更新日 2017年09月22日
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杉原 千畝(すぎはら ちうね)
杉原千畝の経歴
明治33年
1900年1月1日
岐阜県加茂郡八百津町 生誕
明治45年
1912年3月
古渡尋常小学校(現・名古屋市立平和小学校)を全甲(現在の「オール5」)の成績で卒業。
大正7年
1918年4月
早稲田大学高等師範部英語科(現・早稲田大学教育学部英語英文学科)の予科に入学。

学生時代の杉原千畝 羽織袴
大正8年
1919年5月23日付
図書館で偶然目にした地方紙の掲示(大正8年5月23日付の「官報」第2039号)により、外務省留学生試験の存在を知る。猛勉強の末、「日支両国の将来」に関する論述や「英国下院に於ける外務次官ハームウォーズ紙の独軍撤退に関する演説」の英文和訳等の難問を制して合格
大正8年
1919年10月
日露協会学校(後のハルビン学院)に入学。11月には早稲田大学を中退し、外務省の官費留学生として中華民国のハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。
大正9年
1920年12月
1920年12月から1922年3月まで陸軍に入営。最終階級は陸軍少尉。
大正12年
1923年3月
日露協会学校特修科修了。特にロシア語は非常に堪能で、満洲里領事代理の考査では、ロシア語の総合点は100点満点の90点。「一、二年前の卒業任官の留学生と比較するも遜色なし。むしろ正確優秀」という折り紙付きの評価を受け、生徒から教員として教える方に転じる。
大正13年
1924年
外務省書記生として採用され、日露協会学校、ハルビン大使館二等通訳官などを務める。
大正15年
1926年
六百頁余にわたる『ソヴィエト聯邦國民經濟大觀』を書き上げ、高い評価を外務省から受け、26歳の若さにして、ロシア問題のエキスパートとして頭角をあらわす。
昭和7年
1932年3月
満州国の建国が宣言され、ハルビンの日本総領事館にいた千畝は、上司の大橋忠一総領事の要請で、満州国政府の外交部に出向。
昭和8年
1933年
満州国外交部では政務局ロシア科長兼計画科長としてソ連との北満州鉄道(東清鉄道)譲渡交渉を担当。鉄道及び付帯施設の周到な調査をソ連側に提示して、ソ連側当初要求額の6億2,500万円を1億4,000万円にまで値下げさせた。ソ連側の提示額は、当時の日本の国家予算の一割強に値するものであり、杉原による有利な譲渡協定の締結は大きな外交的勝利であった。外務省人事課で作成した文書には、杉原に関して、「外務省書記生たりしか滿州國成立と共に仝國外交部に入り政務司俄國課長として北鐵譲渡交渉に有力なる働をなせり」という記述が見られる。
昭和10年
1935年
満州国外交部を退官。
ハルビン在職期に杉原は、有名なシモン・カスペ(英語版)殺害事件などユダヤ人や中国人の富豪の誘拐・殺害事件を身近で体験することになった。これらの事件の背後には、関東軍に後援された、白系ロシア人のファシスト組織があった。杉原は、破格の金銭的条件で、関東軍の橋本欣五郎から間諜(スパイ)になるよう強要されたが、これを拒否。千畝自身の言葉によれば、「驕慢、無責任、出世主義、一匹狼の年若い職業軍人の充満する満州国への出向三年の宮仕えが、ホトホト厭」になって外交部を辞任した。
帰国後の杉原は、知人の妹である菊池幸子と結婚し、日本の外務省に復帰するが、赤貧の杉原夫妻は、結婚式を挙げるどころか、記念写真一枚撮る余裕さえなかった。「杉原手記」のなかで、「この国の内幕が分かってきました。若い職業軍人が狭い了見で事を運び、無理強いしているのを見ていやになった」と、千畝は述べている。ソ連と関東軍の双方から忌避された千畝は、満州国外交部を辞めた理由を尋ねられた際、関東軍の横暴に対する憤慨から、「日本人は中国人に対してひどい扱いをしている。同じ人間だと思っていない。それが、がまんできなかったんだ」と幸子夫人に答えている。

撮影年不明 杉原千畝・幸子ご夫妻
昭和12年
1937年
フィンランドの在ヘルシンキ日本公使館に赴任
昭和14年
1939年
リトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。
当時、関東軍は満洲に駐留する精鋭部隊をソ満国境から可及的速やかに南太平洋諸島に転進させたかった。その為にドイツ軍によるソ連攻撃の可能性・日時を迅速かつ正確に特定することが必要であった。
日本人が誰もいないカウナスに日本領事として赴任し、会話や噂などをとらえて、リトアニアとドイツとの国境地帯から入ってくるドイツ軍による対ソ攻撃の準備と部隊の集結などに関するあらゆる情報を、外務省ではなく参謀本部に報告することが杉原の役割であった。

2013年のヨーロッパ地図


1940年2月 リトアニア在住時 左から幸子婦人の妹節子・千畝・千暁・弘樹・幸子婦人
昭和15年
1940年7月18日
午前6時
ビザを求めるユダヤ人約200人が日本領事館の前を埋めつくす。

1940年7月 日付は不明 杉原千畝が持ち帰った数少ない写真の一枚
昭和15年
1940年7月18日
午前
事態を把握するためユダヤ人代表を選び領事館に入るように要請。
ニシュリ氏、バルハフティック氏を含む5人の代表と2時間近く話し合う。
昭和15年
1940年7月18日
午後
外務大臣に判断を仰ぐ電報をうつ。[第一回請訓電報]
昭和15年
1940年7月19日
午前
ユダヤ人代表と再協議
昭和15年
1940年7月19日
午後
ソ連領事館に出向き、日本通過ビザでソ連国内通過は可能かを打診し、問題なしとの回答を得る。
渡航条件完備者、2人に通過ビザを発給。
昭和15年
1940年7月22日
外務省より第一回回訓。「ビザ発給拒否」
「最終国の入国許可を持たない者にはビザは発行してはならない」
杉原千畝、苦悩のすえ再度外務省に電報をうつ。[第2二回請訓電報]
昭和15年
1940年7月24日
外務省より第二回回訓。「ビザ発給拒否」
渡航条件完備者、5人に通過ビザを発給。
杉原千畝、一晩中ビザを発給するかどうか悩む。
昭和15年
1940年7月25日
ビザ発給を決断。受入国は「キュラソー」とする。
大量発行のためのビザのゴム印を発注。
ユダヤ人4人に通過ビザ発給。
昭和15年
1940年7月26日
18人に通過ビザ発給。
昭和15年
1940年7月27日
42人に通過ビザ発給。
「キュラソー」ゴム印届く。
昭和15年
1940年7月22日
杉原千畝、「ビザを発行する」とユダヤ人難民に宣言する。
ビザ発給121枚。
昭和15年
1940年7月30日
ビザ発給260枚。
昭和15年
1940年7月31日
ビザ発給146枚。
昭和15年
1940年8月2日
外務省より領事館退去命令
ビザ発給枚数の記録を取るのを止めているようだ。
昭和15年
1940年8月3日
リトアニア、ソ連に併合され、14番目の共和国となる
この日以降、日本国及びソ連政府からも再々の領事館退去命令があったが、これをを無視してビザを書き続ける。
昭和15年
1940年8月26日
「杉原リスト」に記録されている最後の3人にビザを発給。
日本領事館閉鎖。
これ以降も異動先のメトロポールホテルでビザの代わりの渡航証明書を発給する。
昭和15年
1940年9月5日
千畝一家ベルリンへ向かうため、カウナス駅へ。
ホームでも日本の入国許可証を求めるユダヤ人に渡航証明書を発給し続ける。
現在、外務省保管の「杉原リスト」には2139人の名前が記されている。
その家族や公式記録からは漏れている人を合わせると、杉原が助けたユダヤ人は6000人とも8000人とも言われている。
昭和15年
1940年9月12日
プラハの日本総領事代理として赴任。
昭和16年
1941年3月
ドイツ東プロイセン州日本総領事代理として赴任(ケーニヒスベルグ)。
昭和16年
1941年12月
ルーマニアの日本公使館一等通訳官として赴任(ブカレスト)。

杉原千畝家族写真 1943年ブカレスト
昭和18年
1943年
三等書記官として在ルーマニア公使館勤務
昭和20年
1945年
ブカレスト郊外のゲンチャ捕虜収容所に連行される。
昭和22年
1947年
帰国 外務省退職
昭和26年
1951年
外務省を退官後に勤めた東京PXでの新年会
昭和43年
1968年8月
ソ連との貿易の仕事の間に一時日本に帰国していた杉原にイスラエル大使館から一本の電話がありました、怪訝に思った杉原でしたがともかくおもむき、そこで参事官と面会しました。参事官は「私のことを覚えていますか?」とたずねましたが、杉原にはどうも記憶の無い人物であったので「もうしわけありませんが・・・」とこたえたところ、参事官はボロボロになったビザを取り出し、みるみるあふれてくる涙をぬぐいもせず、「あなたは私のことを忘れたかもしれませんが、私たちは片時たりともあなたの事を忘れたことはありません、28年間あなたのことをさがしていました。やっと、やっと会えました"Sempo Sugihara"」。
カウナスでユダヤ人代表の一人として杉原と交渉を行ったニシェリ(B. Gehashra Nishri)との再会です。
昭和44年
1969年
杉原はイスラエルに招待されました、出迎えたのはバルハフティック宗教大臣(A.Dr.Zorach Warhaftig)。彼もまたカウナスでビザ発行の交渉を杉原と行ったひとりです。生きての再会を喜んだ二人でしたが、バルハフティックはこのとき驚くべき事件の真相を知ることになります。あの杉原ビザの発行が日本政府の意思ではなく杉原が独断で外務省訓令に逆らって発行したこと、さらにそれが原因となって杉原が外務省を辞職せざるを得なくなったことです。ユダヤの民族の恩人として永遠に語り継いでいかなければならない偉大な功績に対し、顕彰どころか杉原に与えられたのはただ譴責のみであったという事実です。

イスラエルで29年ぶりに再会したバルハフティック宗教大臣
昭和60年
1985年1月
イスラエル政府より『ヤド・バシェム賞』を受賞する。
ナチス・ドイツによるユダヤ人絶滅、すなわちホロコーストから自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人の人々を表す称号で、「諸国民の中の正義の人」と呼ばれ、日本人でただ一人の受賞者です。

イハック・シャーミール氏(元イスラエル大統領)と歓談
昭和60年
1985年
杉原は死の前年に、ビザ発給の動機を話している。
「あなたは私の動機を知りたいという。 それは実際に避難民と顔をつき合わせた者なら誰でもが持つ感情だと思う。 目に涙をためて懇願する彼らに、同情せずにはいられなかった。避難民には 老人も女もいた。 当時日本政府は一貫性のある方針を持っていなかった、と私は感じていた。 軍部指導者のある者はナチスの圧力に戦々恐々としていたし、内務省の役人は ただ興奮しているだけだった。 本国の関係者の意見は一致していなかった。彼らとやり合うのは馬鹿げていると 思った。だから、返答を待つのはやめようと決心した。 いずれ誰かが苦情をいってくるのはわかっていた。しかし、私自身、これが正しい ことだと考えた。多くの人の命を救って、何が悪いのか。 人間性の精神、慈悲の心、そういった動機で、私は困難な状況に、 あえて立ち向かっていった。」
昭和61年
1986年7月31日
神奈川県鎌倉市 (満86歳没)