更新日 2014年08月17日
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大東亜戦争 外国からの批判・評価
ククリット・プラモード タイ 政治家(タイ元首相)

1911年4月20日~1995年10月9日 タイ 政治家(タイ元首相)
『 日本のお蔭でアジア諸国は全て独立した。日本というお母さんは難産して母体を害なったが、生まれた子供はスクスク育っている。今日、東南アジアの諸国民が、米・英と対等に話が出来るのは一体誰のお蔭であるのか。それは身を殺して仁を為した日本というお母さんが在った為である。12月8日は、我々にこの重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大な決心をされた日である。さらに8月15日は、われわれの大切な岡さんが病の床に伏した日である。我々はこの二つの日を忘れてはならない。』
[ 世界が語る大東亜戦争と東京裁判 ] ハート出版 吉本貞昭 著 134ページ
許國雄 台湾 東方工商専科大学学長

1922年10月1日~2002年5月20日 台湾 政治家・東方工商専科学校の創立者及び学長
『 国際戦争は個人の喧嘩と同じく、誰が先に手を出したのかを問うのではなく、誰が喧嘩を売りつけたかを問わなければならない。このような意味で、米国を主とするA、B、C、D(米、英、支、蘭)諸国は、日本を生き埋めにしようとハル・ノートで喧嘩を売りつけたのである。
戦後、米駐日大使グループは「戦争のボタンが押されたのは、日本がハル・ノートを受け取った時点だというのが私の確信である」と証言し、英駐日大使クレーギーも同様の証言をしている。日本は喉元に刺された匕首を払うために、つまり生き抜くために戦ったのである。』
終戦五十周年国民委員会編 『アジア共生の祭典』 p.9
エドゥアルト・ヴァン・ティン(Eduard van Thijn) オランダ
アムステルダム市長

1934年8月16日~  オランダ アムステルダム市長(1983~1994年)
『 あなた方の日本国は先の大戦で負けて、私共のオランダは勝ったのに大敗をしました。今日の日本国は世界で一、二位を争う経済大国になりました。私達オランダは、その間、屈辱の連続。即ち、勝った筈なのに、貧乏国になってしまいました。
戦前は「アジア」に大きな植民地(オランダ領東インド(蘭印)=ほぼ現在のインドネシア)が有り、石油等の資源・産物で、本国は栄耀栄華を極めておりました。しかし今では、日本の九州と同じ広さの本国だけになってしまいました。
あなた方の日本国は、「アジア各地で侵略戦争を起こして申し訳ない。アジアの諸民族に大変迷惑をかけた」と、自らを蔑み、ぺこぺこと謝罪していますが、これは間違いです。あなた方こそ、自らの血を流して、アジア民族を解放し、救い出すと言う人類最高の良い事をしたのです。
何故ならば、あなた方の国の人々は過去の真実の歴史を目隠しされて、先の大戦の目先の事のみを取り上げ、或いは洗脳されて、悪い事をしたと自分で悪者になっていますが、ここで歴史を振り返って真相を見つめる必要があるでしょう。
本当は、私共白色人種が悪いのです。百年も二百年も前から、競って武力で東亜諸民族を征服し、自分の領土として勢力下に置いたのです。
植民地・属領にされて、永い間奴隷的に酷使されていた東亜諸民族を解放し、共に繁栄しようと、遠大崇高な理想を掲げて、大東亜共栄権樹立という旗印で立ち上がったのが、貴国日本だったはずでしょう。
本当に悪いのは、侵略して権力を振るっていた西欧人の方です。日本は戦いに敗れましたが、東亜の解放は実現しました。
即ち、日本軍は戦勝国の全てをアジアから追放して終わったのです。その結果、アジア諸民族は各々独立を達成しました。日本の功績は偉大であり、血を流して戦ったあなた方こそ、最高の功労者です。自分を蔑む事を止めて、堂々と胸を張って、その誇りを取り戻すべきであります。』
1991年、日本傷痍軍人会代表団がオランダを訪問した時、市長主催の親善パーティでのエドゥアルト・ヴァン・ティン(Eduard van Thijn)アムステルダム市長(後の内務大臣)の歓迎挨拶を、憲兵少尉のシベリア抑留経験者、溝口平二郎(1997年3月14日逝去)が録画していたのを、後に、(財)日本国防協会理事の浅井啓之氏が文章に起こし、1994年3月24日作成した内容です。
ハーバート・フーヴァー アメリカ 政治家(第31代大統領)

1929年3月4日 – 1933年3月4日 アメリカ 政治家(第31代大統領)
『 私は、ダグラス・マッカーサー大将と、1946年5月4日の夕方に3時間、5日の夕方に3時間、5日の夕方に1時間、サシで話した。・・・・私が、日本との戦争の全てが、戦争に入りたいという狂人(ルーズベルト)の欲望だったと述べたところ、マッカーサーも同意して、1941年7月の金融制裁は、挑発的であったばかりでなく、その制裁が解除されなければ、自殺行為になったとしても戦争せざるを得ない状態に日本を追い込んだ。制裁は、殺戮と破壊以外の全ての戦争行為を実行するものであり、いかなる国と誰も、品格を重んじる国でありば、我慢できるとことではなかったと述べた。
・・・・ルーズベルトが犯した壮大な誤りは、1941年7月、つまり、スターリンとの隠然たる同盟関係となった一カ月後に、日本に対して全面的な経済制裁を行ったことである。その経済制裁は、弾こそ撃っていなかったが本質的には戦争であった。ルーズベルトは、自分の腹心の部下からも再三にわたって、そんな挑発をすれば遅かれ早かれ(日本が)報復のための戦争を引き起こすことになると警告を受けていた。』
[ 世界が語る大東亜戦争と東京裁判 ] ハート出版 吉本貞昭 著 182ページ
ダグラス・マッカーサー アメリカ 陸軍元師(連合国軍最高司令官)

1880年1月26日 - 1964年4月5日 アメリカ 陸軍元師(連合国軍最高司令官)
『 日本原産の動植物は、蚕をのぞいてほとんどないも同然である。綿がない、羊毛がない、石油の産出がない。錫がない、ゴムがない、ほかにもないものばかりだった。そのすべてがアジアの海域に存在したのである。
もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万人の失業者が日本に発生するであろうことを彼等は恐れた。従って日本が戦争に駆り立てられた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだった。
[ 世界が語る大東亜戦争と東京裁判 ] ハート出版 吉本貞昭 著 183ページ
1951年5月3日 アメリカ上院軍事外交合同委員会の公聴会にて ダグラス・マッカーサーの発言
アルバート・コアディ・ウェデマイヤー アメリカ
陸軍大将(中国戦線米軍総司令官兼蒋介石付参謀長)

1897年7月9日-1989年12月17日 アメリカ 陸軍元大将(中国戦線米軍総司令官兼蒋介石付参謀長))
『 1941年7月26日、ルーズベルトは日本に対して経済的な制裁を加えたが、この制裁は、日中事変の勃発当初であったなら中国をたすけかもしれなかったが、1941年7月では、もはや中国にとってなんの利益にもならなかった。いまや、この制裁は、中国を援助するためではなく、日本を戦争に挑発するためであり、イギリスの勢力を維持するために、どうしたらアメリカを参戦させられるかという、ルーズベルトのジレンマを解決するために使用されていた。』
[ 世界が語る大東亜戦争と東京裁判 ] ハート出版 吉本貞昭 著 183ページ
タナット・コーマン タイ王国 政治家(元副首相、元外相)

1914年2月9日生まれ タイ王国 政治家 元副首相(1980年~1982年)、元外相(1959年~1971)
『 あの戦争によって世界のいたるところで植民地支配が打破されました。そして、これは、日本が勇戦してくれたお陰です。新しい独立国が、多くの火の中から不死鳥のように姿を現しました。誰に感謝を捧げるべきかは、あまりにも明白です。』
[ 世界が語る大東亜戦争と東京裁判 ] ハート出版 吉本貞昭 著 134ページ
アフマッド・スバルジョ インドネシア 政治家(初代外務大臣)

1896年3月23日~1978年12月15日 インドネシア 独立の英雄、外交官、そしてインドネシアの国民的英雄である。
サンフランシスコ平和会議に、インドネシアの首席代表として出席
『 私は、・・・・アジアでは日本だけがインドネシア人民をオランダの植民地支配から開放することができる勢力だと考えていた。インドネシアの民族運動と日本とアジア主義運動のあいだには、インドネシア人民がオランダ植民地主義から離脱することを容易にする共通点があったのである。
すでに述べた通り、日本軍占領当時、私が海軍(著者注:日本海軍)で体験した出来事は、私の観察がまちがではなかったことを示した。すなわち、海軍の中に、日本の理想主義者がいたために、インドネシアの独立宣言は実現したのである。このことは、否定することのできない歴史的事実である。インドネシア、とくにジャワに勤務した当時、大きな役割を果たした海軍のの指導者、たとえば柴田中将、前田少将、そのスタッフである西嶋、住吉、佐藤などの諸氏が、遠い将来を見通して、日本とインドネシアの末長い友好関係を打ち樹てるべく、基礎を築いた功績に対し、日本政府は、少なくとも十分な関心を払うべきである。』
[ 世界が語る大東亜戦争と東京裁判 ] ハート出版 吉本貞昭 著 148ページ
ジョイス・C・レブラ アメリカ 歴史学者(米国コロラド大学歴史学部教授)

ジョイス・C・レブラ アメリカ 歴史学者(米国コロラド大学歴史学部教授)
『 大東亜戦争下、アジア諸国に進駐して行った日本軍政の最大の特徴の一つは、各国の青年を教育し、組織し、独立精神を振起した点にある。その遺産は戦後も様々な形で生き続けている。日本の敗戦、それはもちろん東南アジア全域の独立運動には決定的な意味を持っていた。 今や真の独立が確固とした可能性となると同時に、西洋の植民地支配の復活も、許してはならないもう一つの可能性として浮かび上がってきたのである。民族主義者は、日本占領期間中に(日本軍により)身につけた自信、軍事訓練、政治能力を総動員して、西洋の植民地復帰に対抗した。そして、日本による占領下で、民族主義、独立要求はもはや引き返せないところまで進んでしまったということをイギリス、オランダは戦後になって思い知ることになるのである。(中略)さらに日本は独立運動を力づけ、民族主義者に武器を与えた。日本軍敗走の跡には、二度と外国支配は許すまいという自信と、その自信を裏付ける手段とが残ったのである。東南アジアの人間は今や武器を手にし、訓練を積んでおり、政治力、組織力を身につけ、独立を求める牢固たる意志に支えられていた。』
[ 東南アジアの開放と日本の遺産 ] 秀英書房 ジョイス・C・レブラ 村田克巳 著 256-257ページ
『 東京で開かれた極東国際軍事裁判で、打ち出された一つのイメージ、即ち、日本は世界で最も強欲な軍国主義国家の一つであったとする思想は、太平洋の西側で、長い間再検討されないまま放置されていた。公私の資料の入手難が解明を遅らせ、太平洋戦争の幾つかの局面を暗闇に閉じているのが現状である。又、日本の歴史家達は、東南アジアに於いて日本が大東亜共栄圏に託した理念、実現の方法等を吟味する事に、今日迄消極的であった。ごく最近になって、アメリカ合衆国の学者は、日本の戦争目的を再検討する事に着手し、これ迄の定説を修正し始めた。(中略)再検討を志すアメリカ合衆国の学者達の意見に依れば、太平洋戦争は、西欧資本主義流の帝国主義の単なる日本版では無く、それにもまして西欧諸国の進出によって脅威を受けた日本が、(自国の)存亡に関わる権益を防衛する為の戦いであったのである。更にアジアを包含しようとする大日本帝国の野望として従来は見なされていた、大東亜共栄圏の理念も又再検討されて然るべきである。』
[ チャンドラ・ボースと日本 ] 原書房 ジョイス・C・レブラ