更新日 2014年08月17日
トップページ
日韓併合前の朝鮮
興宣大院君の改革政治
興宣大院君が役人の腐敗防止と両班の特権剥奪を強行する
興宣大院君は積極的に不正を行った官吏に対する調査を実施したが、忠清道では100俵以上の国の備蓄米を使い込んだ者が76名にものぼり、その中には1000俵を超える使い込みを行った者もいた。この結果に朝廷では1000票以上を横領した者を死刑とし、200俵以上を横領した者を流刑に、それ以下の者は所属する官庁で処罰させた。国の備蓄米を使い込む不正官吏は忠清道だけでなく全国各地で発見され厳重な処罰を受けることとなった。更に朝廷に議政府と三軍府を置いて朝廷内の行政権と軍事権を分け、税制改革を行って両班と常人の区別なく均等に税金を徴収し、租税の運搬過程で地方官吏たちの不正を防止する為に社倉を建て国庫の充実を図った。
興宣大院君の書院を撤廃
書院は元々、郷校と同じように先賢の奉仕と学問の奨励を目的に設立された教育機関だった。違いは郷校が国立機関で書院は私立機関だったという点だった。
書院は優れた学者を排出して学問発展にも大きく寄与した。それにより、多くの土地と奴婢を下賜され、税金と労役の免除という特権まで受けた。しかし歳月を経ながら本来の性格が転化した。地方儒者の勢力の基盤でもあり、同時に党争の巣窟になっていった。労役を免れようとする者らも寄り集まった。
さらに様々な理由で民を搾取した。書院はいつの間に、盗賊の巣窟に変わっていた。勢力派閥の支持基盤ではなかったとしても、国家の秩序を確立するうえで、書院は撤退されるべきだった。しかし、儒家の先賢を祀っている書院に手を出すことなど、誰ができるだろうか。歴代の国王もこれを奨励していたではないか。
しかし大院君は刀を抜き、これを果敢に振り下ろした。大院君は全国 600箇所の書院のうち47箇所だけを残し、書院の儒生たちを追い出した。書院が不法に占有した土地と奴婢を差し押さえ、労役を逃れた人々を析出するという目的もあった。書院撤廃の結果、多くの土地と奴婢を取り返し、国家の財政も拡充された。
興宣大院君が備辺司を撤廃
1510年の「三浦の倭乱」の発生以前の李氏朝鮮では、外敵の侵入などの重大な国家的非常事態が発生した場合に、「兵曹」で管轄し会議制で対応を決めていたが、緊急事態に即時に対応できていなかった。「三浦の倭乱」を契機に、辺境での紛争に備える役所として「備辺司」が1517年6月に新設された。
1592年の壬辰倭乱の国家的危機のとき、戦争遂行のための最高決定機関として、「備辺司」の機構が強化され、大きな権限を持つことになった。その職務は、論功行賞、徴兵、軍事物資の輸送のほか、官吏の任命、妃嬪の選択などにも及んだ。
しかしながら、あくまでも「備辺司」は臨時の合議機関であり、法制化されていなかったため他の機関の権益と抵触することもあって、絶えず廃止が議論されてきた。 しかし、その後も為政者にとって、大変便利な政治的装置であったために、軍事以外の様々な政治課題をも取り扱うようになっていった。
17世紀に入り、西人政権によってその機能が拡大強化され、後金との抗争の過程で、「備辺司」の堂上官に多くの権限が与えられた。粛宗の時代になって対清関係が 融和へ向かうと、「備辺司」には外交や通商の役割が付加されて、その機能はさらに強化された。純祖代の勢道政治の時代にも「備辺司」に権力が集中し、哲宗の時代には、当初20名前後であった堂上官は、60名以上にも増員された。
こうして、「備辺司」への権力の集中は、親族間での継承・不正の温床・売官の横行・民衆の反発などの弊害により、朝鮮後期の政治的混乱の主要な要因の一つとなった。
大院君の時代に、国家機構の再整備の際、「備辺司」の機能を外交・防衛・治安関係に限定したうえ、1865年には「備辺司」は廃止された。
1592年の壬辰倭乱の国家的危機のとき、戦争遂行のための最高決定機関として、「備辺司」の機構が強化され、大きな権限を持つことになった。その職務は、論功行賞、徴兵、軍事物資の輸送のほか、官吏の任命、妃嬪の選択などにも及んだ。
1592年の壬辰倭乱の国家的危機のとき、戦争遂行のための最高決定機関として、「備辺司」の機構が強化され、大きな権限を持つことになった。その職務は、論功行賞、徴兵、軍事物資の輸送のほか、官吏の任命、妃嬪の選択などにも及んだ。

興宣大院君 1820-1898 大院君とは直系でない国王の実父に与えられる称号である。