめぐらされ、町のどこへでもカヌーで行くことができたという。全盛期の人口は20万~30万人で、この時代、世界有数のメトロポリスである。
アステカの大人口を支えたのは「チナンパ農法」だ。農地が湖上に浮かぶ奇抜な見てくれで、まるで、ひょっこりひょうたん島。ところが、生産性は現代の化学肥料農法に匹敵する。養分豊富な湖底の土をもるので、土地が枯れることもない。この浮かぶ農地で、主食のトウモロコシをはじめ、イモ、豆が大量に生産され、アステカ人の食料をささえた。商取引は物々交換だったが、一部、カカオ豆が貨幣代わりに使われたという。
アステカ帝国は、オルメカやテオティワカンにくらべ、軍事色の強い国家だった。道路網を整備し、軍団を各地に派遣し、戦争をふっかけたのである。かつてのローマ帝国のように。結果、16世紀初頭にはメキシコ中央高原最大の勢力にのしあがった。支配地は大平洋沿岸にまでおよんだという。もっとも、アステカの戦争の動機は、領地拡大というより、「捕虜」の確保にあった。捕虜は生け贄にするためで有った。
1519年、モクテスマ2世の治下、アステカ帝国の人口は2000万人に達した。おそらく、この時代、世界屈指の大帝国である。また、帝都テノチティトランは政治だけでなく、宗教と商業の中心でもあった。階段が114段もあるピラミッドの元で、市場(いちば)が開かれ、毎日数千人が集まったという。
ところが、1521年8月、アステカ帝国は突然歴史から消える。スペインの征服者エルナン コルテスに征服されたのである。通説によれば、スペイン軍は、兵士600人、馬16頭、大砲10門、火縄銃13丁で、2万のアステカ軍を殲滅した ・・・ だが、これは半分真実で、半分はウソ。たしかに、コルテスが出発したときは600人だったが、帝都テノチティトランの最終決戦では、先住部族数万を味方につけていたからだ。
アステカのラストエンペラー・クアウテモク王が捕らえられ、帝国が滅ぶと、凄惨な破壊が始まった。スペイン人は、金銀財宝を略奪しつくすと、つぎに、帝都テノチティトランを徹底的に破壊した。あげく、テスココ湖もろとも埋め立てたのである。じつは、その上に建設されたのが、現在のメキシコシティ。だから、メキシコシティの一番の地下資源は、考古学遺跡。
スペイン人は、旧大陸からささいな疫病を持ち込んだが、先住民には致命的だった。アメリカ新大陸は、旧大陸からみれば地域的に長い間孤立していた。旧大陸の疫病は、先住民に全く免疫がなかったのだ。免疫がなければ、たとえ「はしか」でも致命傷になる。実際、先住民の人口は1100万人から100万人に激減した。ほぼ壊滅である。こうして、アステカ帝国は地上から跡形もなく消え去った。
1522年 マゼランが率いたスペインの艦隊が史上初の世界一周

1519年~1522年 マゼラン艦隊の航路
マゼランはヨーロッパから東洋の香料諸島(モルッカ諸島)への西回りでの渡航ルート発見を目指して旅立ったポルトガル人航海者である。
1519年スペイン王の信任を得てスペイン船5隻の艦隊を率いてスペイン・セビリアを出発したマゼランは南アメリカ大陸南端のマゼラン海峡を発見して太平洋に到達し、マゼランは途中1521年フィリピンで戦死したが、残された艦隊が1522年に史上初めての世界一周を達成した。
マゼラン自身は世界一周を成し遂げてはいないものの、人類初の世界一周航海(周航)を達成した艦隊は「マゼランの艦隊」として後世に名を残している。マゼラン海峡のほかマゼラン星雲、マゼランペンギン、宇宙探査機マゼランなど多くの物が航海者マゼランの名にちなんで名付けられ、また南米パタゴニアや太平洋の名はマゼランが名付けたとされる。
マゼランの功績は太平洋の広大さの発見により地球の真の大きさを示し、世界の地誌の確立に大きく貢献したことである。
有能な商人であるアロが、マゼランが艦隊の指揮を執ることに決まり、資金調達に奔走する。結局は艦隊の費用の大半をアロとアロが代理を務めるフガー商会が出したと言われる。東洋交易に通じ、商務に長けたアロは船そのものの調達や艤装、艦隊の装備品、武器、食料、交易品などの調達をすべて指揮したと言われる。
マゼランとアロが用意した船と装備品・物品のリストは明細で現在に残っている。
艦隊は旗艦トリニダード号(110トン)以下、サン・アントニオ号(120トン)、コンセプシオン号(90トン)、ビクトリア号(85トン)、サンティアゴ号(74トン)の5隻に人員は約270人、食料はたっぷり2年分を用意し、主食である航海用ビスケット(堅パン)は21万3800ポンド(約100トン)、塩漬牛肉7万2000ポンド(30トン強)、塩漬豚肉5万7000ポンド(約25トン)、エジプト豆1万80ポンド(5トン弱)、ほか塩漬魚、アンチョビ、干し豆、干しぶどう、干しイチジク、米、蜂蜜、ナッツなど。ワインも船員1人に一日に1パイントの割り当てで2年分の用意をしている。香料との交易品としては銅2万ポンド(10トン弱)、水銀2100ポンド(約1トン)、ドイツ製の小刀4800本、鏡1000個、鋏600個、櫛1500個、鈴1800個、水晶500ポンド、銅や真鍮の腕輪挿み4000個、釣り針1万本、色布1万束など。
これらの選択は東洋の事情に通じたマゼランとアロの経験に基づいたものであり、東洋でとりわけ喜ばれるものであった。武器も大掛かりに積んでいる。5隻の大砲が合計で71門、火縄銃50挺、槍1000本、兜と甲冑100組、それぞれに360本の矢をつけた大弓60張などである。
1697年 マヤ圏全域がスペイン領に併合。

マヤ文明
マヤ人の祖先は、紀元前2万~8000年に、シベリアの狩猟採集民がベーリング海峡をへて、ユカタン半島にたどり着いた。そして、紀元前8000年~紀元前2000年には、ユカタン半島で定住がはじまったという。また、この頃、野生のトウモロコシが栽培化されている。
紀元前1500年頃、ユカタン半島で焼畑農業がはじまった。その後、紀元前300年頃に、都市が建設され、2世紀には、文字や暦が作られた。そして、250年~900年の古典期には、大規模な建造物がつくられ、マヤ文明は絶頂期をむかえる。ところが、900年頃、突然、南部の諸都市が放棄される(北部は16世紀まで存続)。「理由が今も不明」を含め、メソアメリカ文明のスタンダードな最期ではある。
マヤ文明の特徴として、以下のような点が挙げられる。
  • 青銅器や鉄器などの金属器を持たず、高度な石器を多用した
  • 戦争での主力兵器は棍棒だった
  • 戦争で勝っても敵は皆殺しにせず、解放して従わせることが多かった
  • 古い建築物の上にまた新しい建築物を建てるという特殊な建築手法を行っていた
  • 車輪の原理は、土偶などの遺物に出てくるにもかかわらず、実用化しようと考えていなかった。一説には発明によって変化する精神文化への配慮があったともされる
  • 牛や馬を飼育しなかった。そのため物資の運搬は常に人力だった
  • とうもろこしの栽培のほかにラモンの木の実などが主食だった
  • 焼畑(ミルパ)農法や段々畑・湿地で農業を行った
  • 数学を発達させた(二十進法を用い、零の概念を発明した)
  • 文字種が4万種に及ぶマヤ文字を使用していた。数字は、点(・)を1、横棒(-)を5として表現したり、独特な象形文字で表現された
  • 持ち送り式アーチ工法など高度な建築技術を持っていた
  • 極めて正確な暦を持っていた(火星や金星の軌道も計算していた)
  • 多くの文明は河川の水の恵みにより発展してきたが、マヤ文明はセノーテとよばれる天然の泉により発展した
統一国家を樹立することなく、各地の都市国家が合従連衡と興亡を繰り返し、16世紀、スペイン人の侵入を迎えた。1697年最も遅くまで自立を保っていたタヤサルが陥落、マヤ圏全域がスペイン領に併合された。
1822年 ブラジルの独立
ナポレオン戦争により、1807年にジュノー元帥に率いられたフランス軍がポルトガルに侵攻した。このためポルトガル宮廷はリスボンからリオデジャネイロに遷都し、以降リオの開発が進んだ。
1815年にリオデジャネイロはポルトガル・ブラジル及びアルガルヴェ連合王国の首都に定められた。ポルトガル政府はバンダ・オリエンタル・ド・ウルグアイのホセ・アルティーガス率いる連邦同盟との戦いを進めてバンダ・オリエンタルを支配下に置き、征服した地域にシスプラチナ州を設立した。
1820年ポルトガルを自由主義的な立憲君主制国家に変革しようとする革命が起こり、リオデジャネイロのジョアン6世に帰国を要請し、1821年にポルトガル宮廷はリスボンに帰還した。
一方、摂政として残留したブラガンサ家の王太子ペードロがジョゼー・ボニファシオ(英語版)に代表されるブラジル人ブルジョワジー勢力に支持され、1822年2月18日にブラジル独立戦争(ポルトガル語版)が勃発した。1822年9月7日に「イピランガの叫び」と呼ばれる独立宣言が行なわれ、ペードロが初代皇帝ペードロ1世(在位1823-1831)として即位し、ブラジル帝国はポルトガルから独立した。