更新日 2014年08月17日
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日韓併合前の朝鮮 年表
日韓併合前の朝鮮 年表
1863年12月13日
文久3年
高宗が11歳で第26代国王になる。
後見人として実父の興宣大院君(略して大院君)が政治の実権を握る
1866年3月
慶応2年
丙寅教獄(へいいんきょうごく)
大院君によるフランス人宣教師とキリスト教への大弾圧
パリ外国宣教会から派遣され、朝鮮に潜入して布教に当たっていたシメオン=フランソワ・ベルヌー司教ほか9名のフランス宣教師、高宗の乳母(朴マルタ)を含んで8000名におよぶ信者が処刑された。
1866年8月16日
慶応2年
ジェネラル・シャーマン号事件
朝鮮との交易を求めて米国国旗を掲げた商船ジェネラル・シャーマン号は、大同江を経て平壌の羊角島に来航。ところがシャーマン号は、朝鮮側からの奇襲攻撃を受け、ペイジ船長、ウィルソン一等航海士以下船員20名全員が虐殺される。
1866年9月
慶応2年
閔妃(ミンぴ)が高宗と婚姻し王妃となる。
閔妃は名門ではあるが没落した一家の一人娘として生まれたが、8歳の時に父母を相次いで失い親戚に育てられていた。大院君の夫人閔氏の推挙で王宮に入り、その夫人が閔妃を大院君に引き合わせた。大院君は一目見て聡明さが気に入り、負傷の息子である高宗の嫁に決めた。閔妃が王妃に選ばれたのは、一人娘で親戚が少ない事が大院君を満足させた大きな一因であった。それまで60年間にわたって王の外戚として権勢を誇った安東金氏の政治的影響力を削ぐための人選だったとされる。
閔妃は1895年の乙未事変(いつびじへん)で暗殺されるまで、大院君と政権を争い李氏朝鮮を亡国へと導く事に成って行く。
1866年10月
慶応2年
丙寅洋擾(へいいんようじょう)
1866年3月に起きたフランス人宣教師の処刑(丙寅教獄)を契機として、李氏朝鮮とフランス帝国との間で発生した戦争。
他のアジア諸国と同じく李氏朝鮮においても近代化は遅れており、近代的な軍隊と最初に遭遇した戦いとなった。しかし戦いは文殊山城の戦いと鼎足山城の戦いに勝利した朝鮮軍側の優位に進み、フランス軍は大きく装備に劣る軍隊によって数倍の損害を与えられた。最終的にフランス軍は敗走し、朝鮮の植民地化を諦めた。
1867年
慶応3年
オッペルト事件
エルンスト・ヤーコプ・オッペルト(ドイツの実業家)が、1867年に朝鮮の貿易障壁を除くために興宣大院君の父親(南延君)の遺骸を墓所から持ち去って恐喝しようとし、失敗した事件。
オッペルトは発掘を試みたが、遺骸を覆う巨大な切り石に阻まれて、目的を達することができなかった。帰路、彼らは朝鮮の兵士と戦うこととなり、朝鮮から逃げ出す羽目となった。この事件は朝鮮人を激昂させ、外国人との交易をより遠ざけるものとなった。
1868年
慶応4年
景福宮(けいふくきゅう)が大院君により再建される。
大院君は景福宮の再建の為に、国王の親戚や全国の官吏、一般人民から強制的に願納銭を寄進させた。また、一万両で官職を売り出し、十万両を納めれば守令(地方長官)の職に就く事が出来た。漢城の門に新しく通行税を課すなどをして、様々な新しい税を設けた。質が大幅に劣る貨幣を大幅に鋳造し、悪性のインフレーションを起こし民衆の生活を圧迫し続けた。1868年までに770万両を集め、全国の名山や王陵から木材や石材を提供させた。工事の為に全国から多くの労働者を動員し、強制労働をさせた。
再建された景福宮は、三百棟以上の殿舎が並ぶ絢爛たるもので、元の景福宮(1592年の文禄の役に民衆によって略奪・放火消失)よりはるかに大きく、朝鮮半島の歴史における最大の木造建造物となった。
鎖国を続けるために欧米列強を追い払い続けるのではなく、景福宮の建設予算を富国強兵の準備に使うべきであった。欧米列強が北東アジアを狙う状況で、財政・国民を疲労させる大きな土木工事を行う事が、李氏朝鮮が亡国に向かう大きな要因となっている。
1871年4月
明治4年
大院君が斥和碑(チョクフアビ)を朝鮮半島の要所に立てる
大院君が西洋、日本等近代列強帝国の侵略を排斥し、鎖国を強化するための固い意志と国民に対して覚醒を促そうと漢城と全国の要所に立てた碑です。
鎖国攘夷政策は,外国の侵略を撃退するうえでは成果を挙げたが,朝鮮の近代化を遅らせる結果となった。斥和碑の碑文は下記の文字です。
洋夷侵犯(外国の侵略には)
非戦則和(あくまでも戦う)
主和売国(戦わない者は売国奴だ)
大院君は、この十二文字のスローガンを両班や儒生が大量に使う墨にも刻ませ、標語の無い墨を作った者や売った者を厳罰に処した。鎖国攘夷の意識を全国民に徹底させた。
『李朝滅亡』自主の邦への幻影と蹉跌 著者 片野次雄 p49
1871年6月10日
明治4年
辛未洋擾(しんみようじょう)
1866年に起きたジェネラル・シャーマン号事件の謝罪と開国を求めて、アメリカがコロラドを旗艦としたアラスカ・ベニシア・カシー・パロスの計5隻の艦隊を率いて交渉を行ったが、大院君の強硬な開国拒絶により実現せず、戦闘が行われた。
米軍は江華島の草芝鎮と、次いで徳津鎮を襲撃した。激しい砲撃戦を経て、アジア艦隊は陸戦隊を上陸させることに成功し、草芝鎮と徳津鎮を、さらに6月11日には広城鎮を制圧した。
この戦闘で朝鮮軍は240名以上の戦死者をだすこととなった。米艦隊に損害はほとんどなかった。米軍は、朝鮮軍の多数の武器・軍旗を戦利品にして、帰投。戦利品として米海軍士官学校博物館所有の「帥字旗」がある。
この艦隊に同行していた写真家フェリーチェ・ベアトが撮影した写真は、朝鮮の風物を捉えた現存する最も初期の写真となった。
1873年6月12日
明6年
征韓論
明治維新直後から新政府は朝鮮との交際を復活させようとして、朝鮮に交際を求めました。しかし、当時の朝鮮政府は、明治政府の国書の中に「皇上」や「奉勅」という言葉があるのを見つけ、明治政府から送られてきた国書の受け取りを拒否したのです。朝鮮政府としては、先の「皇上」や「奉勅」といった言葉は、朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使う言葉であると考えていたからです。このように朝鮮政府は明治政府の国交復活を完全に拒否したのです。
明治政府はその後も宗氏を通じて朝鮮に国書を送り続けましたが、朝鮮政府はその受け取りを拒否し続け、一向にらちが開きませんでした。明治政府は、そんな朝鮮問題を解決するべく、外務権大録の職にあった佐田白芽(さだはくぼう)と権小録の森山茂、斎藤栄を朝鮮に派遣しました。
しかし、この三人は朝鮮の首都にも入ることが出来ず、何の成果も得ないまま帰国せざるを得なくなったのです。
6月12日に、朝鮮問題(征韓論)が日本の閣議に初めて諮られました。
『征韓論』は、軍事力を使って韓国に開国を迫ろうとする理論で、板垣退助を筆頭に江藤新平・後藤象二郎・副島種臣が主張した。
『遣韓論』は、西郷隆盛の意見で、「先に軍事行動に出るのはよくない。まず特命全権大使を送り、朝鮮政府と意を尽くして話し合うべきだ。それでも応じなければ、議を世界に明らかにして出兵すべきだ」と主張する。日本・韓国・清国の三国が同盟して、欧米列強と対しようとする考えが基礎となっている。
8月に明治政府は西郷隆盛を使節として派遣することを決定する。
9月に帰国した岩倉使節団の岩倉具視・木戸孝允・大久保利通は、時期尚早としてこれに反対した。西郷隆盛が使節として行けば、殺されて戦争になると主張する。今の政府の状態では外国と戦争をする余力はないし、戦争になれば日韓両国が欧米列強の植民地になるとの予測が反対の理由だ。
最終的には太政大臣代理となった岩倉の意見が明治天皇に容れられ、遣韓中止が決定された。
1873年11月3日
明6年
大院君弾劾 (癸酉政変 きゆうせいへん)
大院君の政治を批判する上疏を崔益鉉が提出し、これに対し閔妃、神貞王后は高宗にこの国は大院君の国なのかと問い詰め、高宗をはじめ権門勢家及び各党派そろって、大院君を牽制し、大院君は失脚することになった。
そして高宗の親政が宣言され、高宗の親政開始に協力した、影の実力者閔妃は大院君に代わって大権を握ることになった。
閔妃は自身の身内・大院君の反対派で政府の要職を固め、典型的な勢道政治体制を作り上げた。閔妃が強行した人事刷新は徹底していて、中央はもとより地方に至るまで、役人の総入れ替えに等しい人事異動を断行した。
旧体制となった大院君派に対して、不正蓄財などのぬれぎぬをかぶせて罪人に仕立てたり、要職に就いていた者には死罪・流刑・晒し首などで徹底的に弾圧した。
大院君は雲けん宮で隠居した。大院君失脚以降後、閔妃は西洋に対しては好意的な態度を示し、鎖国・攘夷政策を捨てて、開国政策を取り、日朝修好条規をきっかけとし、朝鮮の門戸解放を進めた。
1874年3月25日
明治7年
27代目国王となる純宗が誕生・世継ぎ問題
閔妃は高宗に嫁して9年目に、27代目国王となる純宗を出産する。
純宗がうまれ、世子とされ盛大な祝宴が行なわれるが、宗主国の清国から生母が王妃か側室かを重視せず、長幼の序列にしたがって、李尚宮が1868年に生んだ完和君を世子として認許する意向が伝えられる。
閔妃は、領議政の李裕元に莫大な賄賂を持たせて世子冊封使として清国に向かわた。裏工作を行い続け、1875年に純宗を世子と認めさせることが出来た。
閔妃は、日本に清国へ世子変更の働きかけを持ちかけ代償として「国交再開」を条件に頼んだ、との説もある。
純宗が生まれてから、高宗の側女とその子供が続けて変死する事件が起きた。一部に記録が残っている様で、誰が書き残したかは不明となっている。事件の不思議さに戸惑い口ごもっている様が記録されているそうだ。
1875年9月20日
明治8年
江華島事件(こうかとうじけん)
明治政府は李氏朝鮮国内の内紛に乗じ、強く開国を要求する事を決めた。まず、武力による威嚇を行なった後に、外交力で開国をさせ有利な条件で条約を結ぶ様に仕向け、被害を少なくする方針だった。
日本海軍の軍艦「雲揚」を釜山から黄海の海岸沿いに北上させ、江華島沖に停泊させた。朝鮮西岸海域を測量中の日本の軍艦雲揚号が、江華島、永宗島砲台から攻撃を受けて反撃をした。漢江の河口に位置する江華島付近において日本と朝鮮の間で起こった武力衝突が、江華事件である。
高宗は甚だしく狼狽し、フランス、アメリカに続いてついに日本も朝鮮に接触を伸ばして来たのかと嘆いた。
1876年2月26日
明治9年
日朝修好条規
江華府(江華島)で調印
大日本側全権 : 黒田清隆、井上馨
大朝鮮側全権 : 申櫶、尹滋承
この条約が切欠となり李氏朝鮮は開国し、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・ロシアと条約を結ぶことになる。
黒田清隆は損害賠償の交渉をする為に来朝したのであるが、交渉の途中から損害賠償を脅しの材料にし、開国の要求に交渉の内容を切り替えた。開国要求とは条約を締結する事であり、日本側は条約の案文を用意していた。
李氏朝鮮側には日本側が提案した条約案文の内容を精査出来る者が居なかった。その為、内容の確認は全て全権に任せしまった。全権自身も外交上の知識・経験が無く、「大」の文字にこだわって交渉を纏めてしまう事に成る。日本側の国名に「大」の字を付けているの対し、李氏朝鮮側に「大」の文字が付かない不平等が許しがたかったのである。
閔妃が作り上げた勢道政治体制は自己保身が全てで、政治・交渉・判断能力が無い者ばかりであった。その結果、不平等条約の責任は全て国民に負わされた事に成って行くのである
李氏朝鮮を植民地にしようと目論んでいたロシア・フランス・イギリス・アメリカより先に、日本国が李氏朝鮮を開国をさせて条約を結んでいる。続いて1882年にアメリカが米朝修好通商条約を結んでた。
1876年5月20日
明治9年
朝鮮修信使 日本国へ向かい釜山を出発
江華島事件をきっかけとして、日本政府は全権黒田清隆を派遣して1876年2月には日朝修好条規が締結されたが、その際日本側は自国の実情を朝鮮側に見せるために黒田派遣の回礼使の派遣を朝鮮側に要請した。
6月28日に釜山へ帰国
1876年10月14日
明治9年
釜山港を開港
明治政府は開港と同時に、対馬藩に独占させていた貿易権を廃し、日本人誰でも自由貿易が出来るように貿易関係の制度を改めた。
1880年に日本海側の元山港を開港
1883年に京畿道の仁川港開港する
1881年4月11日
明治14年
朝士視察団(紳士遊覧団)が長崎に到着
朝鮮政府が、日本の実情を視察するために送り出したのが朴定陽を代表とする朝士視察団(紳士遊覧団ともいう)で、1881年(明治14年)の4月11日に長崎に到着、日本各地を視察した後、7月28日に神戸をたっている。朝鮮と日本の関係改善、日本の実情および世界情勢の理解などが主な目的であった。
朝士視察団は代表12人で構成され、それぞれに随員2人と通訳1人、下人1人がつく5人1班を基本に編成された。総勢62人に及ぶ政府視察団である。彼らは12の班に分かれて、文部省、内務省、司法省、外務省、大蔵省などを訪問する一方、造船所、造幣局、印刷局、紡績工場、製糸所、鉱山などの施設、さらに学校、図書館、病院、博物館、新聞社などを訪ねた。
1881年5月
明治14年
李氏朝鮮は「別技軍」を新設し、大幅な軍制改革を行う
高宗の親政が始まって8年目に、以前からの軍隊編成に「別技軍」と呼ぶ特殊軍部隊を加え、軍隊の編制替えを行った。
新設の別技軍は両班貴族の子弟を中心とし、日本人教官によって、日本式の軍事訓練がほどこされた。近衛士官の育成が特殊軍部隊創設が目的であった。
当然武器や用具・制服等も新式が支給され、待遇面も他の部隊より優遇された。
1882年5月22日
明治15年
米朝修好通商条約
アメリカ合衆国と李氏朝鮮の間で締結された条約
アメリカ合衆国と大清帝国の条約案文を朝鮮側が事後承諾する形で締結。大清帝国の馬建忠が立会人となり、アメリカ海軍提督シューフェルト、朝鮮正使・申木憲、副使・金弘集らの間で英文、漢文共に三通による十四ヶ条の条約に調印がなされた。
この条約の第一条で、アメリカは「第三国が締約国の一方を制圧的に扱う時、締約国の他方は、事態の通知をうけて、円満な解決のため周旋を行なう」(周旋条項)が明記されている。アメリカは大清帝国に承認させて、第一条に周旋条項を盛り込んだのは大きな意味がある。「大清帝国が李斯朝鮮を制圧的に扱ってはいけない。制圧的に扱う事は認めない。」と意味している。
後に日本が朝鮮を併合することになるが、アメリカはこの条項が有るのに朝鮮を見捨てて、日本国の朝鮮併合を承認する事になる。
米朝修好通商条約の周旋条項の扱いは、この時代の世界各国のそれぞれの事情が影響している。この事は大きなテーマとなるので、別ページで調べたことを示したい(管理人より)
1882年7月23日
明治15年
壬午事変(じんごじへん)
李氏朝鮮政府は既に財政が破たんしており、閔妃一族の政府高官の無能・閔妃の浪費が更に財政を悪化させていた。旧軍隊に支給する棒禄米が著しく滞り、13ヵ月も遅配となっていた。
1882年7月23日に1ヵ月分の棒禄米が支給される事に成ったが、棒禄米を取り扱う役官や下役が横領・横流しの不正を働き、配給される米に砂やぬかを混ぜ量目を著しく誤魔化した。米に水を掛けて重たくしたので腐敗した米も混ざっていた。
国王夫婦・政府高官から下役人まで全ての役人が不正を働き、政府機能は崩壊寸前の末期の状態であった。
興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(ソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けている。
反乱軍の標的は閔妃に向けられていたが、閔妃は官女に変装し官女に紛れて逃げきり山奥に隠れた。山奥から国王や閔氏派の高官に密書を送り続け、大院君からの権力奪還の準備を進めた。閔妃は高宗に、国王の名を以て宗主国である清国に軍乱の鎮圧のを目的として清国軍の派兵を要請させた。閔妃は権力奪還・大院君にたいする復讐の為に他国の軍隊を国内に招き入れてしまうという、大きな間違いを犯してします。亡国へと導く悪女と言われても仕方がない行為である。
清国の李鴻章により袁世凱が援軍として派遣され、反乱軍は鎮圧された。大院君は清に連行され李鴻章による査問会の後、天津に幽閉され、反乱が失敗に終わる。
害された日本人のうち公使館員等で朝鮮人兇徒によって殺害された日本人男性は、軍人であると否とにかかわらず、17人が戦没者に準じて靖国神社に合祀されている。
1882年8月30日
明治15年
済物浦条約(さいもっぽじょうやく)
壬午事変での日本公使館焼き討ち事件等の事後処理の為に結ばれた。
条約の主な内容は、壬午事変における公使館焼き討ち事件並びに公使一行襲撃事件、在漢城日本人加虐の実行犯等の逮捕と処罰、日本側被害者の遺族・負傷者への見舞金5万円、損害賠償50万円、公使館護衛としての漢城での軍隊駐留権、兵営設置費・修理費の朝鮮側負担、謝罪使の派遣等である。
また同時に日朝修好条規続約(追加条項)として、居留地の拡大、市場の追加、公使館員の朝鮮内地遊歴を認めさせた。
軍隊駐留権を認めさせたことは、暴動の再発防止の他に、宗主権を主張する清国を牽制する意味合いもあったのではないかとされている。
1882年9月18日
明治15年
第三次朝鮮使に「金玉均」が顧問として随行する
正使・朴泳孝、副使・金晩植、従事官・徐光範の修信三使以下、総勢37名からなる一行が、帰国後に退官となる花房公使が同行し、汽船「明治丸」に乗り込み横浜港に向かった。
この修信使の一向に金玉均が顧問として加わっていた。時に32才少壮気鋭の血気盛りであり、急進的な改革派の中心人物であった。
金玉均は高宗と閔氏政権の承認を得て、来日したの経験(4ヵ月)が有り、一行の公式行事を終えた後は、金玉均がおもに案内をしていた。
金玉均は、日本の後援によって朝鮮政府内部の大改革をやりたい旨を明らかにした。清国の勢力に依存する守旧派を倒して、知日派による安定内閣をつくるという意思を、井上馨らに示したのである。
金玉均は朝鮮使一行が帰国後も日本に残り、改革派の旗手としての行動を開始した。金玉均の日本滞留は高宗の密命だといわれている。
金玉均は日本側協力者に武器の提供を求めるが、諸外国に知れることを恐れ武器提供は断っている。金玉均は日本政府に借入金として三百万円(朝鮮国の年間歳入金額に相当)を求めたが、明治政府は朝鮮国王の委任状が有れば応じようと返答しているが、口約束だけで金玉均を帰国させている。
『李朝滅亡』自主の邦への幻影と蹉跌 著者 片野次雄 p114~122 参照
1882年10月01日
明治15年
朝清商民水陸貿易章程
清国と朝鮮との間で調印された全文8条の貿易章程。壬午事変のあと,おもに日本勢力の朝鮮進出を牽制するため締結された。
  • 朝鮮は清の属国であることを確認する。
  • 両国の国民が関与した事件が発生した場合、清人に対しては清が裁判権を行使する。朝鮮人に対しては朝鮮側が裁判官を行使するが、その際には清国官吏の立会いを必要とする。
  • 朝鮮国内に清国の兵員・軍艦の駐留を認めさせる。
  • 漢城への清国商人の自由往来を認めさせる。また、朝鮮国内で、清国商人に対して商取引の自由・物資輸送の自由を全面的に認めさせる。
1883年10月31日
明治16年
『 漢城旬報 』が創刊される
福沢諭吉が門人の井上角五郎に支持し印刷職人とともに、印刷機や活字を持たせ、漢城に赴かせた。
李氏朝鮮で初めての新聞を発行させて、文化を向上させるために行った事である。
漢城旬報は世界各国の動向が報道されているのが特徴で、改革派の支援を含んでいた。
1884年12月4日
明治17年
甲申政変(こうしんせいへん)
国民を犠牲にして続けられる興宣大院君派と閔妃派の権力闘争、役人の不正腐敗、両班の横暴等により、まともな軍事力もなく、国家財政も社会も経済も破綻し、慢性的に農民一揆が頻発していた。まさしく衰亡のきわみに至り崩壊寸前にあったのです。
ベトナムに進出していたフランスと清国が武力衝突を起こす、いわゆる清仏戦争の勃発で、清国軍はフランス軍に連戦連敗を喫した。朝鮮に進駐中の3000名兵士の内半数の1500名をベトナムに移動した。朝鮮における清国軍の兵力が急に弱まり、宗主国としての支配力も確実に衰退した。
朝鮮の近代化を望む朝鮮宮廷内の青年貴族官僚の金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派は、これを好機と考え、日本からの武器・資金・兵力の支援を得られなかったが、日本の公使館と警備の日本兵と協力して、国王高宗を君主とした近代立憲君主制国家を目指すクーデターを起こす。
閔妃は清国に密使を送り、国王と閔妃の救出を要請した。袁世凱率いる清軍1500人が王宮を守る日本軍150人に攻め寄り、銃撃戦となった。
結局竹添進一郎日本公使は、日本公使館に火を放って長崎へ敗走し、改革派も敗走しクーデターは失敗に終わる。
1885年1月9日
明治18年
漢城条約 締結
甲申政変後の日本と李氏朝鮮の間の講和を目的に締結された。日本側全権大使は井上馨、朝鮮側全権大臣は金弘集であった。
朝鮮側は日本公使が甲申政変において、金玉均等独立党一派の行動に積極的に加担し、六大臣暗殺等にも深く関与していると疑っており、公使が事変時に朝鮮政府への通達無く兵を率いて王宮に入ったことを強く非難した。
日本側は竹添公使が、朝鮮国王の親筆書と玉璽の捺された詔書を示し、自身の行動は朝鮮国王の要請に基づいた正当な行動であったと主張する。
日本政府から事件解決の全権を委任された井上馨は、両国関係を速やかに修復することが肝要であるとして、日朝双方の主張の食い違いを全て棚上げにし、『朝鮮国内で日本人が害されたこと』、『日本公使館が焼失したこと』という明白な事実のみを対象に交渉を妥結することを提案。朝鮮側全権大臣金弘集も、最終的にこれに同意した。
交渉の席中、清国欽差大臣呉大澂が議論に割り込もうとする一幕もあったが、両全権は日朝間の問題に第三国が容喙することを許容せず、陪席を拒否して二国間のみで漢城条約が締結された。
1885年4月18日
明治18年
天津条約 締結
日清間に結ばれた、甲申政変の事後処理のための条約。
甲申政変によって緊張状態にあった日清両国が、事件の事後処理と緊張緩和のために日清両国は朝鮮半島から完全に撤兵し、以後出兵する時は相互に照会することを義務付けられた。
日本側は交渉の全権を伊藤博文、清国側は全権を北洋通商大臣・李鴻章、天津で交渉され、両全権の合意の下で天津条約が締結された。
李鴻章が一番恐れていたのはロシアの南下である。清国を中心に韓国・日本の三国でロシアの南下を食い止めるのが李鴻章の狙いであった。日本側の交渉事項でこの対策に見合う条件は受け入れているが、それ以外の交渉事項は全て却下している。しかし、日本国との対立は望んではいない。当然宗主国としての韓国への影響力は保持し続けようと交渉している。
1885年4月
明治18年
巨文島事件(ポート・ハミルトン事件)
イギリス軍によって巨文島が占領され(ポート・ハミルトン事件)、ロシアの伸張の機先を制するためのものだった。この島は軍事的な重要な位置にあり、小さな三つの島からなる群島であるが、日本海・黄海・東シナ海への移動する為の中心地点となる。
イギリスは清国と日本に巨文島の占拠を通告し、住民を動員して兵舎や防御施設を建て、また上海との間に電信線を敷設した。
清国は当初、ロシアへの対抗策として、および朝鮮に対する自国の優先権を国際的に確認するために、イギリスによる巨文島占拠をある程度は認めるつもりだった。
しかし、朝鮮問題に発言力を持つ李鴻章の強い反対により態度を変え、イギリスに退去を求めるとともに、朝鮮政府の支援に転じた。
李鴻章の構想では、清国へと向かうロシアの圧力を朝鮮経由で日本に向けさせ様と目論んでいたので、巨文島をイギリス軍が占拠する事に反対ではあるが、ロシアの出方を確かめるために様子を見ていたと推測できる。 巨文島を「第2の香港」とするべく既成事実化を進めたが、各国の反対は強硬だった。ロシア政府は清国がイギリス艦隊の巨文島占拠を黙認している事に厳しく抗議してきた。清国がイギリス艦隊の不法行為を黙認するならば、ロシアも対抗上朝鮮を占拠をすると脅している。イギリスはアフガニスタンにおけるロシアの脅威が縮小した後、イギリスと清国の間で交渉が行われ、最終的にイギリス艦隊は巨文島の基地を放棄することを決めた。イギリス人は1887年2月27日に基地を破壊して立ち去った。
韓国は自国の領土である巨文島を自国の軍隊で守る事が出来ず、清国・イギリス・ロシア等の大国のパワーゲームで翻弄されるばかりである。独立した国家としての体を為していない事を、明確に国際社会にさらけ出している。
朝鮮国民のなかに、当然に危機意識を深める国民(志士)が増えた。
この事件は、日本に深刻な影響を残した。李氏朝鮮の無能な現実と、ロシアの南下への強い野心とその行動が、列強間の緊張をもたらす現実を日本は直視した。
1885年春~夏
明治18年
第一次露朝密約事件
朝鮮政府の外交顧問を務めていたパウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフが、朝鮮の不凍港の租借を対価として、朝鮮の保護や軍事教官団を招聘することを試みた。
ロシアも教官団の招聘には応じることを検討し、駐日公使館書記官のシュペイエルを漢城に派遣したが、朝鮮政府内の異論や清国当局の反対により、密約は成立しなかった。
メレンドルフのこのような動きは、あくまでも朝鮮を影響下に留め置こうとする清、とりわけ李鴻章の目論見に反していたために背信と捉えられ、メレンドルフは失脚することとなった。
また、メレンドルフからの要請とは別に朝鮮国王の密使がロシア国境当局に派遣されたが、これに対してロシアは朝鮮の保護に対して何ら言質を与えない回答をするに留まった。
1886年8月
明治19年
第二次露朝密約事件
朝鮮政府が在漢城ロシア代理公使ウェーバーに宛てて、朝鮮が第三国との紛争に陥った際に、ロシアに軍事的保護(軍艦の派遣)を求める旨の密函(秘密書簡)を送った事が露見し、国際問題に発展した事件を指す
朝鮮政府の内部には、ロシアを引き込むことで清の圧迫に対抗しようとする「引俄反清」「斥華自主」の機運があった。しかし、清からの報復を怖れた閔泳翊が、袁世凱に密告することで清当局の与り知るところとなり、清国軍の派遣と高宗の廃位が取り沙汰されることとなった。
結局、ロシア外務省は密函の受領は認めたものの、高宗の要請には応じない旨を清に約することで、国際問題としての密約事件は終息した。
1886年8月15日
明治19年
長崎事件
8月1日、清国海軍の北洋艦隊のうち定遠、鎮遠、済遠、威遠の四隻の軍艦が長崎港に入港した。
13日の夜、清国水兵4、5人が長崎港寄合町遊楽亭において酩酊の上、乱暴を働いたため、巡査がこれを拘引しようとしたところ、多数の水兵が集まり、もみ合いの末、巡査の1名が負傷したのが発端とされる。
15日の夜は、仕返しをしようとして300人ばかりの水兵が数十人ずつ隊をなして上陸、広馬場町の飲食店にたむろし、一部が通りかかった巡査を侮辱した。しばらくは巡査もこれに取り合わずにいたけれども、やがて警棒を奪おうとする者があり、やむを得ず抵抗したことから暴力行為が連鎖拡大して、周辺の飲食店などにたむろしていた刃物や仕込杖で武装する水兵たちが、3人の巡査によってたかっての暴行を加えた。
このとき襲われた3人の巡査は、一人がその場で死亡、二人が重傷を負い、うち一人がかろうじて囲みを破り、付近の警察署に危急を告げた。
巡査たちは道路を大八車で遮断し、水兵たちを迎え撃つ。道端の家々も門戸を閉ざすと、住民は石を持って屋根に上がり、石や瓦を投げて水兵たちを攻撃した。負傷者が続出すると、もともと大半が酩酊している水兵たちは総崩れとなり、追い散らされ、一部は捕縛された。
これにより、清国人士官1名が死亡、3名が負傷している。水兵も3人が死亡、50人余りが負傷した。巡査側も警部3名が負傷し、巡査2名が死亡、16人が負傷している。住民にも十数名の負傷者が出たとされる。
事件後、清は日本側に無礼を謝罪せず、むしろ圧倒的な海軍力を背景に高圧的な態度に出た。当時、清は定遠を始めとする最新式の戦艦を保有しており、日本海軍はこれに敵わないと考えられており、またこの事件の2年前に発生した甲申政変でも日本は清に敗退しており、当時の日清の力関係は清が優位に立っていた。
1886年
明治19年
長崎事件後 明治天皇 皇室費を節約して30万円を拠出
長崎事件から日本は近海の沿岸防備と清国に対抗できる強力な海軍を持つことが国家の課題となりました。しかし海軍予算は軍艦建造費にしか回せず、沿岸防備の予算はありませんでした。
この時、明治天皇は沿岸防備のために皇室費を節約して30万円を拠出しました。陛下のこの話が伝わると、地方長官は国民に海防費の献金を呼び掛けました。すると危機意識を持っていた国民から200万円もの大金が集まりました。
これにより、沿岸に大砲を備え付けることが出来ました。
1888年8月20日
明治21年
露朝陸路通商条約
朝鮮とロシアの間に締結された通商に関する条約。朝鮮側の代表、趙秉式(チョウ・ビョンシク)とロシア側の代表Veber,C.(べべプ)が締結した朝露陸路通商章程。
朝鮮は済物浦・圓山・釜山・京城の楊花津のほか、咸鏡道の慶興をロシア人に開放し、商業上の特権を認めた。
また商品の密輸防止に関する規定、無税品目、禁輸品目、関税に関する規定や慶興における副領事館の設立、治外法権、租借権、宗教の自由などに関する一般的な規制措置が盛り込まれている。
1885年の日本と清国の間で交わされた天津条約以降、密約などでアンダーブランドで暗躍していたロシアが、国際社会の中で正式に朝鮮と条約を交わした。内容はアメリカ・フランス・イギリスと交わした条約との差はない。
1893年
明治26年
明治天皇の勅語(ちょくご 意味:天皇のおことば)
明治26年、清国の北洋艦隊の戦艦、「鎮遠」「定遠」以下主力6隻が横浜に来航し、日本に無言の圧力をかけていました。それを受け、伊藤内閣は第二次海軍拡張計画を立てますが、帝国議会は軍艦の建造費を認めようとしません。
そんな中、明治天皇は熟慮の末に次のような勅語を出されました。
「国家軍防の事に至りては、苟も一日を緩くするときは、或は百年の悔を遺さむ。朕茲に内廷の費を省き、六年の間、毎歳三十万円を下付し、又文武の官僚に命じ、特別の情状ある者を除く外、同年月間、其の棒給十分一を納れ、以て製艦費の補足に充てしむ。」
軍艦の建造費にと、6年間にわたり毎年30万円づつ、総額180万円を下付すると仰られ、さらに、自分は6年間そうするから、文武の役人もこれに倣って、棒給から十分の一を拠出するようにと仰せになられたのです。
この勅語が出されると貴族議員らはただちに、年俸の四分の一を製艦費に上納することを決議し、政争はすぐにやんだのでした。
詳しくはこちらを参考に
1894年3月28日
明治27年
金玉均が暗殺される
閔政権が上海に刺客として洪鐘宇を送り、金玉均が暗殺される。
金玉均の遺体は清の軍艦咸靖で朝鮮に搬送。遺体は六支の極刑(凌遅刑)に処せられる。金玉均の父は死刑、母は自殺、弟は獄死、妻の兪氏と娘は奴婢として売られる。
1894年4月
明治27年
甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう) 又は、東学党の乱
甲午農民戦争は1894年(甲午)に朝鮮で起きた農民の内乱である。関与者に東学の信者がいたことから東学党の乱とも呼ばれる。
朝鮮における開化期の思想は、興宣大院君と儒者達による衛正斥邪思想と、両班官僚と中人層の開化思想との対立であった。しかし、このふたつの思想は結局、政府側の対立構造であり、一般民衆に根を下ろした大衆的な運動にはならなかった。そうした中で、下からの改革を思想体系化したのが崔済愚(1824 - 1864)である。
創始者の崔済愚が唱えた東学は、その真理に達するための修養方法として、日常的に「侍天主 造化定 永世不忘 万事知」の13文字を唱えることであった。東学教徒たちは天主(ハヌニム)を仰ぎ、天主はすべての人間の内に住むと述べて、人間の尊厳と平等とを説いた。
1883年から各地で農民の蜂起(民乱)が起きていた。そのような中、1894年春に全羅道古阜郡で、崔済愚の高弟で東学党の二代目教祖となった崔時亨が武力蜂起し、甲午農民戦争に発展した。
東学信者の呼びかけに応じた農民たちは、数万の軍勢が形成された。彼らは全羅道に配備されていた地方軍や中央から派遣された政府軍を各地で破り、5月末には道都全州を占領するまでに至った。
これに驚いた閔氏政権は、清国に援軍を要請。天津条約にもとづき、日清互いに朝鮮出兵を通告し、日本は公使館警護と在留邦人保護の名目に派兵し、漢城近郊に布陣して清国軍と対峙することになった。この状況に慌てた閔氏政権は、農民の提案を基に全州和約を作成し締結したといわれる。この和約で従来の地方政府が復活したが、同時に農民側のお目付け役「執綱所」が設けられ、全羅道に農民権力による自治が確立した。
1894年8月1日
明治27年
日清戦争 日清両国による宣戦布告
清国側の主張
西欧列強によるアジアの植民地化と日本による朝鮮の開国・干渉とに刺激された結果、清・朝間の宗主・藩属(宗藩)関係を近代的な宗主国と植民地の関係にあらため、朝鮮の従属化を強めて自勢力下に留めようとした。
日本国側の主張
戦争目的は、朝鮮独立で「清の勢力圏からの切放しと親日化」あるいは「事実上の保護国化」であった。それらを図った背景として、ロシアと朝鮮の接近や、ロシアの南下政策等があった(日本の安全保障上、対馬などと近接する朝鮮半島に、ロシアやイギリスなど西洋列強を軍事進出させないことが重要であった。)
1895年4月17日
明治28年
日清講和条約(下関条約)締結
日本側は伊藤博文・陸奥宗光、清国側は李鴻章・李経方を全権とし、下関の春帆楼の会談により4月17日に調印され、5月8日発効した。
この条約により、
① 清国は朝鮮が完全欠な独立自主の国であることを確認する
② 遼東半島・澎湖島・台湾を日本に割譲し
③ 軍費賠償金として庫平銀2億テール(邦貨約3億円)を支払う
④ 沙市・重慶・蘇州・杭州の開市と、開市・開港地の製造業従事権の承認
⑤ 日清修好条約をヨーロッパ諸国と同じ条件で結ぶこと
を定めた。
1895年4月23日
明治27年
三国干渉
フランス、ドイツ帝国、ロシア帝国の三国が日本に対して行った勧告である。日本と清の間で結ばれた下関条約に基づき日本に割譲された遼東半島を清に返還することを求める内容
ロシアは極東進出のために不凍港が必要であり、南下政策を取り満州における権益拡大をはかっていた。ロシアは遼東半島を日本に奪われることで南満州の海への出口を失うことを恐れた。
講和会議の過程で日本は清に対して、開市・開港場での製造業従事権を要求していたものの、日本にはそれを実現させるだけの資金的裏づけがなかった。そこで日本は、秘かにイギリスに対してのみ、この要求の事実を打ち明けて共同経営の誘いを行っていた。これが他の列強に知られたため、この話に与れなかったドイツやロシア、フランスの姿勢が硬化された。
下関条約で遼東半島の割譲を日本が要求していることを知った列強は衝撃を受けた。列強は清朝の衰退に乗じて「清国の分割」を進めてきたが、清国内の抵抗を危惧し、露骨な領有権要求は差し控えてきた。
清朝が渤海を挟んだ遼東半島を失う事で、その政治的権威が失墜して国内の政情が不安定になるような事態の発生は、各国の対清政策を根底から揺るがせるものであった。 そこでドイツやロシアは自国の対清政策を維持するために、この日本の要求を容認できないと考え干渉した。
1895年5月4日
明治27年
三国干渉を受諾
干渉に対し、首相伊藤博文は列国会議開催による処理を提案したが、外相陸奥宗光は会議によってさらなる干渉を招く恐れを主張し、イギリス、アメリカ、イタリアなど他の列強の協力で勧告を牽制し、撤回させようと目論んだ。
しかし、英米が局外中立を宣言したため、5月4日、日本はやむなく勧告を受諾し、清との間に還付条約を結んで代償に3000万両(4500万円)を獲得した。
日本では勧告を受諾した政府に対して世論は激しく反発したが、政府は臥薪嘗胆をスローガンにこれを対露敵対心に振り向けて六六艦隊計画をはじめとする軍拡を進めた。三国干渉は日露戦争のきっかけに直接・間接の影響を与えた。
列強はこの干渉以降、阿片戦争で香港を得た英国の様に、中国の分割支配に本格的に乗り出すことになった。
列強は清に対して対日賠償金への借款供与を申し出て、その見返りに次々と租借地や鉄道敷設権などの権益や、特定範囲を他国に租借・割譲しないなどの条件を獲得していった。
ロシアは、1896年に東清鉄道の敷設権を、1898年には旅順・大連を租借地とし、東清鉄道をそこまで延長する権利を得ている。
ドイツは、1898年に山東省でドイツ人宣教師が殺害された際に、膠州湾を租借し、山東半島を横断する鉄道の敷設権を得ている。
フランスは、1895年に雲南方面における鉄道敷設権を得、1899年には広州湾を租借した。
1895年9月17日
明治27年
井上馨が李氏朝鮮から帰国する時点での日韓事情
日本政府の対韓方針は、「なるべく干渉はやめて朝鮮を自立させる方針を執る」とし、干渉を止めて、朝鮮の自立に協力し、且つ日韓の関係は、「これを条約上の権利に基かしむる」という、日清戦争前の状態に戻ったのである。
この年の朝鮮政府予算をまかなう300万円の貸与金として提供した。それも返済を20ヶ年に延長とした。
年末の通常議会の承認待ちであるが、閣議決定していた300万円の寄贈金。国王王妃が一番気に掛けていたのは王室財産であったし、それで「貴王室財計の基礎と為し、且以て国家有利の事業に投じ、上下の便益を図らんこと」と、安定した財形とするように、との至れり尽せりのもの。
1895年9月
明治27年
国王と王妃がとった行動
①日本が期待していた朴泳孝を追放した
②内政改革の骨子である、『大院君と王妃は政治への口出しを止め、国王は人事専断をしない』という、祖先の霊廟にまで誓ったことを破り、人事は国王専断とすると宣言し、王妃は再び閔族を地方から呼び寄せた。
③宮内大臣李載冕、同協弁金宗漢を免じ、李耕植を宮内大臣に、李範晋を同協弁に、李允用は警務使に、それぞれ任じた。よって宮中の兵権を掌握しようとした。
④大赦を行い、閔泳駿など閔族ならびに閔派数十人の罪を赦免し、清国に居る閔泳駿の帰国を促した。
要するに、政府を元のように閔族で固め、国外に対しては事大先を清国から露国へ替える方に向った。
1895年9月
明治27年
ロシアの李氏朝鮮に対する方針
①閔妃と閔族とは一体である。それで閔族と日本とは歴史上において決して相容れないものである。
②日韓両国は隣国と称しているが、その間は大海を隔てている。露韓両国のように隣に接しているのには及ばない。故に地形上から見るときは、日本よりも露国に親しむべきである。
③露国は世界の最強国にして、日本のごときは、露国と比較するに足りない国である。これは広く例を挙げるまでもなく、今年春の清国遼東半島還付の一件についても、その事実は確められよう。(露国が中心となっての三国干渉の結果を指す)
④露国は決して朝鮮の独立を害しない。また内政に干渉するのを好まない。故に露国に依頼してその保護を仰ぐときは、極めて安全にして、且つ君権は旧のまま充分に施行することができるだろう。
要するに、「朝鮮の独立を害しない」などということはあり得ないことである。しかし国家の地位や名誉のことなど毫も頭にない王妃閔氏であるから、君権が旧のまま、つまりは我が閔氏一族が相応の地位と富を得られるならば、属国だろうが、保護国だろうが、独立国だろうが、そんなものはどうでもよい、ということだったと思われる。こうして王妃閔氏とロシアの利益は一致したのである。
1895年10月8日
明治27年
閔妃暗殺事件(乙未事変 いつみじへん)
10月8日早朝に乙未事変が発生した。高宗王の妃である閔妃が殺害されたほか、李耕植(宮内大臣)・洪啓薫(訓練隊の連隊長。光化門を守備していた。)・兵士数名が死亡している。
王妃とともに宮女が殺害されたとの証言があるが、事変後の確認では宮女は一人も殺されていないとしており、どちらが事実なのかよくわからない。
閔妃派は、日清戦争後の三国干渉をみてロシアに接近し、政権を掌握して親日派を一掃しようと計画していた。
この事変は、閔妃派を排除して、大院君を政権につけて親日的な金弘集政権を打ち立てようとするクーデターである。
犯行計画と実行犯を日本人にしようとする勢力が、日本人犯行説を説いているが、確固たる証拠は無い。日本人犯行説を否定する根拠として、現場に居合わせた王子・李チョクが「国母を殺したのは、ウ範善だ」と、国王・高宗が「王妃を殺したのは、不貞の私の部下だ」と証言したとする資料も存在する。
首謀者・実行犯は、李氏朝鮮国内の反対勢力である事はほゞ間違いが無いであろう。
参考サイトを幾つかリンクしておくので、個々で調べて頂きたい。
『 1895年 朝鮮で閔妃殺害事件(乙未事変)』
1895年11月28日
明治27年
春生門事件(しゅんせいもんじけん) 露米派の逆襲
漢城府(ソウル)の景福宮春生門において、ロシア軍・アメリカ軍水兵と朝鮮親露派の元農商工部大臣李範晋が議政府総理大臣金弘集暗殺を企てた事件。
【 在朝鮮 小村寿太郎弁理公使の西園寺外務大臣への報告書より抜粋 】
-----本件の主謀者は10月8の事変に際して現政府の反対に立つところの、李範晋、李允用、李完用、玄興澤、李夏栄、李采淵、閔商鎬、尹致昊父子、李学均などを第一とし、安ギョン壽、李載純などの者が、主として計画したものに間違いないことであるが、また一つに、露国米国両公使館員ならびに宣教師らの後援という力があったと言わざるを得ない。
まさに露公使のように、永年を経てようやく手中にした唯一の目的である王妃が死んだということは、彼にとっては一大不幸であって、ウェベル氏在勤中の苦労は全く水泡に帰したと言わざるを得ない。はたしてそうならば、何とかしてこの報いを他に求めねばならず、しかし丁度よいことに李範晋らの計画が一朝にして成功するならば、彼は血で手を染めることなく、自分の部下として扱える内閣を組織できる利益があった。だからこそ彼らは李範晋らに出来るだけ助力を与えようと約束したようである。-----
事件は未遂に終わっている。10月8日事変における犯罪者の処分にやや緩慢であって多くの者は逃亡して逮捕されていない。今度の事変に対して厳格な処分をすれば、一般の感情を害する恐れがあるので、寛大に処置を行なっている。
1895年~96年
明治27年~28年
乙未改革(いつびかいかく)
1895年から1896年にかけて、日本の影響力の下で行われた、急進的な近代化改革である。1894年から1895年にかけて行われた甲午改革の後を引き継いだものだが、乙未改革を甲午改革の一部として、全体を甲午改革と呼ぶこともある。
1895年4月に日清戦争で日本が勝利したが、三国干渉の結果、朝鮮での日本の影響力が弱まり、王妃の閔妃を中心に親露派の力が増した。その結果、日本の影響力の下で行われていた甲午改革は停滞することとなった。
しかし、10月8日(旧暦8月20日)に閔妃が殺害(乙未事変)されると、金弘集内閣は急進的な近代化改革を再開した。断髪令、旧暦から太陽暦への変更、新しい年号「建陽」の制定、小学校の設立、郵便網の整備、種痘法の施行、軍制改革などが行われた。
これらの急進的な近代化改革は、守旧派の激しい反発と抵抗を招き、1896年2月11日には、国王の高宗がロシア公使館に移り(露館播遷)、金弘集は殺害され、乙未改革は終った。
1896年2月11日
明治28年
露館播遷(ろかんはせ)
2月10日、ロシアは107名の水兵と大砲一門をソウルに入れる。
前年11月28日の春生門事件に失敗した親露派の李範晋は、女官である”金”と”元”に接触。彼女らは、露館の贈物に目が眩み、親露派の手紙を国王に伝える。
「各大臣が日本兵と共謀して謀反を企て、廃王にしようとしている。事態は切迫しているので、すぐにロシア公館に逃げましょう。」
2月11日 高宗と世子(純宗)が宮女用のかごに乗り、王宮からロシア公使館に逃げ込んだ。もちろんこれは高宗を誘い出す謀略であって、事実ではない。
そこから政治を行った期間(1896年2月11日 - 1897年2月20日)を露館播遷といい、実体は、ロシア公使ウェーベルの傀儡政権の成立である。
露館播遷で実際に行った事は、開化派親日派、反露勢力の排除と閔妃暗殺事件の関与者の粛清など、近代化とは完全に逆行する政策であった。親露派だった李完用などは、ウェーベルと対立したために地方に飛ばされている。
露館の外では、各地方で暴徒が蜂起し、観察使(地方の行政権・兵権・司法権を握る役職)を殺害し、郡司を逐訴するなど、政令はソウルの外には伝わらず、無政府状態に陥っていた。
こうして、正にグダグダになった朝鮮政府を尻目に、小村・ウェーバー協定、山県・ロバノフ協定、露清密約等、列強間で朝鮮に対する取り決めは為されていくのであった。
1896年6月3日
明治28年
第一次露清密約
ロシアは1895年の三国干渉で遼東半島をめぐり、日本国と清国に対し二面外交を行っている。
一面は、自国が満州地域を植民地支配する為に、日本国に対し遼東半島を清国に返還するように圧力を掛けている。
もう一つの面は、清国に対し遼東半島を返還させたことを恩に着せて、優位な立場を利用して密約を結んだことだ。
日清戦争の戦後賠償から遼東半島を外す条件として、還付報奨金として3,000万両の追加を求めた。ロシアはこの還付報奨金の提供をフランスと共同で申し出ている。
密約の内容は
  • 日本がロシア極東・朝鮮・清に侵攻した場合、露清両国は陸海軍で相互に援助する。
  • 締約国の一方は、もう一方の同意なくして敵国と平和条約を結ばない。。
  • 戦争の際には、清の港湾は全てロシア海軍に開放される。
  • ロシアが軍隊を移動するために、清はロシアが黒竜江省と吉林省を通過してウラジオストクへ至る鉄道を建設することを許可する。鉄道の建設と経営は、華俄道勝銀行(露清銀行:ロシアが設立した、中国における利益を代表する金融機関)が引き受ける。。
  • 戦時あるいは平時に関わらず、ロシアはこの鉄道により軍隊と軍需物資を自由に輸送できる。
この密約は、清国側は李鴻章、ロシア側はロバノフとの間で結ばれているが、その際に李鴻章は50万ルーブルの賄賂を受け取ている。
ロシアは清国への還付報奨金の資金提供と李鴻章への賄賂で、満州地域を実効支配する口実(密約)を手に入れることが出来たのである。
そして、次の段階としてロシアが朝鮮半島を植民地にする為に日本国と戦争を起こした場合に、清国の軍事協力と、清国の全ての港を利用する約束を取り付けたのである。
1899年
明治31年
アメリカによる第一次門戸開放通牒(もんこかいほうつうちょう)
1898年にアメリカはハワイを併合し、米西戦争によってフィリピン・グアム島を獲得した結果、東アジアにおける主要勢力の1つとなった。ヨーロッパ列強による中国分割が激しくなり、日本がそれに参加しようとしていた時期、アメリカは清国における他国と同等の特権を維持しようとしていた。
アメリカのジョン・ヘイ国務長官は1899年、主要国(フランス、ドイツ、イギリス、イタリア、日本、ロシア)に対し、中国の主権の尊重と中国内の港湾の自由使用を求める通牒を発した。これに対し各国は、それぞれの利権のために他国の判断が下されるまでは判断を留保するという回答を返した。
要するに、清国における「主要国の勢力範囲の存続を前提として」その中での通商上の機会均等の原則を提唱したもので、アメリカにも清国の権益の分け前を均等に得る権利が有ると主張しているのである。
1900年
明治32年
アメリカによる第二次門戸開放通牒(もんこかいほうつうちょう)
北清事変(義和団事変)が発生し、各国連合軍が出兵して清国分割の危機が激化すると、アメリカ国務長官のジョン・ヘイは第二次の門戸開放通牒を列国に送った。
この第二次通牒は重大な新提案を含んでいた。
それは第一に「通商上の機会均等主義」を勢力範囲に留まらず清国全土について主張したこと、第二に機会均等のみならず、清国の「領土的・行政的保全」を提唱したことである。このように門戸開放の適用範囲と内容が著しく拡張されたのだ。
『宣言』は国家が国際社会に向けて自国の意思を表明する事で、『通牒』は、相手国に一方的に自国の意思を示す文章を送りつける事である。アメリカの建前は清国の「領土的・行政的保全」を主張しているが、本音は主要国に対し分け前をよこせと一方的に言掛りを付けているのである。
第二次門戸開放通牒以降でも、白人先進国に対しては何もすることができないアメリカだが、有色人種の日本ならば何とかなると考え、日本の権益を侵食して支那大陸に進出しようと目論み圧力を掛けて来るようになった。
1906年
明治39年
『血の涙』李人稙(イインジク) 韓国最初の現代小説
韓国がタブーにする『日韓併合の真実』著 崔基鎬 P31
雑学
事件に使われる
十干十二支の意味
●十干(じっかん)
甲(こう)、乙(おつ)、丙(へい)、丁(てい)、戊(ぼ)、己(き)、庚(こう)、辛(しん)、壬(じん)、癸(き)

●十二支(じゅうに し)
子(し)・丑(ちゆう)・寅(いん)・卯(ぼう)・辰(しん)・巳(し)・午(ご)・未(び)・申(しん)・酉(ゆう)・戌(じゆつ)・亥(がい)

●十干十二支(じっかんじゅうにし)
十干の十進法と、十二支の十二進法を組合わせて、60組で一巡とする。
数字  組合  読み方-1    読み方-2
 1  甲子  きのえね    かっし
 2  乙丑  きのとうし   いっちゅう
 3  丙寅  ひのえとら   へいいん
 4  丁卯  ひのとう    ていぼう
 5  戊辰  つちのえたつ  ぼしん
 6  己巳  つちのとみ   きし
 7  庚午  かのえうま   こうご
 8  辛未  かのとひつじ  しんび
 9  壬申  みずのえさる  じんしん
10  癸酉  みずのととり  きゆう
11  甲戌  きのえいぬ   こうじゅつ
12  乙亥  きのとい    いつがい
13  丙子  ひのえね    へいし
14  丁丑  ひのとうし   ていちゅう
15  戊寅  つちのえとら  ぼいん
16  己卯  つちのとう   きぼう
・・・・・・・・・・・
60まで続き、そして最初の組合せの1へ戻ります。これを繰返します。
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