更新日 2017年09月22日
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インドネシアの独立戦争(オランダ・イギリスからの独立)
1929年12月29日 インドネシア国民党の指導者[スカルノ]が逮捕される
オランダ領東インド時代の1927年に、のちに初代大統領となるスカルノによって結成された[インドネシア国民党]が結成される。
インドネシア国民党は、インドネシアの独立と民族の統一をとなえて、当時の植民地政府と鋭く対立したが、オランダ領東インド政府はインドネシア国民党に対し1928年5月と1929年7月の2回にわたり注意を与えた後、その年の12月29日一斉に幹部を逮捕し、翌年12月末に禁固刑を下した。
指導者スカルノらの逮捕とともに、執行部は党員の安全を考慮して1931年4月25日に党の解体を決定した。
1931年2月に恩赦をあたえられて出獄。しかし、1933年8月にはふたたび逮捕され、フローレス島のエンデに、続いて1938年2月スマトラ島のベンクルに流刑となった。
1942年3月9日 オランダが日本軍に降伏、スカルノとハッタを解放
1941年12月に太平洋戦争が始まると、アメリカ領フィリピンやイギリス領マレー半島から宗主国の軍隊を放逐した日本軍が、またたくまにオランダ領東インド全域(=インドネシア)からオランダ軍を放逐し、オランダ植民地政府とその軍隊はオーストラリアに逃げることとなった。
その後すぐに第16軍司令官である今村均は、オランダ植民地政府に囚われていたスカルノやハッタらを解放した。今村はインドネシアの民生の安定のために知名度の高いスカルノやハッタらの民族主義者の協力を要請した。
スカルノらもまた民衆総力結集運動を組織し、インドネシアの独立のために日本軍に協力し、イギリス軍やアメリカ軍、オランダ軍をはじめとする連合国軍と対峙することを選択した。
1943年にスカルノとハッタは日本を訪問し、昭和天皇と面会するなど日本との関係を強めていくとともに、インドネシア独立への道筋を作っていった。またその後もインドネシアの殆どの地域は戦禍に巻き込まれることがなく平穏な状態が続いたものの、日本はその後イギリスやアメリカ、オーストラリアなどを中心とする連合国軍に対して各地で劣勢となっていき、1945年8月15日に敗戦へと追い込まれる。
1942年 オランダ支配下の刑務所の改善
オランダ支配時代の刑務所は植民地政策を基に、幹部職員はオランダ人、中級幹部職員はオランダ人とインドネシア人との間に生まれた者となっていた。それまでの応報(犯した罪に同じ罰をうける)、威嚇、排害(害のある在任を取り除く)のみの伝統的刑罰制度で厳しく管理されていた
日本統治時代は、再犯防止など社会復帰を目的とする処遇に大きく改革された。
日本占領直後のジャワ島における刑務所管理は不十分だったようで、日本が刑務所管理を行うにあたり日本人専門家を配置し、司法部行政課と職員養成機関を設立したようです。軍占領地における刑務所管理は混乱が多く発生するが、ジャワ島では大きな混乱が起きてはいない。占領を軍が短期間で行い、また、住民が抵抗せず改革を受け入れてボランティア活動の応募に応じ住民が積極的に参加していた。
日本占領直後のジャワ島で刑務所管理の責任者として在任した「東邦彦」という方が、ジャワ島の司法官吏養成所の現地職員への講義のために、昭和18年ごろにインドネシア語で書いた「SEMANGAT NIPPON dan tijita-tijita oeroesan pendjara di keradjaan dai nippon」という文献があります。日本統治時代の官吏養成の一環です。
1942年10月21日 [インドネシア語整備委員会]を設置
1942年10月21日、日本軍政当局はスタン・タクディル・アリシャバナ(Sutan Takdir Alisjahbana)ら著名なインドネシア人文学者を動員して「インドネシア語整備委員会」を設置し、インドネシア語の体系化を図った。
日本軍政当局がインドネシア語を共通語としたことによって、インドネシア語が全土に広がり、そのことがインドネシア人たちに自分たちの繋がりを意識させることになった。
インドネシア語は、国家統一のシンボルとなり、その普及は独立運動の促進をももたらした。
元大統領スカルノは「われわれが一つの社会に、一つの国にまとまるためには、統一された新しいインドネシア語をもたねばならないのである」と語っている。また元副大統領アダム・マリク(Adam Malik)も「現在、国語になっているインドネシア語は、国家建設にとって重要な要因であった」と述べており、インドネシア語およびその普及がインドネシアにとっていかに重要な意味を持っていたかを物語っている。
日本がインドネシア語を公用語として普及・発展させたことは、インドネシア民衆の心を一つにするとともに、インドネシアの独立やその後の国づくりに大いに役立ったと言えよう。
1943年8月1日 [インドネシア人の政治参与政策]を発表
1943年5月31日、大本営政府連絡会議(御前会議)で「大東亜政略指導大綱」が決定し、ジャワにおいては「原住民ノ民度ニ応シ努メテ政治ニ参与セシム」ことが定められ、6月16日、東条英機首相は「1年以内にジャワに政治参与を許す」ことを表明した。
これに伴い、8月1日、第16軍司令官原田熊吉中将は、政治参与政策を発表し、その具体的措置として軍政諮問機関の設置、参与制度および高級行政官への任用を実施した
1944年9月7日 [小磯声明]で民高級官吏の登用・参与会議の設置・政治参与
1944年9月7日に小磯首相が東印度の独立認容を表明し、その具体的措置として原住民高級官吏の登用範囲の拡大、参与会議の設置など政治参与の拡充が図られた。
ルスラン・アブドゥルガニ(歴代政権の外交顧問を務めた)が「インドネシア民族が政府を運営していくための必要な行政能力を身につける機会を得たということである」と述べているように、日本の政治参与施策は、インドネシア人に独立後直ちに必要となった行政技術を修得させる重要な経験となった。
日本は、できる限りインドネシア人の高級官吏を育成し、高度な政治技術を身につけさせるとともに、技術部門にインドネシア人を採用・指導して各種技術を修得させ、国や政府を運営していけるだけの人材の育成に努めたと言えよう。それが、後年、インドネシアの国づくりを大いに助けた。
[農園管理][農業技術][武器の製造]などを学ぶ機会を提供した
民族主義指導者の一人であるイワ・クスマ・スマントリ(Iwa Kusuma Smantri)が「日本軍がインドネシア人に行った教育により、漁労、農業、その他の産業分野における作業方法も改善されるようになった。・・・インドネシア人は、各専門分野におけるマネジメントの方法を学んだ。その中には、農園管理や農業技術の管理から武器を扱う技術まで含まれていた」と述べているように、日本軍政当局は、インドネシア人に行政や農園・企業経営のノウ・ハウを学ぶ機会を与えている。
1943年10月3日 [ジャワ防衛義勇軍(通称ペタ)]が設置される
1943年4月末頃から募集が開始された兵補とともに、日本軍の蘭印防衛のための兵力不足を補うために創設された。日本軍政下でインドネシア人が武器を持つことが初めて許された組織で、地元出身青年を核とする郷土部隊の性格を備えていた。
元ペタ兵士は「日本人は団結と民族主義的な誇りを教え込み、行政のやり方を教え、義勇軍や兵補の教育を通じて戦闘能力を与えてくれた。これは日本人のインドネシアに対する偉大な貢献であり、これなくしてわれわれの独立達成はありえなかった」、あるいは「私は当時、日本の訓練を受けました。とても厳格な規律、闘争に参加していた私たちすべてのインドネシアの青年を形づくり、軍事知識は完全とはいえないまでも、私たちにオランダに立ち向かっていく力を十分に与えたのです。・・・日本軍に与えられたこの訓練のおかげで、その後オランダに立ち向かう十分な力を組織することができ、大変役に立つことになったのです」と回想している。
その創設目的は日本軍の軍事力の補強(補完)であったが、義勇軍将兵等に対する厳しい軍事訓練や精神教育はインドネシア青年に軍事技術ばかりでなく、反オランダ意識や規律、闘争心などを育み、それらがオランダとの独立戦争や独立後の国家建設に役立ったと言えよう。
、日本軍政当局は、義勇軍や兵補のような軍事組織ばかりでなく、青年団、警防団、ジャワ奉公推進隊、回教青年挺身隊などの準軍事組織(青年組織)を編成(創設)し、これらに軍事教練を実施した。特に、ジャワ奉公推進隊および回教青年挺身隊は、独立革命の中で有力な武装集団に発展している。
日本軍は、インドネシア青年たちの戦力化を図り、かつ彼らを対日協力の方向に導くために各種組織や団体を編成し、教育、訓練を行った。それらが青年たちに軍事技術を身につけさせ、攻撃精神を育むとともに、独立への意欲を掻き立てる契機を与えたものと思われる。
日本軍政下における軍事組織等の創設(編成)や軍事訓練の実施がなければ、インドネシアはオランダとの独立戦争を勝ち抜けず、したがってインドネシアの独立もなかったかも知れないといわれている。
1944年9月7日 [小磯声明]が第85帝国議会の施政方針で演説される
1943年1月28日、当時の日本の首相、東條英機が帝国議会においてビルマとフィリピンの独立承認を明らかにした。しかし、この時点ではインドネシアは、日本帝国の永久確保地域とすることが極秘で決められていた。
1944年9月7日、小磯國昭首相によって「東印度(オランダ領東インド)」に対する「将来の独立許容」を盛り込まれた小磯声明が発表された。
「帝国ハ東『インド』民族永遠ノ福祉ヲ確保スル為メ、将来其ノ独立ヲ認メントスルモノナルコトヲ茲ニ声明スルモノデアリマス」
この声明は、第85帝国議会における施政方針演説においてなされたものである。
インドネシア国旗の掲揚と国歌の斉唱を解禁する
日本がインドネシアを占領下に置いた日本軍政期は、その最初期と末期以外にはインドネシアの紅白旗を掲げることが禁じられ、軍政への協力を求められた民族主義者たちに失望と不満をあたえることになった。
[小磯声明]を契機に、インドネシア国旗の掲揚と国歌の斉唱が解禁された。
インドネシア独立承認は、南方戦線で劣勢が明らかになっての対応
1944年の中頃になると、南方の日本軍は危機的な状況に陥り、対日感情の悪化が色濃く見られ始めたインドネシア人の民心をつなぎ止めるため、小磯國昭首相によって「東印度(オランダ領東インド)」に対する「将来の独立許容」をうたう小磯声明が発表された。
[小磯声明]では独立の時期は明示しないなど、独立問題の本質的な前進にはほど遠く、インドネシア民衆は内容の具体化を希求するに至った。軍政当局は、戦局の悪化もあり、具体的措置として1945年3月1日、独立準備調査会の設置を発表した(5月、正式に発足)。本調査会の目的は、独立準備のために必要な一切の問題を調査研究することにあった。
1945年3月1日[独立準備調査会]の設置を発表(5月、正式に発足)
本調査会の目的は、独立準備のために必要な一切の問題を調査研究することにあった。日本側としては、インドネシアは地理的、人種的あるいは社会構造的に複雑な問題を抱えているので、政体、国家組織、宗教、国民、領土の範囲など独立に関する基本的問題の調整と準備に相当長時日を要すると考えていたが、それらはわずか 2回の会議で討議を終了した。
インドネシア側委員の努力はもちろんであるが、日本人は特別委員として参加し、参考意見を述べることだけが許されていたことやジャワ軍政監であった山本茂一郎少将が日本人委員に「一般委員に自由に発言研究をなさしめ、これを指導したり誘導しないこと」などの注意を与えていたことも大いに影響していると思われる。
1945年8月7日[独立準備委員会]の設置を発表
1945年7月17日、最高戦争指導会議(小磯国昭内閣の1944年8月に、大本営政府連絡会議を改称して設置された会議)は「大東亜戦争完遂ニ資スル為帝国ハ可及的速カニ東印度ノ独立ヲ容認ス之ガ為直チニ独立準備ヲ促進強化スルモノトス」と、インドネシアの独立方針を決定し、8月7日には[独立準備委員会]の設立が発表された。
[独立準備委員会]は、8月18日に正式に発足する予定であったが、終戦に伴い、それは幻に終わってしまった。
1945年8月15日 日本が連合国に降伏する
日本降伏後、オランダ領東インドはイギリス軍東南アジア司令部の管轄に入り、あくまでオランダ領東インドの植民地政策継続を望むオランダ軍の進駐準備が済むまで、とりあえずイギリス軍部隊が進駐し、それまでは日本が治安維持を行うことになった。
基本的に日本側では現地人の反日感情を惹起しないよう、現場兵士に対して武器使用を禁じていた。
一方、インドネシア側では連合軍に上陸、ひいてはオランダ軍との戦闘に備えた独立派による日本軍の武器庫に対する小規模な略奪行為などが散発していた。
日本軍の現場将兵は、連合軍の命令に従わなければならない日本軍上層部とインドネシア独立派との間で板挟み状態となった。
1945年9月29日 イギリス軍第一陣がジャカルタに上陸
連合軍第一陣であるイギリス軍が、1945年9月29日にジャカルタに上陸する。
10月1日付でイギリス陸軍のフィリップ・クリスティソン中将をトップとするオランダ領東インド連合軍(AFNEI)司令部がジャカルタに設置され、ジャカルタ、バンドン、スラバヤ、スマランにイギリス軍が配置された。
しかし、国際的承認はなかったといえ、すでに独立を宣言していたインドネシア共和国政府側がこれを受け入れるはずもなかった。同時にイギリス側、オランダとインドネシア共和国政府との関係には不介入の立場を堅持していた。
連合軍の上陸は、独立を唱える勢力の中でも急進派には非常なる危機感を持って捉えられた。つまるところオランダ軍の本隊到着まで残されたわずかな時間で、将来予測される武力衝突への備え、具体的には武器の確保を行わなければならなかったのである。当然、その標的として武装解除間近の日本軍の兵器に目をつけることになった。
1945年10月2日 独立派住民により[竹槍騒動]が起きる
敗戦した日本軍が、連合国からインドネシアの治安維持を命じられていた。インドネシアの独立派はイギリス・オランダに抵抗する為に、日本軍が持っていた武器を必要であった。
10月2日、スラバヤの日本帝国海軍諸施設や憲兵隊本部が軽武装の独立派住民に取り込まれることになる。この時、包囲した住民の多くが竹槍のようなもので武装していたため、この事件は通称[竹槍騒動]と呼ばれる。
住民側からは軽い攻撃もあったが、日本軍側反撃をせず、最終的に第二南遺艦隊司令官の柴田弥一郎中将の判断で、海軍の保有する武器は急進派勢力へと引き渡されることになる。
また、スラバヤ駐留帝国陸軍では、連合軍への武器引き渡しを行ったものの、連合国側が日本軍に代わる治安維持をインドネシア人による警察に委ねたため、間接的に独立派へと武器が当たった。
1945年10月12日 悲劇的な[スマラン事件]が起きる
※ 1944年にスマランの「慰安所」で起きた強制売春・強姦事件は「スマラン慰安所事件」で、本件とは別の事件である。
10月12日、インドネシア独立派の群衆がスマランの日本軍駐屯地を訪れて武器の引き渡しを求め、日本側が拒絶した。これを契機に独立派は市内や周辺都市で日本人の軍人や民間人を襲撃・拉致した。
日本側が武力行使を決断して独立派を鎮圧し、停戦協定を結んだ10月19日までに民間人を含め200人を超える日本人の死者・行方不明者が発生した。
インドネシア人の日本軍に対する復讐とは言えない事件である。武器を渡せというインドネシア独立派と渡すなという連合軍命令との板挟みの中で起きた、不幸な日本人虐殺事件である。
この事件の被害者になったある人物のことは、日本、インドネシア双方で細々と語り継がれている。事件の最中、スマラン郊外のブル刑務所に収録されて、そこで殺害された森永乳業社員の[ 阿部頌二 ]のことである。
阿部は森永乳業がスマトラ市で運営していた農園に勤務していたが、戦後暴徒化した独立派に拉致され、ブル刑務所に収監されていた。
そこで、監房内にいた日本人と一緒に閉じ込められていたまま、一斉射撃を受けて亡くなったのである。銃弾を受けてもなおしばらく息が有ったらしく、自らの血で監房の壁に現地語で、[Bahsagia Indonesia Merdeka](インドネシア独立万歳)と綴り、さらに日本語で[インドネシアの独立のために喜んで死す。大君・・・]とまで書いたところで絶命したらしく、阿倍の人差し指は 血糊で壁に貼り付いたままであったという。
阿部頌二の[血の遺書]で、日本人が解放され、早期に帰国できた。
阿部頌二が死亡した数か月後にブル刑務所を訪れたカスマン国防相が、獄中を点検中に阿部頌二の残した血書をみつけ、直ちにスカルノ大統領に伝えられた。
国境・民族・憎しみを越え、死の瞬間までインドネシアの独立を念じた阿部頌二の行動は、スカルノ大統領を強く感動させた。同時にこの感動は広くインドネシア全体に波及し現地人と日本人のトラブルがなくなり[日本人は同胞]の意識を強めさせた。
各地に抑留されていた日本人は一斉に釈放されインドネシアが準備した船で速やかに帰国することができたのでした。その数は6万4000人であった。
日本人が不安なく帰国できたのは阿部頌二のおかげともいわれた。
インドネシアは1949年12月に国連の斡旋で主権を確立した。阿部頌二の父・松五郎が1958年に日本を訪れた時スカルノ大統領の招待を受けている。
1945年10月20日 オランダのファン・モーク副総督がジャカルタに上陸