更新日 2014年08月17日
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日韓併合前の朝鮮
1873年11月、大院君弾劾 (癸酉政変 きゆうせいへん)
閔妃の個人的な復讐心・野心が、反大院君を弾劾する。
閔氏一派が大院君への対抗勢力として台頭することになったきっかけは、閔妃の産んだ子が亡くなり、高宗が宮廷の女官に産ませた子を、大院君が世子(後嗣ぎの王子)に指名したことにあった。これによって閔氏一派は大院君の排斥へと積極的に動き出したのである。
閔氏一派は、大院君の専制的な強圧政治に批判的な見解を持つある有名な儒学者に、その治政を激しく非難させ、それに反大院君派の勢力を同調させていった。やがて大院君の弾圧をこうむっていた両班たちもそれに唱和するようになり、轟々たる大院君非難の声が沸騰していったのである。
そこには、高宗もすでに22歳になっているのだから、父王(注:正確には“王の父”)は政権を退き、国王親政とすべきだ、という理由も付け加えられていた。
大院君の失政
大院君は自らが執政を行い、軍事権、行政権、人事権を王命によって施行した。これを儒学者の崔非難は独裁だと指摘した。勢道政治でも、ある程度の範囲で合意や話し合いで物事を決定したが、大院君はそのような事はせず、自らの独断で物事を進め、どのような命令書でも大院君の目を通し、許可が下りない場合は施行できなっかった。
また人事に関しては、大院君は事前に候補者名簿を作り、強引な人事異動を行わせ、大院君によって地方官に抜擢されたものは、租税を横領し、大院君の権威をかさに来て、横暴の限りを尽くす者もいた。
このような大院君の独裁政治を皆が批判し、この情勢の中で、大院君を憎む閔妃は、裏で有力者に接近し、権門勢家も次第に閔妃の側につき、神貞王后も閔妃と結びつき、ついに有力者崔益鉉と連携し、大院君を失脚させた。

崔益鉉(さいえきげん)
李氏朝鮮末期の儒学者・政治家。保守的な国粋主義者で衛正斥邪運動・抗日義兵闘争を指揮した
1873年10月25日(明治6年) 崔益鉉、大院君弾劾上疎を高宗に呈出。
崔は衛正斥邪運動指導者李恒老の一番弟子、以前にも大院君を弾劾し、それを閔妃一派にかわれ、10月初め、副承旨(次席秘書官)就任。高宗王は崔益鉉を支持、上疎を賞賛、崔を戸曹参判(大蔵省次官クラス)に任じる。
大院君は、崔の処罰を主張し、左・右議政に崔非難の上疎を出させる。高宗王は、崔を擁護、執拗に非難する官人を流罪にする。また、ソウルの儒生たちも崔を批判するが、高宗王はこれを押える。
1873年11月03日(明治6年) 再び、崔益鉉が上疎を呈出。その内容
崔の大院君弾劾の内容
『 強硬な鎖国政策をとり続けていれば対日戦争が起こり、壬辰・丁酉倭乱の悲劇が再現されかねない。
さらに、大院君の摂政政治にはいくたの疑問があり、それを排斥すべし。
政治が不安定であるにかかわらず、高官は正論を吐かず、直言をしない。
人事は適材適所を旨とせず、天災地変や凶作への対策は乏しく、ために国民の生活は困窮をきわめている。』
上疏文中に過激な言辞があるとして、崔益鉉は済州島へ流配と決定されたが、大院君派の暗殺から彼を守るための策であった。
1873年11月05日(明治6年) 高宗王は親政を布告。
景福宮での大院君専用出入口を閉鎖し、大院君を追放する。大院君は病気と称し自邸に引き籠った。
1873年12月10日(明治6年) 閔妃の寝殿で、爆弾による火災発生
閔妃の寝殿に仕かけられた爆弾によって景福宮で火災が発生、多くの建物が焼失して、王夫妻は侍従らと共に昌徳宮に移った。犯人として大院君が住む自宅の身分の低い使用人が逮捕されたが、証拠がなく、迷宮入りの事件として終わった。
閔妃と閔氏一族よる大院君派の静粛
閔氏一族は高宗王を動かして大院君派をことごとく退けて、新たに閔氏派の人脈によって政府機関の要職を固めた。大院君の改革は否定され、旧来の貴族層である両班官僚の支配体制による政治が再び行われることとなった。
大院君側に立って崔益鉉を非難した右議政・左議政は真っ先に罷免された。
大院君系列の人々は追放・流刑・処刑等により排除され、閔氏一族の官吏30数名が高官にする。
閔妃は高宗王の後ろで垂簾政治を行った。
趙大王大妃(神貞王后)の一門を厚遇する
東金氏の一門も再浮上。金炳国はのちに右議政にする
南人派を含む大院君系列の人々は根こそぎ没落したばかりか、主な人々は何かの罪名を着せられて追放、流配、死刑に処された。大院君色を一掃し、彼の再起運動を可能とする土壌を一挙に切り崩す処置であった。
閔妃と閔氏一族よる政治
大院君の行った政策をことごとく否定し、
書院の一部を復興
両班へ課した戸布を免除
清銭の輸入を禁止
京城(ソウル)の都城門を出入りする人にかけていた通門税を廃止
院君の行った強硬な鎖国攘夷政策を改め開国へ変更