更新日 2014年08月17日
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伊藤博文の業績・評価
『日本を貶める人々』渡部昇一、新田均、八木秀次共著 より引用

渡部昇一が八木秀次との対談で次のように発言しています。

『 略・・・・ 韓国統監府の初代統監に就いた伊藤博文は、朝鮮の植民地化を意図していなかった事実をどれほどの日本人、コリア人が知っているか。台湾経営に当たった植民地政策の専門家、新渡戸稲造が伊藤博文に植民地政策案を出したところ、「これは要らない。日本は朝鮮植民地経営のようなことをやる気はない」と突き返されたと新渡戸自身が書き残しています。・・・・略』

新渡戸稲造の書いた物を話題にしています。

新渡戸稲造全集 第5巻 「偉人群像」の「第廿七章 伊藤公」からの引用 

『 略・・・・ 当時伊藤公は朝鮮の統監であり、木内君は農相工の事務担当をしてをつた。伊藤公は世間でも知る通り「朝鮮は朝鮮人のため」といふ主義で、内地人の朝鮮に入り込むことを喜ばれなかつた。その反対に木内君は日本人をもつと移したい考へであつた。ゆゑにしばしば公に日本人移住の策を献策しても採用にならなかつた。ところが内地においては桂さんが、しきりに内地人移住を企て、東拓会社を設計されてをり、かつこの議には、我輩も少しく参加したした関係もあるため、木内君がしきりに渡鮮を促したので、我輩は出かけて行つた。 木内君の注意に「伊藤さんといふ人は、なかなか人のいふことを聞かぬ人で、僕が幾度この問題について献策したか知れんが、いつも頭を振らるゝので、少し君の力を借りたい、明日にも統監を訪問してくれ玉へ、その時は君一人で行く方がよかろう」 ・・・・略

引用の補足
「木内君」というのは、農商務省商工局長の木内重四郎のことでのちに、朝鮮統監府で農商工部長官をつとめた人です。(さらにその後、勅撰の貴族院議員、官選の京都府知事。)
「桂さん」は、首相を3度つとめた桂太郎公爵のことでです。
「東拓」というのは東洋拓殖株式会社です。東洋拓殖は、第二次桂内閣の1908年に東洋拓殖株式会社法を根拠として、大韓帝国政府と日韓民間資本の共同出資などにより設立されています。朝鮮半島に土地を買って日本人農民を移住させる、という目的だったようですが、移住が進まず、朝鮮人を小作人として雇用したらしいです。

『 略・・・・ 新渡戸博士の「朝鮮人だけでこの国を開くことが、果して出来ませうか」との問いに対して、伊藤公は次のように答えているのです。「君朝鮮人はえらいよ、この国の歴史を見ても、その進歩したことは日本より遥以上であつた時代もある。この民族にしてこれしきの国を自ら経営出来ない理由はない。才能においては決してお互に劣ることはないのだ。然るに今日の有様になつたのは、人民が悪いのぢやなくて、政治が悪かつたのだ。国さへ治まれば、人民は量に於ても質に於ても不足はない」・・・・略

新渡戸の証言によれば、伊藤公は朝鮮人に対してこの上ない敬意を持っていて、しかも「植民地化すべし」との動きからの防波堤となっていたわけです。それを安重根が暗殺した結果、その翌年に日韓併合となったわけです。日韓併合を仮に植民地化と呼ぶなら、「安重根が伊藤博文を暗殺したことにより、韓国の植民地化が実現した。安重根は『植民地化に邪魔な伊藤公』を取り除いた、植民地化の功労者だ」ということになります。

安重根の愛国心を否定することはできません。民族のために行動し、母からの「控訴すれば命乞いになる」という手紙によって粛々と死刑判決に服した彼は、少なくとも「この世で大切なのは自分の命だけ」としか言わないし教えない連中よりはるかに、人間として上等だったと思います。 結果的に安重根は、祖国を日本の植民地にしてしまった(少なくともその最後の引き金を引いた)わけですが、それは結果論でしょう。ただ、安重根が生まれてくるのが遅すぎたことを惜しみます。せめて日露戦争前、あるいは日清戦争前に、彼の祖国を保護国にした者に向かってではなく、他国に保護されなければならないような祖国にした者に向かって行動していれば。それが成功していれば。

伊藤博文暗殺への諸外国の評価

「伊藤博文公暗殺」に対するドイツ人の論調  ドイツ人 エルウィン・ベルツ博士 「伊藤公の追懐」
『 韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで起こった。その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本 統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。』

「伊藤公暗殺」に対するロシア人の論調   清鉄道長官 ホルワット少将 「ハルピン・ウェストニツク紙
『 思えば思うほど情けない限りである。最後の大戦争(日露戦争)以前に伊藤公爵が言われたことを、もし、ロシアが聞いていたら、あの悲惨な戦争も、ロシアの敗戦という不名誉もなかったのである。伊藤公爵のハルピン来訪目的は、わが大蔵大臣との外交上の空しい儀礼的なものでなかったことは、誰もが知っていた。伊藤公は「ロシアは満州から去れ」などという、一点張りの主張をする人ではない。尊敬すべき老大偉人の逝去は、日本の損失ばかりでなく、わがロシアの損失であり、韓国が大損失をこうむることは必至である。』

アメリカ人の朝鮮外交顧問  ドーハム・スティーブンソン
『 朝鮮(韓国)の王室と政府は腐敗堕落しきっており、、頑迷な朋党は、人民の財を略奪している。その上、朝鮮人民はあまりにも愚昧(愚か)である。これでは国家独立の資格はなく、進んだ文明と経済力を持つ日本に統治させなければ、ロシアの植民地になるだろう。 伊藤博文総監の施策は、朝鮮人(韓国人)にとって有益で、人々は反対していない。』

「伊藤公暗殺」に対する韓国(朝鮮)皇帝の論調    十月二十七日   太皇帝(高宗)
『 伊藤を失ったことで、東洋の人傑がいなくなった。公はわが国に忠実正義をもって望み、骨を長白山に埋めて、韓国の文明発達に尽くすと揚言していた。日本に政治家多しといえども、伊藤のように世界の大勢を見て、東洋の平和を念じた者はいない。実に伊藤はわが国の慈父である。その慈父に危害を加える者があるとすれば、物事の理事を解さない流浪人であろう。』

「伊藤公暗殺」に対する韓国(朝鮮)皇帝の論調    十月二十八日   太皇帝(高宗)
『伊藤公を失ったことは、わが国といわず、日本のみならず、東洋の不幸である。 その凶漢が我が韓国人とあっては、赤面のほかない。 』

フレデリック・アーサー・マッケンジー(カナダ人ジャーナリスト、1906年ロンドン・デイリーメール紙)
『 伊藤博文侯は世界周知の如く日本の最も偉大かつ、有名な政治家である。彼の韓国赴任は、たいへんな自己犠牲であった。伊藤博文侯が、その韓国改善のプランを打ち明けたとき、私の心は躍った。そこには、改革、公正、斡旋があった。李朝朝鮮がこれまで犯したあらゆる誤りがそこでは救済されるはずであった。「私は、自分が韓国国民と日本国民との間に立って、両者の間に正義がおこなわれるようにすべき立場に立っていると思う」と侯はそう言明したのである。』

伊藤博文は韓国併合に消極的だった事を示すメモ

初代の韓国統監を務めた伊藤博文が併合前に記した自筆のメモが、福岡市内で見つかり、専門家は、伊藤博文が併合に否定的だったことを裏付ける新たな史料として注目しています。
伊藤博文の自筆のメモは、韓国併合の5年前の1905年11月、韓国を日本の保護国とする「第二次日韓協約」の調印交渉で通訳を務めた、前間恭作氏が持ち帰り、その後、遺族が福岡市内の自宅で保管していました。メモは2点あり、交渉の様子などを記した前間氏の手記とともに、先日、遺族が九州大学に寄贈しました。
このうちの1つのメモには、「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があります。これについて、伊藤博文研究の第一人者の、京都大学の伊藤之雄教授は、「この時点で、伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでで、併合という考えには否定的だったことを裏付ける新たな史料だ」と注目しています。
もう1つのメモは、当時の桂太郎総理大臣あてに交渉結果を報告した電報の、伊藤博文自筆の下書きで、統監には外交官を命ぜらるべしという内容の記述の上に、線が引かれ消されています。前間氏の手記には、初代の韓国統監に外交官を任命する当初の方針を変更し、この下書きの執筆中に、伊藤博文がみずから就任することを決意したと記されています。伊藤教授は、「交渉が予想以上に難航し、自分以外に統監は務まらないと、電報文を書く段階になって就任を決意したことを示す貴重な資料だ」と話しています。九州大学は、この伊藤博文の自筆のメモを、年内にも一般公開する予定です。

ドイツを訪問中だった岩倉使節団がビスマルクから夕食会に招かれた

明治6年(1873年)3月15日 その席上ビスマルクは、
「貴国と我が国は同じ境遇にある。私はこれまで三度戦争を起こしたが、好戦者なわけではない。それはドイツ統一のためだったのであり、貴国の戊辰戦争と同じ性質のものだ。英仏露による植民地獲得戦争とは同列にしないでいただきたい。私は欧州内外を問わずこれ以上の領土拡大に興味を持っていない。」
「現在世界各国は親睦礼儀をもって交流しているが、それは表面上のことである。内面では弱肉強食が実情である。私が幼い頃プロイセンがいかに貧弱だったかは貴方達も知っているだろう。当時味わった小国の悲哀と怒りを忘れることができない。万国公法は列国の権利を保存する不変の法というが、大国にとっては利があれば公法を守るだろうが、不利とみれば公法に代わって武力を用いるだろう。」
「英仏は世界各地の植民地を貪り、諸国はそれに苦しんでいると聞く。欧州の親睦はいまだ信頼の置けぬものである。貴方達もその危惧を感じているだろう。私は小国に生まれ、その実態を知り尽くしているのでその事情がよく分かる。私が非難を顧みずに国権を全うしようとする本心もここにあるのだ。いま日本と親交を結ぼうという国は多いだろうが、国権自主を重んじる我がゲルマンこそが最も親交を結ぶのにふさわしい国である。」
「我々は数十年かけてようやく列強と対等外交ができる地位を得た。貴方がたも万国公法を気にするより、富国強兵を行い、独立を全うすることを考えるべきだ。さもなければ植民地化の波に飲み込まれるだろう。」と語った。

小国プロイセンを軍事力で大国ドイツに押し上げたビスマルクの率直な言葉は使節団に深い印象を残したようである。欧州各国は不平等条約の改正に応じる条件として日本に万国公法に沿った法整備を行うよう外圧をかけていたが、ビスマルクだけがそれを否定する発言を使節団の前で公然と行ったからである。 岩倉使節団で欧米諸国を歴訪した大久保利通は英米仏のような発展しつくした先進国より後進国のドイツとロシアに注目した。ビスマルク・ドイツを模範として強力な政府の指導下に富国強兵・殖産興業を推し進めることが必要だと確信したという。
伊藤博文も日頃からビスマルクを尊敬し、ビスマルクを真似て葉巻をくゆらせていた。伊藤は「日本のビスマルク」と呼ばれていた。伊藤は海外メディアのインタビューによく応じたので1880年代には西洋諸国にも「日本のビスマルク」の異名が広まっていたという。伊藤は1882年(明治15年)に憲法研究のため欧州を訪問し、その中心地としてベルリンに腰を据えた。この時ビスマルクは伊藤に「我が国を貴国の憲法研究の拠点としたことは大いに賢明な決断である。出来る限りの協力をしたい」と述べ、ドイツ随一の法学者だったベルリン大学教授ルドルフ・フォン・グナイストを紹介している。この頃のビスマルクは煙草専売化法案を通そうとしない議会と対立を深めていたが、伊藤はそのような光景を見ても議会制導入をためらう兆しは見せなかった。
後に第1回衆議院議員総選挙を前に立憲自由党や立憲改進党など民権派政党が固い地盤を確保して大議席を獲得することが予想される中、「いくら超然主義を主張しても現実的には衆議院や政党に対して超然としているのは不可能です。政府を支える確固たる政党を作るべきです」という金子堅太郎の提言に対して伊藤は「その心配はないだろう。現にビスマルクは確固たる与党無くして超然主義を貫いて政治を執行しているではないか」と反論したという