更新日 2014年08月17日
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日韓併合前の朝鮮
1863年12月13日
高宗が11歳で第26代国王になる。
1863年12月8日 先帝哲宗が32才で死去
1863年12月8日に哲宗が32歳で死去した。哲宗の子は娘1人だけで、息子5人は全員夭折していたため、直系の世継ぎ候補がいなかった。そのため傍系王族の誰かを王位につける必要が生じた。当時李王家一族の最年長で、世子(跡継ぎ)が決められていない場合の王位継承の決定権を持っていた神貞王后趙氏はイ・ハウン(興宣大院君)と謀り、イ・ハウンの次男命福を自分と亡夫孝明世子(憲宗の父)の養子にした上で、12月13日に即位させた。これが高宗である。形式上、高宗は先代の哲宗の叔父にあたる。
1863年12月13日 高宗王が11歳で第26代の王位就く
高宗は11歳であったため、即位後2年間は神貞王后が垂簾聴政を執ったが、興宣大院君(「大院君」は、王の実父に与えられる称号)に封ぜられた父のイ・ハウンが政治の実権を掌握した(大院君執政期)。
王位の在位期間は、
李氏朝鮮王 1863年12月13日~1897年10月12日
大韓皇帝  1897年10月12日~1907年07年20日
1919年01月21日 67才で歿
王位の殆どを傀儡(かいらい・意:操り人形)として過ごす
1863年12月13日の王位就任から、1873年11月03日の大院君弾劾までは、大院君の傀儡として操られていた。
1873年11月03日の大院君弾劾から、1895年10月08日の乙未事変(いつみじへん)で閔妃が暗殺されるまでは、閔妃と閔氏一族の勢道政治の傀儡として操られていた。
王位在位期間の殆どを酒池肉林(しゅちにくりん)で、酒と女性で放蕩生活を繰り返していた。

高宗 日韓併合の頃に撮影
日韓併合により韓国皇室は、王族と公族になり日本の皇族に準ずる待遇を受けた。
「大院君」の権限
朝鮮では国王が王子や兄弟が無いままこの世を去ることとなった場合は王族たちの中から継承者を捜したが、王になった者の父は大院君と呼ばれた。
過去に3人の大院君が居たが、息子が王となった時には既にこの世の人ではなく、自らの子が王になった事での死後に王繰られた称号に過ぎなかった。
大臣たちの間では若くて意欲的な興宣大院君をどの様に処遇するべきかで激論が繰り広げられることとなった。すると神貞王后は次の5項目の指針を下してこの論議を収拾した。
1. 王の前では臣下の礼を取る必要はない。
2. 大臣たちは私邸の前を通る際は馬から降りること。
3. 外出時は軍使が警護すること。
4. 地位は国王の下で、三政丞(宰相)の上とする。
5. 私邸の警護は王の警護隊が担当する。
「大院君」が行った政治
1863年に第26代国王の高宗王が11歳で王位に就く後見人として実父の興宣大院君(略して大院君)が政治の実権を握り、それまでの外戚(安東金氏)による勢道政治で乱れた政治を立て直すため政治改革に努めながら、農民闘争への対応・キリスト教の弾圧・開国を要求する西洋船の撃退・景福宮の再建・書院の整理・両班階級への課税などを行った。
しかし、大院君の政治は、朝鮮の貴族層である両班たちに改革を求めるもので、反感をいだく両班たちがおり、また、大規模な土木工事は民衆の不満をまきおこした。
大院君の政治は極めて排他的なもので、『衛正斥邪』(儒教以外の宗教思想を斥ける)の政策を貫き、フランス人神父9人を処刑し、8000人以上のキリスト教信者を惨殺しています。
『衛正斥邪』は、中華文明を正とし中華文明に従属しない民族を邪とすることも意味し、この考えに基づき大院君は日本国の開国要請を頑なに拒否した。