更新日 2014年08月17日
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李斯朝鮮末期の農業・商業および工業
『 日韓併合小史 』山辺健太郎 著

「日韓併合小史」山辺健太郎 著(岩波新書、1966年)
5~6ページより抜粋
農業の生産力は非常に低かった。1905年(明治38年)に日本の農商務省の技師が調査した『韓国土地農産調査報告』によると、農業生産力の高い南朝鮮でさえ反当収量は平均9斗で、そのころの日本の反当収量は1石6斗あまりだったから、朝鮮の反当収量は日本の約半分である。
農具も幼稚で鉄を使わない鋤もあった。農業と工業とは分離しておらず、たいていの農家では、生活必需品、つまり糸、布、履物、家具、農具などは、たいてい一家で製造していたのであるが、この自給自足の程度は、徳川時代の日本よりは徹底していたようだ。
農地はせまい共同体のなかで生活し、そこには入会地があって、肥料や燃料に使う草木などは自由に採取して農業に従事していたのである。
製造工業は陶磁器製造がさかんに行われていたが、そのほかの家内工業製品としては綿布があり、奢侈品の製造を官奴婢がやっていた。
要するに日常生活の必需品の大部分は自家生産や家内副業でやっていたので、商品生産はあまりひろく行われていない。したがって商業もあまり発展していなかった。店舗をかまえているのは、ソウルにあった六矣廛(りくいてん)という絹織物、綿布、綿紬、紙、苧布、塩魚をあつかう六つの特権商人がおもなもので、その他は負褓商(ふほしょう)という行商人による行商が行われていた。
やや大衆的消費資材である陶磁器の取引について説明すると、生産された商品は居間(きょかん)という仲買人を通じて、客主(きゃくしゅ)あるいは旅閣(りょかく)という問屋におさめられ、ここからまた居間の手を通じて商廛(しょうてん)という常設店舗や負褓商のもとへとどけられる。負褓商はこれらの商品をふつう市にだし、ここから消費者にわたるようになっていた。
この負褓商は、強固な同業組合をつくり、しばしば政治団体としても活躍したことで有名である。大院君などもこの負褓商をたびたび利用したのであるが、ある場合は隠密のような役割もはたし、情報などもあつめたがそのうごきはたいてい保守的なものであった。
そのほか、経済が自給自足の自然経済だったので市を通じて行われる物々交換がむしろ多かったのだが、この市は全国にわたっており、市と市との距離はだいたい往復一日行程くらいである。