更新日 2014年08月17日
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1955年 アジア・アフリカ会議 (バンドン会議)
1955年 アジア・アフリカ会議 (バンドン会議)
第二次世界大戦後、アジアは、植民地支配や日本の軍事占領から解放され、独立や新しい国家の樹立があいつぎました。一九四五年九月にはベトナムが独立を宣言。四八年に朝鮮半島では南に大韓民国が、北に朝鮮民主主義人民共和国がつくられ、四九年には中華人民共和国が成立しました。
アジア・アフリカ会議 (バンドン会議)の背景
第二次世界大戦後に社会主義になった国(アジア・アフリカ会議まで)
第二次世界大戦が終わってから社会主義国家になった国
  • 1945年 アルバニア社会主義人民共和国
  • 1945年 ベトナム民主共和国
  • 1945年 ポーランド人民共和国
  • 1946年 ブルガリア人民共和国
  • 1947年 ルーマニア人民共和国
  • 1948年 チェコスロバキア共和国
  • 1949年 ドイツ民主共和国
  • 1949年 ハンガリー人民共和国
  • 1948年 朝鮮民主主義人民共和国
  • 1949年 中華人民共和国
第二次世界大戦後、多くの社会主義国が誕生した。
東欧では、多くの国々がソ連により「解放」された結果として社会主義国(衛星国)となり、ソ連を盟主とする軍事同盟のワルシャワ条約機構に加盟した(東ドイツ、ポーランド、チェコスロバキア、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、アルバニア)。
第二次世界大戦後 戦争・紛争・内乱が起きた国(アジア・アフリカ会議まで)
第二次世界大戦が終わってから戦争・紛争・内乱を起こした国
  • 1946年~54年 第一次インドシナ戦争(フランスが再度植民地化・北ベトナムの社会主義化)
  • 1946年~96年 中国での国共内戦(台湾海峡危機を含む)
  • 1950年~53年 朝鮮戦争(代理戦争)
第二次世界大戦の終戦ですべての戦争が終わった訳ではない。
第二次世界大戦が始まる前には、アジアで独立していた国は日本とタイだけで、それ以外は殆ど列強の植民地となっていた。日本は大戦でそれらの植民地の宗主国であったアメリカ・イギリス・フランス・オランダと戦い、植民地の宗主国を追い出してしまった。日本は、それらの国々を戦時中の占領地として占領をしたまま大戦を戦っていた。
列強の植民地であった地域と民族は、以前とは違い無抵抗で支配し続けられるのではなく、『自主独立』を強く望むようになっていた。大戦前の宗主国が再度植民地にしようと軍隊を送ってきても、反抗し戦い独立を勝ち取っていくことになる。
反植民地の民族運動は『自主独立』を目指すが、帝国主義(資本主義)への反抗心から社会主義的な傾向を持った指導者が出てくるケースが多かった。また民衆からの指示も得やすかった。
  • ホーチミン ( ベトナム民主共和国 )
  • 金日成 ( 朝鮮民主主義人民共和国 )
  • 毛沢東 ( 中華人民共和国 )
東西冷戦で対立で作られたグループ(陣営)
冷戦期の1950年代、アジアではインドシナ戦争、朝鮮戦争など、アメリカとロシアの対立が元となった戦争が各地で起きている。
またこうした対立に伴い、米ソは、自分たちの協力国を中心に次のような東西陣営を作り上げてきた。
西側 [ 自由主義陣営 ]
  • 1949年 北大西洋条約機構(NATO)
  • 1951年 太平洋安全保障条約(ANZUS)
  • 1951年 日米安全保障条約
  • 1952年 アメリカが水爆実験に成功
  • 1954年 東南アジア条約機構(SEATO)
  • 1955年 バグダート条約機構(METO)
東側 [ 共産主義陣営 ]
  • 1949年 コメコン(東欧経済相互援助会議)
  • 1950年 中ソ友好同盟相互援助条約
  • 1953年 ソ連が水爆実験に成功
  • 1955年 ワルシャワ条約機構
東西の対立に属さない第三世界を目指す国々
第三世界 [ 東西両陣営どちらにも属さない国々 ]
  • 1954年4月 コロンボ会議(コロンボ・グループがバンドン会議開催に尽力)
  • 1954年6月 周=ネルー共同宣言(平和五原則)
  • 1955年4月 アジア=アフリカ会議(バンドン会議)
1954年、インド・インドネシア・セイロン・パキスタン・ビルマの5カ国の首脳がセイロン(現スリランカ)のコロンボに集まり、インドシナ戦争の休戦・水爆実験禁止・民族自決・中国の国連加盟支持などを決め、その後アジアとアフリカが中心となる国際会議を開くことを構想します。
コロンボ会議 1954年4月28日~5月2日
1954年にスリランカのコロンボで開催された国際会議。この会議に参加した5国は「コロンボ・グループ」を結成、翌1955年のアジア・アフリカ会議(バンドン会議)の開催に尽力した。
第二次世界大戦後、それまで植民地支配を受けていた東南アジア、南アジアの国々が独立を果たした。しかし、その過程ではインドネシアのように宗主国との戦争を伴う場合もあり、またベトナムのように、宗主国の思惑と冷戦構造の波及からインドシナ戦争へと至る場合もあった。
1954年にディエンビエンフーでフランス軍が大敗したことで第一次インドシナ戦争は終結へと向かうが、その停戦交渉は大国主導のジュネーヴ会議で進められ、アジア新興国家群に発言の余地はなかった。こうした状況に反発した東南アジア・南アジア諸国は結束し、インド、スリランカ、インドネシア、パキスタン、ビルマによって独自の会議を開催することになった。
1954年4月28日から5月2日まで、スリランカのコロンボで開催された。この会談において、以下のような内容が示された。
  • 第一次インドシナ戦争の早期停止
  • ベトナム、カンボジア、ラオスの完全独立を支持
  • 植民地主義の反対、大国による政治干渉の排除
  • 中華人民共和国の承認(当時、国際連合は承認せず)
  • モロッコ、チュニジアの独立を支持
  • 原爆・水爆の禁止
この会議は、戦後独立した新興国による会談のさきがけとなるものであり、ジュネーヴでの休戦交渉に与えた影響も大きかった。
この会談後、5国は「コロンボ・グループ」を結成、インドネシアのサストロアミジョヨ首相が、バンドン会議の開催を提唱した。

1954年 コロンボ会議
インド、スリランカ、インドネシア、パキスタン、ビルマ
http://historypak.com/colombo-conference-1954/

左から右へ
サー·ジョン·Kotelawala(セイロン)
UのNu(ビルマ)
アリSastroamidjojo(インドネシア)
モハメド·アリ(パキスタン)
ジャワハルラル·ネルー(インド)
周=ネルー共同宣言(平和五原則) 1954年6月28日
平和五原則とは、中国の周恩来首相とインドのネルー首相の会談に基づき1954年に合意された、一般の国際関係における原則を内容とする文書。
  • 領土・主権の相互尊重
  • 相互不可侵
  • 相互内政不干渉
  • 平等互恵
  • 平和共存
もともとは、1954年4月に中国・インド間で締結された「中華人民共和国とインド共和国の中国チベット地方とインド間の通商・交通に関する協定」の前文に記されたものであったが、同年6月、周首相のインド訪問の際、両国の共同声明の形で再確認され、さらに一般国際関係にも適用されるべきもの、として宣言された。
1954年6月28に周恩来首相はインドを訪れてネルー首相と会談をしているが、ジュネーブ会議に出席している周恩来首相が会議の途中でインドを訪れている。ジュネーブ会議は87日間の長期間行われていた。
中国とインドの第三世界としての連帯は、1950年代末になるとチベット、ダライ・ラマ14世亡命問題などをめぐって悪化し、1959年から中印国境紛争に突入した。
1962年10月に中印国境紛争という戦争状態に入ってしまった。ネルーはこのとき、アメリカの支援を要請したので、非同盟主義の旗印も色あせてしまった。

1954年6月28日 ニューデリー 周恩来首相 ジャワハルラール・ネルー 首相
ジュネーヴ会議 1954年4月26日~7月21日
スイスのジュネーブ会議で開催された、朝鮮問題・インドシナ問題に関する国際会議。アメリカ・ソ連・イギリス・フランスの4大国とインド・中華人民共和国などアジア諸国の18ヵ国が参加して開催された。
議題の一つであった朝鮮問題では決裂したが、インドシナ戦争に関しては停戦協定であるジュネーヴ休戦協定が成立するという大きな成果をもたらし、東西冷戦の緊張緩和に貢献した。
朝鮮の統一については北朝鮮が外国軍の撤退を、韓国が戦後処理での国連の関与を主張して譲らず決裂した。
インドシナ戦争に関しては、会議中の5月にディエンビエンフーの戦いでフランスが大敗し、フランス(代表マンデス=フランス)が折れて、7月21日ジュネーヴ休戦協定が成立した。しかしアメリカは協定に署名しなかった。
第二次世界大戦の戦後に開催された最初の大規模な国際会議であり、インドシナ戦争の休戦協定を成立させ、アジアに一応の平和をもたらした。
中華人民共和国が初めて国際会議に出席、代表の周恩来はインドのネルーとともに第三世界の代表として重要な役割を果たした。両者は「平和五原則」で一致し、翌年のバンドン会議(アジア・アフリカ会議)につながることとなる。
また第三勢力の台頭に対抗するため、米英仏ソの4大国は同じく翌年、同じジュネーヴで戦後初の4ヵ国首脳会談を開催することとなる。

1954年7月20日 ジュネーヴ会議の最終会議 ジュネーブ協定が議題で、インドシナ戦争の停戦か決められた。
アメリカ・イギリス・フランス・ソ連・中国・ベトナム(ホー・チ・ミン政権・バオ・ダイ政権)・ラオス・カンボジアの9カ国が参加
事務局はテーブルの配置や席決めに苦労し、円卓・四角で1か月位揉めていた。
ベトナムの統一に関しては、最終宣言で、「ベトナムの住民による自由な総選挙で決定される。総選挙は国際監視委員会の管理下で1956年7月に実施される」ことが約束された。
しかし、アメリカは最終宣言への参加を拒否し、ベトナム国(南ベトナム)は休戦協定にも反対した。このため、この休戦協定は実質的には拘束力を持たないことになった。また、2年後に約束された統一のための選挙も実施されなかった。
ジュネーヴ4巨頭会談 1955年7月18日~23日
第二次世界大戦後最初のアメリカ・ソ連・イギリス・フランスの4ヵ国巨頭会談で、具体的な成果はなかったが東西冷戦の中での平和共存をさぐる一歩となった。
  • アメリカ  アイゼンハウアー大統領とダレス国務長官
  • ソ連    ブルガーニン首相とフルシチョフ共産党第一書記・モロトフ外相
  • イギリス  イーデン首相とマクミラン外相
  • フランス  フォール首相とピネー外相
第二次世界大戦後最初の4大国首脳会談となったジュネーブ会談は、その年4月にインドネシアのバンドンで、アジア・アフリカ会議(バンドン会議)が開催されたことが背景にあった。
これは米ソ二大国の対立という国際政治の枠組みに対して、旧植民地が次々と独立し、第三世界として異議申し立てを行い、結束したことを意味している。
アメリカもソ連もその動きを無視することが出来ず、平和共存に踏み込まざるを得なくなった。
アジアアフリカの第三勢力が、米ソを平和共存に向かわせたと言える。

1955年7月18日~23日 スイスのジュネーヴ 4巨頭会談 左から
ソ連:ブルガーニン首相
アメリカ:アイゼンハウアー大統領
フランス:フォール首相
イギリス:イーデン首相
アジア・アフリカ会議 (バンドン会議) 1955年4月18日~24日

1955年 アジア・アフリカ会議(バンドン会議)インドネシア スカルノ大統領のスピーチ

1955年4月18日~24日 アジア・アフリカ会議 (バンドン会議)
アジア・アフリカの29カ国の代表がインドネシアのバンドンで第1回アジア・アフリカ会議を開きました。インドネシアのスカルノ大統領が開幕のことばをのべています。
正面は参加国の国旗 中央左に日本の国旗が見える。

1955年 アジア・アフリカ会議 (バンドン会議)
左側:インドネシア代表 モハマッド・ハッタ初代副大統領
中央:インド代表 ジャワハルラール・ネール初代首相
右側:ギニア代表 

1955年4月18日~24日 アジア・アフリカ会議 (バンドン会議)
左側:イラク代表 中央:日本代表の一員 氏名不詳
http://www.sukarnoyears.com/305aa.htm
アジア・アフリカ会議に対する 『アメリカ』 の思惑
戦後アジアには多くの新興独立国が生まれ、それらの国々を代表する大国として中国とインドが大きな存在感を表し始めていた。
中国とインドは「平和五原則」の下で枢軸関係、盟友関係を築き、そこには共産主義と民族主義とが手を握って戦後アジアを形作るという大きなう存在感を示すようになっていた。
そうした中で、第二次世界大戦後に戦勝国として国連常任理事国に選ばれていた中華民国(台湾)の参加を認めず、東西陣営には属さない第三世界陣営の主導権を握ろうとする中国に対し、非常に強い危機感を持つようなった。
冷戦政策を進めるアメリカはそうした動きを非常に警戒するよう成って行く。そこでアメリカはフィリピンやトルコ等自由主義陣営の同盟国にバンドン会議に積極的に参加し、中国・インド主導の平和攻勢を防ぐよう求めました。
日本に対しても、反共陣営の一員としてしっかりとした働きをするようにとのアメリカからの圧力があった。
アジア・アフリカ会議に対する 『インド』 の思惑
ネルー首相は『非同盟主義』を掲げ、第2次世界大戦後の米ソ両陣営の冷戦に対し、そのいずれの陣営にも加わらず、積極的中立を守り、第三勢力を形作って米ソに圧力をかけ、平和を実現しようとしていた。
1948年にインドは東西いずれの軍事ブロックにも加わらないという非同盟政策をはじめて演説した。
ネルー首相は1954年に南アジア諸国に呼びかけてコロンボ会議を開催し成功に導いた。東南アジア条約機構(アメリカ中心の反共主義諸国の軍事同盟)の結成には反対を主張した。
1955年のアジアアフリカ会議に第三世界の29ヵ国を集め、反植民地・反侵略戦争訴えて会議の成功に導いた。
インドは敗戦直後の日本には温かい目線を送っていたともいえる。1951年のサンフランシスコ講和会議にインドは署名しなかった。中立主義の原則に立ち、「日本に駐留する米軍が引き上げるならば署名する」という条件を出し、米国を驚愕させた。だがその翌年、日本との単独講和に応じてくれた。これが日本のアジア復帰には重い意味をもったのだが、一方でインドは、米国との同盟に傾斜していく日本への失望を抱いていった。「アジアに冷戦構造を持ち込ませたくない」というのが中立主義を主導するネルーのメッセージであった。
アジア・アフリカ会議に対する 『中国』 の思惑
1949年の中華人民共和国発足以来「アジアの植民地解放のための武力闘争」を支援してきた中国が対話路線に転換し、1954年周恩来とネルーの間で「平和五原則」(領土主権の尊重、相互不可侵、相互内政不干渉、平等互恵、平和共存)を確認しあった。
アジアアフリカ会議に参加した29ヵ国の内いくつかの国の反共産主義の演説を行ったも、反発を見せず大人(たいじん)として終始会議を円滑にするように振舞っていた
バンドン会議が重要なのは、まず、中国が共産中国になってから初めて国際社会に周恩来が登場してきて存在感を示し始める最初の会議で、世界史的には非常に大きな意味をもっていたからです。
1971年に国連で台湾が追放されて、中華人民共和国が中国の正当な政府だという形になるまでには微妙な情勢が続くのだが、バンドン会議において台湾を参加させず中国の周恩来だけが参加した事に大きな意味を持たせている。それが中国が国際会議に初めて参加する目的でもあった。
アジア・アフリカ会議に対する 『インドネシア』 の思惑
インドネシアは戦後賠償問題が決着せず、日本招請に積極的ではなかった。スカルノは、日本軍に協力してオランダからの独立戦争を戦うという立場をとった人間で、戦後「日本軍国主義への協力者」として苦境に立たされたこともあり、日本のアジア復帰には複雑な姿勢をとっていた。
スカルノは第三世界のリーダーとして反植民地主義・反帝国主義を強調し、国際的地位を高めた。
アジア・アフリカ会議に対する 『パキスタン』 の思惑
インドに呑みこまれかねないパキスタンにとっては、インドと中国が手を結びアジアを主導するというのは何としても防がなければならない状況になっている。
そこでパキスタンは「反共最大の大物」である日本をバンドン会議に呼ぶよう積極的に働きかける。日本には対中バランサーとしての役割が期待されたのである。
1954年5月に米国との間に相互防衛条約を結び、西側に傾く路線を進めていたパキスタン、同じ陣営に立つ日本の参加を優位性確保のための戦略と考えていた。
1951年に日米安全保障条約を結んでいる西側陣営の日本に対して、インドのネルー首相もインドネシアのスカルノ大統領も実はバンドンへの日本招請には熱心ではなかった。パキスタンが日本の参加を促した事が日本の参加に大きく影響している。
アジア・アフリカ会議に対する 『エジプト』 の思惑
東西冷戦下において、アメリカ・イギリス・フランスなどの西側資本主義陣営にも、ソ連などの東側共産主義陣営にもくみせず、自主独立の道を歩み、第三世界の諸国と連携しようとする非同盟主義と主張していた。
ヨーロッパ植民地主義はアラブ語民族を人為的に12以上の国に分裂させた。そのために兵力で優勢に立つにもかかわらずイスラエルの建国を許し、石油資源は外国の資本と世襲王政に支配されている。このような分裂状態を終わらせ、アラブ語民族を統一することを理想としていた。
貴族と大地主に支配され、外国資本と結びついている古い王制国家を打倒し、社会を近代化して人々を富ませるには、国家が基幹産業と公共資本を管理し、富を分配するマルクス的な社会主義経済が有効であると考え、農地改革や銀行の国有化などを行った。
アジア・アフリカ会議に対する 『日本』 の思惑
当時の鳩山一郎政権は反共陣営の一員として会議に臨めば、インドや中国やインドネシア等との間で距離が生じてしまう。かといってこれらの国々と関係を深めようとすればアメリカとの関係が悪くなる。日本は両者の板挟みになってします。
そこで日本は政治色の薄い、高崎達之助経済審議庁長官を送り込む決定を下した。
周恩来やネルーが出席する中、経済審議庁長官を代表で送り込んだのには狙いがあった。政治的課題は極力回避し、代わりに経済的問題を全面に出し、経済でアジアをつなげようとしたのである。
中国の周恩来首相・インドのネルー首相・インドネシアのスカルノ大統領・エジプトのナーセル大統領 戦後の大物政治家が参加する中で、日本の高崎達之助経済審議庁長官の参加はきわめて薄い存在であった。戦後の日本の国際社会での立ち位置の難しさを表していて、難しい条件の中での参加であった。
日本からの出席とその反響
日本の主席代表 高碕達之助
日本は高碕達之助経済審議庁長官を代表として十数名が参加したが、他国はいずれも元首、首相級が出席し、政府レベルの国際会議となった。
出席者のなかには周恩来、インドのネール、エジプトのナセル等の顔もあった。
加瀬俊一外務相参与(後に国連大使となる)は、外務大臣代理で出席したのだが、その時の模様を
「この会議の主催者から、出席の案内が来た。日本政府は参加を躊躇していた。アメリカへの気兼ねもあったが、何分現地には反日感情が強いに違いない、と覆っていた。私は強く出席を勧めて遂に参加が実現した。出てみるとアフリカからもアジアの各国も『よく来てくれた』『日本のおかげだ』と大歓迎を受けた。日本があれだけの犠牲を払って戦わなかったら、我々はいまもイギリスやフランス、オランダの植民地のままだった。それにあの時出した『大東亜共同宣言』がよかった。大東亜戦争の目的を鮮明に打ち出してくれた。『アジア民族のための日本の勇戦とその意義を打ち出した大東亜共同宣言は歴史に輝く』と大変なもて方であった。やっぱり出席してよかった。日本が国連に加盟できたのもアジア、アフリカ諸国の熱烈な応援があったからだ」
と語っている。

高碕達之助 1885年2月7日 - 1964年2月24日 
アジア・アフリカ会議 (バンドン会議)に日本主席代表として出席した高碕達之助
当時の役職は、経済審議庁長官であった。
日本代表の一員  加瀬俊一外務相参与
加瀬俊一外務相参与(後に国連大使となる)は、外務大臣代理で出席した。その時の模様を平成6年7月に、京都外国語大学における加瀬俊一氏が講演している。
「1955年4月、インドネシアのバンドンという所でバンドンA・A会議が開かれました。A・Aというのはアジア・アフリカです。この中心はインドと中国とエジプトです。インドのネール、中国の周恩来、エジプトのナセルが中心になって、独立したばかりの新興諸国29ヵ国代表が集まりました。その時、日本にも招待状が来たんです。国内ではアメリカに気兼ねして参加に慎重な人が多かったんです。私は『出た方がいい』と言ったんです。敗戦後間もない日本にとっては、国際社会に復帰する絶好のチャンスだった。それで出席することにはなったけれども、外務大臣は都合が悪くて私が行くことになったんです。特命全権大使として『出た方がいい』と言ったのは私だけなんだけれども、内心不安だった。というのは、アジア・アフリカというけれども、アジアは大東亜戦争の戦場でした。日本はいいこともしているけれども、ご承知のように悪いこともしなかったわけじゃない。それでね『行ったら白い目で見られるんじゃないか』と思ってあまり気がすすまなかった。しかしその会議に行くとね、あちらこちらからアフリカの代表、アジアの代表が出て来てね、『よく来たね!』『日本のおかげだよ!』と大歓迎でした。それは『日本が大東亜共同宣言というものを出して、アジア民族の解放を戦争目的とした。その宣言がなかったら、あるいは日本がアジアのために犠牲を払って戦っていなかったら、我々は依然としてイギリスの植民地・オランダの植民地・フランスの植民地のままだった。日本が大きな犠牲を払ってアジア民族のために勇戦してくれたから、今日のアジアがある。』ということだった。この時は『大東亜共同宣言』を出してよかった、と思いました。我々が今日こうやって独立しました、といって『アジア・アフリカ民族独立を祝う会』というのがA・A会議の本来の目的だった。こんな会議が開けるのも日本のおかげですと、『やぁー、こっちへ来てください』『いやぁ、今度は私のところへ来てください』と言ってね、大変なモテ方だった。『やっぱり来てよかったなぁ』とそう思いました。( 中略 )その翌年、日本は晴れて国連に加盟して、私は初代国連大使になりました。アジア・アフリカグループが終始熱心に日本の加盟を支持した事実を強調したい。A・A諸国から大きな信頼と期待を寄せられて、戦後我が国は今日の繁栄を築いてきたのです」
と語っている。

加瀬俊一 1903年1月12日 - 2004年5月21日 
中国との接触に消極的・警戒的な重光外相の意を受け、高碕達之助主席代表のお目付け役として随行した。
周恩来と高碕達之助主席代表の二度目の会談を阻止している。
日本代表の一員 谷 正之
高碕達之助と周恩来はアジア・アフリカ会議で出会い、高崎は中国との関係改善を目指していた。そして戦後日本の復興はアジアの国々との貿易でしか成し得ないと考えていた高崎と周恩来が出会った。この会議の4日後、高碕と周恩来は極秘会談を行った。2人は2回めの会談を約束し話し合いを終えた。2回目の会談が行われるのを察知した谷正之はアメリカへ報告を行ったため、会談は中止となった。

谷 正之 1889年2月9日 - 1962年10月16日
重光外相の意を受け、高碕達之助主席代表のお目付け役として加瀬俊一と共に随行した。
周恩来と高碕達之助主席代表の二度目の会談を察知し、アメリカに報告して会談を阻止した。
日本代表の一員 岡田晃 外務省の通訳(中国語)
バンドン会議代表になった高碕達之助が、外務省に中国語の通訳を要求し随行したのが岡田晃であった。
東北大学を卒業して外務省に入り、1955年当時、外務省中国課の課員でまだ30代であった。

岡田 晃 1918年1月5日 -   
岡田 晃の書籍 水鳥外交秘話(ある外交官の証言)
『水鳥外交秘話』では、米中接近の兆候を香港総領事時代に察知し、本国に報告していたことを明かしている。
高碕達之助と周恩来の秘密会談 通訳の岡田晃の話
周恩来首相と高碕達之助首席代表の秘密会談
バンドン会議は日本にとって「日中国交回復への基点」となった。戦後初の日中政府間の折衝として「周恩来・高碕達之助秘密会談」が行われたのである。米国・台湾に配慮する外務省は日中の接触を警戒していた。しかし、周恩来は日本との関係改善も意図し、日本語の通訳として日本で生まれ育った廖承志を通訳として同行していた。
4月22日、周恩来の宿舎で約一時間半の会談は行われた。主に通商の拡大や政府代表機関の相互配置などが話し合われたという。
これが後に日中間の準政府間協定に基づく「LT貿易」へと繋がった。LTとは廖(リアオ)と高崎の頭文字である。正式の日中国交回復にはそれから17年を要したが、戦後の日中関係のスタートはバンドンで切られたのである。
  • 周恩来 中国首相
  • 陳毅(ちんき) 中国外交部長
  • 廖承志(りようりようし) 中国側の日本語通訳
  • 高碕達之助 日本首席代表
  • 岡田晃 日本外務省の中国語通訳
2人は2回めの会談を約束し話し合いを終えた。2回目の会談が行われるのを察知した谷正之はアメリカへ報告を行ったため、会談は中止となった。
代表団の一員に中国語の通訳が同行していることに注目したい。
1952年に日本と中華民国(台湾)は平和条約(日華平和条約)を結んでいたので、アジアアフリカ会議で台湾と会談を予定していたのであれば、中国語通訳が同行する必要があるが、このアジアアフリカ会議には中華民国(台湾)は参加していない。事前に周恩来との会談をが決まっていたので中国語通訳が同行していたのではないか。もしくは、会談を申し込む準備をしてそのタイミングを求めていたのではないか。
中国側にも同じような事が言える。日本との会談の予定が無ければ日本語通訳を同行する必要が無いのである。中国側の日本語通訳の廖承志は、1908年に日本で生まれて1919まで東京で生活している。1919年に中国に帰国し嶺南大学に入学している。1925年再来日し早稲田大学に入学。1928年に日本に滞在し、済南事件をきっかけに帰国、中国共産党に入党している。
東西冷戦の最中で有った為に、日本と中国が会談をする事が非常に難しかったのであろう。極秘にして事前に準備を進めていて、同じ日本代表団にも知らせずにアジアアフリカ会議に参加していたのであろう。
ここからは『管理人』の推測ですが、岡田晃と廖承志は事前に知り合いでいたのではないか? そしてどちらから近づいたのだろうか? 非常に気になるところである。
この秘密会談から日中の接近が始まり、民間での貿易が行われ、1972年に日中国交正常化が行われることになる。
第041回国会 外務委員会 第2号 昭和三十七年十一月一日(木曜日)
アジア・アフリカ会議、バンドン会議に出席に対する
参議院外交委員会の質疑答弁(大平正芳国務大臣) http://kokkai・・・・
佐多忠隆の質問
「近くアジア・アフリカ会議、バンドン会議が開かれると思うのですが、これに対して日本側はどういう態度で臨まれるのですか、その点をお伺いいたします。」
大平正芳国務大臣の答弁
「十二月中にバンドンにおきまして第二回アジア・アフリカ会議の準備会議を開きたいということで、インドネシア大使館あたりから私のほうに対しまして参加方の要請がございました。そこで私どもとしては、一体この第二回のAA会議というのはどういう目的で開かれるのかお伺いをしたところ、アジア・アフリカ圏にいろいろな問題があるが、これらを平和的に解決されるような雰囲気を作りたいということが主たる目的のように伺ったわけであります。そこでせっかく開きます以上は、紛争解決への何か積極的な貢献があるようなものであってほしいと思うわけでございますが、御案内のように、中印国境紛争がございまするし、今の時期が私どもとしては適当な時期であるとは必ずしも判断いたしておりません。しかしながら、せっかくの御要請でもございますから、第一回のバンドン会議のときに、御案内のように、第二回の会議は第一回の会議の主催国、すなわちコロンボ諸国でございますが、インド、パキスタン、ビルマ、セイロン、インドネシア、この五カ国が相談して第二回の会議を招集することについて相談しようという決定がございましたので、したがって、私どもはこのコロンボ五カ国の意見が完全に一致するということ、そして六十カ国もあるアジア・アフリカでございますので、ごく少数の国々が集まるというようなことでは目的が達せられないので、大多数の国が参加するということでございますれば、わが国としても出席する用意がある、こういう趣旨をインドネシア大使館のほうに御返事をいたしておいたのが今の段階でございます。」

第041回国会 外務委員会 第2号 昭和三十七年十一月一日
カシミールプリンセス号爆破事件 1955年4月11日
周恩来がアジア・アフリカ会議に出席為に、中国政府がチャーターしたインド航空機カシミールプリンセス号が香港からインドネシアのバンドンに向かう途中に、空中爆発し不時着水したテロ爆破事件。
このテロは周恩来首相の暗殺を狙ったものであり、中華人民共和国の中国共産党政府と対立していた中華民国国防部秘保局に買収された中国人清掃係が、イギリス植民地の香港国際空港で発火装置を仕掛けたとされた。なお、中華民国側は事件への関与は否定しているが、中国共産党政府および香港政庁は事実であると主張している。なおアメリカ合衆国のCIAの関与があったともいわれている。
周恩来は虫垂炎の手術を受けて出発を延期したため難を逃れた。
この機は1955年4月11日に北京を出発する予定であり、当時の中華人民共和国の周恩来首相が搭乗するとみられていた。中国国民党の情報機関はカシミールプリンセス号に航空事故にみせかけて墜落させるために発火装置をしかけることに決定、香港の空港に勤めている中国人清掃員の1人を50万香港ドル(一説には60万香港ドルとも)で買収し、旅客機右翼の着陸装置の格納庫に発火装置を仕掛けさせた。
破壊工作は、フライトプラン当日に実行されたが、周恩来は虫垂炎の手術を受けて出発を延期したため難を逃れた。彼が実際に中華人民共和国を出発したのは4月14日のことであった。また周はインドネシアに行く前に、ビルマ(現在のミャンマー)とインドネシアの首相と会談するために、ラングーンを訪問した。この点について1994年にオックスフォード大学のスティーブ・ツァン准教授は、「周は中華人民共和国の情報機関経由で暗殺計画の存在を事前に察知しており、おとりの訪問団をカシミールプリンセス号に搭乗させ、自身の日程は変更したのではないか」と指摘している。
離陸から4時間後、南シナ海上空18,000フィートを巡航している時に爆発音とともに右翼が炎上した。この時、機長は第3エンジンを停止しフェザー状態(風車のようにする)とともに、電気系統が不作動になる前に遭難信号を発信している。
操縦乗員は白煙によって視界が利かなくなり油圧系統が機能しなくなった困難な情況のなかで、ライフジャケットを用意したうえで不時着水を試みた。しかし、機体は不時着水の衝撃によって大きく3つに分解して水没してしまった。
結局インドネシア沿岸警備隊に救助されたのは航空機関士と航法士とファーストオフィサーの乗員3名だけで、残りの乗員乗客16名は溺死した。なお最後まで操縦を試みていた機長は殉職したが、インド政府から勇敢な軍人に授与されるアショーカチャクラ勲章を、民間人としては初めて与えられた。
中華人民共和国外交部と香港総督は「事件はアメリカ合衆国と蒋介石が組織した集団による殺人行為」と主張した。また5月26日にはインドネシアの事故調査委員会も、アメリカ製のMK-7爆弾が使用されたと発表された。
香港当局は逮捕のための有力な情報提供にたいして、10万香港ドルの報奨金を用意するとともに、カシミールプリンセス号の整備に関係した71名を尋問したが、そのうちの1人は疑いをかけられるとアメリカのCIAに関係する民航空運公司の旅客機で台北に逃亡してしまった。
香港警察は「国民党に買収された中国人による犯行」と断定した。これは、逃亡した人物が、友人に事件における役割を自慢していたこと、そして香港から逃亡する前に大金を使っていたことが判明したためである。なお香港当局は中華人民共和国に被疑者を受け渡そうとしたが、中華民国当局はそれを拒否し、工作員であったことも否定した。
また「CIAが直接関与した」とする噂もあったが証拠はない。ただ1966年にアメリカ連邦上院で、「1955年に東アジアのリーダー暗殺の策謀」が証言されたほか、ソ連に逃亡したCIAのエージェントの回顧録でもそれとなく触れられているという。

カシミールプリンセス号を引き上げるサルベージ作業-1

カシミールプリンセス号を引き上げるサルベージ作業-2

カシミールプリンセス号を引き上げるサルベージ作業-3

カシミールプリンセス号を引き上げるサルベージ作業-4

カシミールプリンセス号を引き上げるサルベージ作業-5

救助されたのは航空機関士と航法士とファーストオフィサーの乗員3名だけで、残りの乗員乗客16名は溺死した。

1955年4月14日 インドネシアのバンドンに着いた周恩来首相