更新日 2014年08月17日
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迎恩門で「三跪九叩頭の礼」で清国の勅使を迎える
迎恩門 朝鮮王が中国皇帝の使者を、三跪九叩頭の礼を行い迎える門

迎恩門 1896年に柱礎だけを残して取り除かれる。従って1896以前の撮影は間違いがないであろう。

撮影年不明 迎恩門の柱礎(左側の2本) 右側の門は1897年に作られた独立門
迎恩門は漢城の西大門である敦義門のすぐ外、義州を経て北京に至る街道に建てられていた。中国の皇帝の臣下であり、冊封国であった朝鮮の歴代の王が、中国の皇帝の使者を迎えるための門であった。朝鮮の王は、中国の皇帝の使者に対し、『三跪九叩頭の礼』を行い迎えた。
1407年には慕華楼という使臣のための建物が建てられていたが、1536年に金安老の建議でそのそばに「迎詔門」を立てた。しかし1539年に明の使臣で来た薛廷寵は、使臣は中国皇帝の詔書や勅書や下賜の品々を持ってくるのに、門の名前が「詔だけを迎える」ではおかしいと言いがかりをつけ、朝鮮側は名前を「迎恩門」に変えた。
1606年に来た明の使臣朱之蕃が書いた門の扁額が国立古宮博物館にある。
日清戦争で日本が勝利し、1895年の下関条約で、清の冊封体制から李氏朝鮮は離脱した。 こうして大韓帝国が成立、独立協会は迎恩門を取り壊し、1897年に独立の記念として新たに独立門を同じ場所に建てた。迎恩門に隣接して建てられていた慕華館は独立門建立時に独立館に改名された。
『 三跪九叩頭の礼 』(さんききゅうこうとうのれい)
三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)中国清朝皇帝の前でとる臣下の礼の1つである。
三跪九叩頭の礼では、
  • 1.「跪」の号令で跪き、
  • 2.「一叩(または『一叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。
  • 3.「二叩(または『再叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。
  • 4.「三叩(または『三叩頭』)」の号令で手を地面につけ、額を地面に打ち付ける。
  • 5.「起」の号令で起立する。
これを計3回繰り返すので、合計9回、「手を地面につけ、額を地面に打ち付ける」こととなる。
琉球王朝や李氏朝鮮では、中国からの勅使に対し、王が王都の郊外に出向き、自ら三跪九叩頭の礼で迎えていた。その郊外の地が琉球の場合、守礼門であり、李氏朝鮮の場合、迎恩門である。
明の時代になって、大臣たちが皇帝に示す一種の礼儀として叩頭礼が始まったが、当時は「五拝三叩頭の礼」であった。藩属国の朝貢使が入京して皇帝に会うときもこの礼をすることが必要とされるようになった。清が北京に入って後、三跪九叩頭の礼が明代の五拝三叩頭の礼にとってかわった。
三跪九叩頭の礼を求められた[李氏朝鮮]の対応
1636年、後金のハーン・ホンタイジが国号を清として新たにその皇帝に即位し、李氏朝鮮に朝貢と明への出兵を求めた。朝鮮王仁祖が拒絶したため、ホンタイジは直ちに兵をあげ、朝鮮軍は為すすべも無く45日で降伏した。
和議の条件の1つに大清皇帝功徳碑を建立させた。仁祖はこの碑を建てた三田渡の受降壇で、ホンタイジに向かって三跪九叩頭の礼を行い、許しを乞うた。

仁祖は朝鮮王の正服から平民の着る粗末な衣服に着替え、 受降壇の最上段に座るホンタイジに向かって最下壇から三跪九叩頭の礼による臣下の礼を行い、 許しを乞うたという。
アメリカ大統領に三跪九叩頭の礼をした[朝鮮全権大使一行]
明治16(1883)年9月に、当時の李氏朝鮮王が米国に対して派遣した朝鮮全権大使一行の米国アーサー大統領公式訪問の際の様子
詳しくは『朝鮮開国と日清戦争』 諸:渡辺惣樹 33~41ページを参照してください
週刊誌「ニュースペーパー」(1883年9月29日付)の諷刺画

朝鮮全権大使一行の米国アーサー大統領公式訪問
ニューヨークで発刊されていた週刊誌「ニュースペーパー」(1883年9月29日付)に掲載された李氏朝鮮の全権大使一行が米国アーサー大統領を公式接見の前に三跪九叩頭の礼を行っている諷刺画
HAROLD J. NOBLE が書いたレポートが残っている。
Standing in the broad hall, just outside the open door of the reception room, the ambassadors and their suite formed a [page 9] single line facing the President. At a signal from the minister they dropped together on their knees, then, raising their hands above their heads, they bent their bodies forward with a slow, steady sweep until their foreheads touched the ground. After remaining in this attitude a few moments, they arose and advanced into the room, President Arthur and the gentlemen with him bowing deeply as they entered.
使節一行は大統領に対面して一列に並んだ。全権公使からの合図で、彼らは一斉に跪いた。そして両手を頭上に持って行った。そしておいて額が床に触れるまでゆっくりと上半身を前傾させた。この姿勢をしばらく保った後、彼らは立ち上がり部屋の中に入ったのである。大統領ら高官は彼らに軽く会釈をして応えた。
まさに三跪九叩頭の礼を思わせる文章である。
朝鮮全権大使一行がフィフス・アベニュー・ホテルで行った作法は、三跪九叩頭の礼なのであろう。アメリカ人は見た印象を文章にしている。
上記の週刊誌「ニュースペーパー」の諷刺画と合わせるとほぼ間違いなく三跪九叩頭の礼を行っているであろう
三跪九叩頭の礼を求められた[琉球王朝]の対応
琉球王朝は冊封使を迎えるために立派な門 通称守礼門(写真下)をつくり、「守禮之邦」の扁額を掲げ、宮殿にて、この三跪九叩頭の礼をとっていた。「守禮之邦」の守禮とは中国皇帝に対する礼を意味し、邦とは小さい国という意味である。
「守禮之邦」の守禮とは中国皇帝に対する礼を意味し、邦とは小さい国という意味である。

守礼門 沖縄戦で焼失する前の写真
三跪九叩頭の礼を求められた[イギリス]の対応
清朝側は1757年の乾隆帝の決定により、海外貿易を広州1港に限定したうえ、中国との取引は公行(コホン)と呼ばれる清朝指定の少数の特許商人(およそ10行ほど)との間でのみ許可するという、厳しい制限貿易をおこなっていた。
1793年、イギリスの外交官ジョージ・マカートニーは、乾隆帝に謁見した際に三跪九叩頭の礼を要求されるが、これを拒否してイギリス流の儀礼を押し通した。貿易改善交渉・条約締結は拒絶され帰国した。

乾隆帝に謁見するマカートニー使節団(1793年、アーノルド・J・トインビー『歴史の研究』より)

乾隆帝にマカートニーが英国の国王の手紙を差出す。
英国の風刺漫画家や版画家ジェームズ·ギルレイは1792年9月14日に発表した諷刺画
1813年には初代アマースト伯爵ウィリアム・アマースト(William Amherst)がやはり三跪九叩頭の礼を拒否し、嘉慶帝への謁見が許されなかった。
三跪九叩頭の礼を求められた[日本]の対応
1873年、台湾出兵の処理に赴いた特命全権大使副島種臣は、同治帝に謁見した際に三跪九叩頭の礼を要求されるが、古典(五倫)を引用して立礼を主張し、最終的に立礼で通した。

副島 種臣(そえじま たねおみ)
文政11年9月9日(1828年10月17日) - 明治38年(1905年)1月31日)
明治6(1873)年、台湾出兵の処理や日清修好条規の批准書交換などのため清国に赴いた特命全権大使の副島は、旧習を墨守する清国の傲岸不遜な応対を目の当たりにする。
清国では諸外国に対していまだ皇帝への土下座のごとき三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼を強要。さらには大使・公使・代理公使の順位をまったく考慮せず、着任順で席次を決めるという、国際儀礼無視も甚だしい慣行が続いていたのである。
当然、副島も屈辱的な跪拝を要求され、大使の立場にもかかわらず、先着の外国公使の下に席を置かれた。副島はこうした無礼な扱いに毅然(きぜん)たる態度で是正を求めた。
まず聖徳太子の国書をめぐる故事を引きつつ、冊封関係を意味する跪拝の礼をとらせることがいかに国際間の礼儀と信義に反するか、舌鋒(ぜっぽう)するどく指摘。談判は1カ月余に及んだが、副島は一歩も引かなかった。ついには謁見を拒否して帰国する決意まで示す。これには清国側も狼狽(ろうばい)し、「謁見の事はすべて日本大使意見の如くすべし」と返答。しかも謁見はまず大使である副島が立礼で行い、次いでロシア、アメリカ、イギリス、オランダ、フランスという順序が決定を見る。
各国公使らは安堵(あんど)の胸をなで下ろしたことだろう。例えば、米国公使ローはフィッシュ国務長官宛ての報告書に事の顛末(てんまつ)を記し、副島の気概を絶賛してやまなかった。
かくて、副島がいよいよ帰国に向けて出航するとき、清国側は150本もの錦の旗を立て、21発の祝砲で見送ったという。ライバルながら天晴(あっぱ)れと評価したからである。