更新日 2014年08月17日
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オランダの過酷な植民地政策
[インドネシア]の意味
1850年にシンガポールのイギリス人弁護士でジャーナリストだったローガンが、東南アジア諸島部全域を示す地理的用語として、「インド」にギリシア語で島の意味のネーソスの複数形ネシアをくっつけて造語した。
一般に広がったのは、1920年代にマレー人の民族運動が強まった時期に、彼らは「オランダ領東インド」という呼称を嫌い、「インドネシア」を民族のアイデンティティを示すものとして使用するようになってからである。
マレー語やマレー人に替わってインドネシア語やインドネシア人という言い方も普通になった。そしてオランダから独立したときにインドネシア共和国という国号が選ばれた。
オランダの340年に及ぶ過酷な植民地支配
オランダはバンテン王国(16~19世紀初頭までジャワ島西側にあったイスラーム教国)によってバンテンに商館を設置することを許可され、1602年に「オランダ東インド会社」を設立し、1609年にこの商館に貿易の拠点となる「東インド総督」を置いた。
活動の拠点をバンテンからジャヤカルタに移し、港からジャワ島の内陸地へ領土獲得へ進んだ。獲得した土地でコーヒーを栽培し、ヨーロッパで高値で販売し利益を得るようになっていた。
本国のオランダ政府は、19世紀初頭にフランス革命、ベルギーが分離独立、ジャワ島内での内乱に対する戦費の増加などで、オランダ本国の財政が厳しい状態になる。
オランダ本国の財政改革の為に、東インド総督にファン・デン・ボッシュが赴任し、特定作物に特化させる強制栽培制度を採用した。
ヨーロッパで高値で取引されている、コーヒー、サトウキビ、藍(インディゴ)、茶、タバコを強制的に栽培させて、安値で買い取りヨーロッパへ転売して莫大な利益をあげた。
オランダのインドネシア支配は、第二次世界大戦で1942年2月末に日本軍が侵攻し10日ほどの戦闘の後、在東インド植民地軍は全面降伏し、オランダ人の一部はオーストラリアなどの近隣の連合国に逃亡した。「オランダによる340年の東インド支配」が実質的に終了したのである。
オランダによる卑劣で過酷なインドネシアへの植民地支配の方法を下記に記す。
1 - 強制栽培制度
19世紀、耕地面積の5分の1はコーヒー茶などオランダ向けの生産物を強制的に栽培させた。このため、多くの村が崩壊し、食料自給体制は解体、餓死者が続出し平均寿命は35歳にまで低下した。が、オランダが得た利益は実に国家予算の3分の1を占めた。例えば、ジャワ・マドゥラ地方の人口の半分に当たる400万人が強制栽培に従事させられる。稲作の減少による米価の高騰を招き、1850年には強制栽培に凶作が重なり飢饉が起こり、ドゥマックの村は人口が33万6000人から12万にゴロボガン村では人口8万9500人が9000人に減少。
[奴隷制度]は奴隷を自国(支配国)に連行して、産業革命の労働者として強制労働させる制度である。[強制栽培制度]は植民地において住民を法律・契約などで縛り、奴隷のように労働させる制度と言えよう。
米の自給自足を止めさせて、海外から持ち込んだ安い米を高値で買わせるように仕向けた。オランダ人は、それらの運用を華僑に請け負わせてインドネシア人の不満を華僑に向かわせるように仕向けていた。

ジャワ島のオランダ人が経営するたばこ農園の風景 写真の質から1900~1920年ころではないか!?
2 - インドネシア女性にオランダ人との混血児を積極的に生ませた。
当時のオランダはヨーロッパの中でも小国で国民が少なかった。宗主国として国民が少ないオランダが、数倍の民族を支配する為に、オランダは大がかりにインドネシア人との混血児を作り、それを間接統治の官吏とした。行政官は混血児と華僑に任せ、インドネシア人の政治参加、行政参加はほとんど禁止した。
インドネシアでの人種別人口比率では、インドネシア人200人に対し、およそオランダ人1人の比率であったと言われている。少ない人数のオランダ人が安全に支配できる様に、オランダ人男性はインドネシアの女性に混血児を生ませていた。その混血児をオランダ人とインドネシア人の中間の支配階層に利用して、支配層の厚みを増す為に混血児を増やしていたのであった。
オランダ女性とインドネシアの男性の混血児は生まれてはいない。オランダ男性の欲求不満の捌け口にインドネシアの女性が利用されたに過ぎない。その行為には[恋愛]は存在しない。[結婚]して家庭をつくることでもない。性行為に対し金銭も払わないので、双方合意での[売春]にはならない。まさしく、オランダ男性の『性奴隷』としてインドネシアの女性が扱われたのである。強姦も行われたであろうし、抵抗した時は体罰が行われ、貧しさの為に従うしかなかったことも事実であろう。植民地政策として[合法]で罪にならない[強姦]を繰り返し、妊娠させて、うまれた混血児を民族分断・統治に利用してきたのである。国家ぐるみの恐ろしい犯罪行為が340年間繰り返されたのである。インドネシアを永久に支配しようとしていたことは明らかであり、インドネシア人を[人]とではなく[家畜]と同じように見下していたのである。
3 - 中国人を間接統治に利用し、オランダ人への不満を防いだ。
中国の明代の末期・清代の初期の混乱期に多くの中国人がインドネシアに移民している。インドネシアの宗主国であるオランダは、プランテーションでの安い労働力として中国人移民を多く受け入れた。
中国人に対するオランダの政策は「政経分離」であった。オランダは中国人の経済発展を認めたが、政治には一切関わらせずに、オランダ人・インドネシア人とは隔離されて管理されていた。中国人に中国人を統治さる「分割統治」を行い、中国人の住む地域も限定した。中国人とインドネシア人とを引き離したが、経済的に有利で巧妙な中国人による商業活動によりインドシナ人の上位に階層を形成することになる。
オランダ政府はインドネシア人にいろりろな税金を重たく課し、オランダ政府から許可された中国人がそれを厳しく取り立てた。払えないインドネシア人に対し中国人は高利貸となり、高い金利でインドネシア人を苦しめ続けた。
インドネシア人の不満を間接統治に利用した中国人に向かいように仕向けた。
「バタビヤ華人虐殺事件」
移民してきた中国人は貧しいままの労働者として過酷な環境で生活する者と、オランダ人から許可された経済活動を利用して豊かに暮らす者に分かれていく。成功した中国人は経済活動で豊かになりより一層経済活動を活発に行うようになる。それは許可したオランダ人の予想を上回り、インドネシアでの支配者であるオランダ人の強い反感を招くことになる。資本家になった中国人は同郷の中国人を雇い、下層階級のインドネシア人から厳しい搾取を繰り返すことになる。
傲慢な中国人と虐げられたインドネシア人の民族間に不満が蓄積されて、のちの「反華」、「排華」の禍根を残すことになった。中国人移民の中には素行の悪い者が多く、犯罪が多くなり治安が悪くなった事も大きな要因である。
実際に、1740年10月9日~22日に「バタビヤ華人虐殺事件」が起こっている。虐殺事件(犠牲者数は千~1万人の諸説有)は2週間に及んだが、対立は[中国人]対[インドネシア人・オランダ人]の抗争であった。オランダ人は対立を利用する立場であるが、治安維持を行うオランダ兵は中国人虐殺を制止してはいない。この虐殺事件にオランダ人が含まれている事で中国人の素行の悪さと、資本家となった中国人への強い反感が伺える。
虐殺事件の原因は、急激な中国人の増加に不安を感じたオランダ当局が素行の悪い中国人を国外退去させようとした事がきっかけである。実際にスリランカへの強制移動を決定したが、途中で海に捨てられるか船内で暴動を起こした時に殺されるかであるという噂が立った。この国外追放への恐怖は、貧しい中国人または素行の悪い中国人たちを不安に落とし入れ、多数の中国人労務者が仕事を離れることになった。そして疑心暗鬼の中国人労働者と素行の悪い中国人が略奪を始め、不満の貯まっていたオランダ人とインドネシア人による虐殺事件へと進むことになったのである。

オランダによる東インドの植民地時代の初期に多数の華人がジャワ島の北西海岸にあるバタビアの町の建設に従事する労務者となった。彼らも商人として、製糖工場の労務者と商店の店員として働いていた。東インドと中国間の交易はバタビアがその中心地であり、経済が強化されジャワ島への華人の移住が増加した。バタビアにおける華人人口は急速に増加し1740年には10,000人を超えていた。数千人は市街に居住していた。オランダ植民地政府はかれらに身分証明書の携帯を義務付け、証明書のないものは中国に送り返した。
4 - オランダ・英国・ポルトガルが分割統治し、マレー民族を分断した。
1824年に締結された[イギリス=オランダ協定]により、インド・マレー半島はイギリスが、スマトラ島・ジャワ島などの諸島はオランダがそれぞれ植民地とすることで合意した。
植民地分割線はマラッカ海峡を境界として、以東がイギリス領、以西がオランダ領とされた。その結果、スマトラにあったイギリス領のベンクーレンとマレー半島のオランダ領マラッカが交換された。
分割によってシンガポールはイギリス領として承認された。
1520年にチモール島をポルトガルが領有宣言し、1586年に島を占領した。1640年、オランダが入植した。1859年の条約により1860年、オランダ領ティモールとポルトガル領ティモールに分割された。以後、ティモール島は分割統治されている。ポルトガルとの分割統治のため、民族間の反目を煽り、部族抗争を激化させた。東チモールは、ポルトガルの植民地で住民がキリスト教徒となったため、イスラム教のインドネシア人との対立が生まれた。
宗主国の方針で、宗教・言語・農産物・通貨などを変えられてしまい、元々住んでいた民族のアイデンティティーが抹殺することで支配を長期に安定させようとしてきた。原住民の抵抗を分散するさせることも重要な目的である。

インドネシアの歴史はマラッカ海峡を挟みスマトラ島とマレー半島を中心に歴代の王朝が栄えていた。マラッカ王国は14世紀にできた王朝で、1511年にポルトガルの植民地として滅びてします。
民族・言語には関係なく、列強の軍事力で植民地としての境界が決められてきた。
19世紀末には、マレー半島・ジャワ島・スマトラ島・バリ島・ボルネオ島・セレベス島などをオランダ・イギリス・ポルトガルが分割統治していた。
5 - 愚民政策をとり、インドネシア人の教育は基本的に禁止した。
農業をするだけならば教育は必要ない。そのためオランダはインドネシア人に教育を施さず、民衆を文盲のままにした。知識階級が生まれることで、独立心・反抗心が芽生え広がることを防ぐのが、文盲・愚民政策の目的であった。
インドネシア人の教育は基本的に禁止していた。20世紀になって、世界の批判を受けて初等教育(3年間)だけは実施したが、学校に通えたのは僅か数%。さらに上級学校へ進学する者に対しては、オランダ語を強制した。大学卒業のインドネシア人は年に10人程度であった。
オランダ人の為に働く事ができる様に、「読み・書き・そろばん」を教えていたに過ぎない。インドネシアの歴史・童話・英雄伝説などは絶対に教えはしない。
道徳として、先生父母を尊敬する、貧しい弱い者を助ける、下層を軽蔑しない、人として礼儀正しく、勤勉奉仕の心などは絶対に教えない。
オランダ人は[神]のような存在であり、絶対服従することが当然であるように、洗脳教育を繰り返して教え込んでいたのである。
オランダが危惧していたように、初等・上級教育を受けたインドネシア人の中から「独立」「解放」を志す風潮が生まれ、さらに1905年に、同じ有色人種の国である日本が、日露戦争において欧米列強のロシアを打ち負かすという大事件が起きたことで、俄然、それらインドネシア人の独立心は激しいものとなっていく。
6 - 部族の交流を妨げる為に、言語を限定させた。
インドネシアは島が多く、それに比例して部族も多い群島地域である。部族にはそれぞれ言葉があり、部族の数だけ言語が存在している。オランダ人は部族同士の交流を禁止する為に、部族のオリジナルの言語しか使わせないようにした。ジャワ族にはジャワ語だけを、スンダ族にはスンダ語だけを使わせて、部族同士の交流が出来ないようにしていた。オランダ人は共通の言語ができると反乱に結びつくので共通言語を禁止し、近隣の部族同士が諍いが起きる様にさえ仕向けていた。
もちろん共通言語などを普及させるわけがない。

大半がマレー系であるが、ジャワ,スンダ等約300種族が存在している。
詳しくはこちらのページを参照してください
1928年10月27日・28日 第二回インドネシア青年会議
インドネシア語が民族の言葉として認められていく過程で画期となったのは、宗主国オランダからの独立を求める民族主義運動のころ、1928年10月27日・28日に開催された第二回インドネシア青年会議における次のような決議であった。
[青年の誓い]
  • 「我々インドネシア青年男女は、インドネシア国というただ一つの祖国をもつことを確認します」
  • 「我々インドネシア青年男女は、インドネシア民族というただ一つの民族であることを確認します」
  • 「我々インドネシア青年男女は、インドネシア語という統一言語を使用します」
民族主義運動を進めるために青年男女が共通言語を求めるのは当然である。オランダが植民地支配を続けるために、このような運動が起きないように共通言語の普及を阻止してきた事も事実である。
7 - インドネシア人の集会・団体行動を禁止していた。
住民の集会は一切禁止し独立運動家はすべてニューギニアなどの島に流刑、または死刑にした。
住民に武力反乱を起こさせないように青年の体育、団体訓練は禁止し、数人の行列行進さえも禁止した。
3人以上のインドネシア人が路上で立ち話をすることすら許されなかった。