更新日 2014年08月17日
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杉原 千畝(すぎはら ちうね) 『杉原ビザ』の受給者
ネイサン・ルーウィンの経歴

2000年12月11日 杉原千畝生誕100年記念式典でスピーチするネイサン・ルーウィン 右手で『杉原ビザ』を掲げる
【略歴】 弁護士。1936年にポーランドで生まれ、5歳の時に米国へ渡る。ハーバード大学ロースクールを卒業後、連邦政府職員に。ケネディ、ジョンソン政権時代には、司法省の公民権局の法務次官補を務めた。1991年から1997年までユダヤ人法律問題専門家国際協会米国支部の会長を務め、現在は同協会の名誉会長。また、「法と政治問題に関する米国ユダヤ人委員会」の創設者の一人で20年以上に渡って同委員会の副委員長を務めている。
ネイサン・ルーウィン 杉原千畝生誕100年記念式典でのスピーチ
『杉原夫人、委員会の皆様、そしてご来賓の皆様、日本語で挨拶をできないのが残念です。60年前、日本にいた当時、私の日本語は最高でしたが、今はもうできません。さて、お話しをいたします。父が密航の仲介業者にお金を払って、私たち家族が国を出たのは1939年9月、私が3才半の時でした。漆黒の闇の中、私たちは森を抜けてポーランドとリトアニアの国境を越えました。その恐ろしい夜のことは覚えていませんが、父は私を腕に抱いて運んだそうです。後年、父からおそわったのですが、「少しでも音をたてたら、木の影に隠れている狼たちがすぐに飛びかかってくるのだよ。だから、絶対に静かにしていなくてはいけない」と、私を脅したそうです。さらに、「一番恐かったのは、リュックサックに入れていた鍋が低く垂れた枝にあたってガランと大きな音をたてた時だった」と母はつけ加えました。
私たちがまず目指したのは、当時独立国家であったリトアニア共和国のヴィルナでした。そこはナチスから逃れてきたポーランド系ユダヤ人にとって天国でした。ヴィルナに到着した後、ドイツのポーランド進攻を以前から予測していた母は、それを案じて一刻も早くヨーロッパから脱出する方法を探し出しました。
両親は、私が生まれたポーランド第二の都市ウージでの非常に快適で自由な生活をあきらめました。父は30代の初めに、ウージの人口の多数を占めていた正統派ユダヤ教徒の人々に支持されて、市会議員に選出されました。議員の中では一番年令が若かったそうです。父は、彼の父、すなわち私の祖父のラビ・アーロン・ルーウィンの足跡をたどる運命にありました。祖父はレッツォウ市の偉いラビで、ポーランドの下院議員に2度選ばれました。母方の祖父はアムステルダムで成功をおさめた事業家で、ウージで繊維工場を所有し、新しくできた義理の息子、すなわち私の父に経営を手伝わせました。そのため、私は生後3年半をこのポーランドの大都市で過ごしました。父は、工場経営と(これにはほとんど耐えられなかったようですが)市会議員の二足のわらじを履いていました。市議会では、ポーランドのユダヤ人を侮辱するようなことをウージ市議会の公式記録に残したポーランドで最も邪悪な反ユダヤ主義者の人々と戦わなくてはなりませんでした。
1937年9月1日、ヒットラー軍が電撃的にドイツからポーランドに進攻してきた時、母の実家の家族全員は私たちと一緒にロッツにいました。著名なオランダ市民である母の父はとても勇敢な人でした。祖父はすぐにワルシャワからアムステルダム行きの飛行機を予約し、向こうにおいてきた宝石や貴重品を取りに行こうとしました。それがあれば、私たち全員ナチスから逃れることができると思ったからです。しかし、それを最後に母は祖父と再び会うことはありませんでした。アムステルダムの親戚から聞いた話では、ポーランドにいる私たちと合流できなくなった祖父は、コートの中にダイアモンドを縫いこみ、国境を越えてスイスに入ろうとしました。しかしスイス国境で捕まり、ナチ当局へ引き渡され、最終的にはアウシュビッツ・ビルケナウのガス室から死体焼却場へと送られたそうです。
母はオランダ市民としてアムステルダムで育てられました。当時、フェミニスト以前の時代には、結婚すれば女性は法的に夫の国籍に移されました。そのため、母は国籍上ポーランド人となり、私を生みました。母方の祖父がオランダに行った後、母とともにロッツに残ったのは、オランダ市民だった祖母と叔父(母の弟)でした。二人は私たちの真夜中の国境越えに加わり、ヴィルナで一緒に落ち着きました。
ヴィルナに来るやいなや、母と母の弟のレオはアメリカかパレスチナ、あるいはどこか他の国に行く方法を探し始めました。レオはまだ20代でした。オランダ市民はアジアあるいは南アメリカのオランダ植民地に上陸できる権利があることが分かりました。オランダ領東インド(現在のインドネシア)はオランダ市民に門戸を開けていましたし、オランダ・アンチル諸島キュラソーやベネズエラとブラジルの間にあるオランダ領スリナムもそうでした。ヴィルナからモスクワに行き、そこからシベリア横断鉄道でウラジオストックに渡ることができます。ウラジオストックから船で日本に行けば、そこからオランダ領東インド諸島でもオランダ領西インド諸島でも行くことができます。
しかし、母はもはやオランダ国籍ではありませんでした。もちろん、父も私もそうではありませんでした。でも母はあきらめずに粘りました。リガに駐在していたオランダ大使のL.P.J.ディデッカーや、ユダヤ人の間ではコブノで知られていたカウナスにいる若いオランダ名誉領事と連絡をとりました。オランダ領事は ヤン・ズヴァルテンディックという人で、彼もまた、本日の第一の受賞者である杉原千畝氏と同じく、1940年から1941年にかけ、数千人のユダヤ人がリトアニアから日本に脱出するのを助けました。
ディデッカー大使が母に宛てた返事は、「オランダ市民はオランダ領東インド諸島に上陸する法的権利をもっているが、父や私、さらにはその時すでにポーランド国籍となっていた母のように、ポーランド人には植民地へのビザは発給されない」というものでした。キュラソーやスリナム上陸のビザについては、ディデッカー大使は、それらオランダ植民地への上陸にはビザを必要としないので、彼の権限でそれを助けることはできないと言いました。現地総督としてキュラソーに駐在していたオランダ政府高官が、上陸を許可するかしないかの全権を委ねられていました。 ズヴァルテンディック領事と相談した後、母と叔父は素晴らしい名案を思いつきました。母はオランダ大使に手紙を書き、彼女のポーランドのパスポートに“スリナム、キュラソーおよびその他南アメリカでオランダが所有する領土への上陸にビザは要求されない”という記述を裏書きしてくれるかどうかを問い合わせました。1940年7月11日、ディデッカー大使はその通りのことをしてくれました。彼は母のポーランド・パスポートに、「外国人が、スリナム、キュラソーおよびその他南アメリカでオランダが所有する領土に上陸するには、ビザは要求されない」という文言をフランス語で裏書きしてくれたのです。
一方、私たちがヴィルナにいた頃、ロシアがリトアニアを占領しました。ロシア政府はポーランドをもはや独立国と見なしていなかったため、私の両親のポーランド・パスポートは用をなさなくなりました。その代わり父は、「ライディマス」と呼ばれるラトビアの通行証を、自分自身と母と私のために発行してもらいました。その時、無効となった母のポーランド・パスポートが大使の裏書きとともに返送されてきました。母は、そのパスポートと「ライディマス」をズヴァルテンディック領事に届け、パスポートにあるディデッカーの裏書きをラトビアの通行証にそっくりそのまま複写してほしいと願い出ました。そしてそれが認められ、リガのオランダ大使による宣言に代わって、カウナスの領事による宣言が裏書きされました。これが手書きによるその宣言のコピーです。オリジナルは家族の宝として家においてあります。ズヴァルテンディックの裏書きの日付は1940年7月22日です。それより以前の日付の裏書きは見たことがありません。数日後、人々が長蛇の列を作り始めたため、この宣言はゴム印にされました。杉原ビザをもらった旅券の大半は、そのゴム印の裏書きがついています。
そして、ここで誉れ高い杉原千畝氏が登場します。子どもの頃、私は、杉原領事はヤン・ズヴァルテンディックの友人で、パスポートにオランダの裏書きのあるユダヤ人には通過ビザを発給するという申し合わせが二人の間にあったと聞かされたものでした。ズヴァルテンディック氏の息子さんは(この方と私はずっと文通をしてきました)、「父は杉原領事のことはまったく知らなかったと思う」と言いました。しかし、私は子どもの頃に聞かされた話を信じています。多分、二人はどこかの外交官のパーティーで会っていたのではないでしょうか。いずれにしろ、ヤン・ズヴァルテンディック氏が亡くなる少し前の1963年に書いた手紙には、「カウナスの日本領事は、オランダ領西インド諸島に関する私の注釈が記載されたパスポートをもっている人々に、まったく自発的に通過ビザを発給していた」と記されています。さて、私にとって、「まったく自発的に」というこの言葉は、ズヴァルテンディック氏が手紙の中で自分がやったことも細かく思い出せないと控えめに言っていたことを考えあわせても、彼は杉原領事を何らかの形で知っていたということを示しているように思えます。
私たちの旅券には、優美な日本文字の書体で書かれた1940年7月26日付けの杉原ビザがあります。杉原領事が作成したリストは、数年前、ボストン大学のヒル・レビン教授が日本の外務省で発見しました。リストには、私の祖母が16番、父は17番、叔父が18番の番号で載っていました。祖母と叔父の二人はオランダ国籍として、父の旅券には母と私が一緒に記載されていて、私たちはポーランド国籍とされていました。キュラソー・ビザを一番最初に得たと一部では言われているネイサン・ガトワースというオランダ国籍の人は、そのリストでは1264番で、発給日は1940年8月6日となっていました。杉原夫人の自叙伝は次のような言葉で始まっています。
「1940年7月27日の朝に始まった一連の出来事は、今でも鮮明にはっきりと私の記憶に刻まれています」 彼女は、その日、7月27日、驚いたことに、100人から200人ほどのユダヤ人がカウナスの日本領事館前でビザを求めて立っていたと書いています。それは、杉原領事が私たち家族にビザを発給してくれた日の翌日のことでした。母は、「ビザを手に入れたことをヴィルナの友人たちに言ったのよ」と私に話してくれたことを覚えています。後年イスラエルの重要なポストに就いたバルハフティック大臣を含め、ビザを受けた人々は、次の日にヴィルナからカウナスへと旅立ちました。
母は、私たちの命を救ってくれた日本領事に直接会ったという話はまったくしませんでした。父もしたことはありませんでした。杉原リストに私の祖母、父、叔父のレオの名前が発見されたことで、私は、母のポーランド・パスポートにあるディデッカーの裏書きなど一切合財の渡航書類をもってカウナスへ行き、ズヴァルテンディック領事と杉原領事を訪ねるという大仕事をしたのは叔父のレオだったのではないかと推測しています。多分叔父は、叔父の母親の分、姉の分、そして自分の分と続けて集団でビザを申請したのではないでしょうか。
ソ連の共産政府が杉原ビザを持っている人々にソ連出国を認めたことは、杉原領事および日本に対してソ連が敬意を払っていたことの証に他なりません。私たちはヴィルナからモスクワに行き、モスクワからシベリア大陸横断鉄道で2週間かけてウラジオストックに着き、船に乗り換え、最後に神戸で日本人に暖かく迎え入れられました。非常に幸運なことに、父の名が、非移民扱いでアメリカ入国を認めてほしいラビの一人としてリストアップされ、在米の有力なユダヤ人組織がその要望書をアメリカ政府に提出しました。父と私が1941年の春にまずアメリカに渡りました。アメリカ当局は叔父や祖母にも同様にやさしくはありませんでした。母は祖母と叔父のビザを取るために数ヵ月日本に残り、何とか努力をしましたが、二人のアメリカ入国は認められませんでした。結局、母は、二人に神戸でお別れをして日本を発ちました。母がおじを見たのはそれが最後となりました。
日本が1941年12月に戦争に突入する前、祖母と叔父はオランダ領東インドに渡りました。叔父のレオはオランダ軍に入隊し、フローレス海の沖合いで戦死しました。祖父母の中では、母方の祖母だけが唯一人私が覚えている人であり、唯一人ホロコーストを生き抜いた人でした。戦争が終ってから5年ほど、祖母は私たちと一緒に暮しました。
尊敬されたレッツォウのラビである父方の祖父は、ルヴォフの町からロシア軍が撤退し、ドイツ軍が進攻してきた1941年6月30日、むごたらしく殺されました。未亡人となった祖母は数ヵ月間アパートに身を潜めましたが、最後には見つかり、祖父の唯一人の妹とその人の若い娘と共にベルゼックの死の収容所に送られました。
ほぼ2000年前の人で、ユダヤ教口伝法典の基本解説であるミシュナを編纂したラビ・ユダ師は、人間にはたった1時間の善行で永遠の報いを受ける人もいれば、同じ報いを受けるために一生苦労しなくてはならない人もいると言いました。報いも称賛も期待することなく、正しいことを為しただけで(事実、そのやさしさが何らかの効果をもたらしたかどうか、長年知ることもなく)、杉原領事は永遠の報いを得ました。彼の優美な日本語書体の旅券をもってヨーロッパを逃れた数千人のユダヤ人だけではなく、それらサバイバーの子孫である数万の人々にとって、杉原氏は命の恩人です。また彼は、ユダヤ教の学校として有名な「ミラ・ヤシヴァ」の存続の恩人でもあります。その学校の学生と教師も日本に逃れ、戦争中は上海で過ごし、戦後アメリカに渡りました。
杉原千畝は真の英雄です。エルサレムに建てられたホロコースト博物館の正義の異邦人の名簿に第一に名を連ねられました。東京の外務省は通過ビザの発給を認めなかっただけではなく、杉原氏に対してビザを発給するなという訓令を何度も電報で送りました。杉原千畝はそれら訓令を無視し、カウナスを離れる列車に乗る直前まで命を救う努力を続けました。
この慈悲深い行為をどう説明できるでしょう?ヘブライ語には次のような言い回しがあります。 「kishmon ken hu(名は体を表わす)」。日本語で杉原千畝という名前がどのような意味をもっているのか私は知りませんが、その読みをヘブライ語で見れば大変驚かされます。「チウネ」はヘブライ語では「hiyuni」と発音できますが、その意味は「生を授ける」です。ヘブライ語の大家であるラビ・ユダ・ハレビ師は、「hakoach hachiyuni(生を授ける力)」について述べています。
また、スギハラという名前の発音で、「hara」は身ごもるという意味になります。女家長のサラは、「Hinach hara veyaladet ben(あなたは妊娠している。息子を産むだろう)」と告げられました。そして 「sugi」は、アラム語あるいはヘブライ語で「サブジェクト(対象)」という意味です。したがって、Hiyuni (Chiune) Sugiharaは「受胎の対象」、すなわち生を授ける、実を結ぶ(代々にわたる継続性)という意味になります。
もしかしたら死と崩壊に直面しなければならなかった数千の人々に、生を授け、継続と多産を与えた人にとって、まさに相応しい名前ではありませんか。
今、私には男と女の孫が一人づついます。男の子の孫のギドン・モシェ・ルーウィン・ハルブフィンガーと女の子のアエレット・トーヴァ・ルーウィン・ハルブフィンガーは、杉原領事とズヴァルテンディック領事の思いやりと勇気のおかげで、今日この世界に生を受けています。ギドン・モシェは4年前、ユダヤ暦の4月16日に生まれました。ユダヤ暦のカレンダーを調べて発見したのですが、ヤン・ズヴァルテンディックが1枚の紙にオランダの裏書きを記して、それが4日後に杉原領事に渡され、ギドンの祖父と曽祖父に命のビザが許可されることになったのが、60年前のユダヤ暦の4月16日だったのです。
杉原千畝氏のご家族に、そして杉原氏の思い出として、杉原領事に命の授かり物をいただかなければ決してアメリカで生を受けることのなかった私の家族(娘たち、息子そして孫たち)の感謝と、私自身の感謝をここに捧げます。そして、杉原千畝氏がいなければ、私に出会うことがなかった私の妻の感謝もここに捧げます。杉原夫人およびご子息、お孫様たちの、末永いご健康とご多幸をお祈り申しあげます。古くからのユダヤの言葉(「命に(L'Chaim)」)をご家族の皆様にお贈りします。』
6000人の命のビザ 杉原千畝生誕100年記念事業 ] より抜粋させていただきました。