更新日 2017年09月22日
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ジャワ島支配の拠点[バタヴィア]
1619年 ジャワ島支配の拠点都市 バタヴィア(現在:ジャカルタ)
オランダが来る前
ジャカルタはもともと、16世紀初めまで、西ジャワのパジャジャラン王国の港町、スンダ・クラパ (Sunda Kelapa) として発展した。14世紀に成立した中国・明朝のもとでインドネシアの海域は册封体制下におかれ、アジア域内における交易ネットワークに組み込まれていた。スンダ・クラパもまた、この海域の他の港市とともに、中国との朝貢貿易や私貿易、中継貿易で重要な港町として発展した。
スンダ・クラパをジャヤカルタ (Djajakarta) と改名したのは、1527年にこの地を征服したバンテン王国のスルタン、ファタフィラである。
1619年 オランダが部族の内紛に介入し、ジャヤカルタを手に入れる。
16世紀末に、この海域でのポルトガルの香辛料独占に対抗するため進出してきたオランダは、西ジャワの王族の内紛に介入し、その一方に軍事援助を行う見返りとして、ジャヤカルタを手に入れた。
1602年東インド会社が設立された。1611年にジャカルタの土地を買収して商売の館を設け、貿易を定期的に営んでから、町がしだいに発展していった。
1619年にいたり来襲したイギリス軍を撃退し、ジャカルタの南方に町を新設してオランダ人南方経路の拠点とし、城の改築、拡大も行った。
この1619年東インド会社の命によって、町と城とをオランダ民族名にちなんでバタビア Bataviaと命名し、1621年8月以来これを公称とした。この後19世紀の始め一時イギリスに制圧されたこともあったが、300年以上オランダの植民地となっていた。
植民地支配で整備されたジャヤカルタ

1605年のジャカルタ
山と木々を背後に原住民と取引の為に来たヨーロッパ人の為の建物が描かれている。

1667年のジャカルタ
1667年までに都市の転換に段階を示すジャカルタの地図(下部に6期の変化地図が描かれている)

1780年のジャカルタ
植民地支配しているオランダ人がこの地図を見ると、貿易の為に機能的に整備された港と町に見える。
だが、支配されたインドネシア人が見ると、オランダ人の為に港・防波堤・運河・道路・倉庫を作らされ、賃金は正当に支払われたのかと、疑問に思うであろう。
オランダが、日本と取引した物
オランダが日本に持ち込んだ物は、第一は生糸で、そのほか毛織物・絹織物・木綿等の織物類、砂糖、胡椒、香、薬、牛皮・鮫皮・鹿皮等の皮革類、錫・鉛・水銀等の鉱物、白檀等の木材、蘇木(そぼく)・うるし等の染料・塗料、等があった。日本から持ち出したのが大量の[銀]であり、主な輸出品は、金・銀・銅・樟脳・鋳銭・漆器・陶磁器・等であった。
オランダは日本の[銀]を通貨として、アジアの国々と取引を行っていた。
オランダが、アジアで取引した商品
オランダはアジアで域内通商もおこなっています。つまり、ある国である商品を買って、別の国にその商品を売って、をくり返す交易です。オランダがペルシアの絹を扱わなかったのは、ベンガルや中国の絹を手にいれることができたからです。
アジアでオランダが成功したのは、メース、ナツメグ、丁字(グローブ)、桂皮(シナモン)など、香辛料を独占できたからです。
オランダはさらに、インドのスラト・コロマンデル海岸・ベンガル地方で織物を大量に買い入れ、これをスマトラで、胡椒や金、樟脳と交換しました。
シャム(現タイ)では、布地や香辛料・胡椒・珊瑚を売って、スズを手に入れました。
ティモール(現東ティモール)では、白檀を買い入れています。
ベンガル地方からは、絹や米・硝石を得ています。
イラワジ川下流(現ミャンマーのエーヤワディー川)にあったペグー王国には、胡椒や香辛料・白檀・布地を売って、漆や金・銀・貴石を手に入れています。