更新日 2014年08月17日
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日本の[銀]が[バタヴィア=ジャカルタ]を発展させた
ジャカルタの繁栄を支えた日本の[ 銀 ]
当時の貿易での取引は、[ スペイン銀貨 ]で決済されていた。
スペインは、1545年からの南米ボリビアのポトシ銀山、17世紀末以降はメキシコ産の銀を独占し、ヨーロッパとともに中国にも交易の対価として持ち込んだ。
スペイン政府は、南米のペルーのポトシ銀山(現在はボリビア領)や北米のメキシコで採掘された銀をメキシコで銀貨に鋳造した。このスペイン銀貨はピース・オブ・エイトと呼ばれて1570年代に造幣されてから、19世紀まで事実上の世界通貨として流通した。スペイン銀貨があれば、世界中どこでも決裁できたのである。
16世紀に世界経済を支配していたスペイン帝国は、フランス・オランダ・イギリス・トルコと戦争を繰り返し、富を国内に蓄えることが出来なかった。戦争による歳出過多で17世紀にスペイン帝国が急速に衰退することになる。
スペインの衰退に伴い、イギリスとオランダが世界経済を牽引することになる。
小国のオランダには輸出する物が無く、決済をする為に必要な[銀]を産出する銀山もなく、銀を産出する植民地も持っていなかった。ましてや、オランダ国内にある少量の[銀]は、国外持ち出し禁止としていた。
そのオランダが注目したのが日本の[銀]である。

このコインは銀の産出現場であるポトシで製造されている。ポトシでの造幣は1574年以降であり、図案がフェリペ2世(1556~1598年)であるので、1574~1598年に製造された銀貨である。
膨大な量の銀が、スペイン本国にもたらされた。この時代がスペイン帝国の最盛期である。それまでヨーロッパにおける銀の支配者は南ドイツから産出する銀を抑えていたフッガー家であったが、新大陸産の銀の量は、ドイツの銀とは桁違いである。これ以降、フッガー家は没落していく。また、新大陸産の銀は、大西洋・太平洋を舞台とする世界貿易システムを支配した。
日本が輸出していた[ 銀 ]の量
オランダが日本に持ち込んだ物は、第一は生糸(シナ生糸、トンキン生糸、ペルシア生糸、ベンガル生糸など)で、そのほか毛織物・絹織物・木綿等の織物類、砂糖、胡椒、香、薬、牛皮・鮫皮・鹿皮等の皮革類、錫・鉛・水銀等の鉱物、白檀等の木材、蘇木(そぼく)・うるし等の染料・塗料、等があった。
代わりに日本から持ち出したのが大量の[銀]であり、主な輸出品は、金・銀・銅・樟脳・鋳銭・漆器・陶磁器・等であった。
[銀]の輸出は、1601年より1647年まで46年間に1,122,687貫目余(1貫は約3.75キログラム⇒4.210.076キログラム)、1648年より1708年まで60年間に374,209貫目余(1.403.284キログラム)で、同じ期間で日本国内に流通させる為の[銀貨]の鋳造高と比較すると、銀山から産出していた[銀]の四分の三を失っていたことになる。
17世紀初頭には石見や生野・院内などの日本産銀は世界の[銀]の3分の1から4分の1を占めたと考えられており、日本は当時世界最大の[銀]生産国の一つだった。
日本に来航した蘭船は、1621年から1849年まで227年間に715隻あり、年平均で3.15隻となり、227年間に途中で難破したものが27隻あった。

御取納丁銀(おとりおさめちょうぎん)とは戦国武将の毛利元就が石見銀山の銀を用いて作り、正親町(おおぎまち)天皇の即位礼の費用として献上した。千百枚作られたとされるが、実物は一枚しか現存せず島根県が所蔵している。
石見銀山では、一番とれていた頃には1年間に38トンもの銀がとれたといいます。写真の丁銀に換算すると、237.500枚になります。
幕府公認の[朱印船]での交易
朱印状自体は1592年の豊臣政権時代に発行されているという説が有るが資料が少なく、基本的に1604年の徳川幕府の朱印船制度の実地が始まりというのが定説になっている。
これ以後、1635年まで350隻以上の日本船が朱印状を得て海外に渡航しました。朱印船は必ず長崎から出航し、帰港するのも長崎でした。
海外に出かけた日本人の中には、東南アジアの各地に住み着く者も表れ、日本人が居住する日本人町ができました。各地の日本人町の人口は、合わせて1万人におよびました。なかには山田長政のように、シャム(タイ)の国王から高い官位を与えられた者もいました。

朱印船航路と東南アジアの日本人町
東南アジアの交易の主導権を、オランダと日本の朱印船が競った時期があった。
欧米諸国で最初に日本に来たのはポルトガルで、1543年に種子島に鉄砲を持ち漂着したのが最初であった。
ポルトガルの貿易はキリスト教布教を行う事が戦略があり、貿易商人と共に多くの宣教師も日本を訪れる事となった。豊臣秀吉は元来織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた。しかし、九州平定後の筑前箱崎に滞在していた秀吉は、長崎がイエズス会領となり要塞化されていることを知らされた。1587年には豊臣秀吉によってバテレン追放令が出され、ポルトガルに宣教師の退去と貿易の自由を宣告する文書が手渡された。
オランダの来日は、1600年4月29日にオランダの商船デ・リーフデ号が、豊後国臼杵(大分県臼杵市)に漂着したのは始まりである。乗組員のオランダ人ヤン・ヨーステンや、イギリス人のウィリアム・アダムス(後に旗本になり三浦按針を命名する)らは、船とともに大坂へ護送され、取り調べを受けた。乗組員を引見した家康は、新教国とカトリック国の対立など欧州情勢を臆さずに説くヤン・ヨーステンらを気に入り、海賊船の嫌疑を晴らした。家康は、釈放されたヤン・ヨーステンらを城地の江戸に招き、外交政策の相談役にした。
16世紀後半~17世紀初旬はポルトガル(スペインと併合中)の後退期であり、それに代わりオランダのアムステルダムが世界貿易の中心地をなる頃であった。
徳川家康は[朱印船]でアジアでの交易を積極的に進めた時期と、オランダが東南アジアへの積極的に進出した時期が重なっていた。
朱印船渡航先は、
  • 安南(あんなん) 当時北ベトナムを領有していた黎氏を擁立するハノイの鄭氏政権である。東京(トンキン)ともいう。
  • 交趾(こうち) 当時実質的に中部ベトナムを領有していたフエの阮氏政権である。広南国ともいう。その交易港はホイアン(会安)及びダナンであった。
  • 占城(せんじょう・チャンパ) ベトナムによって南ベトナムの一隅に押し込められていたチャンパ王国である。
  • 暹羅(しゃむ・シャム) タイのアユタヤ王朝である。アユタヤには大きな日本人町が形成され、山田長政が活躍する。アユタヤからも交易船が長崎に来た。
  • 柬埔寨(カンボジア) メコン河流域のプノンペンを首府とするカンボジア王国である。
  • 太泥(たいに・パタニ) マレー半島中部東海岸のマレー系パタニ王国である。当時は女王が支配し、南シナ海交易の要港であった。
  • 呂宋(ルソン) スペインの植民地ルソン島である。首府マニラが新大陸とのガレオン貿易の要港で、中国船の来航も多かった。
  • 高砂 当時ゼーランディア城を拠点にオランダ人が支配していた台湾である。台湾も中国商船との出会いの場であった。
いずれも赤道以北に限られていた。渡航先集計によると交趾(73回)で最も多く、暹羅(55回)、呂宋(54回)、安南(47回)と続く。
鎖国後に日本の[ 銀 ]を独占したオランダ
1633年には[朱印状]のほかに老中が発行した奉書を持つ[奉書船]以外の海外渡航を禁止した。
1635年には華人の船の寄港地も長崎に限定された。こうして海外貿易が管理される事で日本人の海外渡航禁止や、外国船の寄港地を長崎に限定するといった事が、いわゆる「鎖国」政策が行われた。
[鎖国]となっても[朱印船][奉書船]は廃止されることになる。
長崎では1641年以降、出島に住まわされたオランダ人と唐人屋敷に居住させられた中国人のみが貿易を許されていた。出島に設置されたオランダ商館は、オランダ東インド会社の支店であった。
日本は、オランダと中国の交易関係により中国産の生糸や絹織物を輸入し、逆に銀・銅・海産物などを輸出した。1688年には、中国船の渡来を年間70隻に制限、さらに密貿易の防止のために唐人屋敷を設置した。
輸入の代価として、当初は銀が輸出されていたが、徳川政権は銀が海外に大量流出する事態を憂慮していた。何故なら、銀は国内商品の流通拡大を図る上で必要な決済手段だったのである。そのため、1670年代から銀に変わって銅が輸出される事となった。
ヨーロッパからアジアへ行った帆船数
17世紀になると,アジア貿易の最大の覇権国はポルトガルからオランダへとシフトする。18世紀中、オランダは1.770隻の貿易船をアジアへ送り、7カ国全体のうちの56パーセントほどをオランダが占めた。これは、派遣船舶数の上で、17世紀がオランダの世紀であったことを示すものであるといえよう。

1500年~1800年のヨーロッパからアジアへ行った帆船数
1730年~1732年 オランダ東インド会社のアジア諸地域との貿易規模
1730年9月から1732年8月までの2年間、バタヴィアからアジア内の各商館に発送された商品ごとの総額を示している。この表に示されているように、バタヴィアから発送される商品の多くは銀であり、主に本国から供給された、未鋳造あるいはヨーロッパ貨幣のいずれかの銀で、全体の価額の約半分を占めている。

Batavia(バタヴィア)が全体の46.6%と過半数に近い量を扱っていた。