更新日 2017年09月22日
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大東亜戦争 年表
大東亜戦争 年表
1898年12月10日 米西戦争の平和条約がパリで結ばれる
米国が獲得した内容
 ① キューバ独立の承認。
 ② スペインが領有していたフィリピン群島、グアム島、プエルトリコをアメリカへの割譲。
 ③ フィリピン割譲に対して、アメリカがスペインに2,000万ドルを支払うこと。
これでアジアへの植民地獲得競争に割り込む準備が整ったと言える。
1899年 地球上に残された最後の非植民地
アメリカは国内での南北戦争で支那(地球上で最後に残された非植民地)への植民地獲得競争に出遅れてしまっていた。当時の支那は、香港・揚子江に英国、満州にロシア、山東省にドイツ、海南島・広西省・雲南省にフランス、福建省に日本と影響力を及ぼす地域が既得権益として確立されていた。
アメリカによる門戸開放政策
アメリカは中国における他国と同等の特権を得るべく、アメリカのジョン・ヘイ国務長官は1899年、列強主要国(フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、日本、ロシア)に対し、中国の主権の尊重と中国内の港湾の自由使用を求める通牒を発した。これに対し各国は、それぞれの利権のために他国の判断が下されるまでは判断を留保すると返答した。
1900年3月、ジョン国務長官は、通牒の内容は有効になったと宣言、これに対して日本だけはこの宣言に対し異議を申し立てたが、アメリカは門戸開放が国際的な政策になったとの主張を展開した。同年、義和団の乱の後に、ヘイ国務長官は同等の趣旨(ただし、より領土保全が強調されている)の文章を各国に再送した。
門戸開放通牒の内容
 ① 列強の勢力範囲や条約上、開かれている港湾では均等な交易機会が与えられること
 ② 清国政府のみが関税徴収の権限を持つこと
 ③ それぞれの勢力範囲で、列強は港湾や鉄道使用に関わる使用税を他国に対して差別的に課さないこと
これに明確に反対したのはロシアだけであった。支那の地理を考慮すれば、満州・北部支那の市場をロシアに奪われないようにアメリカと英国が共同で仕組んだ事が、この門戸開放通牒の目的であったことが伺える。
1899年2月 フィリピン=アメリカ戦争が始まる。
米西戦争で勝利した後、パリ条約(1898)でアメリカはフィリピンを2000万ドルで買い取って領有し、軍政下に置いた。アメリカに協力してスペインと戦ったアギナルドの指揮するフィリピン共和国を、アメリカは承認せず、共和国軍を反乱軍として鎮圧しようとしたため、1899年2月、フィリピン=アメリカ戦争(単にフィリピン戦争とも言う)が始まった。
フィリピン軍はゲリラ戦で抵抗したが、1901年、アギナルドがルソン島北部で捕虜となり、1902年に敗北した。フィリピンの独立は認められず、これ以後アメリカの植民地政策が続き、1942年アメリカ極東陸軍のダグラス・マッカーサー司令官が日本軍との戦いに敗れオーストラリアに逃げるまで続いた。
フィリピン=アメリカ戦争での損害
1902年7月4日にルーズベルト大統領が終戦宣言をする。アメリカ兵の動員数は126000人、戦死4234人、負傷2800人、数千人が病死、アメリカの戦費は総額で6億ドルにのぼる。フィリピン独立派の戦死およそ20000人、民間人の飢えや病で200000人死んだと推定される。
1901年9月14日 セオドア・ルーズベルトが第26代大統領になる
第25代大統領のウィリアム・マッキンリーが暗殺され、副大統領であったセオドア・ルーズベルトが第26代大統領に就任する。42歳という若さで大統領に就任し、歴代アメリカ合衆国大統領のランキングで現在でも偉大な大統領の一人として格付けされる。
日露戦争の停戦を仲介し、その功績でノーベル平和賞を受賞した。彼はノーベル賞を受賞した初のアメリカ人であった。
セオドア・ルーズベルトの外交方針
「文明国は非文明国を啓蒙する義務があり、文明国間の外交は常にパワーバランスの中で制御されたものでなければならない。」
「強国に対しても堂々とわれわれの権利を主張し、そして同時に、弱い国に対しても強い国に対しても十分な礼節と正義感を持って接する。」
セオドア・ルーズベルトの信念が対日本外交に象徴的に表れている
親日派から日本脅威論者へ
セオドア・ルーズベルトは高度な日本文化の存在をはっきりと認識し、深い理解を示していた事は疑いのない事実です。それを示す逸話には事欠きません。
ポーツマス条約の斡旋に乗り出したのはハーバード大学の同窓生で、面識のあった金子堅太郎(1878年卒業)の働きもあったと言われる。
アメリカ人初の柔道茶帯取得者であり、山下義韶から週3回の練習を受けるとともに、山下が海軍兵学校で柔道を教えるよう尽力した。東郷平八郎が読み上げた聯合艦隊解散之辞に感銘を受け、その英訳文を軍の将兵に配布している。また、忠臣蔵の英語訳本(『47ローニン』)を愛読していたとの逸話がある。
ただ、日露戦争後は、次第に極東で台頭する日本に対しては警戒心を感じるようになり、やがて贔屓も薄れ、事務的かつ冷淡な場面も見られた。
1902年1月30日 日英同盟が締結される。
1902年1月30日にロンドンで同盟条約が締結された。内容は、イギリスの清国における特殊権益と、日本の清国・朝鮮(大韓帝国)における特殊権益を相互に承認し、第三国と戦争となった場合、他の一方は中立を守ることを約した防御同盟であった。日本はイギリスとの同盟を背景に、日露戦争を戦い、イギリスは規定どおり厳正中立を守った。
その後、第二次(1905年)、第三次(1911年)と継続更新されたが、1921年のワシントン海軍軍縮会議の結果調印された四カ国条約成立に伴って1923年に失効した。
日本は、ロシアが日清戦争後に朝鮮で次第に勢力を強め、さらに義和団事変後も満州への居座りを続けるロシアに対し強い危機感を持っていた。
イギリスは、アジアにおいてロシアの侵出はインドと中国におけるイギリスの権益に対する脅威として警戒するようになっていた。しかしイギリスは、当時、南アフリカ戦争が長期化し、アジアに充分な力を注ぐ余裕がないという事情があった。その中で日本の台頭という状況を踏まえ、日本との同盟関係を選びことにおって権益を守ろうとした。
1904年2月8日 日露戦争
大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。両国はアメリカ合衆国の仲介の下で終戦交渉に臨み、1905年9月5日に締結されたポーツマス条約により講和した。
日本の戦費はアメリカの資本家が提供している
ロシアとの戦争に勝つ見込みが少ない日本を評価する資本家は英国・アメリカにはほとんどいなかった。その中で、ニューヨークのクーンロエプ商会代表者シフが日本公債の発行に応じてくれた。シフは世界的な大富豪であり、米国のユダヤ人の会長であった。ロシアではユダヤ人が虐待されており、海外のユダヤ人はロシア政府を援助することによって、同胞の待遇を改善しようとしていたが、ロシア政府は金を借りるときだけ都合の良い事を言って、一向に約束を守らない。そのロシアに戦いを挑んだ日本の兵は訓練が行き届いて強いということを知り、これを財政的に助けて、よしんば日本が勝利を得なくとも、ロシアの政変にでもつながれば、ユダヤ同胞はその虐政から救われるだろう、と考えたのであった。
1904年9月 シベリア鉄道が全線開通
1901年にはバイカル湖の区間を除いて開通していたが、日露戦争の最中1904年9月に全線開通した。(モスクワ - ウラジオストク間9,297km)
シベリア鉄道の短絡線として満州(現在の中国東北部)の北部を横断し、ハルビン(哈爾浜)などを経由する東清鉄道を含めての開通である。(1896年の露清密約で約束されていた。)
1891年に建設を開始し、露仏同盟を結んでいたフランス資本からの資金援助を受けながら難工事を進めた。1891年当時のフランスの思惑は対英国である。当時は英国とアフリカの植民地獲得競争を繰り広げていた。英国をロシアの南下政策の対応に向かわせるために資金援助を行っていたのである。英国が支那での既得権益を守るために戦力を極東に向かわせる事を目的とした間接的な戦略である。
ロシアが極東(満州)に進出する背景には、英国・フランス・ドイツのヨーロッパ列強の利害の対立が影響している。
1905年7月29日 桂・タフト協定 (合意を記した会合覚書)
日露戦争中の1905年(明治38年)7月29日に日本の内閣総理大臣兼臨時外務大臣であった桂太郎と、フィリピン訪問の途中に来日したアメリカ合衆国特使であったウィリアム・タフト陸軍長官との間で交わされた協定。「桂・タフト覚書」とも呼ばれる。
米国は当時の大韓帝国における日本の支配権を確認し、日本は米国のフィリピンの支配権を確認した。 列強が勢力を模索する時代の中で、日米首脳が相手国の権利を認め合った協定である。
桂・タフト協定の内容
桂首相は、「日本はフィリピンに対し、如何なる侵略的意図をもゆうしていない」と積極的に開陳した。朝鮮問題については「朝鮮は日本が露国と戦った直接の原因となったところであるから、戦争の論理的結果として半島問題を完全に解決することが日本にとって絶対に重要」である。もし朝鮮がそのまま放置されれば「朝鮮は必ず無思慮に他国との協定又は条約を締結する習癖を繰り返すこととなり」それは国際的紛糾を再現するであろうから、「日本は、朝鮮が旧態に戻り、日本をして再び外国との戦争に突入せざるを得なくするようなことを阻止するため、断固たる手段を取らざるを得ない」と表明した。これに対してタフト特使は桂首相の見解の正当性を十分に認め、日本が朝鮮に対して宗主権を設定して、朝鮮が外国との条約を締結するには日本の同意を要するとすることは、「東洋における永久の平和に直接寄与するであろう」と述べた。タフトは改めてルーズヴェルト大統領に電報で合意を確認し、文書とした。
アメリカが日英同盟の影のメンバー
覚書の中で桂首相は日英同盟に対するアメリカの理解を要請している。言葉を変えて表現するなら、アメリカに日英同盟の影のメンバー(シークレット・メンバー)になってほしいと求め、ルーズベルトはその要請に肯定的に応じている。
1905年8月12日 日英同盟(第二次)が改定される。
日露戦争の終わる直前の1905年8月12日に改定された第二次日英同盟は、同盟の適用地域が東アジアおよびインドと拡大されてインドにおけるイギリスの、朝鮮(大韓帝国)における日本の優越権をそれぞれ認め、また同盟義務も第三国から攻撃された場合は相互に軍事的援助の義務を負うという本格的な軍事同盟(攻守同盟)に深化した。
日英同盟の強化によりアメリカでの日本人差別を和らげたい目的も含んでいる。
ヨーロッパでドイツの海軍が強化され続けている。ドイツ海軍に対抗するためには世界各地に展開しているイギリス海軍を本国周辺に引き戻さなくてはならない。そのためには太平洋での防御を日本海軍に負担を
1905年9月4日 ポーツマス条約(日露講和条約)
アメリカ合衆国大統領セオドア・ルーズベルトの斡旋によって、日本とロシア帝国との間で結ばれた日露戦争の講和条約。
講和内容
  • 1.日本の朝鮮半島に於ける優越権を認める。
  • 2.日露両国の軍隊は、鉄道警備隊を除いて満州から撤退する。
  • 3.ロシアは樺太の北緯50度以南の領土を永久に日本へ譲渡する。
  • 4.ロシアは東清鉄道の内、旅順-長春間の南満洲支線と、付属地の炭鉱の租借権を日本へ譲渡する。
  • 5.ロシアは関東州(旅順・大連を含む遼東半島南端部)の租借権を日本へ譲渡する。
  • 6.ロシアは沿海州沿岸の漁業権を日本人に与える。
1905年10月15日 桂・ハリマン覚書
日露戦争直後、ポーツマス条約締結の最中、アメリカの鉄道王ハリマンが来日し、満州における共同の鉄道経営を提案し、日本政府内の大方の合意を取り付け、帰国した。
その帰国後、ポーツマス条約交渉から帰ってきた、小村寿太郎は、「桂・ハリマン覚書」の破棄を強硬に主張し、覚書は破棄されることとなった。
満州の利権を手に入れられなかったアメリカは、日本のアジアでの影響力を削ぐ為に日英同盟の解消などへ動き始める。
ハリマンには世界を周回する輸送網の構築計画がある。
ハリマンはアメリカ国内の鉄道網だけでなく、太平洋の海運も支配していた。将来、ニューヨークからサンクトペテルブルクを結ぶ航路を開設し、それをシベリア鉄道に連結させる。そして南満州鉄道を利用し、旅順港あるいは朝鮮半島の鉄道網を使って釜山港まで鉄道網を繋げる。そこまで完成すれば、ハリマンのコントロールするパシフィック・メール蒸気船会社との連結で世界周回の輸送網が完成できる。
1906年 サンフランシスコ市の日本人学童隔離問題
同年の大地震で多くの校舎が損傷を受け、学校が過密化していることを口実に、市当局は公立学校に通学する日本人学童(総数わずか100人程度)に、東洋人学校への転校を命じたのである。この隔離命令はセオドア・ルーズベルト大統領の異例とも言える干渉により翌1907年撤回されたが、その交換条件としてハワイ経由での米本土移民は禁止されるに至った。
この背景としては、日露戦争に伴ってアメリカが外債の消化や平和交渉など日本を影から支援したにも関わらず、日本が門戸開放政策を行わなかったことへの不満も挙げられる。
1907年 満鉄平行路線の敷設計画(新民屯-法庫門間鉄道)
満鉄の買収計画は失敗に終ったが、ハリマンはは諦めてはいなかった。ロンドンのボーリング商会(実林公司)が満鉄に平行する新民屯-法庫門間鉄道の敷設権、及びこれが将来チチハルに延長される場合その敷設権をも合せて中国政府より拾得した情報を、当時奉天米国総領事だったストレートによってこの情報がハリマンに伝えられた。
即ちストレートは奉天巡撫唐紹儀との間に於て、米資二千万ドルを以て満州銀行の設立を計画し、これによってハルピン-愛揮間鉄道を敷設して前記ボーリング商会の法庫門鉄道と連絡しようとした。
しかし、袁世凱の失脚により鉄道敷設計画は中止された。
1907年7月30日 第一次日露協約
日露戦争で敗北したロシアは満州南部・朝鮮半島への進出を諦めて、バルカン半島へ戦力を集中させることになり、日本との衝突を避けることになる。
日本は日露戦争後に批判を強めるアメリカに対抗する必要上、ロシアと結ぶことを良しとして協商関係が成立した。
[満州・朝鮮・モンゴル方面における日本とロシアの基本権益をアメリカ(及びイギリス)から守るための帝国主義的勢力圏分割協定]と言うことが出来、その内容は秘密協定とされた。
両国が清国から得た権益を相互に尊重することを定め、秘密条項でハルビンと長春の中間点を境界として北満州をロシアの、南満州を日本の勢力圏とし、外蒙古のロシアの特殊権益を日本が認め、日本と韓国との共通利害関係にあることをロシアが認めることを定めた。日本はこの協定によってロシアから承認されたとして、韓国併合を進め、1910年に実現した。
この協約の背景にはフランスが大きく影響している。フランスは当時ドイツとの対立が深刻になっていたので、英仏協商に続いて英露協商が成立することを強く望んでいた。日英同盟を結んでいる日本がロシアと協調しなければイギリスは動けない。そこでフランスは盛んに日本にロシアとの協約締結を勧めた。その時切り札になったのは、日露戦争後で財政が厳しい日本に対し、フランスとイギリスがその国債を引き受けるという条件であった。フランスは半ば脅迫的に財政支援を餌に日本にロシアとの提携を迫り、日本も実利を取って日露協約を結ぶことになる。
1908年11月30日 高平・ルート協定
アメリカ合衆国国務長官エリフ・ルートと、日本の高平小五郎駐米大使の間で交わされた協定。「太平洋方面に関する日米交換公文」とも呼ぶ
1908年11月時点における領土の現状を公式に認識し、清の独立及び領土保全、自由貿易及び商業上の機会均等(すなわちジョン・ヘイによって提案されたような「門戸開放政策」)、アメリカによるハワイ王国併合とフィリピンに対する管理権の承認、満州における日本の地位の承認から成っている。また暗黙のうちに、アメリカは日本の韓国併合と満州南部の支配を承認し、そして日本はカリフォルニアへの移民の制限を黙諾した。
1909年10月 満鉄平行路線の敷設計画(錦州-愛琿間鉄道)
満鉄平行路線の敷設計画の失敗以来再度の機会を覗っていたストレートは、錦州より愛琿に至る延長実に950マイルを越える所謂錦愛鉄道敷設計画を樹てた。
そして先ずモルガン商会、第一国立銀行、ナショナルシテイ銀行等を勧誘して銀行団を組織し、本国における陣容を整えてから、ボーリング商会と提携して東三省総督との間にこの鉄道の借款予備契約を締結した。
この実現の暁には、満鉄及び東清鉄道には大きな影響が出ることは明らかなので、日露両国は中国に対し強硬なる抗議をした。
 一方米支両国は翌年1910年3月最後の契約を締結し、米国は清国政府より正当に得た権利であることを力説して譲らなかった。
 こうして日露対米中の間には一時険悪な空気が漂ったが、英仏両国は日露を支持するなど世界の世論は米支両国側に不利に傾き、問題は紛糾裡に立消えとなって了った。
1909年11月 米国により満州鉄道中立案が提唱される。
米国は錦州-愛琿間鉄道計画によって日露を脅しながら、国務卿ノックスの名に於て日露英仏独五ヶ国に対し、突如として満州鉄道中立案を提唱した。
提案の要旨は、『満州鉄道の中立は中国の領土保全及び機会均等主義の実現に就き重大なる関係を有する。よってこれを列国の共同管理下に置き、満州における中国の主権を確立させ財政及び幣制改革の実際的基礎を与えるとともに、各国は貿易上の機会均等主義を享有せんとする』
従来犬猿の間柄にあった日露両国は既得損益確保のため急に親密となり『満州の現状を侵害すべき事件の発生したときは両国協力して当る』ことを約したのである。
中立案は却って日露の既得権を強固にする結果となった。
1910年7月4日 第二次日露協約
1907年に結ばれた第一次日露協約を更新し、秘密協定で相互の勢力圏における特殊権益の確保のために両国が協調することを定めた。背景にはその前年、アメリカの国務長官ノックスが満州鉄道中立化計画を打ち出し、米・日・英・仏・独・露・清の7ヵ国による満鉄経営の提案したことに対し、日露両国が満州での権益を脅かされると反発したことであった。なおアメリカの満鉄中立化提案は日露の他、英仏も反対したため実現しなかった。
1911年5月20日 湖口帝国政府鉄道・最終協定
日露戦争後、日本の満州への侵出に対してアメリカは強い警戒感を抱いていた。アメリカは満州を市場とすると共に鉄道敷設などの資本投下先として有望と考えていたので、日本によってその権益が独占されることを警戒したのである。日本に対する警戒はアメリカ本土で日本人移民排斥運動が強まったことにも現れている。日本はアメリカに対抗して1907年から日露協約を数度にわたり改定して共同で権益を守ろうとした。イギリスも日米関係の悪化を恐れた。それは日英同盟があるためもし日米戦争となればイギリスもアメリカと戦わなければならなくなるからである。そこでイギリスは第三次日英同盟の改定に際し、将来日米開戦に至った場合にはイギリスは援助義務を負わないことを明らかにした。
アメリカを適用範囲から除外
第三次日英同盟では、東亜およびインドを同盟の適用範囲としたが、その際アメリカを同盟の封象から除くことにした。移民問題やカリフォルニア州土地問題、および日露戦争以後の日本の急速な満洲進出に封するアメリの封抗(ハリマンの満鉄共同経営案、新法鉄道経営計書、錦愛鉄道計角、満鉄国際管理案、満洲銀行設立案、満洲定案等)などから日米關係は悪化していた。そこでイギリスは日米問の紛争からイギリスが日本を援助してアメリカと職わなけれぼならないような事態の生ずるのを避けるたに、アメリカを適用範囲から除外した。
1911年にはすでに、日米が紛争を起こす懸念があったことを意味している。
1911年7月13日 第三次日英同盟
日露戦争後、日本の満州への侵出に対してアメリカは強い警戒感を抱いていた。アメリカは満州を市場とすると共に鉄道敷設などの資本投下先として有望と考えていたので、日本によってその権益が独占されることを警戒したのである。日本に対する警戒はアメリカ本土で日本人移民排斥運動が強まったことにも現れている。日本はアメリカに対抗して1907年から日露協約を数度にわたり改定して共同で権益を守ろうとした。イギリスも日米関係の悪化を恐れた。それは日英同盟があるためもし日米戦争となればイギリスもアメリカと戦わなければならなくなるからである。そこでイギリスは第三次日英同盟の改定に際し、将来日米開戦に至った場合にはイギリスは援助義務を負わないことを明らかにした。
アメリカを適用範囲から除外
第三次日英同盟では、東亜およびインドを同盟の適用範囲としたが、その際アメリカを同盟の封象から除くことにした。移民問題やカリフォルニア州土地問題、および日露戦争以後の日本の急速な満洲進出に封するアメリの封抗(ハリマンの満鉄共同経営案、新法鉄道経営計書、錦愛鉄道計角、満鉄国際管理案、満洲銀行設立案、満洲定案等)などから日米關係は悪化していた。そこでイギリスは日米問の紛争からイギリスが日本を援助してアメリカと職わなけれぼならないような事態の生ずるのを避けるたに、アメリカを適用範囲から除外した。
1911年にはすでに、日米が紛争を起こす懸念があったことを意味している。
1913年 第一次排日土地法
アメリカ・カリフォルニア州議会で1913年に可決された。
市民権獲得資格の無い外国人(主にアジア系移民)の土地所有および3年以上の賃借を禁止した。法律では日本人を特定していないが、当時日本以外のアジア系移民に市民権獲得資格がなかったため、日本人をターゲットとしていることは明白であったために「排日土地法」と呼ばれる。
法案起草者のウェッブ・ヘニーは、「この法案は、農業において日本人がこれ以上発展するのを防ぐのではなく、カルフォルニア州から日本人を追い払うことを目的としている」と述べている。
1914年8月15日 パナマ運河の開通
フランスの主導で1880年1月1日に建設を開始したが、黄熱病の蔓延や工事の技術的問題と資金調達の両面で難航し、1889年に事実上計画を放棄した。パナマ運河の地政学的重要性に注目したアメリカ合衆国は、運河を自らの管轄下におくことを強く志向した。アメリカ政府はパナマ市にいた独立派の運動家と手を結び、1903年11月3日、この地域はコロンビアから独立を宣言しパナマ共和国となり、時の大統領セオドア・ルーズベルトのアメリカ合衆国は10日後の11月13日にこれを承認し、5日後の11月18日にはパナマ運河条約を結び、運河の建設権と関連地区の永久租借権などを取得し工事に着手した。
セオドア・ルーズベルトは 自伝の中で「私が大統領の職にあって成し遂げた最大の功績はパナマ運河をアメリカのものにした事である。」と断言している。
地政学で評価したパナマ運河
地政学で考えるとアメリカは島国である。大西洋と太平洋に囲まれた大きな島国とみなすことができる。アメリカは常に外交・防衛を大西洋・太平洋の二方向で対応しなければならなかった。パナマ運河が開通するまでは、同時にヨーロッパとアジアの両方面で紛争が起きることを避けてきた。アジアでの強国である日本には南下してフィリピンに向かわないように対応し、北方面に向かわせロシアの南下阻止に外交努力をしてきた。
1917年11月2日 石井・ランシング協定
日本の特命全権大使・石井菊次郎とアメリカ合衆国国務長官ロバート・ランシングとの間で締結された、中国での特殊権益に関する協定である。
日米両国が中国の領土的・行政的統一を尊重して中国大陸における門戸開放政策を支持することを誓った上で、日本の中国大陸に於ける特殊権益(於満州・東部内蒙古)を認めるものだった。すなわちアメリカの中国政策の一般原則と日本が主張する特殊利益との間の妥協点を決定するものであった。
1919年1月18日 パリ講和会議(討議はパリで行われ、条約調印はベルサイユで行われた)
第一次世界大戦における連合国が中央同盟国(ドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国・ブルガリア王国)の講和条件等について討議した会議。世界各国の首脳が集まり、講和問題だけではなく、国際連盟を含めた新たな国際体制構築についても討議された。
中華民国は国内世論におされて、1915年に結ばれた日中間の二十一か条条約の取消を会議に要求した。しかし、同じ様に中華民国に利権を持っている英国・仏国・ソ連は、山東問題には興味が薄く議論を望んでいなかった。
日本が人種的差別撤廃を提案する
日本が人種的差別撤廃提案をするが、オーストラリアやアメリカ合衆国上院が強硬に反対し、ウッドロウ・ウィルソンアメリカ合衆国大統領の裁定で否決された。国際会議において人種差別撤廃を明確に主張した国は日本が世界で最初である。
日本がこの提案をする背景には、当時アメリカ合衆国・カナダ等で問題となった日系移民排斥問題がある。
この提案はアメリカの黒人層、インド、東南アジアなど植民地の被支配層からも高い注目を集めた。賛成国がどちらかというと移民を送り出す側で、反対した国が、移民を受け入れる側の国であることには注目すべきである。
アメリカでは差別を受けていた米国黒人が講和会議での日本の差別撤廃案に期待をしていた。賛成多数であったにもかかわらずウィルソンが議長裁定により法案を成立させなかった。米国黒人が自国政府代表のウィルソン大統領の裁定に対して多くの都市で人種暴動が勃発し、100人以上が死亡、数万人が負傷する人種闘争が起きた。
1920年 第二次排日土地法
1920年にはカリフォルニア州で日本人の借地権も禁じる法案が可決した。今度は日本人移民の子供まで土地所有が禁止されてしまった。 同様の法案は1924年までに10を超える州で成立する。
1921年11月12日 ワシントン会議 開始
第一次世界大戦後にアメリカ合衆国大統領ウォレン・ハーディングの提唱でワシントンD.C.で開かれた国際軍縮会議。国際連盟の賛助を得ずに実施され、太平洋と東アジアに権益がある日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・中華民国・オランダ・ベルギー・ポルトガルの計9カ国が参加、ソビエト連邦は会議に招かれなかった。アメリカ合衆国が主催した初の国際会議であり、また史上初の軍縮会議となった。主な議決は次の3項目である。
  • 米・英・仏・日による、太平洋における各国領土の権益を保障した四カ国条約を締結。それに伴う日英同盟破棄。
  • 上記4ヶ国(米・英・仏・日)にイタリアを加えた、主力艦の保有量の制限を決めたワシントン海軍軍縮条約の締結。日本は対米英6割を受諾せざるを得なかった。
  • 全参加国により、中国の領土の保全・門戸開放を求める九カ国条約を締結。それに伴い、石井・ランシング協定の破棄と山東還付条約の締結。
アメリカが会議を招集した目的は、明らかに日露戦争及び第1次大戦によって日本が築き上げた成果を米中連携のもとに否定する事であった。米国と中国政府とがいわば反日同盟を結び、それが外交的勝利をおさめたということを意味している。
1923年8月17日 日英同盟が失効する
1921年 日本・アメリカ合衆国・フランス・イギリスとの四カ国条約(ワシントン会議)により日英同盟の廃止を決定されていた。
第当時の英国外相バルフォアは「20年も維持し、その間二回の大戦に耐えた日英同盟を破棄することは、たとえそれが不要の物になったとしても忍び難いものがある。だがこれを存続すればアメリカから誤解を受け、これを破棄すれば日本から誤解を受ける。この進退困難を切り抜けるには、太平洋に関係のある大国全てを含んだ協定に代えるしかなかった」という心境を告白している。
1924年 排日移民法(正確には1924年移民法)
それまでの排日法は州法だったが、これは連邦法で、国家全体として全日本人移民を排斥することにしたものである。これは「日米通商航海条約(1899)」に明らかに違反し、アメリカの主張する「門戸開放・機会均等」の趣旨にも反していた。日本側には非はまったくなく、一方的にアメリカは日本を敵視したのである。
この法律の成立でついに日本の世論は激昂した。それまで日本人はアメリカが好きだった。しかし、アメリカが日本を嫌う理由が単に人種差別であることを日本人は悟ったのである。日本は言論界・財界まであげて反米に回った。
1924年 オレンジ計画の作成
米西戦争によりフィリピン、グアムを獲得したアメリカが西太平洋をそのまま西進して行き着く方向には、日本が日清戦争により朝鮮半島含め大陸へと進出し始めていた。米西戦争を終えたアメリカにとって潜在的な警戒すべき問題となっていた。この頃からアメリカは対日本戦争計画の研究作業を開始する。
日露戦争が終結すると中国問題が日米間で重要問題化しだし、両国間の緊張が高まりだす。アメリカは日本を仮想敵国とした戦争計画の策定に本腰を入れ始め、一連のカラーコード戦争計画の一つであるオレンジ計画が誕生する。オレンジ計画では初期の頃より『日本が先制攻撃により攻勢に出て、消耗戦を経てアメリカが反攻に移り、海上封鎖されて日本は経済破綻して敗北する』という日米戦争のシナリオを描いてシミレーションされ、実際の太平洋戦争もこれに近い経緯を辿っていく。日露戦争の最中、第一次世界大戦といった日本と協調関係にあった時期でも、対日本戦争計画、オレンジ計画は研究され続けていた。
1927年 打通線(1927年7月25日に完成)
奉海線(1927年9月に完成)

日本の新鉄道建設を中国は拒否する一方、自国の建設を促進し、満鉄と並行する鉄道をアメリカの資本を導入して完成させる。これは「満鉄併行線禁止規定」に明らかに違反しているが、中国側は無視して完成させている。
1929年10月24日 暗黒の木曜日(Black Thursday) 世界大恐慌
ニューヨークのウォール街での株価大暴落である。その影響の広がりや期間を考慮に入れればアメリカ合衆国の歴史の中でも最大級の壊滅的な株価大暴落であった。
株価の暴落が世界恐慌の切っ掛けになった訳ではない。当時は株式市場の役割が小さかったために被害の多くはアメリカ国内に留まっていた。不況が世界恐慌に繋がったのは、その後銀行倒産の連続による金融システムの停止に、FRB(アメリカ連邦準備制度理事会)の金融政策の誤りが重なったためであった。
金本位制で、アメリカが金保有量をコントロールできなかったことも大きな要因である。
1937年7月7日 盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)
北京の西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍との衝突事件
1939年7月26日 米国が日米通商航海条約を破棄
「通商航海条約」とは、国家間の経済関係を規律する基本的な条約。通常この条約は、相手国民の待遇(入国・居住の自由、生命・身体・財産の保護、経済活動の自由など)、相手国商品・商船の取扱い、経済的紛争の解決手続などを規定し、国家間の経済活動の安定にさせるために結ばれる条約である。
米国側からこの条約を破棄することは、米国に住む日本人の待遇を制限する事、日本に輸出する商品・数量を制限し日本の経済活動を妨害する事、を意味している。日本側はその問題を解決するために米国と交渉する事が出来なくなる。
日本国内でアメリが人の待遇を悪化させたわけではない。日本と米国の貿易でアメリカの経済活動の妨害をしたわけではない。日本と米国の二国間の関係で、一方的に日米通商航海条約を破棄されるようなトラブルは起きていないのに、なぜ条約を破棄されなければならならないのか?
1899年にアメリカが一方的に宣言した門戸開放政策から始まる支那への野心が原因となっている。支那での利権を日本に独占されることへの妨害が条約破棄の伏せられた原因なのである。
1940年8月上旬 マニラで米・英・蘭の三国会議を開く
国はまず米系大手石油会社のスタンダード石油に対し日本の石油調達を妨害するよう要請し、日本が蘭領インドネシアからの石油買い付けを阻止するために、マニラで米・英・蘭の三国会議を開き、今後の姿勢を協議した。
(1)米英両国は蘭印に対日石油交渉を遷延させ、かつ契約の量と期間を制限させること。
(2)蘭印は日本軍進入の際は全ての石油ストックと精油所を破壊すること。
蘭印が米英に協調していった理由として、同地での石油事業において米国系資本26%、英国系資本は実に74%を握っていたためと考えられる。つまり同地における石油事業の実権は米英が握っていたわけである。
1940年9月13日 第二次日蘭会商を開始する
蘭印からの石油・ゴム・錫等の安定した物資供給の確約を得るべく、小林一三商工大臣をバタビアに派遣し1940年9月13日から交渉を開始した。
日本側は蘭印が大東亜共栄圏の一員であることを表明することやインドネシア人に自治権を付与することを期待する態度を示し、更に9月27日には日独伊三国同盟が締結されたことから、蘭印側の警戒感を一気に高めて日本を仮想敵視する動きを見せた。
蘭印側は既にナチス・ドイツの同盟国である日本の侵攻を見越してアメリカ・イギリスに支援を求め、その一方で早すぎる決裂が日本側を早期開戦に踏み切らせないために強硬な態度を示しながらも決裂だけは回避する引き伸ばし工作を行った。
1940年9月25日 米国が重慶政権に2500万ドルの借款
当時のアメリカは工業化が進んでおり(船、自動車、鉄道、建築材などで大量のスクラップを出していた)ので、比較的品質の良い屑鉄をたくさん輸出していた。対独戦の為に自国使用を優先しなければならない。
日本は鉄鉱石と石炭を輸入し銑鉄をつくるより、コスト・時間を短縮できる屑鉄のリサイクルで軍需製品を作成していた。
日本の北部仏印進出に対する経済制裁の一環である。
1940年9月26日 米国が全等級の屑鉄、屑鋼の対日輸出禁止を発表
当時のアメリカは工業化が進んでおり(船、自動車、鉄道、建築材などで大量のスクラップを出していた)ので、比較的品質の良い屑鉄をたくさん輸出していた。対独戦の為に自国使用を優先しなければならない。
日本は鉄鉱石と石炭を輸入し銑鉄をつくるより、コスト・時間を短縮できる屑鉄のリサイクルで軍需製品を作成していた。
日本の北部仏印進出に対する経済制裁の一環である。
1941年6月17日 第二次日蘭会商が決裂
現状の経済関係の維持と一部地域での石油採掘権の日本側への提供、再交渉の意思の相互確認のみを合意として、事実上の決裂のまま交渉は打ち切られた。
1941年8月1日 アメリカが日本へ石油禁輸強化を発令
アメリカ大統領のフランクリン・ルーズベルトが石油禁輸強化を発令し、日本を対象として発動機燃料、航空機用潤滑油の輸出禁止を発令する。
これによって日本は、すでに禁輸されていた高オクタン価ガソリンに加え、オクタン価の低い石油の禁輸措置を受け、日本への石油輸出はまったく停止されることになった。

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