更新日 2014年08月17日
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杉原リスト
杉原リスト 杉原がビザ発給者の名を記したリスト(34ページ有ります)
リストの項目(左から)
NN : [ 番号 ]
NATIONALITY : [ 国籍 ]
NAME : [ 氏名 ]
ENTRANCE OF TRANSIT : [ 査証の種類 ]
DATE OF VISA : [ 発行日 ]
SASHOORIO (LIT) : [ 査証料 (Litas リトアニア通貨単位) ]
BIKOO : [ 備考 ]
1番目の人は、
[ 番号 ] : NO-1
[ 国籍 ] : ドイツ人
[ 氏名 ] : ジークフリート・ホッパーさん
[ 査証の種類 ] : 通過査証
[ 発行日 ] : 7月9日
[ 査証料 ] : 2リタス
[ 備考 ] : 無記入
日本本国から要求された「杉原リスト」
1941年2月4日 松岡外相からカウナス在勤時に発給したビザの数について、ピラハの杉原に問い合わせの電報が入った。日本に続々と上陸してくるリトアニアからのユダヤ人は、一体これから先、幾人に登るのか。外務省として実態を把握しておかなねばならない。
『ビザを与えたユダヤ難民の数を、至急電報にて知らせたうえ、これらの氏名・行先・査証月日について、郵便にて報告せよ。』
杉原は翌五日の電報にて『リトアニア人ならびに旧ポーランド人に与えた通過ビザ2132の内、ユダヤ系約1500と推定する。』と報告した。杉原は『ユダヤ系約1500と推定』としているが、しかしこれは意識的にユダヤ系の数を控え目に報告しているのであって、事実はほとんど全て、ユダヤ難民であった。
追いかけて2月28日に、32枚の用紙にタイプで打ったカウナス在勤時におけるビザ発給表を、杉原は松岡宛に郵送した。いわゆる「杉原リスト」と呼ばれるものである。
このリストの通し番号は2139番で終わり、ビザの発給者の国籍は圧倒的にポーランドである。最初の日付は1940年7月9日からはじまっているが、7月25日までは1日多くて4枚までである。それが7月26日14枚、27日41枚となる。28日は日曜日だから休館で、翌月曜日の29日以降、その数は急激に増えた。杉原が「決意」したのであった。
7月29日は120枚、30日は262枚、31日は145枚である。平時イギリス領事館において一日につき、ビザ発給を20枚から30枚を限度としているのに比べ、その数の異常さが分かる。また8月3日にリトアニアがソ連に併合され、カウナスに在住する各国の公館は早々にされたが、「杉原リスト」の最終日は、8月26日になっていることからして、杉原が献身的にビザを書いた事が伺える。
ビザは家族単位に出されたものであり、一家族3人を平均としても、6000人を超える勘定になるわけで、実際には8000人を超えると計算する人もいる。他人同士であっても夫婦を名乗り、兄弟を名乗り、親子を名乗って、一枚のビザを最大限に利用したことは、のちにユダヤ人たちの証言で明らかになっている。
[ 決断 命のビザ ] 大正出版 杉原幸子 監修 渡辺勝正 編著 186~188ページ
杉原ビザのリストと番号
「杉原リスト」はカウナスではなく、プラハでタイプされたものであった。報告書の表紙には、次のように書かれている。
「普通第28号 昭和16年2月28日 在プラーグ 総領事代理杉原千畝 【印】 外務大臣松岡洋右殿」
現存する「杉原リスト」は、松岡の要請を受けて、杉原がカウナスの記録をもとに、急露形を整えたものであろう。例えば通し番号が190番から199番までの10番が抜けており、これをあとで補足するなど、不自然なところが見られるのみならず、カウナスの原簿はプラハで焼却されたのを、幸子夫人が目撃している。
「初めの三日間は、いちいち連続番号をつけてきたが、1000号近くになった時、こんな丁寧なことをしていても、この先、到底裁き切れないことに気が付き、その手間を省くため、まず番号付けを取り止め、かつ所定手数料の徴収をも、停止しました」(千畝手記)
したがって、プラハで通し番号が打たれた「杉原リスト」と、現存するカウナス発給のビザを付け合せた時、リストの番号が一致しない場合が、出てくるのである。とはいえ、外交資料館に保存される「杉原ビザのリスト」は今も、もっとも注目される史料の一つである。
[ 決断 命のビザ ] 大正出版 杉原幸子 監修 渡辺勝正 編著 188~190ページ