更新日 2014年08月17日
トップページ
日韓併合前の朝鮮
1866年10月、丙寅洋擾(へいいんようじょう) 
丙寅教獄に対するフランスによる報復
1866年6月、助命された宣教師の一人フェリクス・クレール・リデルは朝鮮住民の信徒達に助けられて脱獄し、7月には海路を使って清帝国領内の天津にあるフランス租界地まで逃亡に成功した。そこでクレールはフランス極東軍の指揮官であったピエール=ギュスターヴ・ロゼ海軍少将に助けを求め、ギュスターヴ少将はキリスト教徒への弾圧に加えて「在外フランス人の通告なき処刑は国辱にあたる」として介入を約束した。
北京の駐留代理公使ヘンリ・デ・ベルネットもギュスターヴの行動を支持し、正式に朝鮮王国への軍事行動が決定された。背景には形式上、清国皇帝の封臣である朝鮮国王によるキリスト教や在外フランス人の弾圧を許せば、いずれ天津支配にも影響を与える事が危険視されていた。
ベルネット代理公使はフランス政府(Quai d'Orsay)に何の相談もせず独断で外交権を発動して清帝国の総理各国事務衙門に開戦に関する使者を送り、またピエール=ギュスターヴ・ロゼ少将指揮下のフランス兵600名と仏海軍の極東艦隊に遠征命令を出した。
遠征について、ギュスターヴ少将は以下の様に述べた。
『 彼らは9名のフランス人を処刑した対価として、9000人の死で償う事になるだろう。 』

沿岸部を攻撃するフランス海軍
海軍力と火力での圧倒的に有利なフランス軍は、短期間で江華島を侵略する事が出来た。火力で大きく上回るフランス軍に対し、李氏朝鮮の戦い方は内陸部に誘い込みゲリラ戦で奇襲攻撃を仕掛ける事で対応した。
朝鮮軍は、攻め込むフランス軍に一斉砲撃を加えることにより、フランス軍は戦死者6人を含む60人の死傷者を出した。これによりフランス軍は江華島を撤収した。
この戦いは、韓国史上初の西欧帝国主義の侵略を撃退したという歴史的意義があると拡大解釈しているが、後日、1867年3月に米国政府がゼネラル·シャーマン号事件で辛未洋擾を起こすとき、フランソワ政府との共同報復を提案したが、フランスではすでに朝鮮遠征を通じて報復したため、米国の共同遠征を拒否した。すなわち、フランス政府はこの戦いを成功だと正式に認めたのである。
勝敗は、歴史事実の認識により表と裏の関係で両者とも自らが表側と認識して、両者とも勝利を宣言する事になる。
李氏朝鮮は勝利と考えることにより、自国が植民地獲得競争の標的になっている事を理解する機会を失った。小さな紛争で勝利した事に喜び、国を失う事に向かっている事が気付かなかった。
フランス軍は、撤退した時に外圭章閣図書345冊と銀塊19箱を戦利品として持ち帰った。

2011年5月末までに、フランス国立図書館に残っている外圭章閣図書296冊を韓国に返している
詳しくは中央日報の記事を参照
◆外圭章閣図書=朝鮮王室の外圭章閣に保管されていた1007種5067冊に及ぶ書籍と文書を指す。外圭章閣は1781年(正祖5年)に王室所蔵蔵書と文書を体系的に保管・管理するために江華島に建てられた。丙寅洋擾(1866年)当時にフランス海軍が略奪した後、1975年にフランス国立図書館司書だったパク・ビョンソン氏によって存在が明らかになった。昨年11月のG20首脳会議の際に李明博大統領とサルコジ大統領が、フランスが韓国に外圭章閣図書を5年単位で契約を更新して貸与する形式で返還することに合意した。