更新日 2014年08月17日
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伊藤博文の写真
伊藤博文の写真

志士時代の伊藤博文


志士時代の伊藤博文と井上聞多


長州5傑1863年 ロンドン大学 アレクサンダーウィリアムソン教授の指導を受ける長州藩のメンバー
上段左から遠藤謹助、井上勝、伊藤博文 下段左から井上馨、山尾洋三


1865年 長崎で撮影 中央は高杉晋作 右は伊藤博文 左は晋作の従者である三谷国松


1869年頃 前列右から二人目が桂小五郎(38歳頃)。後列右から二人目が伊藤博文(28歳頃)。


1872年 木戸孝允(前列中央)と伊藤博文(後列右端)ら。


1872年 ロンドンで撮影 岩倉使節団。右から大久保利通、伊藤博文、岩倉具視、山口尚芳、木戸孝允


1906年 朝鮮で撮影 長谷川好道陸軍大将と共に統監府へ向かう伊藤博文(手前)


撮影年不明(1905~1909年 韓国統監府の初代統監の時)
韓国の民族衣装を着て記念撮影におさまる伊藤(韓国統監時代、前列左から二番目が梅子夫人


1907年 朝鮮で撮影 
大韓帝国皇太子李垠(右)と伊藤


撮影年不明 晩年の伊藤博文


撮影年不明 伊藤博文の家族写真


撮影年不明 伊藤博文と山県有朋
伊藤博文の暗殺を知らせる電報を受け取って山県有朋の発言
『嗚呼(ああ)、惜しい事をした。伊藤は実に又と得べからざる国家の柱石ぢや。今回の様な不慮の変が無かったなら、必ず百歳までも百五十歳までも生延びて益々忠誠を励む男ぢやたらうに、思へば思ふ程無念で堪らぬ。吾等は伊藤に比べると三つも年上ぢやから、予々(かねがね)葬式を世話して貰ふ積りぢやつたのに今は夫さへ昔語りの一節ぢや。伊藤は未だまだ日本にも、世界にも無くてならぬ者ぢやが、・・・・・・・』


1905年11月17日 第二次日韓協約(乙巳条約)が締結 日本関係者の記念撮影
大日本帝国と大韓帝国が締結した協約。 これにより大韓帝国の外交権はほぼ大日本帝国に接収されることとなり、事実上保護国となった。締結当時の正式名称は日韓交渉条約


1907年 京城の伊藤博文韓国統監邸内にて日韓両国高官記念写真。中央に伊藤博文、左隣に東郷平八郎の姿が見える。


1909年10月26日 
ハルピン駅頭に到着の伊藤博文がロシア蔵相ユコーゾフと握手せんとする処で、安重根に狙撃される30秒前の撮影となります。


伊藤博文国葬の行列 勲章


伊藤博文国葬の行列 榊の花輪


伊藤博文国葬の行列 御柩 喪主及び家令一行<


伊藤博文国葬の行列 高等官会葬者


春畝公七絶 李完用 金充植 朴泳孝唱和 伊藤博文卿 掛軸
軸装 本紙縦128.0cm×横53.0cm
初代韓国統監の任にあった伊藤博文が、明治42年7月13日に催された新旧統監歓送迎会における作であり、『藤公詩存』には「十三日翠雲亭雅集」と題して収載されているものである。
伊藤博文の詩がやや右に寄せて三行に大書され、これに唱和した李完用、金充植、朴泳孝の詩が細字で上下に書き添えられて一種の寄合書きとなっている。
相逢一笑共欣然 境静山中骨欲仙
不用推敲費詩思 主賓避暑碧泉辺
相逢いて一笑すれば共に欣然たり 境静かにして山中骨仙ならんと欲す
推敲して詩思を費やすを用ゐず   主賓暑を避く碧泉の辺
本書は、もと京城の一朝鮮人の家の襖に貼られていたものを、奈良女子高等師範学校の卒業生が買い取り、昭和8年当時の在校生が譲り受けて奈良女子高等師範学校に贈呈されたものである。
近代日韓史料両種抜粋