更新日 2014年08月17日
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インドの鉄道建設で餓死者が増えている。
19世紀前半のインドの交通事情
当時の輸送は殆んど原始的方法で、動物や人が背負って運ぶ・小型の川舟及沿岸用帆船に依り行われていた。牛車は存在していたが、都市の内部または近郊で使われていた程度であった。都市から都市へ車両で輸送する為の幹線道路は非常に悪い環境で、修理・維持も殆んど行われず悲惨の状態であった。
従って、商業取引の為の輸送は河川航行で行われていたが、これらの輸送は極めて遅くかつ危険であった。その上、乾期においては比較的容易に行われる輸送も、雨期に入ると河川は氾濫し、道路は泥沼と化すため、河川も道路も通行不可能の状態に陥るのが普通であった。
インドは統一的国家組織を持たず、言語・宗教及文化が異なる人種及種族が多くの小国家を築き狭い地域を分割して治めていた。又、内向的な古い慣習や因習に支配せられ、一定限度の地域を越えて活動する必要なかったので、交通組織が開発されないままで有ったのも仕方が無い事である。
食料輸送が出来ないので、飢饉が頻発していた。
上記の様な交通組織の未開発は、当時インドにおいてある地方ではあり余る農産物を有しながら、他の地方では悲惨な大飢饅に見舞われ、輸送方法が無い為にこれらの飢饒を救済出来ない事が頻繁に起きていた。
鉄道が建設される前のインド国内には食料が有ったので、輸送さえできれば飢饉の被害を少なくする事は出来たのである。
交通組織の未開発の為に緊急時の大量輸送が出来ず、港から内陸地への食料輸送を行うにはラクダの背に乗せて運ぶ事以外に方法はなかった。車輪を利用した輸送道具が移動できる道路が無いので、獣道の様な小道をラクダの隊列を組んで運んでいたのが実情だった。雨季には悪路に変わり洪水も起きたであろう。ラクダで100万人以上の食糧を短期間に大量に運ぶ事は不可能であろう。
当時、鉄道建設を進める要因の一つが、これらの飢饉対策の為で有ったことは当然である。
しかし、19世紀半ばから鉄道建設が始まって、急速な路線拡張が行われたにも関わらず、19世紀後半に餓死者が以上に増加しているのである。
19世紀にインドで起きた飢饉
  • 18世紀 大飢饉3回 死者数不明
  • 1800~25 大飢饉5回 死者100万人
  • 1826~50 大飢饉2回 死者40万人
  • 1851~75 大飢饉6回 死者500万人
  • 1876~1900 大飢饉18回 死者1600万人

19世紀 四半世紀毎の餓死者
19世紀最後の四半世紀の25年には、18回の飢饉がい起きている。
前世期の100年での3回と比較しても異常な回数であることは明らかである。
下記の2個のグラフで輸出品が増加していることが判り、その殆どが農産品で有る事が判る。

19世紀後半のインドの貿易収支

19世紀後半のインドの主要輸出品
永年「地産地消」の食糧生産を行っていた農業地帯に鉄道が開通した事が、食糧不足の原因にはならない。ましてや、飢饉の頻度が多くなり餓死者が急激に増加する事の原因にはならない。
鉄道開通と食糧不足には因果関係は存在しないし、鉄道開通でインド全体での農地面積が減少した訳では無いし、鉄道開通が水不足を招いて旱魃を招いた訳でもない。変化したのは食料生産の為の農地に、海外輸出用の商業農産物を作付するようになったことである。その為に規模の小さな旱魃でも、多くの餓死者がでる飢饉に成ってしまい、飢饉の発生回数も多くなり、餓死者が100万人を超える大飢饉も発生するようになった。
19世紀後半に宗主国であるアメリカ・ロシア・フランス・イギリス等が鉄道敷設に積極的であったが、植民地であるインドでの鉄道敷設の急激な開発は異例であった。鉄道敷設が積極的に行われたエリアで、餓死者が多くでる飢饉が頻発したのは、宗主国と植民地を合わせてもインドだけの特徴である。
オリッサ飢饉 (1866年)
1866年のオリッサ飢饉とは、マドラス(現チェンナイ)からベンガルにいたるインド東海岸(現在のオリッサ州を中心とする地域)を襲った飢饉のことである。おおよそ46万平方kmのこの地域には4750万の人々が、当時住んでいたが、地理的には他のインドの諸地域とは隔絶された地域であった 。
19世紀に頻発したほかのインドの飢饉と同様に、飢饉の発生原因は旱魃にある。ベンガル州政府は、どれだけの人々がこの地域に居住しているのかを把握し切れておらず、そのため、本当に救済に必要な食料を確保することが出来なかった。
飢えと疫病(夏のモンスーンが吹く以前はコレラ、吹いた後にはマラリア)により、少なくともオリッサでは人口の3分の1にあたる100万人が1866年中に、その後2年間で、おおよそ400から500万人が死亡した。
飢饉は1868年に終焉を迎えたが、帝国政府が飢饉の救済に9500万ルピーを支出することとなったが、これだけ多い支出になったのは、輸入されたコメの価格が高いことにあった 。
旱魃は自然現象なので食い止める事は出来ないであろう。その他にも複合的に原因が重なって被害が大きくなった事も事実であろ。
国内に必要な食料が無く、輸入しなければならなかった。非常に高価な輸入食料が救済を遅らせた一因であったことも確かであろう。自給農産物を作る農地に、輸出商業農産物を作付させた事が、餓死者の数を増やしたことは明らかである。
ラージプーターナー飢饉 (1869年)
1869年のラージプーターナー飢饉とは、ラージプーターナー藩王国を中心とし、イギリス領インド帝国の直轄領であったアジュメール、グジャラート、デカン高原北部、中央州及びベラール(後のマディヤ・プラデーシュ州にほぼ相当)、連合州(後のウッタル・プラデーシュ州)、パンジャーブ州の範囲、おおよそ75万平方km、居住人口4450万人の地域に発生した飢饉のことである。
1868年の夏のモンスーンの季節、この地域では吹き始めるのが例年に比べて著しく遅く、8月のみしか吹かなかった。このことから、雨量不足が深刻となり、ラージャスターン地方の食料が不足する事態となった。食糧を輸入しようにも、当時のインフラストラクチャーが貧弱だったこともあり、ラクダによる輸送が限度であり、また、ラージプートの一部の藩王国はアクセスが困難である地域もあった。
この飢饉の救援活動に関しては、1866年に発生したオリッサの飢饉の失敗と同様に、批判が展開された。
飢饉の最終段階では、藩王国からイギリス直轄領に人々が移動することとなり、帝国政府の救援活動の能力を超える事態となった。この期間で、ラージプーターナーが失った人口は大きく、おおよそ150万人以上が死亡したとされる。
ビハール飢饉 (1873年)
1873-1874のビハール飢饉は旱魃が続いビハール、隣の州ベンガル、北·西部およびアウドで発生。それは14万キロの面積215000人が死亡したであろう。
オリッサ飢饉とラージプーターナー飢饉の対策が遅れたことに対する批判が大きかった事を踏まえて、早期の段階から対策が高いレベルで行われた。ビルマから4000万ルピーの米が緊急輸入されている。
早急な対策で飢饉での被害を少なくする事が出来、期間も短期間で回復へ向かう事が出来た。しかし、インド政府の担当者に対してイギリス本国からの予算の使い過ぎと批判が出ていたことも事実である。
対策が遅れると国民から批判され、対策費用を使いすぎるとイギリス本国の資本家たちから批判される。人道支援を優先するべきでイギリス本国からの批判は無視するべきである。しかし、植民地の人民の生命よりイギリス本国の利益を優先する事が植民地運営の目的でなので、余剰資金は資本の再投資の為に鉄道路線の拡張に使われた。インドの鉄道路線の拡張は同時代の世界の中でも飛躍的に伸びている。
インドへの急激な鉄道投資を行ったイギリスの資本家達

インドの短期間での鉄道敷設の距離の増加は、資本家達の投資の積極性を強く表している。
イギリスが支配している植民地の中でも一番優秀な植民地であると評価できるのではないか。
グラフで比較されてはいないが、1900年・1920年の両方で一番敷設距離が長いのはアメリカである。
アメリカは1900年には、103.502マイル鉄道路線が伸びている。