更新日 2017年09月22日
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丙子胡乱(へいしこらん)

丙子胡乱(へいしこらん)とは、1636年 - 1637年に清が李氏朝鮮(朝鮮)に侵入し、朝鮮を制圧した戦いの朝鮮での呼び名である。中国では丙子之役と呼ばれている。朝鮮の呼称にある胡の字は、古来より漢族が北部や西部の異民族への蔑称として用いていたものであり、胡乱は北西部の蛮族(女真)が乱を起こしたという意味になる。

丙子胡乱が起きた原因

丁卯之役與丙子之役戰爭示意圖

17世紀はじめ、中国全土を支配していた明が衰えを見せ、それに変わり後金が台頭してきた。

1627年、後金は反後金親明的な政策をとっていた朝鮮に侵入し(丁卯胡乱)、後金を兄、朝鮮を弟とすることなどを定めた和議を結んだ。

1636年、後金のホンタイジ(皇太極、太宗)は皇帝に即位し、国号を清と改め、朝鮮に対して臣従するよう要求した。しかし朝鮮の朝廷では斥和論(主戦論)が大勢を占めたため、仁祖は要求を拒絶し、清と戦う準備に入った。清は朝鮮が謝罪しなければ攻撃すると脅したが朝鮮はこれを黙殺した。これに激怒したホンタイジは朝鮮侵攻を決意する。

丙子胡乱の経過

1636年12月2日、ホンタイジは自ら10万の兵力を率いて首都盛京(瀋陽)を発ち、9日には鴨緑江を渡って朝鮮に侵入した。義州府尹の林慶業は白馬山城を固めて清軍に備えたが、清軍はこれを避けて漢城に向けて進撃した

1636年12月13日、朝鮮の朝廷は清軍侵入の事実を知った。

1636年12月14日には清軍がすでに開城を通過していた。朝鮮朝廷は急遽漢城と江華島の守備を固め、宗室を江華島に避難させた。14日夜には仁祖も江華島へ逃れようとするが清軍に道をふさがれ、やむなく1万3000人の将兵と共に南漢山城に逃れたが城を包囲される。

40日余りの篭城の末に降伏、和議が結ばれた(三田渡の盟約)。

宗室が清軍のホンタイジに謝罪する

1983年に作られた銅版のレリーフ

1637年1月30日、仁祖は城を出て、漢江南岸の三田渡にある清軍陣営に出向き、清に対する降伏の礼を行わされた。
仁祖は朝鮮王の正服から平民の着る粗末な衣服に着替え、 受降壇の最上段に座るホンタイジに向かって最下壇から三跪九叩頭の礼による臣下の礼を行い、 許しを乞うたという。

仁祖が降伏する光景を描写した石碑の横の銅板は、1983年に作られたもので文化財的な価値はない、という文化財委員会の判断に基づき撤去される。(朝鮮日報2008年6月15日の記事)

三田渡の盟約(さんでんとのめいやく)

三田渡の盟約(さんでんとのめいやく)は、清と李氏朝鮮との間で行われた丙子の役(丙子胡乱)の終戦講和条約である。1637年1月30日に李氏朝鮮の首都漢城の郊外三田渡(現ソウル特別市松坡区蚕室洞)で締結された。
この記念に 『 大清皇帝功徳碑 』 が建てられた。石碑は清国皇帝が建立したのではない。朝鮮王が自ら建立したものである。もちろん建てざるをえない状況に追いこまれたからだが。


大清皇帝功徳碑 朝鮮王が自ら建立したものである。
三田渡の盟約の内容

主な内容

この和議により、李氏朝鮮は清の冊封国となり、清の冊封体制に組み込まれた。

三田渡の盟約で決められた毎年収める貢物

毎年、次の如く貢納するものとする。

Charles Dallet『Histoire L'Eglise de Coree』(邦訳は『朝鮮事情』金容権訳)を参考にしています〕

1895年4月17日に締結された日清戦争後の講和会議である下関条約まで、李氏朝鮮は清の属国であり続けた。
毎年上納される物品の量はその後減らされたものの、三田渡の盟約の大枠は1895年まで守られ続けた。

大清皇帝功徳碑に書かれている内容

『三田渡碑』丙子胡乱で朝鮮が負けた時に、朝鮮王が清国皇帝に9回地面に頭を擦り付けて服従を誓った記念碑です。大韓民国のソウル特別市松坡区三田渡に建立された石碑であり、建立地の名を取った三田渡碑(さんでんとひ)とも呼ばれる。韓国では後述の経緯から「恥辱碑」とも言われる。大韓民国指定史跡第101号である。

前左側にモンゴル文、右側に満洲文、そして裏面に漢文が刻まれている。3つの言語による碑文の内容は完全に同一意味のものではなく、漢文には朝鮮王臣が文を撰じて刻んだことが記されてあり、満洲文では詳細な経緯も記述されている。


前面 左側にモンゴル文、右側に満洲文

裏面 漢文

裏面 漢文の修正

大清崇德元年冬十有二月 寬温仁聖皇帝 以壞和自我 始赫然怒 以武臨之 直擣而東 莫敢有抗者 時我寡君棲于南漢  凛凛若履春冰而待白日者 殆五旬 東南諸道兵 相継崩潰 西北帥逗撓峽内 不能進一歩 城中食且盡 當此之時 以大兵薄城 如霜風之卷秋蘀 爐火燎鴻毛 而皇帝以不殺爲武 惟布德是先 乃降勅諭之曰 來 朕全爾 否 屠之 有若英馬諸大將 承皇命相屬於道 於是 我寡君集文部諸臣謂曰 予托和好于大邦 十年于茲矣 由予惛惑 自速天討 萬姓魚肉 罪在予一人 皇帝猶不忍屠戮之 諭之如此 予曷敢不欽承 以上全我宗社 下保我生靈乎 大臣協贊之 遂從數十騎 詣軍前請罪 皇帝乃優之以禮 拊之以恩 一見而推心腹 錫賚之恩 遍及從臣 禮罷 即還我寡君于都城 立召兵之南下者 振旅而西 撫民勸農 遠近之雉鳥散者 咸復厥居 詎非大幸歟 小邦之獲罪上国久矣 己未之役 都元帥姜弘立 助兵明朝 兵敗被擒 太祖武皇帝 只留弘立等數人 餘悉放回 恩莫大焉 而小邦迷不知悟 丁卯歳 今皇帝命將東征 本国君臣 避入海島 遣使請成 皇帝允之 視爲兄弟国 疆土復完 弘立亦還矣 自茲以往 禮遇不替 冠盖交跡 不幸浮議扇動 搆成亂梯 小邦申飭邊臣 言渉不遜 而其文爲使臣所得 皇帝猶寬貸之 不即加兵 乃先降明旨 諭以師期丁寧反覆 不翅若提耳面命 而終未免焉 則小邦君臣之罪 益無所逃矣 皇帝既以大兵圍南漢 而又命偏師 先陷江都 宮嬪王子曁卿士家小 倶被俘獲 皇帝戒諸將 不得擾害 令從官及内侍看護 既而 大霈恩典 小邦君臣及其被獲眷屬 復歸於舊 霜雪變爲陽春 枯旱轉爲時雨 區宇既亡而復存 宗社已絶而還續 環東十數千里 咸囿於生成之澤 此實古昔簡策所稀覯也 於戯盛哉 漢水上流三田渡之南 即皇帝駐蹕之所也 壇塲在焉 我寡君爰命水部 就壇所增而高大之 又伐石以碑之 垂諸永久 以彰夫皇帝之功之德 直與造化而同流也 豈特我小邦 世世而永賴 抑亦大朝之仁聲武誼無遠不服者 未始不基于茲也 顧搴天地之大 畫日月之明 不足以彷彿其萬一 謹載其大略 銘曰   天降霜露 載蕭載育 惟帝則之 竝布威德 皇帝東征 十萬其師 殷殷轟轟 如虎如豼 西蕃窮髪 曁夫北落 執殳前驅 厥靈赫赫 皇帝孔仁 誕降恩言 十行昭回 既嚴且温 始迷不知 自貽伊慼 帝有明命 如寐之覺 我后祗服 相率而歸 匪惟怛威 惟德之依 皇帝嘉之 澤洽禮優 載色載笑 爰束戈矛 何以錫之 駿馬輕裘 都人士女 乃歌乃謳 我后言旋 皇帝之賜 皇帝班師 活我赤子 哀我蕩析 勸我穡事 金甌依舊 翠壇維新 枯骨再肉 寒荄復春 有石巍然 大江之頭 萬載三韓 皇帝之休    嘉善大夫禮曹叅判兼同知義禁府事 臣呂爾徴 奉敎篆 資憲大夫漢城府判尹 臣呉竣 奉敎書   資憲大夫吏曹判書兼弘文館大提學藝文館大提學知成均館事 臣李景奭 奉敎撰 崇德四年十二月初八日立

大清皇帝功徳碑 和訳

大清崇徳元年、冬一二月、

寛温仁聖皇帝(豊かな恩恵と、神聖で思いやり深い清の大宗)は、朝鮮が紐帯関係を破ったために大いに怒り、武力を行使して、東方(朝鮮) へ進撃した。国内(朝鮮)に入ったら、対抗する者は全くなかった。

我が寡君は南漢山城にあったが、小春日和に氷坂を踏んで、日出づる太陽を待つような憂憂の日を五〇日余り送る間に、各地方の軍隊は相次いで崩壊し、西北にあった軍隊は峡谷にはまって動けず、城内の食糧も尽きた。

もし、大兵をもって城を攻撃されたら、冷たい風によって秋の落ち葉が飛ぶように、あるいは大火が鴨の毛を燃やすように、ひとたまりもない運命にあった。しかし皇帝は、出来るだけ殺生をしないことこそ武勇であり、徳を優先させるという勅命を公布して、諭旨した。

則ち「降伏したら、朕はお前ら(仁祖)を生かすが、抵抗したら全員を虐殺する」と仰せられた。

寡君はやむをえず、文武諸臣を集めて、「私が至らなかったために、自ら天による懲罰を招来し、民百姓を死の間際に追いやった。その罪は、私一人にある。それにも関わらず、皇帝は自重され、屠戮(みな殺し)する事を控えられた。このような有難い論旨に接し、慎みてその意を頂き、宗廟社稷と我が生霊を保全するほかない。」

したがって、数十騎を先頭に立てて、清の軍営前に至り、罪を咎めるように請うた。ところが、 皇帝は礼を持って応対され、恩恵を持って慰労しながら、礼物を下賜された。

礼が終了すると、寡君(仁祖)を都城に帰らせて、軍を撤収し、離散した百姓を慰め、農耕を勧奨した。 人々が古巣に帰れたことは、素晴らしい幸福であった。

我らの小国が大国(清)に大して罪を犯してから久しい。かつて姜弘立(カンホンイブ)が明の救援を行ったところ、敗れて捕虜になった。その時に、太祖武皇帝(ヌルハチ)は弘立ら数名だけを残して、残りの兵士を全員帰国させたが、 その恩義といえば、広大なものであった。

丁卯年(一六二七年)、 現皇帝(清の大宗)が諸将兵に命じて東国(朝鮮)に入ると、朝鮮は使臣を送って和親を請うた。

皇帝は許して兄弟国と見なしてくれたために、この国が無事でいられ、弘立も帰ってきた。

不幸にも(朝鮮の朝廷が)流言を信じて、混乱の原因を作り、辺臣(辺境を守る兵士)をして警戒に当たらせ、大国に尽くすべき礼をわきまえず、その宣戦教書が(清の)使臣の手中に入った。

ところが皇帝は、それでも寛大に扱われ、朝鮮へ使臣を送って、親しく論旨を伝達されたのにもかかわらず、朝鮮がそれを受け付けることを断ったのは、小国君臣の罪を一層重いものとした。

皇帝は大軍を率いて、南漢山城を包囲し、江都(ソウル)をたちまち陥落させ、嬪宮(王の妾達)、王子、大臣などの家族が、皆捕虜となったが、皇帝は諸将に対し、危害を加えないように命じられ、 侍従官員と内侍に眼を配るように求められた。

このように恩恵を施したために、小国の君臣と捕虜であった家族達が、再び以前と同じく、冬が春に代わり、 干魃が雨によって潤うように、その身を安んずる事ができた。

国は滅亡の瀬戸際から救われ、宗廟社職が崩壊から再生した。

こうして東国(朝鮮)の数千里の国土が全て蘇る徳を蒙ったことは、 古代からの書籍にも稀にしか見られないことである。

ああ、何と立派なことか。

三田渡の南側に、皇帝が駐蹕(ちゅうひつ=行幸中にとどまること)された所に、祭壇場がある。我が君は水部(工人)に命じて、祭壇を増築し、石を磨き、碑を立てて、永遠に遺して、皇帝の功徳が、天地調和するのと同じ事であることを顕した。

我々小国は、代々末永く、この徳を仰ぐのみならず、 どのような国であっても、服従しなければならない大国の仁義と、勇猛なる義理が、この根本になっていることを、 深く心に刻むものである。

(後略)・・・・〔堕落の2000年史 崔基鎬より〕

大清皇帝功徳碑 碑文大意(漢文)

大清皇帝功徳碑 評価 (崔基鎬)

崔基鎬は、
「1895年に日本が日清戦争に勝つと、李氏朝鮮は清国の属国としての桎梏をのがれて、独立国となることができた。国号が清国と対等な国として大韓帝国に改められ、第26代の高宗王が、中華圏における中国皇帝の臣下を意味する国王の称号を廃して、はじめて皇帝を称した。
大清皇帝功徳碑は、1895年に、あまりにも恥辱であるとして、川の中に投げ込まれた。もっとも、この碑は韓日併合後に、川底から掘り出されて、史碑として同じ場所に建立された。
1893年には、ソウルの西大門の近くにあった迎恩門が破壊されて、その場所に独立を記念する西洋式の独立門が建立された。迎恩門は、李朝を通じて、明、あるいは清の皇帝の勅使がソウルを訪れたときに、朝鮮国王がそこまで迎え出て、勅使に対して九回叩頭する礼を行なう場所だった。今日、独立門は韓国の史蹟32号に指定されている。
しかし、今日の韓国民のうち、いったい何人が、そこに韓民族にとって、はかりしれない災禍をもたらした象徴である迎恩門が建っていたことを、知っているだろうか。
日本にはその歴史を通じて、大清皇帝功徳碑も迎恩門もなかった。私たちから見ると、何と羨ましいことだろうか。かつて李氏朝鮮は中国への卑屈な服従関係と、不正腐敗を覆い隠す名分として、慕華思想という言葉を用いた。誇りを失った李氏朝鮮の末路は、亡国しかなかった」と評した。〔歴史再検証 日韓併合―韓民族を救った「日帝36年」の真実 (祥伝社黄金文庫)より〕