更新日 2014年08月17日
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オランダ東インド会社
[オランダ東インド会社]が出来た背景
16世紀頃 ヨーロッパの国際取引の中心地、スペイン領ネーデルランド
16世紀のヨーロッパにおける国際取引の中心地は、スペイン領ネーデルランド(現在のベルギー、オランダ、ルクセンブルクの三国に北フランスを加えた地域)であった。
この頃のアントワープは、南ドイツから運ばれる銀と銅、イギリスから運ばれる毛織物、そしてポルトガルの持ち込む香料 の集散地であり、16世紀のヨーロッパにおける国際取引の中心地として繁栄していた。
スペインから独立したネーデルラント連邦共和国 ( オランダ )
 1581年にネーデルラント連邦共和国(オランダ)は独立を宣言したが、それに対してスペインは1585年にオランダとの貿易を全面的に禁止して、オランダ船の拿捕命令を出した。そのため、オランダ商人はリスボンやアントウェルペンに入港できなくなり、アジア産の香辛料を直接手に入れなければならない情勢となった。
国土の狭小さを補う必要があり、通商国家として活路を見いだそうとした。オランダ商人はポルトガルが抑えているインド航路やスペインが抑えている大西洋航路を避け、東南アジアへの進出に努めた。次第にイギリスと競合するようになってきた。
優秀な船製造・地図職人、資本家がアムステルダムに移り住んだ
 スペイン領ネーデルランドの時代は、アントワープが国際取引の中心地であったが、独立戦争の影響で優秀な造船職人や地図職人、豊かな資本家達が北部の小さな港町であったアムステルダムに移り住むことになる。
1594年にアムステルダムに設立された遠国会社は喜望峰まわりでアジアに向かう船団を編成、4隻の船が1895年に出航し、ポルトガル船の目を盗みながら1896年、ジャワのバンテンに到達した。
それに刺激されて次々と会社が設立され、競合するようになった。

1581年にスペインから独立した [ ネーデルラント連邦共和国 ]
独立前は[アントワープ]が栄えていたが、独立後は[アムステルダム]を貿易集積地として発展させた。
濃いグレーの北部7州と薄いグレーの南部10州を合わせて、独立前のスペイン領ネーデルランドであった。
外国との競争に対抗する為に[オランダ東インド会社]を作る。
オランダの商社同士で競うことになり、季節風に影響される帆船での航海なので、同じ時期にオランダを出港する事になる。そして、同じ時期にオランダ東インド領で積荷を仕入れをする為に、オランダの商社同士が過当競争を行い仕入れ値を高くすることになる。さらに、同じ時期にオランダに持ち帰るために、積荷を売り捌く時にも競争を招いてします。
オランダの商社同士での過当競争で利益を失うより、共同で事業を行うことで利益を確保することが求められるようになった。さらに、外国との競争に対抗する必要がその動きを後押しすることになる。
1600年にイギリスが東インド会社を設立、国王から独占を認められた特許会社が発足して新たな脅威となると、オランダでも貿易会社の一本化の必要に迫られ、ホラント州法律顧問オルデンバルネフェルトは単一の会社への統合を開始した。各州の連合体であったオランダでは、統一会社の設立に反対も強かったが、ようやく1602年に「オランダ連合東インド会社」が設立された。
世界最初の株式会社と言われる。イギリス東インド会社は、1航海ごとに出資者をつのる方式で、恒常的な株式会社ではなかった。
またイギリス東インド会社の第一回航海の出資金に対して、オランダ東インド会社はその約10倍の資本金で始まっている。

1602年、オランダ東インド会社がアムステルダム証券取引所で最初の株券を発行した
[オランダ東インド会社]の経営の特徴
現在の株司会者と同様な性格をすでに持っていた。
・株主は無限責任から有限責任に移行している
・出資者は間接に出はなく直接に会社に出資する
・株式の譲渡は自由とされる
正式な本社がない。アムステルダム、ホールン、エンクハイゼン、デルフト、ロッテルダム、ゼーラントの6支社から構成される、「連合」東インド会社であった。アムステルダム支社が出資額が最も大きかったので事実上の本社の役割を果たした。
十七人会の取締役が牛耳った。大口出資者76名が重役となり、その中から選ばれた17人が取締役会を構成し、連合会社全体の経営方針を決定した。十七人会に東インドにおける条約締結、戦争の遂行、要塞の構築、貨幣の鋳造などの権限が与えられた。
総督ではなく連邦議会から特許状が出された。当初は21年間の期限付き特許状であったが、その後も更新された。
喜望峰からマゼラン海峡までの貿易独占権。インド洋から太平洋にいたり、インド・東南アジア・東アジアを含む広汎な範囲での貿易の独占権と、総督を任命したり、要塞を設けて兵士を駐屯させ、敵対する国・勢力と戦争をする主権的権限が与えられた(東インドでは一個のドック率した国家のような存在であったといえる)。
会社なので領土は持ってはいない。植民地を支配するためには帆船・軍艦・兵力・航海の能力などが重要な要件となる。この要件が充実していれば後から植民地支配として領地を得ることになる。
[オランダ東インド会社]は軍事力の強い強い国策会社と言い換えることができる。
[腹式簿記]を世界で初めて導入
16世紀以降、コロンブスのアメリカ発見(1492年)、ヴァスコ・ダ・ガマの喜望峰迂回によるインド航路発見(1498年)などを契機に、イタリアの商業都市の衰退に伴って、商業上の覇権が地中海から北部ヨーロッパ諸国に移っていく。
簿記研究の中心も、オランダの新興商業都市のアントワープやアムステルダムに移行します。
口別損益計算から総合損益計算へ [ジャン・イムピン「新しい手引き」]1543年刊(アントワープ)
年次期間損益計算の提唱 [シモン・ステヴィン「数学の伝統」 ]1605年刊(アムステルダム)
航海毎に出資・配当を繰り返す事から、株式会社として年次毎に会計決算をし、出資者にその都度決算報告するように進化してきた。
オランダ東インド会社で[腹式簿記]が本格的に採用された。
株式会社であるから利益を出し配当金を出すことが目的である。会社の利益配当は300%という高配当の時もあったが、船が難破した際は配当0の場合も有った。1602年から1798年の間の平均値は18%であった。
制度の高い地図を求めた
オランダ東インド会社は、効率よい経営をするため精度の高い地図帳の編纂が必要となり、天文・測量機器の販売を行っていたブラウ家に地図作製を依頼した。
ブラウ家はオランダの地図学者の一家で、初代ウィレム・ブラウ、息子のヨハン・ブラウらが活躍している。
彼ら2代のブラウ家は成功者となり彼らの販売した地図帳は、王侯貴族のサロンや貿易会社のデスクのみならず、裕福な市民の本棚にも誇らしげに飾られた事になる。

ヨアン=ブラウ「大地図帳9巻(アジア全図)」(オランダ語、アムステルダム、1664-1665年刊)
上記の地図は帆船の航海地図というよりも、装飾品として編成されている。
[オランダ東インド会社]の衰退
1672年には第3次英蘭戦争と、フランスのルイ14世によるオランダ侵略戦争が同時に始まるというオランダにとって大きな危機を迎えた。
総督ウィレム3世の指導でその危機を乗り切ったが、フランスの脅威が収まらない情勢であった。後に、ウィレム3世は第3次英蘭戦争で戦っていた英国の国王に迎えられることになる。
イギリスと提携に転じ、ウィレム3世がイギリス名誉革命を機にイギリス王を兼ねてウィリアム3世となった事で、イギリスとオランダは[同君王国]となる。
ウィリアム3世はイングランド銀行を設立して国債を発行し戦費をまかなう。
フランスはウィリアム3世の即位を認めず、直ちに宣戦布告した。こうしてフランスとの第2次百年戦争といわれる長期抗争に突入していくことになる。
18世紀にはイギリスはアメリカ新大陸とインドでのフランスとの植民地競争に勝利して植民地帝国となっていくが、ウィリアム3世の死後、イギリスと分離したオランダは、海洋帝国としての輝きを失い、その植民地はオランダ領東インドのみに限られていく。
また18世紀にはオランダ東インド会社の香辛料貿易は、イギリス東インド会社の展開するインド産綿布、アヘン、中国産の茶という新しい商品に押されて次第に活力を失い、オランダは東インド会社の中継貿易への依存を徐々に弱め、オランダ領東インドでのサトウキビ、コーヒー、藍などの商品作物の栽培へと力点を変えていく。
※[ウィリアム3世]は、イギリス・オランダ・フランスに大きく影響を及ぼした人物である。ここでは簡単に触れる程度にしておくが、後に別ページで詳しく調べてみることにする。
[オランダ東インド会社]の解散
18世紀末に世界情勢は大きく変化した。1789年に始まるフランス革命の余波で1795年にネーデルラント連邦共和国が倒れてオラニエ家はイギリスに亡命、オランダにはバタヴィア共和国が成立した。
イギリスに亡命したオラニエ家のウィレム5世は、東インド会社に書簡を送り、主権をイギリスに移譲するよう命令したが、バタヴィアの会社指導部は、都市貴族の常として反オラニエ家の感情が強かったのでそれを拒否した。
本国の共和国政府と議会は1799年にオランダ東インド会社の解散を決定し、その資産と債務はバタヴィア共和国に継承された。
この間、イギリスはオランダの海外拠点を次々と占領し、1811年にはバラヴィアを含むジャワ島を支配下に収めた。ジャワ島はその後約5年間、イギリスの統治を受ける。
1814年、ナポレオンの没落によってオラニエ家のウィレム1世を国王とするオランダ立憲王国(連合王国)として復活、ジャワ島・バタヴィアもイギリスから返還された。オランダは、ジャワ島を中心としたインドネシア諸島を「オランダ領東インド」として直接支配することとなった。