更新日 2014年08月17日
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朝鮮文化独特の思考様式『 恨 』(はん)
「朝鮮半島」 世界史の中でも厳しく長かった『奴隷制度』

河川敷、或は林野その他、官有地私有地を無断占拠して居住する最下層の人達
世界史を調べると、殆どの地域・民族の歴史の中に『奴隷』が制度として行われていた事がわかる。自ら『奴隷』になった者は居ないが『奴隷』とされた事由は、犯罪者への罰則、反逆者への制裁、宗教の対立、経済行為での返済の代償、民族・人種の差別、女性・障害者への差別などである。それらの事由を支配者が利用して始まった制度である。地域・民族により違いはあるであろうが、それぞれの地域・民族の最古の歴史資料に記録として残っているのであるから、それ以前からそれぞれの地域・民族に『奴隷制度』が存在していたことは間違いないであろう。
朝鮮半島でも同じ事だ。朝鮮における奴婢の歴史は、中国の征服者・箕子が興した箕子朝鮮(きしちょうせん、? - 紀元前194年)の時代より始まるとされる。朝鮮半島には歴史の資料が残っていないが、これの根拠は『三国志』魏志書、『魏略』逸文などに具体的な記述がある。
世界の歴史で『奴隷制度』の廃止を調べると、制度が終わった時期やそのきっかけには地域・民族により違いがある。
朝鮮半島では1894年の甲午改革で法的に『奴隷制度』が撤廃されたが、実質的に奴隷制度が廃止されたのは日韓併合の時代である。1910年に朝鮮総督府が奴隷の身分を明記していた旧戸籍を廃止し、すべての国民に姓を定めた新戸籍制度を導入した。
戸籍制度を導入することで、人間とは見なされていなかった姓を待たない『白丁』を始めとする賤民にも姓を許可し、身分差別を撤廃した。また、身分解放された白丁も学校に通うことが許可された。これに対して両班は認めないとして抵抗活動を繰り広げたが、日本政府はこれを断固として鎮圧した。両班の立場では、家畜と同じで売買できて資産価値が有った『奴隷』を無償で取り上げられるので抵抗したのである。法律で解放されても、1923年の戸籍制度改革するまで両班は『奴隷売買』を続けていた資料も残っている。

1921年(大正10年)の奴隷売買文書
併合後も日本が1923年戸籍制度改革するまで韓国人の両班は奴隷売買を続けていた
身分的賤民の原初は、『漢書』「地理志」における古朝鮮の〈八条禁法〉にまで遡及する。いわば〈他人の所有物を盗んだ者は、被害者の奴婢にする〉という慣習法である。古朝鮮に続いた小国の変遷統合により形成された国家の高句麗・百済・新羅から統一新羅に至ると、既存の世襲奴婢と捕虜奴婢のほかに、負債、刑罰、人身売買などによる奴婢も発生し、所有形態は官衙に隷属する公奴婢と、貴族や良民が所有する私奴婢となった。
ところで奴婢の社会的性格については、西洋古代の奴隷と同じであったとする説には異論が多く、まだ定説は確立していない。中世の高麗王朝の下では、既成の奴婢構成のなかに反逆者家族の奴婢化が加えられるようになった。そして社会経済の発展に伴い奴婢の数を確保する必要から、奴婢世襲を法定化する〈賤者隨母法〉を制定(1039)し、身分の統制を強めた。一方、奴婢たちは身分統制と収奪の強化に抗して、しばしば身分解放を求める反乱を起こした。
近世の朝鮮王朝になると、治国法の一つ〈刑典〉に、公賤と私賤に分けて公・私奴婢の身分と刑罰に関する綿密な条項を定め、さらに刑曹(司法省にあたる)の外局として、奴婢の帳籍と訴訟事務を管掌する掌隷院を設けた。また逃亡した奴婢を原状に戻すための時限立法〈奴婢推刷法〉を制定することもあった。
ところで奴婢の存在形態は、官衙内または所有主の家に住みながら、直接的に収奪(労役)される〈率居奴婢〉、官衙内や所有主とは同居せず、隷属する官衙の労役か、所有主が示す労働に従事する〈外居奴婢〉、官衙や所有主の経済基盤とは関係なしに独立した生活を認められる条件として、官衙や所有主にしかるべき納付をする〈独立奴婢〉とに分かれた。
そして初期は〈率居〉と〈外居〉の奴婢が多く、社会的性格は人として扱われる割合が四,物として扱われる割合が六の〈人四物六〉といったところであったが、後期になるにつれて〈独立奴婢〉が増え、社会的性格は〈人六物四〉へと変わっていった。しかも〈外居〉と〈独立〉の奴婢は私有財産の所有を認められ、奴婢を所有して働かせることもできた。なお蓄財をした奴婢のなかには良民の戸籍を買って身分を変える者も現れた。さらに商業の発展、農業生産力の増大により〈外居〉〈独立〉の奴婢の経済的自由は広まった。それは奴婢から良民への身分変動の加速をもたらし、奴婢制度の崩壊へとつながるものであった。
そして1801年には公奴婢が解放され、1894年には近代改革により賤民制度の全廃に至った。とはいえ富裕階層の家には、聴直【チョンヂギ】(主人の下僕)、床奴【サンノ】(食膳運び)、上直【サンヂギ】(奥方の下女)といった呼称で奴婢の遺制が1920年代の初期まで残っていた。
さて職業的賤民であるが、こちらは奴婢のように人格的自由の拘束は受けないが、就業または世襲している職業に対する社会的賤視に囲まれて、人格的自由の制約を受けた人たちである。その起源は、支配階級の北方異民族流民に対する差別意識と、流民が携わった生業への賤視に発したとする説、古代三国が新羅に統一される過程で、抵抗をした良民集落を特殊行政地域の郷、所、部曲を設けて移し、その住民を準賤民とみなし、なお住民たちが興した手工業の製紙、製糸、製陶および鉱業への賤視に起源するという説がある。
実際には高麗時代に顕在化した楊水尺(水尺、禾尺とも呼ぶ。尺は匠の意。屠獣および柳器製造に携わった人)、才人(芸能人)、津尺(渡し舟のこぎ手)、駅丁といった人びとであった。さらに朝鮮王朝になると、〈心を労する者は治者、労力を使う者は被治者〉といった儒教的社会通念による〈八般私賤〉〈七般公賤〉および良民の最下限の人たちが担わされた〈身良役賤〉といった賤業観が一般化した。
〈八般私賤〉は、白丁【ぺくちょん】(高麗時代の楊水尺)、広大(高麗時代の才人)、鞋匠(履物工)、喪輿軍(葬礼時の人夫)、僧尼、妓生、巫覡および身分的賤民の奴婢を指した。〈七般公賤〉と〈身良役賤〉は役の担い手が公奴婢か良民かの違いであって皁隷(官衙の下僕)、羅将(司法機関の獄吏、拷問担当)、烽軍(軍の通信すなわち烽火の係)、漕軍(海軍の水夫)、水夫(官・衙の水汲人)、日守(時刻を報じる鐘打人)、駅保などで、書物によっては郷吏(地方の下級官吏)、使令(伝令)、官妓を役賤に含めているものもある。この前近代的通念としての賤業観は、まだ人びとの意識のなかに潜在していて、完全に止揚されたとはいえない。