更新日 2014年08月17日
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戦後 在日朝鮮人が起こした事件
大阿仁村事件( 1945年10月22日 )
秋田県北秋田郡阿仁合町(現在の阿仁町)の阿仁鉱山で働いていた朝鮮人12名は、1945年10月22日午前9時頃、約16キロ山奥の同郡大阿仁町(現在の阿仁町)の集落へ行き、共同管理の栗林に侵入し、栗を拾っていた所を村人に発見され、注意したところ乱闘となり、村人3名が重傷を負った。午後1時になると、約40名の朝鮮人が来襲したので、警察と警防団は直ちに現場に急行し鎮圧した。
新聞報道の記事 1945年10月23日付 秋田魁新報

新聞報道の記事 1945年10月23日付 秋田魁新報
1945年10月23日付 秋田魁新報
栗拾ひから暴行
阿仁鉱山朝鮮人労務者
北秋田郡阿仁合町阿仁鉱山の朝鮮人労務者十二名は廿二日午前九時頃同町より約四里山奥の同大阿仁村字藤蔭部落で同部落の共同管理になる栗林へ侵入無断栗拾ひ中を同村民が発見し同村は特別管理である由を告げて注意したことがキツカケとなつて口論となり果は鎌や棍棒で乱闘に及び地元民三名に相当の重傷者を生じた暴行鮮人は十一時頃同村を引揚げるに際し必ず復讐に来るとて午後一時頃今度は約四十名の多勢を以て来襲したが報告に依つて同午後一時三十分米内沢太田所長は部下五名を帯同、阿仁鉱山事務所より消防ポンプに警防団員を同乗せしめ鎮圧のため午後三時頃現場へ急行した
新聞報道の記事 1945年10月25日付 秋田魁新報

新聞報道の記事 1945年10月25日付 秋田魁新報
1945年10月25日付 秋田魁新報
執拗に復讐企つ
半島人栗拾ひ事件詳報
既報北秋田郡大阿仁村伏蔭部落山林に惹起した半島労務者と伏蔭部落民との乱闘事件の詳報が県警察部に到着した二十二日午前九時頃半島人集団労務者南洋鳳(三六)外十一名は同部落附近の山林に栗拾ひに来たところ部落民数名が「部落民所有の山林だから勝手に栗を採取することは出来ない」と抗議したことがきつかけとなり鎌や棒をもつて双方が乱闘を演じ部落民の応援が増加するや半島人たちは復讐する旨を残して引きあげた此乱闘で双方に二、三名の軽傷者を出したが急報に接して米内沢署では太田署長等警官は現場に急行警戒についたところ果せるかな午後二時頃半島人六、七十名は現場に大挙押しかけたのを警察官に阻止されて一たん治まつたかの如くみえたが米内沢署では半島人の不穏の空気が去りやらぬのを察知し椿事の未然防止に備へて同夜のうちに警戒陣の増強を期し二十三日夜明までには応援警察官十六名、警防団二十名、鉱山従業員三十名、附近部落民二十名を増援配置して待機した果して予想の如くこの日午前八時頃半島労務者八十名は警察官、鉱山指導員の阻止を斥けて伏蔭部落に大挙押しかけた急報により部落民は未然に危難を避けて自発的に附近山野に身を潜め姿を隠してことなきを得たが部落に押しかけた半島労務者は部落民が避難のため住家を空にしてゐるのを幸ひとして炊事をなして部落を徘徊し〝部落の男を皆殺してくれる〟等の暴言を吐き警察官と鉱山側の命令を聴かず依然として楽観を許さゞるものがあり警察官、警防団は警戒を続行する一方極力慰撫につとめた結果午後に至り漸くその殆どが寮に帰り四、五名が現場にゐて見張りについた、警察側は部落民にして半島人に傷害を負はせた者は必ず処罰する旨を約して漸く納得させ全員寮に帰らせたので午後五時には附近山林に避難中の部落民も警察官の保護を受けてことなく住家に帰りまた半島労務者も全員所属の阿仁鉱山に帰り二十四日から稼働することになつて事件は全く平静に帰したのである
生田警察署襲撃事件 1回目 1945年12月24日
1945年12月24日午後9時頃、50名を超える朝鮮人の暴徒が「岡山の刑事を出せ」と叫びながら署内に侵入。署員を拳銃・日本刀・匕首を突きつけて軟禁した上で、岡山県警察部の捜査員を探し始めた。捜査員らが脱出に成功した一方で、暴徒によって署内の警察電話線が切断されたため、警察署は外部との連絡手段を絶たれてしまった。その後、事件を聞きつけた連合国軍部隊(当時日本は連合国軍の占領下)によって暴動が鎮圧された。
襲撃以前、岡山市内にて7人組による拳銃強盗事件が発生しており、強盗犯を追って岡山県警の捜査官が神戸市まで出張にきていた。この捜査員に生田署が協力していたため、暴徒の襲撃を受けることになった。もっとも以下に挙げた資料には、確かに報復を仕掛けたのは朝鮮人の一団であったが、元の拳銃強盗事件の犯人が朝鮮人であったのかどうかまでは記されていない。
生田警察署襲撃事件 2回目 1946年1月9日
1946年1月9日、三宮ガード下で賭博団(国籍未詳)が検挙されたことを受け、30 - 40人の朝鮮人が犯人の奪還を目的に再度署内に侵入したが、この事件も進駐軍の協力を得て鎮圧し、首謀者3人を検挙した。
「兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』兵庫県警察本部、1975年」

「兵庫県警察史編さん委員会編『兵庫県警察史 昭和編』兵庫県警察本部、1975年」445~447ページ
第三国人をめぐって さて、以上みてきた強窃盗団は、三宮自由市場と深いかかわりを持っていた。自由市場の実態はヤミ市であり、更には泥棒市場としての側面を持っていたことは既に述べた。その自由市場に大きな勢力を張っていたのが中国人・台湾人・朝鮮人などのいわゆる第三国人であった。彼らは戦勝国意識を誇示するため腕章をつけて行動し、敗戦国日本の警察権行使を認めようとしなかった。連合国の占領政策が具体化しない段階における、日本警察のもつ捜査権の不明確さと、日本警察官の敗戦国意識が影響して、その取締りの徹底を期し得ず、残念ながら一時期同地区は無警察状態に陥った。そうした状況下で、これら第三国人とかかわりあいをもち三宮自由市場を根城とする、凡野こと菅谷政雄が率いる国際ギャング団の掃滅作戦が展開されたのである。この事件の一斉検挙は警察の弱体と無能を非難する世論の中で、本県刑事警察陣が警察威信を回復し、その態勢建て直しを図る、いわば起死回生の策であった。
ところで、国際ギャング団事件を語るには終戦直後における第三国人の動静を、ひとわたり眺めておかねばならない。
終戦当時本県には、神戸を中心として約三二〇〇人の華僑、約二万(神戸四五〇〇)の台湾人と、一三万に近い朝鮮人が居住していたが、これらの人々の処遇をめぐって種々の紛争が起こった。終戦によって日本の統治から解放された台湾・朝鮮ではあったが、在日朝鮮人・台湾人の具体的な権利義務問題は、すべて占領軍当局の政策決定を待たなければならなかった。G・H・Qが朝鮮人・台湾人の一般犯罪に対する日本の裁判権を確認したのは、昭和二十一年二月十九日のことであるが、例外的に本県では、これに先立つ一月三十日に、第三一軍政中隊保安宮ハイヤー憲兵大尉の名で、次のような布告が出され神戸市内の要所ならびに各官公署に掲出された。
(1)各国人は現行の日本法令に従うこと。
(2)日本警察の法的命令は、国籍の如何にかかわらず各人により遵守さるべきこと。
(3)現行の保健・衛生・保安に関する諸法令ならびに、民法・刑法その他如何なる現行法令を問わずこれに従い、その法令に対する警察措置を妨害する者は逮捕処罰せらるべし。
(『神戸新聞』昭・21・1・31)
このように本県では他府県に先駆けて、進駐軍警察当局から第三国人の不法行為は許されないとする見解が示されたわけであるが、それとても昭和二十一年に入ってからのことであり、それ以前は日本警察が準拠すベき何らの方針も示されていなかったのである。
こうした、いわば無重力状態の中で第三国人の不法行為が相次いだ。そのまず第一は華工(中国人労務者)によるいくつかの事件である。中国人労務者の実態については、221ページで触れたが、終戦直後の八月二十日の夜約八○○人の中国人労務者が、戦勝国民としての生活権擁護を理由に海岸通の三井倉庫に侵入し、米・砂糖などを強奪して以来毎夜のごとく倉庫を襲い、あげくの果てには水上署ならびに警察部外事課に乱入のうえ暴力を揮うに至った。他方、逆に相生市内では播磨造船所で、中国人労務者の無法ぶりに激しい憤懣を抱いていた刑余者が、ささいなことから中国人労務者三人を殺害するという事件も起こっている。
しかし、この中国人労務者問題はまもなく解決し第三国人問題は日本人・朝鮮人・台湾人による混成犯罪者集団対策にしぼられ、特に三者相互間の角逐に発する抗争は、治安上最も重視しなければならない問題となった。ところが残念ながら当時警察の威信は地に落ち、三宮自由市場は無法をほしいままにしていた。そうした中で警察にとり極めて不名誉な事件が突発した。昭和二十年十二月二十四日の夜半、僅かな時間とはいえ生田警察署が暴徒に占拠されたのである。この事件は生田暑が岡山県警察部の捜査に協力したことが発端となっている。同署では岡山市内で発生した七人組の拳銃強盗犯人を追って神戸に出張してきた岡山県の捜査員に協力した。ところが午後九時頃「岡山の刑事を出せ」と叫びながら、突然乱入してきた五〇人をこえる朝鮮人の一団が、拳銃・日本刀・匕首を突きつけて署員を軟禁状態に置き、署内の捜索を始めた。岡山の捜査員は幸い脱出に成功したが、暴徒は電話線を切断し、外部との連絡手段を絶ってしまった。急を聞いて進駐軍M・Pがジープで駆けつけ事態はようやくにして拾収し得たが、この事件は無法者集団を増長させる結果をもたらした。一月九日、生田署が三宮ガード下でハッタリ賭博団を検挙した際、またも三、四〇人の朝鮮人が署内に乱入し犯人を奪還しようとしたのである。しかし、同署では断固これを制圧し、M・Pと協力して首謀者とみられる三名を検挙した。
1945年12月27日付朝日新聞(大阪版)

1945年12月27日付朝日新聞(大阪版)
強盗犯を一味が奪ひ返す
これはまた警察署に留置中の強盗犯が一味によつて強奪されたといふ無警察ぶりが神戸に起つた――
岡山市南方酪農林三郎方へ去る二十三日夜十数名の集団強盗が押入り、日本刀、ピストルなどで脅迫、家人を縛りあげて現金五千円、衣類、時計などを強奪一同車座となつて飲酒ののち逃走したが、このうち数名を二十四日岡山県刑事課員が神戸市で逮捕、生田署に留置取調べにかゝつたところ、同夜五十余名の一味が生田署を襲撃、犯人のうち二、三名を奪還して逃走した
一味の強盗団は大掛りなものらしく兵庫、岡山県警刑事課が目下全力をあげて犯人検挙につとめてゐるが右につき生田署では言明を避け、たゞ奪還された事実を認めてゐる
兵庫県警察本部と朝日新聞(大阪版)の違い
『兵庫県警察史 昭和編』では、在日韓国人による報復は明記していますが、在日韓国人の犯人を奪還されたとは書いていません。朝日新聞では、『奪還された事実を認めてゐる』と書いています。
どちらが正しいのでしょうか? 公正な検証を行った資料は無いのでしょうか?
問題は、報復・仲間の奪還を目的に集団で警察を襲撃する事です。如何なる理由が有ろうとも超えてはいけないラインを超えています。
直江津駅リンチ殺人事件 1945年12月29日
1945年12月29日午後7時頃、新潟発大阪行の列車が国鉄(現:JR)信越本線黒井駅に到着した。3人組の在日朝鮮人の男が列車に乗車しようとしたが、満員のため乗車することが出来なかった。そこで列車の窓ガラスを叩き割り無理やり乗車しようとしたところ、ある男性の乗客(当時29歳のセールスマン)に阻まれたため、已む無くデッキにぶら下がり次の直江津駅まで行く破目になった。
列車が直江津駅に到着すると、3人組は自分たちを阻んだ男性に対して、「乗降口から乗れないので仕方なくガラスを壊して乗ろうとしたのに何故妨害した」と詰め寄った。 男性に「窓から乗り込むという方法はない」と反論されたため、「朝鮮人に向かって生意気だ!ホームに降りろ!殺してやる!」と叫び、その男性を直江津駅のホームに引きずり降ろした。 3人組は駅の備品であるパイプやスコップを持ち出して男性に襲い掛かり、メッタ打ちにした。男性は頭や左眼などに十数か所の傷を負い、絶命した。
警察が緊急配備したところ、直江津の病院で傷の手当てをしていた3人組を突き止めた。そして容疑を認めたため、殺人犯として緊急逮捕した。
犯人は3人とも在日朝鮮人で、戦時中は工場に勤務していたが、終戦後は闇米ブローカーに転身した。事件当日も農家から米を買い集め大阪方面に売りに行く途中であった。
犯人の在日朝鮮人3人は殺人の容疑で検事局に送られたが、まもなく逃走し行方知れずになったため、司法で裁かれることはなかった。