更新日 2014年08月17日
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ハーグ密使事件 1907年
日露戦争後もロシアは朝鮮半島への干渉を続けた
1904年2月~1905年9月 日本はロシアと朝鮮半島の支配権をめぐり日露戦争を行った。
南下政策を繰り広げるロシアに対して、日本国は自国防衛の為にロシアとの防衛ラインを朝鮮半島の付け根に押しとどめる為に、ロシアと戦争を始めたのが日露戦争の原因である。
勝利した日本は、ポーツマス条約(日露講和条約)第二条で、
『 第二条 露西亜帝国政府は、日本国か韓国に於て政事上・軍事上及経済上の 卓絶なる利益を有することを承認し、日本帝国政府か韓国に於て必要と認むる指導・保護及監理の措置を執るに方り之を阻礙し又は之 に干渉せざることを約す。』
ロシアは朝鮮半島への干渉をしない事を条約に盛り込んだ。
しかし、日露関係はポーツマス条約締結後も修復には向かわなかった。ロシア帝国政府は朝鮮半島から完全には手を引かず、韓国の独立・露韓条約の有効性や認可状の発行宛先等を外交圧力の手段として使い続け不安定な状況が続いた。
大韓帝国内での親露派の動き
第二回日英同盟協約の改定に対する韓国政府の反応
1905年8月12日 第二回日英同盟協約が締結された。改定の内容は、イギリスのインドにおける特権と日本の朝鮮に対する支配権を認めあうとともに、清国に対する両国の機会均等を定め、さらに締結国が他の国1国以上と交戦した場合は、同盟国はこれを助けて参戦するよう義務付けられた(攻守同盟)。
日英同盟の改定を知った韓国政府と国民は激怒している。10月17日に韓国の朴斎純外相が駐韓英国公使と駐韓日本臨時代理公使と会談し、英韓修好条約(1883年)と日韓条約(1904年)に『矛盾すると称して』講義を申し入れた。
ジョーダン公使と秋原守一臨時代理公使は直ちに協議し『何等の措置を採らずして無視する』事にしている。
韓国政府は日本と英国の密接な関係を十分に理解し、日本が日露戦争後に韓国の独立を奪い取るだろうと察知し、日露講和締結以前から対抗策をとることに決めた。
高宗韓国皇帝がロシアのニコライ2世宛に親書を送る
李容翊(イヨンイック)が、日露戦争開始直後まで駐韓ロシア公使を務めていたパーヴロフを通じて、高宗皇帝が書いたと思われるロシアのニコライ2世宛への親書がロシア外務省へ届けられた。

李容翊(イヨンイック・高宗皇帝の側近の筆頭格で代表的な排日論者)
『ロシアが常に韓国の独立を支持してきたことは、全世界の周知の事実であります。今講和条約締結を目前に控えて、我が国の国情は陛下の強力な御好意でしか助ける事が出来ないと深く確信しております。この難局にあたり、陛下の御愛顧により独立が維持されるであろうと期待を持ち、陛下の(の後援)に訴える決意をしました。』
高宗皇帝が書いたと思われる親書は、ポーツマス講和会議終結の前に書かれた様だが、ロシア外務省に届けられたのは講和条約が既に調印された後であった。
李容翊はニコライ2世への謁見を求めていたが、ロシア政府はこの要望を受け入れる事は『極めて好ましくない』と判断して、その宗を高宗皇帝の密使に伝えている。
大韓帝国は、列強に日本の圧力阻止を訴える。
韓国政府はポーツマス講和条約に反応し、日本の圧力を阻止する為に他の列強国の外交官に、「日本の保護統治は韓国における外国人の権利を侵害する。」と後援を求めた。
列強国の反応
比較的好ましい反応は、アメリカと清国の公使からだけであった。
イギリス公使は日英同盟を理由に質問をはぐらかした。
フランス代表は、「韓国の独立は終わった。フランス公使館はやがて召喚されるだろう。」と素直に所信を述べている。
在天津ロシア領事によると、韓国皇帝はロシア代表がソウルに帰任することに大きな期待をかけていると指摘されている。
ドイツは朝鮮半島に特別な利益を持っていなかったので、日本と協議する必要が無かった。
清国は日本による朝鮮半島への進出を阻止する力が無かった。
韓国政府による諸外国に対する呼びかけは無駄であった。イギリスとアメリカは韓国における日本の支配権を完全に承認し、日本政府の政策を後押ししていた。
アメリカのルーズベルト大統領の反応
日韓保護条約締結直前、1905年11月8日にルーズベルト米国大統領はワシントン駐在の高平公使と歓談し、日本による韓国の保護国化を後押ししていた。高平公使は桂首相に充てた電信第299号で、
『大統領は帝国政府の対韓国態度に満足を表し、かつ、在韓公使の撤退を希望するや否やと質問した。この点に関して、米政府はいかようにも日本の都合にかなう措置をとると語った。』
と指摘している。(高大勝:伊藤博文と朝鮮 136~137貢)

セオドア・ルーズベルト 第26代大統領 任期 1901年9月14日~1909年3月4日

高平小五郎 (1854年1月29日~1926年11月28日)
日本海海戦戦勝後の1905年 米国に対し「中立の友誼的斡旋」を申し入れた。
斡旋依頼は高平小五郎駐米公使による功績と言える。
ロシア政府が第二回万国平和会議に韓国を招待しようと画策する
韓国に公式代表さえ持っていなかったロシアは韓国問題において積極的な立場をとれず、日本による韓国への積極的な圧力に対して抵抗する力はなかった。韓国皇帝と上層部の親露派が求めたロシア政府の支援も不可能であった。
韓国の国際的な孤立はロシアにとって極めて望ましくないものだった。その為、ロシア外務省はそれを阻止しようとし、特に1906年開催予定(実際は1907年開催)の第二回ハーグ万国平和会議に期待をかけた。
在北京ロシア公使への秘密電報によると、1905年10月ロシア政府は『韓国の主権が不動であることを承認して、』韓国代表をハーグ会議に招待し、会議中に朝鮮問題を取り上げる方針を明らかにした。
このように、ロシアは当時として最大の国際会議でこの問題を通じて日本に圧力をかけようとした。
第一回万国平和会議 1899年開催
第1回会議は1899年、ロシア帝国皇帝ニコライ2世の提唱で26ヵ国が参加して開催された。ヨーロッパ以外からも日本や清などが参加している。
ニコライ2世の提唱した平和会議の目的は、19世紀末に高まってきた列強対立と国際政治の不安定化にともなう軍備拡張が各国の財政に大きな負担をもたらしていたところにある。
第1回会議ではオランダのハーグで開催され、26カ国が参加し、軍備制限に関する国際的協定の策定について話し合ったが、軍備制限は「人類の物質的および道徳的幸福のために切に望ましい」ことを決議し、軍備制限協定の締結を「要請する」にとどまった。
会議ではハーグ陸戦条約が採択された。これは戦闘外におかれた者の保護を目的としたもので、ダムダム弾の使用禁止などを規定している。この条約が後にいわゆるハーグ法と呼ばれるものの一つとなる。
他にも国際紛争が起きた際にその処理を武力に頼らず平和的に解決することを目的とした国際紛争平和的処理条約が締結され、国際仲裁裁判を行う常設の機関である常設仲裁裁判所の設置などが規定された。

1899年5月18日~7月29日開催 第一回万国平和会議
ハーグ陸戦条約
ハーグ陸戦条約は、1899年にオランダ・ハーグで開かれた第一回万国平和会議において採択された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」並びに同附属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」のこと。
交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されているが、現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多い。
1899年の記名調印国は、アメリカ、メキシコ、ギリス、イタリア、オーストリア=ハンガリー、オランダ、ギリシャ、スウェーデン=ノルウェー、スペイン、セルビア、デンマーク、ドイツプロイセン、フランス、ブルガリア、ベルギー、ポルトガル、モンテネグロ、ルーマニア、ルクセンブルク、トルコ、ロシア、タイ、日本、ペルシアの24ヵ国が原加盟国として調印している。
日露戦争はハーグ陸戦条約締結が行われてから初めて起きた国際紛争であった。
日本はハーグ陸戦条約に基づき日露戦争の戦闘を行い、「紳士的に行った最後の戦争」と国際社会の中で評価されている。戦闘の結果、72000人のロシア兵が捕虜として日本国内の捕虜収容所に収容されたが、日本国はハーグ陸戦条約に従い捕虜の生活に配慮していた。

松山・道後で日本人負傷者の家族に囲まれる捕虜のロシア将校(後列中央)=撮影年月日不明(ロシア国立映画写真資料古文書館提供・時事)
日露戦争のロシア人捕虜収容所写真集が、見つかっている(ロシア国立映画写真資料古文書館)
第二次日韓条約 [乙巳保護条約(いつしほごじょうやく)]
第二次日韓協約は、日露戦争終結後の1905年(明治38)11月17日に大日本帝国と大韓帝国が締結した協約。これにより大韓帝国の外交権はほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となった。日韓保護条約ともいい、乙巳年に締結したという意味で乙巳條約、乙巳五條約、乙巳保護条約とも。締結当時の正式名称は日韓交渉条約であった。
大日本帝国は日露戦争中である1904年の第一次日韓協約締結により大韓帝国の財政・外交に対し関与する立場となっていたが、日露戦争に勝利し、その講和条約であるポーツマス条約(1905年9月5日)により大韓帝国に対する優越権をロシアから承認され、また高宗が他の国に第一次日韓協約への不満を表す密使を送っていたことが問題となったこともあり、大日本帝国からの信頼を無くしていた大韓帝国に対し、より信頼できる行動をとることを求めるため、この協約を結ぶこととなった。
第二次日韓条約の内容(現代語訳)
  • 第1条:日本国政府は今後外務省により韓国の外交を監理指揮するため、日本の外交代表者と領事は外国にいる韓国人とその利益を保護しなくてはならない。
  • 第2条:日本国政府は韓国が他国と結んでいる条約を実行する立場となるため、韓国は今後日本の仲介無しに他国と条約や約束を交わしてはならない。
  • 第3条:日本国政府は代表者として韓国皇帝の下に統監を置く。統監は外交を管理するために京城に駐在し韓国皇帝と親しく内謁することができる。また日本は韓国の開港場などに理事官を置くことができる。理事官は統監の指揮の下で、従来韓国にある日本領事が持っていた職権の全てを執行し、また本協約を完全に実行するための一切の事務を担当しなくてはならない。
  • 第4条:日本と韓国との間にある条約や約束は本協約に抵触しないかぎり効力を継続する。
  • 第5条:日本国政府は韓国皇室の安寧と尊厳の維持を保証する。
第二次日韓条約に対する日韓の評価に大きな違いがある
本協約は、1965年に結ばれた日韓基本条約第二条により、他の条約とともに「もはや無効」であることが確認されたが、この解釈においても日本と韓国では割れている。日本では1965年の条約締結以降に無効になったと考えている。一方、韓国政府は日韓併合条約が当初から無効であった(締結時から効力を発していない)という立場を取っている。
ここでは、『ハーグ密使事件』をテーマに記しているので、第二次日韓条約についての日韓で認識に違いが有る事だけを記しておく。
別ページで詳しく調べることにする。
第二次日韓条約・露韓条約と認可状問題について