更新日 2014年08月17日
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日韓併合前の朝鮮
1871年06月10日 辛未洋擾(しんみようじょう)
ジェネラル・シャーマン号事件の報復
辛未洋擾(しんみようじょう)の原因
1866年8月16日 朝鮮との交易を求めて米国国旗を掲げた商船ジェネラル・シャーマン号が、大同江を経て平壌の羊角島に来航した時に、朝鮮の奇襲攻撃によりジェネラル・シャーマン号が沈没し、ペイジ船長・ウィルソン一等航海士以下船員20名全員が虐殺される。

ジェネラル・シャーマン号 撮影はアメリカ
排水量:187t(61は184t、62は204t、63は201t) 
全長:51.20m(61は50.29m、63は52.12m) 幅:7.92m 吃水:1.46m 主機/軸数:外輪2基
兵装:30ポンド・マズルローディング・ライフル砲2門、24ポンド榴弾砲3門(60と62。63は20ポンド・マズルローディング・ライフル砲2門、24ポンド榴弾砲3門)
辛未洋擾(しんみようじょう)までの交渉過程
1867年1月 シャーマン号の安否を確認の為、司令官ロバート·W·シューフェルトを派遣
1867年1月、アメリカはシャーマン号の乗組員の安否を確認するために、司令官ロバート·W·シューフェルトを軍艦ワチュセット (USS Wachusett) で派遣する。彼の遠征は悪天候に遭遇し、早期引き返すことを余儀なくされたが、韓国当局との接触は非常に非生産的であることが判明した。

司令官ロバート·W·シューフェルト
1868年4月 事件の究明の為、司令官ジョン·C Feibergerを派遣
1868年4月には事件の究明のために、司令官ジョン·C Feibergerを軍艦シェナンドア (USS Shenandoah) で派遣した。悪い潮や天候に影響されることは無かったが、異国人が韓国人との交渉をする場合に必ず起きる問題に遭遇した。朝鮮人は外交儀礼等に非常にこだわり、身分や役職を非常に重要にする風習がある。交渉する為の書類や交渉担当者の身分や役職が整わないと交渉を始める事も出来ないのである。朝鮮側官僚役人から見るとアメリカ国代表の船長や軍人・司令官は、身分が格段に低い相手と見なし、韓国側は中堅の役人に対応させているのである。
1871年 アメリカ国防省は大規模な交渉団を派遣
1871年 アメリカ国防省は大規模な交渉団を派遣しなければ、ジェネラル・シャーマン号事件の調査を進める事と朝鮮半島周辺での民間商船の安全確保が出来ないと考えた。清に駐在していたアメリカ公使のフレドリック・ローは、謝罪と条約を求めてアジア艦隊に朝鮮派遣を命じた。

清に駐在していたアメリカ公使のフレドリック・ロー
フレデリック·フェルディナンドロー(1828年6月30日- 1894年7月21日)
アメリカの 政治家、米国の国会議員とカリフォルニア州知事。
1871年4月 アメリカのアジア艦隊司令官ジョン・ロジャーズは日本の長崎で艦隊を編成した。同年5月にロジャーズは旗艦コロラド (USS Colorado)、アラスカ (USS Alaska)、パロス (USS Palos)、モノカシー (USS Monocacy)、ベニシア (USS Benicia) の5隻からなる艦隊を率いて江華島に向かった。

アメリカのアジア艦隊司令官ジョン・ロジャーズ

アメリカのアジア艦隊 旗艦コロラド (USS Colorado)
辛未洋擾(しんみようじょう) ジェネラル・シャーマン号事件の報復
アメリカ側は民間の商船の行方不明を確認するために、
● 1867年1月に、安否の確認の為に司令官ロバート·W·シューフェルトを派遣
● 1868年4月に、事件の究明の為に司令官ジョン·C Feibergerを派遣
李氏朝鮮側が、アメリカ側の担当者の役職や持参した書類等に難癖をつけて、追い払うような対応を繰り返す
● 1871年6月に、アメリカ側は武力を背景に、説明責任・謝罪・賠償を強く求めた。
アメリカ側は、国際社会でのルールに沿った外交を進めてきている。李氏朝鮮が犯罪行為を隠蔽し、アメリカ亜側の代表者の身分や書類を理由に交渉を避け続けてきた。正当防衛を主張するなら証拠や説明で証明すればよい。李氏朝鮮には説明責任が有るし、その機会は十分にアメリカ側から与えられている。愚かな行為をしているのは明らかに李氏朝鮮である。
1871年6月10日、米軍は江華島の草芝鎮と、次いで徳津鎮を襲撃した。激しい砲撃戦を経て、アジア艦隊は陸戦隊を上陸させることに成功し、草芝鎮と徳津鎮を、さらに6月11日には広城鎮を制圧した。
この戦闘で朝鮮軍は240名以上の戦死者をだすこととなった。

Map of American Naval Operations in Korea, 1871
漢江の河口にある江華島の地図 上部にあるのが砲台の基地
辛未洋擾(しんみようじょう) 李氏朝鮮の事後の対応
朝鮮の方では、もう一度アメリカが反攻してくるものと、必死で防御していたが一向にその気配がない。「これは足腰のたたぬほど、ぶちのめされ、アメリカが敗北したのだ」とフランス戦同様に手前みそに解釈し、大戦勝利の祝賀祭を大々的に行ったのである。
「米国の侵略を防いで、国土を防衛した」と大々的に宣伝した大院君の声望は国中を圧して、朝鮮は世界一と誤認してしまう。アジアでは日本も含めて西欧列強の圧力にすべての国が屈し、開国を余儀なくさせられたのに対して、唯一朝鮮のみが大院君の名采配でフランス、アメリカを追っ払たというとんでもない錯覚、誤解、過信をうんで、舞い上がってしまった。
国王の実父・大院君は幼い国王に代わって実権を完全に掌握し国内の名声を不動のものとした。
辛未洋擾後の日本政府への対応
この年は日本で明治4年にあたる。日本政府が修交条約結びたいと使節団を派遣するが、大院君の権力が最高期に向かう時期で、条約を受け入れるような状況では無かった。
李氏朝鮮側の近事は、
「貴国の使節の乗ってくる船、きてくる着物をみるに、在来の倭風と違って、夷狄(いてき)の物である。かくの如きは日本人とはいえない。」
「純粋の日本は古い修交国だが、夷狄化した国とは、修交の歴史もなく、その希望ももたぬ、寄りついたら打ち殺すぞ。」
と、非常に失礼な対応だ。
慢心した李氏朝鮮に対する、日本の対応
数年前まで李氏朝鮮と同じように鎖国をしていた日本であるが、国家間での礼儀等は研究されていて、ヨーローッパ諸国と遜色無く外交を行う能力を我国は持っていた。日本国側は明治元年に修好を求めた時と同様に、李氏朝鮮に対し誠実に外交関係を構築させ様と外交交渉を続てきた。しかし、李氏朝鮮の返答は、日本国を卑下し侮蔑した態度を繰り返すばかりであり、日本国に対する挑発行為と受け取れる程の対応であった。軍事力を背景にして、李氏朝鮮に対し謝罪を求めても良い程の行為である。
欧米の主要国に対し事前に、李氏朝鮮が日本国に対し侮蔑・挑発行為を行なった事を伝え、李氏朝鮮に対し謝罪を要求する事を伝えて於けば、国際社会では問題にはならないであろう。それが戦闘行為に進み日本国が勝ったとしても、非を唱える国は無いであろう。
当時は世界中が「戦国時代」に入っていた。この様な事が切欠で戦争が行われ、アフリカ・アジアの国々が、欧米列強に植民地として支配されてきたのである。この後に日本国内で「征韓論」が起きるが、決して支配欲で起きた論争ではない。原因は李氏朝鮮の侮蔑・挑発行為に有り、結果として日本国内に「征韓論」が起きたのである。物事の道理は「原因」が大事である。原因を研究する事が、悪い結果を食い止める、良い結果はより良い結果を導き出すのである。「征韓論」を論ずるならばその原因は、丙寅教獄・ジェネラル・シャーマン号事件から始まる大院君の文化的優越主義による鎖国・排外政策である。意図的に征韓論だけを持ち出し、日本を野蛮国・侵略国の様に印象操作する学者がいる。
明治政府が国内改革と同時にまず対馬藩を通じて隣国の朝鮮政府に、いち早く修交の使節を送った。しかし、朝鮮・李王朝は長年の中華思想の影響で中国を宗主国と仰ぐ一方、華夷序列から遠く離れたベトナム、東南アジア、日本などを夷秋(文明化しない野蛮人)禽獣(獣に等しい存在)と蔑む冊封体制(事大朝貢体制)の意識を持っていた。
朝鮮国王・高宗(李太王)の実父で実権を握っていた大院君はこうした文化的優越主義(中華思想)にこり固まり、日本を東夷と低く見て、鎖国・排外政策をとっていた。しかも、仏・米戦争に勝利したと誤解して自信満々、日本などへとも思ってなかったのである。外圧で鎖国を解いた明治新政府に対して、中華秩序への挑戦と敵視していたのだ。
明治元年(1868)11月、明治新政府は王政復古の内容を通告して朝鮮に修好を求めた。だが、文書のなかに「皇」「奉勅」などの文字が入っていたことに朝鮮側は驚き、会見を謝絶し、国書を突き返した。「皇」は中国皇帝にしか使われない漢字で、そのため天皇が朝鮮国王の上に立つことを意味することになり、日本が朝鮮支配の野心を持っているものと誤解した。
朝鮮は日本の開国の要請は内政干渉であると強く反発し、両国の異文化衝突、異文化認識のズレ、誤解がエスカレートした。
明治3年10月、外務卿の代理が交渉に行ったが、朝鮮政府は引見を拒否した。さらに、5年3月にも代表を送って返事を催促したが、これまた回答を先延ばしした。両国とも自文化優先主義思考から、相手側が無礼な態度をとったと怒りを募らせた。
とくに日本側はイギリス、ロシアなど西欧列強が砲艦外交で中国、朝鮮に門戸開放を迫っているなかで、朝鮮が列強に支配されれば日本も危ないと強い危機感を抱いていた。
おとなしい太政大臣(首相に相当)三条実美までもが征韓論を主張して、明治6年7月に閣議に諮った。木戸孝允、大久保利通らは岩倉使節団として外遊中だったが、西郷隆盛を全権大使として談判のために朝鮮に派遣することが閣議で決まった。これが「征韓論」といわれるものである。
「井の中の蛙、大海を知らず」の諺があるが、当時の李氏朝鮮の事を言い当てている。
李氏朝鮮は、「井の中の蛙、大海を知らず」なのか?
「井の中の蛙、大海を知らず」の意味は?
「井の中の蛙、大海を知らず」の諺は、自分の狭い知識や見解に囚(とら)われ、他に広い世界があることを知らないで、得々と振る舞っている者のことを蛙に喩えた言葉。
出典は、「荘子-秋水」「井蛙不可以語於海者、拘於虚也」[井蛙(せいあ)は以って海を語るべからず、虚(きょ)に拘(なず)めばなり(井戸の中の蛙に海のことを話しても分からないのは、狭い場所にこだわっているからである)]
寓話を紹介します。『井桁に足を掛けていた蛙が東海に住む亀に向かって「私はこの古井戸を独占し、居ながら青天を望むことが出来る。君もここへ入ってみなさいな」と自慢した。亀は井戸に入ることも出来ず、大海の広さについて話して聞かせた。蛙はただ驚き、亀は蛙の見識の狭さに呆れた。』
参考資料:黄河の水神の「河伯(かはく)」は秋になると水かさを増し美しくなる黄河の流れを得意げに見渡しながら流れに身を任せ、渤海へと出た。河伯は渤海の広大さを見て驚くと共に、黄河の流れを得意に思っていた自分の見識の狭さを恥じ。河伯はそのことを包み隠さず渤海の神「若(じゃく)」に話すと、若は河伯にこう言った。「井の中の蛙は海の事を話しても分からない。なぜなら蛙は自分の住む井戸の中を全てと思い込み海を知ろうとしないからだ。しかし、自分の見識の狭さを知った君とは海のことについて語り合える。」
「井の中の蛙大海を知らず」に続く言葉がある。後の人が付けたものと考えられるが、定かではない。
①「されどその深さを知れり」
②「されど天の深さ(青さ)を知れリ」
③「ただ、空の深さを知るのみ」
解釈は個々にお願いします。 
正に、この諺に出てくる蛙の様な国
今現在の大韓民国も同じですね。2014年4月16日に、大韓民国の大型旅客船セウォル号の転覆事故が起きています。事故の原因・事故が起きてからの対応全てが異質です。世界上のテレビの前で見ていた人たちが同じように感じていたでしょう。
自分たちの国を一流国家と思い、一流の国民と意識していたのでしょうが、世界中がその様には思っていません。発展途上国の人達でも、事故が起きてからの対応はもう少し正しい対応が取れる取れるでしょう。
140年前も今現在も、同じ考え方で同じ行動をする民族性なのです。