更新日 2014年08月17日
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インドネシアの教科書で教えている[独立宣言]
インドネシアの普通高校3年の歴史で使われている教科書のインドネシア独立をテーマにした部分を和訳して紹介してしているホームページ(リンクしています)から抜粋させていただいた。
教科書から抜粋 :【 オランダ支配の終焉過程と日本のインドネシア進攻 】
1940年5月10日、ヒトラー(ドイツの指導者)はオランダを攻撃し、その結果オランダ政府はロンドンへ逃れた。それと同時に、インドネシアでは戦時非常事態法が施行され、政治的な集会は禁止された。国民参事会(注_1)のインドネシア指導者たちは、多くのことをなしえなかった。1940年9月には、枢軸(日本、イタリア、ドイツの連合)が形成された。
1941年12月8日(ハワイでは12月7日)、日本はパール・ハーバー、香港、マラヤを攻撃した。そして、オランダは連合国側に参加、つまり日本に対して宣戦布告した。1942年1月10日、日本はインドネシアへの攻撃を開始し、2月15日にはシンガポールのイギリス基地が日本側に降伏した。同月末、日本軍はオランダ、イギリス、オーストラリア、アメリカの合同艦隊をジャワ海海戦(注_2)で粉砕した。1942年3月8日、ジャワのオランダ勢力は降伏し、総督Van Starkenborgh Stachouwerは日本側に身柄を拘束された。日本はインドネシアを3つの支配地域に分割した。それは、(1) 第25軍が支配するスマトラ、(2) 第16軍が支配するジャワとマドゥーラ、(3) 海軍が支配するカリマンタンとインドネシア東部であった。
3年半におよぶ日本のインドネシア占領時代は、インドネシアの歴史において最も決定的な時期のひとつであった。ジャワでの日本の占領方針はインドネシアの民族意識を覚醒させ、その結果日本は占領した各地での戦闘・反乱に対処しなければならなかった。しかしながら、これら抵抗・反乱の試み全てが日本のインドネシア支配を脅かしたわけではなかった。
インドネシア占領時代、日本は西洋(ヨーロッパ)的な事柄を日本的な物へと変えていった。道路は新しい名前(注_3)を与えられ、"バタヴィア"市は"ジャカルタ"市へ変更された。インドネシア民衆の共感を得るため、またそれを確実なものにするため日本が実施したプロパガンダ(ある特定の目的へ誘導すること)の一つは、日本民族とインドネシア民族はアジアの新秩序を作り上げる大戦争の戦友であるというものだった。しかしながら、そういったプロパガンダの試みは度々失敗の憂き目を見た。なぜなら、強制労働、米の供出義務、軍警察(ケンペタイ)(注_4)の恐怖、殴打、暴行、日本人に対するお辞儀の義務(注_5)といった日本の占領下における苦い現実があったからだ。
他方、1944年2月アメリカ軍がマーシャル諸島を攻撃すると、アジア-太平洋の戦争(第二次世界大戦)での日本の状態はますます危機的なものとなった。それと同時にジャワの民衆による日本への反乱が目立つようになりはじめた。
教科書から抜粋 :【 インドネシアでの日本支配の終焉過程 】
アジア-太平洋の戦争を遂行する者として日本は連合国に対抗していたが、(1944年末を迎えると)その状況は逼迫し始めていた。各地の戦闘で日本が敗北し、日本の防衛線として戦略的に重要なマリアナ諸島のサイパンが1944年7月にアメリカの手に落ちると、この兆候はハッキリとしてきた。
これらの出来事は、日本の軍部とその政治的安定性を直接阻害するものとはならなかった。しかし、日本に対する国外からの様々な脅威はますます先鋭化していった。つまり、それは日本の軍事施設を破壊するアメリカの行為、日本のいくつかの重要都市を爆撃する継続的なアメリカの戦闘行動によって始められていた。このことは日本国内の政治的安定を阻害した。つまり、東条内閣が倒れたことによってハッキリとした。東条が職を辞すると、小磯国昭大将がそれを引き継ぎ、日本の総理大臣となった。小磯は、インドネシアを含む東南アジア植民地全てに対し独立を考慮する方向へより大きく傾いていた。
1945年3月インドネシアでの日本の防御はますます弱体化し、アメリカ軍がバリクパパン(東カリマンタン)へ上陸すると、緊急の度を増していった。このような危機に瀕して、1945年3月1日インドネシアの日本軍司令官原田熊吉中将は独立準備調査会の設立を発表した。
独立準備調査会(調査機関)は67名の会員からなり、そのメンバーは主要な国民的活動家および7名の日本人であった。そのメンバーの選出は1945年4月1日発表された。この調査機関の会長にはK.R.T Rajiman Wedioningratが指名され、R. Sorosoおよび日本人1名が副会長となった。この調査機関の会長・副会長の就任式は1945年5月28日に実施され、それには全てのメンバーとジャワ島を支配していた日本軍高官2名、つまり板垣大将と長野祐一郎中将が出席した。
独立準備調査会は、独立国家インドネシアの基本構想(哲学)を定式化するため、1945年5月29日から6月1日まで会議を行った。1945年5月29日、Muhammad Yaminは、5つの原則"インドネシア民主共和国の原則と基礎"を提案した。それはつまり
  • (1) 民族主義 (インドネシア民族主義)
  • (2) 人道主義 (国際主義または人道主義)
  • (3) 神への信仰
  • (4) 民主主義 (全会一致の合意または民主主義)
  • (5) 国民の福祉 (社会福祉)
であった。(注_6)
最初の会議を開催した後、独立準備調査会は1945年7月まで会議を延期した。1945年6月22日、独立準備調査会のメンバー9名、スカルノ、ハッタ、Muhammad Yamin、スバルジョ、A.A. Maramis、Abdulkahar Muzakir、Wachid Hasyim、H. Agus Salim、Abikusno Tjokrosuyusoにより、国家の基本構想(哲学)について継続的に調査活動を行う小委員会が設置された。この小委員会はその後、独立インドネシア国家の目標・基礎となるドキュメントを生み出した。それは、ジャカルタ憲章として知られており、Muhammad Yaminの命名に一致していた。
1945年7月、南方地域の日本軍司令官はシンガポールで会議を行い、1945年9月7日インドネシアに独立を与えるという決定を行った。この決定に対応して、1945年8月7日寺内元帥の許可で独立準備調査会は解散となり、それは独立準備委員会へ受け継がれた。
広島市と長崎市(日本)はそれぞれ1945年8月6日と9日連合国軍に爆撃(注_7)された。その結果、この2都市は壊滅し、日本の国防は完全に麻痺した。そして日本政府は1945年8月15日連合国へ無条件降伏した。広島・長崎の爆撃と同じ1945年8月9日に国民的活動家であるスカルノ、ハッタ、Radjiman Widyodiningratは、寺内(*7b)寿一最高司令官(東南アジア全域の司令官)の呼び出しでサイゴン(ベトナム)のダラトへ出発していた。スカルノ、ハッタ、Radjiman Widyodiningratが1945年8月11日現地時間11:40にサイゴン(ベトナム)のダラトに到着すると、寺内司令官はこの3名の指導者に対し日本政府の決定、つまりインドネシアへの独立の付与を伝えた。
インドネシア独立の準備を行うため、独立準備委員会の構成は独立準備調査会のメンバーと同じで良いと寺内は賛意を示した。独立準備委員会の議長には、スカルノが指名され、副議長はハッタだった。
教科書から抜粋 :【 インドネシア独立の準備過程 】
アジア-太平洋戦争での連合国に対する日本の敗北は、日本政府によってそのニュースが秘密とされた。しかしながら、インドネシア指導者たち、特に青年派指導者たちは日本敗北の知らせを手に入れていた。権力の空白~日本は連合国軍への権力委譲のため1945年9月8日までその到着を待つ必要があった~が存在することを知ったインドネシア青年派はこの事態を利用した。
この機会を無駄にはすまいと、1945年8月15日シャフリル、Chaerul Saleh、Darwis、Wikanaらは日本からの同意を待つ必要なくインドネシアの独立をすぐに宣言するよう、サイゴン(ベトナム)のダラトから戻ったばかりのスカルノとハッタに要求した。しかし、それを支持出来ないというスカルノ-ハッタからの返答を得た青年派は、1945年8月15日20:30にPegangsaan Timur(ジャカルタ)の細菌学協会の一室で会議を行った。そこではChaerul Salehが指導し、Johan Nur、Kusunandar、Subadio、Wikanaら青年派が出席していた。会議の結論は、全青年派が独立宣言に参加出来るように、そしてインドネシアの独立はインドネシア国民の問題であって、他国の事情によるものではないということだった。この決定は同日の22:30、WikanaとDarwisによってPegangsaan Timur 通り56番地のスカルノ邸へ伝えられたが、スカルノの考えを変えることは出来なかった。
長老派と青年派の間には考え方の差が存在した。そのため青年派は次の行動を起こした。つまり民族の指導者であるスカルノとハッタの二人を、日本側からの政治的影響・圧力が及ばぬよう、安全確保を目的にジャカルタ市外へ拉致するということであった。そして1945年8月16日の未明04:00、スカルノ-ハッタはSukarni、Yusuf Kunto、Syodanco Singgihによってレンガスデンクロックへ連れ去られた。そこはカラワンの北側にある地域で、中団長Subenoの指揮のもと一個中隊が占領していた。そこでスカルノとハッタは1945年8月16日に独立宣言を直ちに行うよう青年派に要求された。スカルノ-ハッタはインドネシア国民にとって非常に権威のある人物であり、独立宣言はどこからの援助も受けずに自らの力で実行しなければならないというのが彼ら青年派の論拠だった。
スカルノとハッタがレンガスデンクロックに拉致されている間、小団長Singgihとの個別の話し合いで合意が得られた。つまり、独立宣言はジャカルタへ戻った後、直ちに実施されるだろうと。このことは、長老派のスバルジョと青年派の小団長Subenoがジャカルタで合意した内容によっても支持された。つまり、独立宣言はその翌日の1945年8月17日、12:00より前に行われるというものだった。
この合意に達した後、スカルノ-ハッタはレンガスデンクロックを離れジャカルタへ戻った。1945年8月16日23:00、ジャカルタへ戻るとすぐにスカルノとハッタは西村少将に独立宣言実施の件で面会したが、支持は得られなかった。この西村の対応によって、スカルノとハッタはインドネシア独立宣言を日本を含む他国の援助・付与なしに行おうと、決意をますます固めたのだった。その夜、独立準備委員会のメンバーと青年派リーダーたちも独立宣言準備と独立宣言文起草のため前田精少将の邸宅へ急ぎ集まった。
スカルノ-ハッタと日本の管理者側そしてインドネシアの指導者たちとの間に様々なが議論が行われた後、独立宣言文の起草作業が直ちに行われた。独立宣言文の起草は、スカルノ、ハッタ、スバルジョによって行われ、1945年8月17日未明の03:00に完了した。
独立宣言文の草稿が書き留められ、別室で待っていたインドネシア全指導者たちの前で彼らの意見を求めるため読み上げられた。独立宣言文に対して若干の変更を加えた後、出席者全員がその草稿について賛成した。しかし、まだ問題が残っていた。誰がその独立宣言文に署名するのが適切かということだった。Sukarniが、インドネシア民族の名においてスカルノとハッタが署名することを提案した。
そして独立宣言草稿はSayuti Melikによってタイプされ、インドネシア民族の名においてスカルノおよびハッタにより署名された。こうしてタイプされ、日付が与えられ、署名されたことにより、草稿は正式な独立宣言文となった。また、この会議ではインドネシア独立宣言をジャカルタのPegangsaan Timur通り56番(現在のProklamasi通り)にあるスカルノ邸で読み上げることも決定された。1945年8月17日は朝からジャカルタのPegangsaan Timur通り56番にあるスカルノ邸でインドネシア独立宣言を迎えるための準備が行われていた。
全ての準備が完了すると、青年派の一人dr. Moewardiがスカルノにインドネシア独立式典が始まる時刻について質問した。その質問に対するスカルノの答えは、ハッタが到着の後、独立宣言文を読み上げるというものだった。09:55、ハッタがスカルノ邸に到着すると、10:00丁度にインドネシア独立宣言式典が開始された。スカルノとハッタが拡声器の前に現れた。そして独立宣言演説(注_8)を行い、それに続いてインドネシア独立宣言文を読み上げた。
(注_1): 原文「Volksraad」。国民参事会、植民地議会などと訳される。ヨーロッパ人、現地人などから構成される諮問機関。
(注_2): 「ジャワ海海戦」は連合国側の呼称であり、日本側の呼称は「スラバヤ沖海戦」です。
(注_3): 通りの名称「Oranje Nassauboulevard」を「Myakoodoori」(みやこ大通り)へ変更
(注_4): 原文「kenpetai」。憲兵隊
(注_5): 日本軍人に対するお辞儀の義務化
(注_6): 1945年6月1日、スカルノは五つの原則からなる独立インドネシア国家の基本思想について演説を行っている。この5原則は、スカルノによってパンチャシラと名付けられた。
(注_7): 爆撃と表記されているが、「原子爆弾」とは書かれていない。
(注_8): 独立宣言演説 (別ページで全文紹介)

右端:教科書に載っている前田海軍少将の写真で、独立宣言の歴史を教える中で唯一の外国人の写真である。インドネシア人ならば誰もが知っている日本人である。