更新日 2014年08月17日
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日本の『華族』制度
朝鮮貴族を調べる前に、日本の『華族』を理解しなければならない。
天皇制度及び『皇族』の歴史背景と、『華族』の成り立ちの知識が無いと、1910年に込みこまれた『王公族』と『朝鮮貴族』は理解する事はできないであろう。
日本に『華族』が出来るまで(江戸末期から明治政府の中央集権)
『大政奉還』は、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇がこれを勅許(ちょくれい-天皇が発した法的効力のある命令)した出来事である。
『王政復古』は、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に江戸幕府を廃絶し、同時に摂政・関白等の廃止と三職の設置による新政府の樹立を宣言した政変である。
『版籍奉還』により、諸大名の領地・領民が天皇に返還された。
『版籍奉還』は、明治2年6月17日(1869年7月25日)に行われた日本の明治政府の中央集権化事業の一つであり、諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)が返還された出来事です。
明治政府の統率力はまだ微弱で、諸藩への命令も強制力のない太政官達で行うしかなかった。そこで、版籍奉還を行って藩統制に強力な法的根拠を持たせようとしたものである。
江戸時代の末期には、殆どの藩が経営破綻寸前の状態であった。藩主は家臣に対して俸禄が払えず「俸禄の借上げ」を行い家臣に対して謝金を重ねていた。米中心の経済に依存していた藩主と家臣の両者が共に、貨幣経済で潤っていた商人から借金をしていた。それらの責任を明治政府に押し付ける事が出来たので、明治政府が中央集権化の為に進めた版籍奉還に対する抵抗は殆ど起こらなかった。
藩主の地位が『藩知事』に代わり、従来の藩主に認められていた世襲がそのまま認められ、独自の軍隊・司法組織などを持つことは認められていた。その一方で、知藩事の家禄は藩の実収石高の十分の一と定められて藩財政から切り離され、藩の職制・禄制・兵制は明治政府が定めた規定に従うこととされており、藩の内情についても強く監督されていた。
江戸末期から明治維新への変換期の混乱は、別枠で調べてみる値があり、私自身(当サイト管理人)強い興味があります。江戸幕府が明治政府に変わっただけで、封建制度がそのまま続くと考えた大名もいました。借金の肩代わりをしてくれると安易に考えた領主もいたでしょう。倒幕への論功としての領地の増減としか考えなかった大名も居たと思います。
このような混乱の中で『版籍奉還』が行われた。領主であった諸侯の支配力を削ぐ為に、名誉有る貴族階級である『華族』制度を利用したのである。脆弱であった明治政府に権力を集中させる為に、『版籍奉還』と『華族』制度が同時に行われた。
歴史認識には、光と影、裏と表の様に極端な違いが出る事がある。明治維新の様に大きな変化が起きる場合には、革命者が時代を作るのでは無く、多くの可能性の中から『歴史』が人を選び、その選ばれた人が『革命者』となるのではないか。
『華族』になった 427家の公家・諸侯
明治2年6月17日(1869年7月25日)、版籍奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は『華族』となることが定められた。
  • 公家 137家
  • 諸侯 270家
  • 明治維新後に公家となった家 5家
  • 維新後に諸侯となった家 16家
合計427家は新しい身分層である『華族』に組み入れられた。
公家(くげ)とは、朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。 天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家
諸侯とは、江戸時代に将軍によって与えられた所領を支配した大名の事で、その所領を藩と呼ぶ。
明治維新後に公家となった家  松崎家(松崎万長家)・玉松家(玉松操家)・岩倉具経家(岩倉具視の三男)・北小路家(北小路俊昌家)・若王子家(聖護院院家若王子住職家)
維新後に諸侯となった家 徳川御三卿の3家(一橋徳川家・清水徳川家・田安徳川家)、徳川御三家の附家老家5家(成瀬家・竹腰家(尾張徳川家)、安藤家・水野家(紀伊徳川家)、中山家(水戸徳川家))、毛利氏の家臣扱いだった岩国藩主吉川家、1万石以上の所領を持つ交代寄合6家(山名家、池田家、山崎家、平野家、本堂家、生駒家)、1万石以上の所領を持つ高家だった大沢家。ただし大沢家は所領の水増し申告が露見し1万石以下であることが確認されたことから、後に華族の身分を剥奪され士族に編入された。
後に追加された『華族』
  • 大久保家と木戸家は明治11年(1878年)5月23日に華族に列した。いずれも後に侯爵
  • 広沢家は明治12年(1879年)12月27日に華族に列した。後に侯爵
  • 西郷隆盛の功により西郷家も華族(侯爵)になっているが、西南戦争の影響で大幅に遅れた
  • 奈良華族:奈良・興福寺の僧職にあった公家の子弟出身の僧侶のうち、明治維新後に還俗して公家社会に復帰し、華族となることを得た26の家系
  • 南北朝時代の南朝方の忠臣だった新田義貞の功により新田家が華族になっている。後に男爵
  • 名和長年の功により名和家が、菊池武光の功により菊池家が華族になっている。後に男爵
『華族』制度の整備・序列化
華族制度の発足以前から、爵位による華族の格付けは検討されていた。
明治17年(1884年)7月7日、華族令が制定された。これにより華族となった家の当主は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された。
公家の叙爵にあたっては家格はある程度考慮されたが、武家に関しては徳川家と元対馬藩主宗家以外は江戸時代の家格(国主、伺候席など)が考慮されず、石高、それも実際の収入である「現米」のみが選定基準となった。しかし叙爵内規は公表されなかったために様々な憶測を産み、叙爵に不満を持つ者も現れた。
  • 公爵(こうしゃく:おおやけのこうしゃく) Duke[デューク]
  • 侯爵(こうしゃく:そうろうのこうしゃく) Marquess[マーキス]
  • 伯爵(はくしゃく) Earl[アール] Count[カウント]
  • 子爵(ししゃく) Viscount[ヴァイカウント]
  • 男爵(だんしゃく) Baron[バロン]
「新華族」を追加した。
明治17年(1884年)7月7日、華族令が発布と同時期に、維新前に公家や諸侯でなかった者、本来ならば華族たりうる家格ではない者が勲功によって華族となった者をさす。「勲功華族」とも言い本来の華族からは蔑視されていた。
本来の華族は旧大名家や旧公家に与えられた身分であるが、華族の規定にあった「国家に勲功あるもの」という規定が徐々に拡大解釈され、山縣有朋や伊藤博文のように、下僕に近い身分から最上位の公爵にまで上り詰める者も現れた。これらを指して、本来の華族と区別して一般に新華族と呼ばれた。
伊藤博文ら維新の元勲であった者の家29家が華族に列せられ、当主は爵位を受けている。叙爵は7月中に3度行われ、従来の華族と合計して509人の有爵者が生まれた。
叙爵基準による最初の叙爵
叙爵基準による最初の叙爵 『公爵』
  • 公家からは五摂家、武家からは徳川家宗家が公爵相当となった。
  • 「国家に偉功ある者」として公家からは三条家(三条実美の功)、岩倉家(岩倉具視の功)、武家からは島津家宗家(薩摩藩主島津忠義の功)、玉里島津家(薩摩国父島津久光の功)、毛利家(長州藩主毛利敬親の功)が公爵に叙せられた。
叙爵基準による最初の叙爵 『侯爵』
  • 公家からは清華家、武家からは徳川御三家と現米15万石以上の大名家が侯爵相当となった。
  • 琉球国王だった尚氏も侯爵となっている。
  • 「国家に勲功ある者」として、木戸家(木戸孝允の功)、大久保家(大久保利通の功)が侯爵となった。また公家の中山家は「勲功により特に」侯爵が授けられたが、中山家は中山忠能が明治天皇の外祖父だったことが考慮されたものとみられる。
叙爵基準による最初の叙爵 『伯爵』
  • 公家からは大臣家、大納言の宣任の例が多い堂上家、武家からは徳川御三卿と現米5万石以上の大名家が伯爵相当となった。
  • 公家の東久世家は参議を極官とする羽林家で大納言宣任の例も皆無だったが、維新における東久世通禧の功が特に考慮されて伯爵となった。また武家の対馬藩は江戸時代の実高が数5000千石余で、肥前国内の飛地1万石を併せても表高の2万石を下回っていたが、藩主宗家は朝鮮外交の実務担当者として10万石の格式が江戸時代を通じて認められていたことが考慮されて伯爵となった。平戸藩主松浦家は本来は算入されないはずの分家の所領まで計算に繰り入れた上で伯爵となったが、これは中山忠能正室が松浦家の出身であることから明治天皇の外戚に当たることが考慮されたものとみられる。
  • 西本願寺・東本願寺の世襲門跡家だった両大谷家も伯爵となった。
  • 「国家に勲功ある者」として、伊藤博文・黒田清隆・井上馨・西郷従道・山県有朋・大山巌などの維新の元勲も伯爵に叙された。
叙爵基準による最初の叙爵 『子爵』
  • 公家からは伯爵の要件を満たさない堂上家、武家からは維新前に諸侯だった大名家が子爵相当となった。
  • 分家した家は、本家が高い爵位を持っている場合は特例として子爵に叙せられた。近衛秀麿家(公爵近衛家の分家)、徳川武定家(侯爵水戸徳川家の分家)、松平慶民家(侯爵福井松平家の分家)の3家。
  • 「国家に勲功ある者」として、明治維新前後に活躍した者のうち伯爵相当とみなされなかった者の家が子爵に叙せられた。
叙爵基準による最初の叙爵 『男爵』
  • 明治維新後に華族となった家(附家老家、奈良華族など)が男爵相当となった。
  • 地下家で最も家格が高い局務家の押小路家と官務家の壬生家の2家は、堂上家に準じて男爵を与えられた。他の地下家はすべて士族として扱われた。
  • 大社の世襲神職家14家、浄土真宗系の世襲門跡家4家も男爵となった。
  • 琉球王家の尚氏の分家だった伊江家と今帰仁家の2家も男爵となった。
  • 「国家に勲功ある者」として、明治維新前後に活躍した者のうち伯爵・子爵相当とみなされなかった者の家が男爵に叙せられた。
『華族』の特権
宗秩寮爵位課長を務めた酒巻芳男は華族の特権を次のようにまとめている。
  • 爵の世襲 (華族令第9条)
  • 家範の制定 (華族令第8条)
  • 叙位 (叙位条例、華族叙位内則)
  • 爵服の着用許可 (宮内省達)
  • 世襲財産の設定 (華族世襲財産法)
  • 貴族院の構成 (大日本帝国憲法・貴族院令)
  • 特権審議 (貴族院令第8条)
  • 貴族院令改正の審議 (貴族院令第13条)
  • 皇族・王公族との通婚 (旧皇室典範・皇室親族令)
  • 皇族服喪の対象 (皇室服喪令)
  • 学習院への入学 (華族就学規則)
  • 宮中席次の保有 (宮中席次令・皇室儀制令)
  • 旧堂上華族保護資金 (旧堂上華族保護資金令)
『皇室制度講和』 発行:岩波書店刊書  著者:酒巻芳男(1890-1967)   発売日:1934/1/15
宗秩寮(そうちつ)とは、皇族・華族に関する事務の担当者の事で、大正から昭和にかけて長く宮内省関係の勤務にたずさわった著者の酒巻芳男氏が、公務上、宮内職員に講じた皇室制度概論の講義案・旧制度下での天皇の地位や皇室の祭祀、陵墓の制、皇室の親族制度・財産制度などを手際よく解説している。
華族の特権 財産
1886年に華族は第三者からの財産差し押さえなどから逃れることが出来るとする華族世襲財産法が制定されたことにより、世襲財産を設定する義務が生まれた。世襲財産は華族家継続のための財産保全をうける資金であり、第三者が抵当権や質権を主張することは出来なかった。しかし同時に、世襲財産は華族の意志で運用することも出来ず、また債権者からの抗議もあって、大正5年(1915年)に当主の意志で世襲財産の解除が行えるようになった。財産基盤が貧弱であった堂上貴族は旧堂上華族保護資金令により、国庫からの援助を受けた。さらに財産の少ない奈良華族や神官華族には、男爵華族恵恤金が交付された。
華族の特権 教育
学歴面でも、華族の子弟は学習院に無試験で入学でき、高等科までの進学が保証されていた。また1922年(大正11年)以前は、帝国大学に欠員があれば学習院高等科を卒業した生徒は無試験で入学できた。旧制高校の定員は帝国大学のそれと大差なかったため、学校・学部さえ問わなければ、華族は帝大卒の学歴を容易に手に入れることができた。
華族の特権 貴族院議員
1889年の大日本帝国憲法により、華族は貴族院議員となる義務を負った。30歳以上の公侯爵議員は終身、伯子男爵議員は互選で任期7年と定められ、「皇室の藩屏」としての役割を果たすものとされた。
また貴族院令に基づき、華族の待遇変更は貴族院を通過させねばならないこととなり、彼らの立場は終戦後まで変化しなかった。議員の一部は貴族院内で研究会などの会派を作り、政治上にも大きな影響を与えた。
なお、華族には衆議院議員の被選挙権はなかったが、高橋是清のように隠居して爵位を子息に譲った上で立候補した例がある。
華族の特権 皇族・王公族との関係
年定められた旧皇室典範と皇族通婚令により、皇族との結婚資格を有する者は皇族または華族の出である者に限定された。
また宮中への出入りも許可されており、届け出をすれば宮中三殿のひとつ賢所に参拝することも出来た。侍従も華族出身者が多く、歌会始などの皇室の行事では華族が役割の多くを担った。また、皇族と親族である華族が死亡した際は服喪することも定められており、華族は皇室の最も近い存在として扱われた。