更新日 2014年08月17日
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杉原 千畝(すぎはら ちうね) 『杉原ビザ』の受給者
サムイル・マンスキーの経歴

【略歴】 エメス礼拝堂記念公園理事長。1939年12月、ナチスの迫害から逃れるためにポーランドからリトアニアへ。ビザを受給後、ロシア、日本を経由し、米国へ到着。41年から米国シオニスト協会の会員となり、同協会の全国副理事長を務めるなど、シオニズム運動に深く関わる。現在、ユダヤ人地域関係協議会中東委員会委員、同協議会ホロコースト委員会委員、マサチューセッツ州ユダヤ人共同墓地協会副会長兼理事、米国シオニスト協会全国執行委員などを務める。
サムイル・マンスキー 杉原千畝生誕100年記念式典でのスピーチ
『明石康委員長、上田卓三委員長代理、この式典を実現し、杉原さんの行った偉業に対して敬意を表する機会を与えていただいたことに感謝申し上げます。上田さん、あなたのおっしゃった「種をまいたように収穫があるものだ」という言葉は、この場に非常にふさわしいものであります。
明石委員長、来賓の皆様、そして幸子夫人、私は大変恐縮した思いで皆様の前に立っておりますが、杉原さんのビザの受給者、その家族、そしてこれから生まれてくる世代を代表してお話をさせていただきたいと思います。
私たちは、人間の歴史において最も悲惨な時代を生き延びました。杉原さんは、上司からの命令にそむいて2,000通のビザを発給しました。私は、この行為の中で示された杉原さんの勇気と強い人道精神に大変感謝しております。残念ながら、私は直接杉原さんにお目にかかることはできませんでしたが、私の母と妹は、リトアニアでビザを受け取った時に杉原さんにお会いしています。後でわかったことですが、私がシオニスト運動に関わっているためソビエト軍が私を探していると父方の祖父が母に警告していたのです。とくに、ソビエトは、私がポーランドのリダからリトアニアへ避難する前に埋めたシオニストの旗を発見していました。そのため、母は、私が杉原さんに会いに行くのを止めたのです。幸子夫人と弘樹さんには、1989年に反差別連盟がボストンでホロコーストに関連した行事を開いたときに、お会いすることができました。
1940年8月9日、杉原領事が日本経由のキュラソー島行きの通過ビザを私の家族に発給してくださいました。そして、1941年2月24日、私たちは敦賀に到着しました。小さな家々が立ち並ぶ、花にあふれ、美しい町並みをした、非常に礼儀正しい人々の住むおとぎの国、これが敦賀の第一印象でした。私は、敦賀で初めてバナナを食べましたが、あんなに美味しい物を食べたのは生まれて初めてでした。その後、敦賀から神戸へ移動し、神戸で2ヶ月過ごしました。もし、アメリカ行きのビザが受給されるということがわかっていたら、日本での滞在をもっと楽しめたと思います。しかし、世界の情勢が悪化するにつれ、私たちの心配もつのっていきました。神戸の町を散歩したり、お店をのぞいたりして、ビザがおりるまでの時を過ごしました。私には、言葉の障壁がありました。日本人の中には、ロシア語やドイツ語を話される方がいらっしゃいましたが、私はいつもイディッシュ語でこたえていました。他の日本人とは手を使ってコミュニケーションをとりました。2ヵ月後の、1941年4月30日、私たちは自由へのパスポートを手にいれました。5月18日にワシントン州のシアトルに到着し、そこからボストンへ移動して父と合流しました。
ボストン到着後、移民のための夜間学校に入学し英語を学び始めました。昼間は働き、夜は学校に通ったのです。私はずっと大学に通いたいと思っていました。しかし、ポーランドにおいて、ユダヤ人の私が大学に行くということなど考えられないことでした。しかし、アメリカでは、ボストン大学に入学し、1948年に、経営学部を卒業することができたのです。また、1982年にボストン大学の教養学部大学院に入学し、翌年、卒業することができました。ポーランドでは、大学に通うということは私の夢でした。この夢が実現したのは、杉原さんの気高い行動のおかげなのです。
在学中の1946年に、妻のエステルと出会いましたが、2回デートした後、彼女にプロポーズしました。お互いのことをほとんど知らないのにプロポーズなんかして、妻は私の頭がどうかしてしまったのではないか思ったそうです。しかし、その年、私たちは結婚し、9月に結婚54周年を迎えました。私たちの間には、息子が3人いますが、2人は大学の教授で、1人は銀行の理事を務めています。3人とも結婚しており、2人ずつ子供がいます。つまり、私と妻には6人の孫がいるのです。私が妻と出会えたのも、私の子供たちがこのような成功を収めることができたのも、杉原さんの助けがあったからこそなのです。
私以外にも、杉原さんは私の弟と妹の命を救ってくれました。弟には、息子が2人と孫が3人います。妹には、息子が2人と娘が1人、そして7人の孫がいます。ですから、ヨーロッパにいた私の家族の命を救ってくれた結果、杉原さんは、8人の子供と16人の孫にも命を与えてくれたことになります。これは、自分自身よりも人道を優先させた一人の人間とった行動の結果なのです。
1980年代後半、私は、「神の助けと共に」という題名の本を執筆しました。この本は、出版されて、議会図書館にも寄贈されました。私は、この本の中で、ナチスに破壊されてしまった、私の生まれ育ったポーランドの町やアメリカでの経験について書きました。杉原さんは、私の本の大変重要な部分を占めています。私はこの本を、私の子ども、孫、そして将来の世代のために書きました。私たちユダヤ人に起こった出来事を知っておいて欲しいからです。
 『シンドラーのリスト』という映画が公開されて以来、多くの人が杉原さんのことを「日本のシンドラー」として考えるようになりました。しかし、2人の間には大きな違いがあると私は思います。2人の取った行動の結果は同じです。人命が救われたのです。しかし、シンドラー氏はユダヤ人を労働者として雇うことにより、経済的な利益を得たのです。杉原さんは、純粋に人道的な気持ちからユダヤ人の命を救ったのです。
 杉原さんへの感謝の気持ちは忘れたことがありませんでしたが、10年か11年程前に、日本駐在のボストン・グローブ誌の記者が杉原さんについて私にインタビューを行ったのがきっかけとなって、杉原さんについてもっと考えるようになりました。若い世代が1939年から1945年の間にヨーロッパで起こった出来事についてまったく知らないということに気づき、何かしなければいけないと思いました。若者たちが当時起こった出来事について知るということは非常に重要なことだからです。
 私は、アメリカに到着した当初から、ユダヤ人社会のさまざまな活動に関わってきました。マサチューセッツ州チェスナット・ヒルにあるエメス寺院のメンバーになってから42年たちますが、寺院の役員として、ホロコーストの記念碑を建てることを提案しました。追憶の碑と呼ばれるこの記念碑には、エメス寺院のメンバーの家族が虐殺される前に住んでいた町や都市の名前が刻まれています。すべての市町村が、1918年から1939年当時の国境で描かれた地図の上に示され、記録されています。
 追憶の碑が完成した後、杉原さんの記念碑の建設にとりかかりました。この碑は、御影石でできており、今年の初めに完成しましたが、20世紀のヨーロッパにおける最も暗澹とした時代にさし込んだ一条の希望の光を記憶するためのものです。記念碑には、「杉原千畝 在リトアニア日本国領事 激動の1939-1941年の間に在勤 杉原氏により給付された二千あまりのビザは、六千のユダヤ人の命を救い、後に三世代、三万六千の命の源となる」という碑文が刻まれています。
また、チュレッツ先生が聖書から選んでくださった、「獅子のような心を持つ力ある者」(サムエル記II.17:10)という一節も刻まれています。碑文はすべて、英語、ヘブライ語、日本語で表記されています。また、杉原さんの顔も刻み込まれています。この記念碑は、日本の灯篭に似せてつくった照明装置をそなえた日本庭園に建てられています。玉石が敷き詰められた小道が追憶の碑まで続き、そこから石畳の道を行くと杉原さんの記念碑にたどり着きます。
 2000年の4月30日、エメス寺院の敷地内で、杉原さんの記念碑の献呈式がおこなわれました。日本人とユダヤ人コミュニティから約600人が参加しました。さかまきのりこさんの指揮するボストンの日本人の合唱団とゲンナジー・コニコフが指揮するエメス寺院の聖歌隊、シライ・エメスが共演し、日本語と英語とヘブライ語の歌を歌ったのです。また、昭和ボストン校の生徒による千羽鶴の贈呈式も行われました。この場をお借りして、ボストン小児科病院の研究員である、さかもとまさ氏と、在ボストン日本領事館のご助力に感謝申し上げたいと思います。
 この日の出来事は、ブランダイズ大学のサウール・トスター名誉教授が私に送って下さった手紙が最も的確に表現していると思います。スター教授はこうおっしゃいました。「マンスキーさん、先日の日曜日、ホロコースト記念日の式典をかねて行われた、杉原さんの偉業を称える記念碑の献呈式は、非常に感動的なものでした。聖歌隊と日本人合唱団が共演したこの式典は、杉原さんを顕彰するものとしてだけでなく、和解をも象徴していました。太平洋戦争に従軍した元兵士として、そう断言できます。」
 最後になりましたが、私たちユダヤ民族の記憶は、はるか歴史をさかのぼります。「記憶にとどめよ」という言葉が聖書には600回以上も出てきます。エジプトで奴隷であったことを私たちは決して忘れません。エジプトからの脱出を決して忘れません。バビロニア人とローマ人によって私たちの神殿が破壊されたことを決して忘れません。第二神殿が破壊された後のユダの地からの追放を決して忘れません。2000年に渡って流浪の身であったことを決して忘れません。スペイン、ポルトガル、そしてヨーロッパの他の国々から追放されたことを決して忘れません。使い捨てにされた民族であったことを私たちは決して忘れません。そして、ホロコーストを決して、決して、決して忘れません。
しかし、私たちユダヤ人が、モーゼ、キリスト、カール・マルクス、フロイド、アインシュタインを通じて世界に貢献したことも決して忘れません。1948年にイスラエルが建国され、使い捨てにされる民族でなくなった日のことを決して忘れません。エンテベ事件を決して忘れません。そして、杉原千畝という人物のことを決して忘れません。杉原さんの功績はこれからも永遠に受け継がれていくのです。ありがとうございました。』
6000人の命のビザ 杉原千畝生誕100年記念事業 ] より抜粋させていただきました。
ボストン駐在の辻優日本総領事から、敬意と感謝を込めて表彰状が贈られた。

マンスキーは杉原千畝が発給した「命のビザ」について語り続け、日本総領事から表彰状が贈られた。=米マサチューセッツ州フラミンガム
以下、[ 地球人間模様 ] より抜粋させていただきました。
太平洋を日本船で渡り、米西岸のシアトルに着いたのは41年5月18日だった。マンスキーは一足先に米国に渡りボストンで働いていた父親と合流。ストッキング販売で生計を立てながらボストン大で学んだ。
「今ここに杉原がいるなら、英語とヘブライ語と日本語でサンキューと言いたい」。自室入り口付近の壁には、杉原の夫人、幸子(ゆきこ)さん(故人)から贈られた色紙が飾られている。
マンスキーはあえて杉原がユダヤ人難民にビザを発給した理由を追究しようとはしない。「すべては運命づけられていたこと。大切なのはわたしが今ここにいるということだ」と強調する。
ユダヤ人の子どもたちを救ったドイツ人実業家のオスカー・シンドラーに例え、杉原を「日本のシンドラー」と呼ぶことには断固反対する。「シンドラーは経済的実益が根底にあった。杉原とは比較できない」
教育現場や各種の集会に通い「命のビザ」の伝承と啓蒙(けいもう)に努めた。こうした活動に対し、ボストン駐在の辻優日本総領事(59)は今年7月、敬意と感謝の気持ちを込めて表彰状を贈った。
現在は東京勤務の辻は、「心から日本人を敬愛しており、(杉原の話を)次世代に引き継ぐのは自分の役割と考えている。非常に静かな方で、個々の人に対する感謝の気持ちがよく伝わってくる(人柄だ)」と話した。