更新日 2014年08月17日
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イギリスによる植民地政策 『地税政策』
植民地になる前は、封建制度で領主が独自に税をお金や農作物で取り立てていた。
イギリスは植民地の地税政策として、土地所有者を近代的土地所有者と認めて、土地を不動産として借金の抵当権を認め、売り買いする事の自由も認めた。
権利として近代的土地所有権を認めたが、同時に貨幣による納税義務を負わせた。納税額が不足すると地主権を抵当に入れて借金したり売却しなければならず、地主が小作人の立場に落とされる現象が多く起きた。
プラッシーの戦い
プラッシーの戦いの背景 イギリスとフランスの植民地獲得の為の紛争
ヨ-ロッパの覇権を巡り、1756~63年[七年戦争]がプロイセン王国とオーストリアの対立を軸に、プロイセンはイギリスと、オーストリアはフランス、ロシアと結び、全ヨーロッパに広がった。結果はプロイセンとイギリスの勝利となり、ヨーロッパでのプロイセンと地位を向上させた。
この七年戦争はヨーロッパ以外で、イギリスとフランスが植民地獲得を巡り紛争を起こしている。フランス軍が、インディアン諸部族と結んでイギリス植民地軍を攻撃し[フレンチ=インディアン戦争]が行われ、イギリス軍は1759年にケベック、1760年にモントリオールを占領、1763年にパリ条約が締結され、フランスは北米植民地を殆ど失った。
南インドで、1744~1761年の間に3回に分けて[カーナティック戦争]がイギリスとフランスによりインド植民地支配の主導権を巡り繰り返された。第三次カーナティック戦争[1758~61年]で、イギリス軍がポンディシェリを占領するなど圧勝し、フランスの後退は決定的となった。
プラッシーの戦い
1757年、インドのベンガル地方で起こった、クライヴ指揮のイギリス東インド会社軍とベンガル太守軍(フランス東インド会社軍の支援)との戦争。イギリスはベンガル太守軍を破り、インド植民地化の第一歩を踏み出した。
この戦闘が、結果としてインドの運命を変える事になった。イギリス東インド会社は、この後フランス勢力をインドから一掃しただけではなく、新しいベンガル太守を傀儡としました。
1765年にイギリス東インド会社はベンガル地方の徴税権を獲得する。貿易会社が他国の一地方の税金を徴収する様に成り、貿易会社が統治機能を併せ持ち、ベンガル地方を支配するように成って行く。ベンガル地方というのは現在のバングラデシュです。
ザミンダーリー制
イギリス東インド会社が1793年にベンガル州で実施した税金の徴収方法で、地主が地税を徴収して納税する方法をザミンダーリー制という。
ムガル帝国では地主のことをザミンダールと言っていた。ザミーンが土地、ダールが所有者を意味している。
東インド会社は、インドを支配するに当たり、ザミンダールを近代的な土地所有者と扱い、かれらを地租の徴税請負人と位置づけた。彼らは実際の耕作者である農民から過大な地代を徴収し、地租との差額を着服し私服を増やした。