天保12年 1841年10月16日 |
日本周防国熊毛郡束荷村 生誕 |
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安政4年 1857年2月 |
江戸湾警備のため相模国に派遣されていたとき、上司として赴任してきた来原良蔵と出会い、その紹介で吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は身分が低いため、塾外で立ち聞きしていたという。松蔭が安政の大獄で斬首された際、桂小五郎の手附として江戸詰めしていた伊藤は、師の遺骸をひきとることになる。その後、同門の久坂玄瑞・高杉晋作・桂小五郎・井上聞多らと倒幕運動に加わる。
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文久3年 1863年 |
井上聞多・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉らと共に長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。伊藤の荷物は文久2年(1862年)に発行された間違いだらけの『英和対訳袖珍辞書』1冊と寝巻きだけであったという。ロンドン到着後、ヒュー・マセソンの世話を受け化学者・アレキサンダー・ウィリアムソンの邸に滞在し、英語や礼儀作法の指導を受ける。ロンドンでは英語を学ぶとともに博物館、美術館に通い、海軍施設、工場などを見学して見聞を広めた。留学中にイギリスと日本との、あまりにも圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じる。![]() 遠藤謹助(左上) 井上 馨(左下) 井上 勝(真中) 伊藤俊輔〔博文〕(右上) 尾庸三(右下) |
文久4年 1864年 |
米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上とともに急ぎ帰国し戦争回避に奔走する。横浜上陸後、英国公使オールコックと通訳官アーネスト・サトウと会見。しかし、伊藤、井上両名の奔走も空しく、8月5日に4国連合艦隊の砲撃により下関戦争(馬関戦争)が勃発、長州の砲台は徹底的に破壊される。![]() |
慶応元年 1865年 |
坂本龍馬率いる亀山社中が、外国から薩摩名義の軍艦と武器を輸入する。その品物を長州藩に売り渡す密約を交わす。 8月26日、イギリス商人グラバーから7.300丁の洋式銃を買って、薩摩汽船『胡蝶丸』で長州藩の三田尻に回送する。 10月18日、薩摩名義の軍艦ユニオン号をグラバーから購入し長州藩に渡した。 |
慶応3年 1867年11月9日 |
大政奉還 維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、また英語に堪能な事を買われて参与、外国事務局判事、大蔵兼民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿、宮内卿など明治政府の様々な要職を歴任する。 ![]() 聖徳記念絵画館 壁画「大政奉還」 邨田丹陵 筆 |
明治3年 1870年11月 |
財政幣制調査のため、芳川顕正・福地源一郎らと渡米し、ナショナル・バンクについて学び、帰国後に伊藤の建議により、わが国最初の貨幣法である新貨条例が制定される。 |
明治4年 1871年11月 |
岩倉使節団の副使として渡米、サンフランシスコで「日の丸演説」を行う。
![]() 伊藤博文が「日の丸演説」を行ったサンフランシスコのグランドホテル |
明治6年 1873年3月 |
ベルリンに渡り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見し宰相ビスマルクと会見している。 |
明治6年 1873年 |
明治六年政変(征韓論政変) 征韓論を端に発した明治初期の一大政変。当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞した。西郷の使節派遣に賛同したのが板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣、桐野利秋、大隈重信、大木喬任らであり、反対したのが大久保利通、岩倉具視、木戸孝允、伊藤博文、黒田清隆らである。 伊藤博文は征韓論争で「内治優先」路線を掲げた大久保・岩倉らを支持して大久保の信任を得るようになった。このとき、木戸孝允と大久保利通の間を取り結び、明治8年(1875年)1月の大阪会議を斡旋する。大久保暗殺後は内務卿を継承し、維新の三傑なき後の明治政府指導者の一人として辣腕を振るう。 |
明治12年 1879年9月 |
「教育議」を上奏し、教育令発布となる。 |
明治14年 1881年1月 |
井上馨、大隈重信と熱海で会談。同年10月14日、大隈が下野し、明治政府は明治23年(1890年)に国会を開設することを約束する。 |
天保15年 1882年 |
明治天皇に憲法調査のための渡欧を命じられ、3月14日、河島醇・平田東助・吉田正春・山崎直胤・三好退蔵・岩倉具定・広橋賢光・西園寺公望・伊東巳代治ら随員を伴いヨーロッパに向けて出発し、はじめベルリン大学の公法学者、ルドルフ・フォン・グナイストに教示を乞い、アルバート・モッセからプロイセン憲法の逐条的講義を受けた。のちにウィーン大学の国家学教授・憲法学者であるローレンツ・フォン・シュタインに師事し、歴史法学や行政について学ぶ。これが帰国後、近代的な内閣制度を創設し、大日本帝国憲法の起草・制定に中心的役割を果たすことにつながる。 |
明治18年 1885年2月 |
朝鮮で起きた甲申政変の事後処理のため清国に派遣され、4月18日には李鴻章との間に天津条約を調印する。 |
明治18年 1885年12月 |
内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。候補は、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保利通の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤博文だった。初代内閣総理大臣を決める宮中での会議では、誰もが口をつぐんでいる中、伊藤の盟友であった井上馨は、「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、これに山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成、これには三条を支持する保守派の参議も返す言葉がなくなった。つまり英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。 |
明治19年 1886年2月 |
各省官制を制定し、3月には帝国大学(現在の東京大学)を創設し、翌年3月には国家学会が創設されるが、これを支援した。 |
明治20年 1887年 |
夏島で伊東巳代治、井上毅、金子堅太郎らとともに憲法草案の検討を開始する。 |
明治21年 1888年4月30日 |
枢密院開設の際に初代枢密院議長となるために首相を辞任。![]() 枢密院会議写真。1946年(昭和21年)10月29日、帝国議会において修正を加えた帝国憲法改正案を可決した枢密院会議の写真。 |
明治22年 1889年2月11日 |
黒田内閣のもとで大日本帝国憲法が発布される。 |
明治25年 1892年8月8日 |
第5代内閣総理大臣に就任 |
明治27年 1894年7月 |
朝鮮の甲午農民戦争(東学党の乱)をきっかけに、7月に清軍と衝突、朝鮮の主権を巡って意見が対立して8月に宣戦布告、日清戦争がおこる。 |
明治28年 1895年4月17日 |
下関の春帆楼で日清講和条約(下関条約)に調印する。全権代表は日本が伊藤博文、清は李鴻章でした。
内容は、 1、朝鮮の独立。 2、遼東半島・澎湖島・台湾の日本への割譲。 3、賠償金2億両などです。 此処で、朝鮮の独立とは、清が宗主権を放棄し日本の朝鮮への干渉を容認することを意味しました。賠償金2億両は当時の日本政府の歳入4年2ヶ月分に相当します。 ![]() |
明治29年 1896年8月31日 |
下関条約(馬関条約)がドイツ・フランス・ロシアの三国干渉を引き起こし、第2次伊藤内閣はこれを受け入れ内閣総理大臣を辞任する。 |
明治31年 1898年1月12日 |
第7代内閣総理大臣に就任 |
明治31年 1898年6月30日 |
閣議で政党結成の意思を表明し新党結成を唱えるが、山縣有朋の反対に会い第7代内閣総理大臣を辞任 |
明治31年 1898年 |
長崎を出発し、朝鮮の漢城で高宗と会見。9月には清国の北京で慶親王・康有為らと面談、光緒帝に謁見し、10月には張之洞・劉坤一と会談している。 |
明治33年 1900年9月 |
立憲政友会を結党し初代総裁になる。 |
明治33年 1900年10月19日 |
政友会を中心に第4次伊藤内閣が成立し、第10代内閣総理大臣に就任 |
明治34年 1901年5月10日 |
1901年義和団の乱の軍費捻出のための増税案を他の5会派(茶話会・朝日倶楽部・庚子会・木曜会・無所属団)を糾合して否決、伊藤内閣を総辞職する。 |
明治38年 1905年11月17日 |
第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)によって大韓帝国が大日本帝国の保護国となり、韓国統監府が設置されると初代統監に就任した。日本は実質的な朝鮮の支配権を掌握した。 伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄を急ぐ山縣有朋や桂太郎・寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立した。 また、韓国併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は併合反対の立場を取っていたが、併合方針の閣議決定に反対した形跡は無い。 |
明治42年 1909年5月 |
統監職を辞職する。統監辞職後、4度目の枢密院議長に就任し、事後処理の為訪韓し陣頭指揮に立ち、「韓国」政府に「韓国司法及監獄事務委託に関する覚書」を調印させ、また「韓国軍部廃止勅令公布」を行わせた。 1909年10月 ロシア帝国蔵相ウラジーミル・ココツェフ(ココフツォフ)と満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家・安重根によって射殺された。このとき伊藤は「3発あたった。相手は誰だ」と叫んだという。安はロシア官憲にその場で捕縛された。伊藤は絶命までの約30分間に、側近らと幾つか会話を交わしたが、死の間際に、自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。また、伊藤の孫にあたる伊藤満洲雄の話によれば、「俺は駄目だ。誰か他にやられたか?」と聞き、森槐南も傷ついたと知って「森もやられたか…」と言ったのが、伊藤の最後の言葉であったとされる。享年69。11月4日に日比谷公園で国葬が営まれた。 |