更新日 2014年08月17日
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日韓併合前の朝鮮
1874年03月25日 27代目国王となる純宗が誕生・世継ぎ問題
1874年03月25日 27代目国王となる純宗が誕生
閔妃が再び男子を出産した。名は■[土へんに石](チョク)、後の純宗である。
閔妃は1871年にも男子を生んでいるが、鎖肛(肛門が閉じている病気)のため数日後に死亡している。
チョクは世子と定められ、領議政の李裕元を世子冊封都監に、左議政の李最応を世子傳に任命し、盛大な祝宴が挙げられた。
27代目国王を巡る「 世継ぎ問題 」
1868年 高宗の寵愛する李尚宮が長子・完和君を出産する。
閔妃は王妃になって宮中に入ったものの、王妃とは名ばかりの存在だった。高宗は当時、宮女である李氏を愛して同居しており、正妻である閔妃にはまったく関心を示さなかった。だが、閔妃はいっさい、愚痴をこぼすこともなく、よく礼儀作法を守ったから、宮中で称賛された。その間、李氏は高宗の寵愛を独占したが、男子を出産し、完和君と命名した。祖父である大院君は、大いに喜んだ。閔妃は大院君が満足する姿を見て、不満と嫉妬を爆発させた。そして隠していた爪を、秘かに用いはじめた。天性の政治的手腕を発揮して、大院君に対する謀略をめぐらした。
「韓国 堕落の2000年史」 崔基鎬:著 詳伝社 より抜粋
1871年 閔妃に男子が産まれるが、病気のため数日後に死亡した。
閔妃に男子が産まれるが、鎖肛(肛門が閉じている病気)のため数日後に死亡した。
『 1874年03月25日 27代目国王となる純宗が誕生は、はかなく世を去った我が子の霊を慰めようと、内宮で盛大な祈祷を行わせた。祈祷師を中心に数百人の巫女が集められ、銅鑼(どら)や鉦(しょう)など各種の打楽器を打ち鳴らして舞い、歌う喧噪な祈祷が夜を徹して行われ、それが十日も続いた。さらに、“嫗尼車三座(クニチャサムザ)”という大がかりな天神地祇の神事を行わせ、また金剛山や智異山など各地の僧侶数千人に命じて大規模な祈祷を行わせた。金剛山はいま朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)領であり、智異山は韓国の南西部で、二つとも昔から霊山として名高い。これら慰霊の行事に要した莫大な費用は、ただでさえ苦しい王室の財政をさらに圧迫した。また閔妃はいつまでも我が子の死の原因にこだわり、巫女に占わせた。その結果、「李、張など尚宮たちの呪詛、執念の祟りでございます」と告げられた。閔妃は腹心の家来を集めてそれら尚宮たちの追い出し策を練り、「外部の男との姦通」という罪名で数人に杖刑を加えさせた。完和君の母である李尚宮はいち早く逃亡して難をのがれたが、張尚宮は残酷な杖刑に全身から血を流して、もだえ苦しんだ。そしてついに彼女は「王妃こそ、伶人の金夢龍を女装させて内殿にひき入れ、悦楽にふけっている」と叫んだ、と伝えられている。伶人とは、旅芸人一座の中で女形をつとめる看板役者のことである。』
「閔妃(ミンビ)暗殺―朝鮮王朝末期の国母」 角田房子:著 新潮文庫 (p84-85) より抜粋
1874年03月25日 27代目国王となる純宗が誕生
閔妃が再び男子を出産した。名は■[土へんに石](チョク)、後の純宗である。
チョクは世子と定められ、領議政の李裕元を世子冊封都監に、左議政の李最応を世子傳に任命し、盛大な祝宴が挙げられた。
だがまもなく、李裕元を困惑させる情報がはいった。それは宗主国である清国は、生母が王妃か側室かを重視せず、長幼の序列にしたがって、李尚宮が生んだ完和君を世子として認許する意向らしい、というものであった。
閔妃は、領議政の李裕元に莫大な賄賂を持たせて世子冊封使として清国に向かわた。裏工作を行い続け、1875年に純宗は清国から世子と認められ、次代の王の座を約束された。
閔妃は、日本に清国へ世子変更の働きかけを持ちかけ代償として「国交再開」を条件に頼んだ、との説もある。
1880年 側室の李尚宮が急死。その子完和君も変死。
側室の李尚宮が急死。その子(高宗の長男)完和君も変死(閔妃による暗殺説が濃厚)。
出典:閔妃 - Wikipedia の「略伝と関連年表」の項)