更新日 2017年09月22日
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フィリピンの植民地時代
フィリピン スペインとアメリカの植民地の時代
◆スぺインの植民地時代
1521年にマゼランが到着し、フィリピンの存在がスペインに知られる。スペインのフェリペ2世は1556年に即位し、積極的なフィリピン征服に乗り出し、ポルトガルの西回りによるアジア到達に対抗するために、東回りで大西洋・太平洋を横断するフィリピン航路と、フィリピン植民地を確保しようとした。1565年にレガスピを艦隊司令官兼総督に任命、メキシコから太平洋を渡ってきたレガスピ艦隊はセブ島に上陸し、アジアで最初のスペイン人の町を築き、セブ島首長と条約を締結して正式にスペイン領とした。(フェリペ2世の名にちなみ、フィリピンと名付けられている。)
◆19世紀後半に[ホセ=リサール]によるスペインからの独立運動が開始される。
ホセ=リサールはフィリピン独立運動の初期の指導者。5代目世代の華僑系メスティーソ(混血)、ドミニコ修道会所有の農園の小作農であったが、教育の機会に恵まれマニラのサント・トマス大学で医学を学び、21歳でスペインに留学した。マドリッドで同じく留学中のフィリピン人と会い、フィリピン人はスペイン人に劣るのではなく、足りないのはただ教育の機会だけだと考えるようになり、同胞を啓蒙して、スペインの従属から解放することに使命を見出した。
1887年に『ノリ・メ・タンヘレ(私にさわるな)』、1891年に『エル・フィリプステリスモ』を出版し、激しくスペインの支配を告発した。1892年、マニラに戻り、社会改革を目ざすフィリピン民族同盟(リガ)を結成したが、ただちに総督によって逮捕されミンダナオ島に追放された。1896年、かねて志願していたキューバへの軍医としての派遣を許可され、ミンダナオ島を離れた。
ボニファシオらが組織した独立派の武装組織「カティプーナン」が蜂起しフィリピン革命が始まると、リサールもその指導者のひとりとして再び逮捕され、簡単な裁判にかけられた。リサールはこの蜂起には直接かかわってはいなかったが、有罪とされ、1896年12月30日に銃殺刑となった。この日は現在、国民的英雄リサールの命日としてフィリピンの祭日となっている。

反乱、扇動、違法結社の無実の罪で死刑を宣告され、1896年12月30日にバグンバヤン広場(現在のリサール公園)で銃殺された。
◆1898年、キューバ島をめぐり、アメリカ合衆国とスペインの戦争が起きる。
ハバナ港でアメリカの軍艦メイン号が爆沈して多数のアメリカ兵が犠牲となったメイン号事件(アメリカの謀略という説もある。)が起きると、マッキンリー大統領がスペインに宣戦した。ラテンアメリカ・フィリピンでスペイン軍と戦闘の結果、4ヶ月でアメリカの勝利となった。
◆マッキンレー政権(海軍次官セオドア=ローズヴェルトを中枢とする共和党)によりフィリピン略奪
米西戦争最大の事件が、カリブ海ではなく、アジアを舞台にして起こった。ジョージ・デューイ総司令官の率いる米国アジア艦隊が、香港からマニラ湾に向かい、一夜のうちにスペイン艦隊を打ち破ったのである。アメリカ側の死者は1名であった。このニュースを、多くのアメリカ人は、驚きをもって受け止めることになる。彼らにとって、キューバをめぐる戦争が、なぜ遠く離れたフィリピンを舞台として戦われるのかまったくの謎だったのである。しかし、この戦略は、マッキンレー政権の下で、時間をかけて練り上げられていたものであった。・・・・何とかして東アジアにアメリカの足場を築きたいという考えた(海軍次官セオドア=ローズヴェルトらを中枢とする共和党の)マッキンレー政権にとって、スペインとの戦争は、フィリピンからスペインを駆逐し、アジア市場への拠点を築くまたとない機会だったのである。
◆ジョージ・デューイ総司令官の陰謀
ジョージ・デューイ総司令官は1898年5月1日にマニラ湾を攻撃し大小10隻のスペイン艦隊を全滅させた。陸上に拠点を持たないアメリカ軍は、急遽、香港に亡命中のアギナルドをアメリカ艦船でフィリピンに上陸させて、フィリピンの独立を約束し[スペイン軍 対 フィリピン独立軍]で陸戦を行わせた。
ジョージ・デューイ総司令官はベルギー公使を通じてスペインのマニラ総督と秘密交渉を行っていた。スペイン総督は「スペインの名誉を守るため、見せかけの戦闘を行い、その後スペイン軍は降伏する」と約束し、その場合はフィリピン軍のマニラ進入は許されないという条件を付けた。デューイは条件を守ることを約束した。
1898年8月13日、雨期の最中で土砂降りの雨の中、マニラ総攻撃が行われた。フィリピン軍は積極的に攻撃したが、いたるところでアメリカ軍に進路を妨害された。午前11時に戦闘は終わり、城郭都市の一角に兼ねての約束通りスペイン軍の白旗が上がった。早速市内に入ろうとしたフィリピン軍は、米軍の屈強な警備兵に阻まれた。スペイン総督からの降伏を受け入れたのはアメリカ軍最高司令官メリットだった。「こうしてアギナルド軍は、マニラ解放の歴史的な日に、米軍の脇役に押しやられた。」

右にあるヘルメットに「AGUINALDO」と、エミリオ・アギナルドの名前が書かれている。
フィリピンの革命家にしてフィリピン共和国の初代大統領。
アンクルトムが「その石は誰に投げるのか?」と聞いている。
◆アギナルドによるフィリピン共和国の独立宣言
亡命先の香港からアメリカ艦船でフィリピンに戻ったアギナルドは、アメリカに協力することによって独立を保証されると考え、1898年6月12日にフィリピン共和国の独立を宣言した。マニラはまだ解放されていなかったので、独立宣言はカビテ州カウィットのアギナルドの生家で行われた。9月にはマニラ北方のマロロスに移り、翌1899年1月に共和国議会を開催、アギナルドを初代大統領に選出した。このフィリピン共和国を、第1次フィリピン共和国、あるいはマロロス共和国とも云う。
◆1898年12月 パリ条約でフィリピンはアメリカの植民地となる。
アメリカ=スペイン戦争はアメリカの勝利に終わり、1898年12月パリ条約(パリ協定)が締結され、アメリカはスペインからフィリピンを2000万ドルでアメリカに譲渡された。アメリカは、フィリピンの独立に口頭の約束を与えていたが、強固なアメリカ帝国主義の主張により、フィリピン独立を認めず、遅れたフィリピンの発展にはアメリカの指導が必要という口実の元に植民地支配を開始した。アギナルドらの独立運動は、フィリピンの安定を疎外するものとして排除されることとなった。
◆アメリカ=スペイン戦争で、アメリカが獲得した植民地
パリ講和条約で、アメリカはスペインにキューバの独立を認めさせ、アメリカはフィリピン・プエルトリコ・グアムを領有した。これはアメリカが行った帝国主義戦争であり、これによって海外に殖民地をもつ国家として一躍世界の強国となった。なお、米西戦争の時、アメリカがキューバに上陸した地点を、戦後に永久租借とした。キューバが社会主義国となってもアメリカは返還せず、グアンタナモ基地として使用し続けている。
米国はこのパリ条約で名目上キューバを独立(1902年)させた、しかしプラット条項により事実上保護国化(1901年~1934年)されていた。
米比戦争(べいひせんそう)1899年-1913年
アメリカに協力してスペインと戦ったアギナルドの指揮するフィリピン共和国を、アメリカは承認せず、共和国軍を反乱軍として鎮圧しようとしたため、1899年2月、フィリピン=アメリカ戦争(単にフィリピン戦争とも言う)が始まった。フィリピン軍はゲリラ戦で抵抗したが、1901年、アギナルドがルソン島北部で捕虜となり、1902年に敗北した。フィリピンの独立は認められず、これ以後アメリカの統治が続き、1942年の日本軍の軍政を経て、1946年に独立を達成する。
フィリピン独立革命 1896年-1898年
 16世紀後半以降、スペインの植民地支配のもとに置かれていたフィリピンでは、19世紀後半に植民地統治の改革を目指すプロパガンダ運動が展開され、これが急進化して1896年の独立革命と発展した。しかしこの第一の革命はいったん敗北し、1898年、米西戦争に乗じて第二の革命が起こった。
  • 1898年07月15日 アポリナリオ・マビニを首相とする革命政府の内閣が発足
  • 1898年08月13日 スペイン軍を降伏させた米軍は、それまで軍事的に貢献してきた独立派のマニラ入市を許可しない。
  • 1898年08月末日 独立派はアメリカ軍と提携して各地に侵攻し、8月末までにルソン中央部・南タガログ地域をスペイン支配から解放して革命政府の支配下に置いた。
  • 1898年09月10日 マニラ近郊のブラカン州マロロスが臨時の首都とする。
  • 1898年09月15日 フィリピン人による独自の議会開設
  • 1898年12月21日 アメリカのマッキンリー大統領が「友愛的同化宣言」を発して独立を否定
  • 1899年01月21日 独自の憲法(マロロス憲法)を制定
  • 1899年01月23日 「フィリピン(第一次)共和国」(マロロス共和国)の樹立宣言に至るまで独立国家としての整備を進めていた。
  • 1899年02月04日 両国間の戦争(米比戦争)が始まる。

1892年7月6日、フィリピン独立を求める秘密結社『カティプナン』が結成される
カティプナンのメンバー(撮影日時不明)
アメリカの帝国主義による行動
 それまで植民地支配をしてきたスペイン軍と戦う為に、アメリカはフィリピン独立革命政府を利用したのだ。
 フィリピンを植民地支配する為に、1898年12月21日アメリカのマッキンリー大統領が「友愛的同化宣言」を発して独立を否定し、武力でフィリピン独立革命政府を完全に鎮圧する。
 アメリカ帝国主義のアジア侵出の一環として起こった戦争であり、列強による中国分割、イギリスの南アフリカ戦争、さらにまもなく起こる日露戦争などと共に、帝国主義列強による世界分割戦争の一つである。(同時に展開された義和団事件ではアメリカは出兵したが、フィリピンに兵力を割いていたので、多くは派兵できなかった。)またこの戦争は、アメリカが関わった最初のアジア人との戦争であり、後の太平洋戦争、ベトナム戦争につながっていく。

1898年の米西戦争当時の政治漫画 - 「端から端まで1万マイル」
アメリカのシンボルの白頭鷲を使用して、プエルトリコからフィリピンまでのアメリカの支配の拡大を示している。
右下の100年前(1798年初頭)のアメリカ合衆国が小さい地図と対比されている
アメリカ軍の残虐行為
アメリカに対してフィリピンの民衆はゲリラ戦で抵抗した。フィリピン方面のアメリカ軍最高司令官マッカーサー将軍(後に日本占領の最高司令官となったダグラス=マッカーサーの父)は、1900年に正規軍ではないゲリラは「兵士としての資格に欠け、したがって、もし捕虜となった場合、戦争における兵士の特典を享けるに値しない」と声明を行った。将軍の配下のジェイコブ=スミス将軍は「10歳以上はすべて殺すこと」と簡潔な命令に要約した。 
当時、フィラデルフィアの新聞で報じられた現地報告には「アメリカ軍は犬畜生とあまり変わらぬと考えられるフィリピン人の10歳以上の男、女、子供、囚人、捕虜、……をすべて殺している。手を挙げて投降してきたゲリラ達も、一時間後には橋の上に立たされて銃殺され、下の水におちて流れていく……」こうした記事は残虐行為を非難するためでなく、文明人が非文明人に対する行為として正当化するために書かれていた。
フィリピンのアメリカ軍指揮官には本土でインディアン=ファイターとしてコマンチやアパッチと戦っていたが、「一人のインディアンをつかまえるのに100人の兵士を要したものだったが、フィリピン人はいっそうたちが悪い」と言っている。インディアン戦争からフィリピンへ、さらにベトナムへとつながるのがアメリカの歴史の最暗部である。 

ニューヨーク・イブニング・ジャーナル、1902年5月5日の社説漫画。
「最も悪名高い漫画の一つ」と批評されている。
ヤコブハード・スミス将軍が出した命令『 kILL EVERY ONE OVER TEN 』 (10歳以上は皆殺しにしろ)漫画上部
アメリカのシンボルは白頭鷲だが、禿鷹を描いて揶揄している。