更新日 2014年08月17日
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『 漢江の奇跡 』への資金源(西ドイツへの出稼ぎ)
1963年~78年までドイツへ炭鉱労働者・看護婦を労働者として派遣
炭鉱労働者7983人を含む7万9000人の鉱夫

ドイツの韓国人の鉱山労働者

ドイツの韓国人の鉱山労働者

ドイツの韓国人の鉱山労働者
看護婦は1966年から1976年の間に1万余人が渡独した

空港ケルン/ボン1966に到着した韓国人の看護師。

西ドイツの聖ヨハネスKrankenhaus病院で働く韓国人看護師。
失業者が240万人 募集500人に対し4万6000人の応募
マーシャル・プランや朝鮮戦争特需などにより「ライン川の奇跡、ドイツ語では経済奇跡(de:Wirtschaftswunder)」と呼ばれる急成長をしていた西ドイツは、その労働力不足を補うため1963年以降、韓国から多くの鉱夫(派独鉱夫)と看護婦(派独看護士)を受け入れた(なお、日本からは1957年から1965年にかけて炭鉱労働者が送られた)。失業者が公式発表でも250万人を超えていた1963年の第一次派遣には、募集500人に対し4万6000人の応募が殺到するなど、1963年から1978年まで炭鉱労働者7983人を含む7万9000人の鉱夫を派独、看護婦は1966年から1976年の間に1万1056人が渡独した。
年間5000万ドルの送金 GNPの2%台 1967年には輸出総額の36% 
派独労働者からの送金額は年間5000万ドルに達し、一時期はGNPの2%台に及んでいた。また、1967年には輸出総額の36%を稼ぎ、ドイツからの借款を獲得するなど外貨の獲得に貢献、韓国経済発展の基盤になった。
鉱夫が受け取った月給は650~950マルク(当時の韓国ウォンで13万~19万ウォン)で国内の会社員の月給の8倍にもなった。国家記録院特殊記録管理課のイ・カンス研究官は「ドイツの記録によれば当時ドイツの炭鉱会社は鉱夫の賃金を1~11等級(高いほど多い)に分けたが、韓国の鉱夫は3~5等級を受けていた」として「当時、ドイツ派遣鉱夫の人気が高く鉱夫ではない志願者が多いと見ると、ドイツの立場としては韓国の鉱夫の熟練度が低下すると判断したようだ」と説明した。初期にはドイツ語が下手で死体洗いなどの雑用をしなければならなかった看護師は、1カ月に約800マルク(約16万ウォン)を受け取った。国家記録院によればドイツに行った鉱夫と看護師が66~76年に韓国で送金したお金は1億1530万ドルに達する。(上記の年間金額とは違う11年間の総額である。金額には諸説ある。)
1957年~65年まで日本の炭鉱技術者が研修の為に西ドイツへ渡航した。
1597年の第一次の59人の派遣から1962年の第五次の60人の派遣まで、述べ436人が研修の為に派遣された。最後の第五次が帰国するのは1965年で、派遣されていた年数は述べ8年となる。
日本側は21~30歳で3年以上の経験があり、独身で健康な経験者を厳選して職業技術の完成と知識を広める為に派遣している。しかし、西ドイツ側では戦後の男性労働者の不足で起きる炭鉱での石炭生産の遅れを補う為の労働者として受け入れている。
『日本側の派遣の意図と西ドイツでの現実のズレ』が、第一次派遣から起きいる。この相違を是正しながら第五次まで、多くの問題を含みながら続けられることになる。
日本の派遣は技術習得が目的であるが、韓国の派遣は外貨獲得と国内の失業者対策が目的である。
韓国は1963年から第一次の派遣が始まるが、炭鉱労働の経験が無い者が殆どであった。西ドイツが韓国に提案した条件は日本人の派遣と同じ条件であった。