更新日 2014年08月17日
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李斯朝鮮末期の軍事力
『 韓国併合への道 』呉善花 著

「韓国併合への道 完全版」呉善花著、文春新書、2012年7月発行
12ページより抜粋
朝鮮半島には、日本やヨーロッパのように武人が支配する封建制国家の歴史がない。中国と同じように、古代以来の文人官僚が政治を行なう王朝国家が、延々と近世に至るまで続いたのである。併合の主体となった日本は近代国家であったが、併合されたほうの国家の実質は、近代国家でも封建国家でもない王朝国家だったのである。
李朝国家の政治システムは、中国歴代の制度に由来するもので、頂点に絶対権力者としての王をいただき、その下に文官・武官の両官僚群が合議で政務をとり行う、高麗朝の儒教的な官僚体制を踏襲したものだった。ただ、文治主義と中央集権制が極度に徹底されていた点に大きな特徴があった。
13ページより抜粋
官僚には文官(文班)と武官(武班)があり、合わせて両班(ヤンバン)と呼ばれた。しかし李朝は極端な文治主義をとっており、武官は文官に対してはるかに劣位な状態におかれていた。全軍の指揮権を司る責任機関の長にも、地域方面軍の指揮将官たちにも高級文官が就任し、その他の高位の武官職もことごとく高級文官によって兼任されていた。
14ページより抜粋
科挙ではこのように徹底した成績主義がとられる一方、受験資格には厳しい身分的な制約があり、とくに文科は両班階級の者しか受験できないようになっていた。
14ページより抜粋
両班階級の下には、技術と行政の実務に従事する官僚を中心とする中人階級があり、その下には農・工・商に従事して国家に対する賦役を全面的に負担する常民階級があり、最下層に国家機関や私的な個人に隷属する奴婢としての賤民階級があった。いずれの身分も世襲身分として固定されていた。
18ページより抜粋
朝鮮半島の諸国は古代以来2000年間に、北方諸民族や倭寇による小規模な侵入を含めると、正史に記録されただけでもおよそ1000回の侵略を受けている。とくに高麗時代の蒙古、李朝時代の日本、清による侵略は、それまでに築き上げた朝鮮半島の産業や文化を、繰り返し壊滅に近い状態にまで打ちのめしたといってよい。
18~20ページより抜粋
古代の高句麗・新羅・百済の三国や統一新羅は、いずれも強力な軍事力をもって敵にあたり国の防御を固めた。高麗もまた軍事に力を入れた。契丹の侵略をはねつけ、蒙古軍には敗れはしたものの果敢に戦い、元の力が弱まると次々に攻勢をかけて国内から追い出し、旧国境を回復している。
ところが、李朝国家の軍事力は驚くほど脆弱なものだった。日本の侵略軍はたったの三週間で首都漢城を陥落させ、まるで無人の地を行くかのように進軍して全土を荒廃させた。また、満州族の清もわずか一カ月で半島を制圧して国土を蹂躙した。そして、日本の侵略軍に対しては明国軍の派遣を頼んだし、清には降服したまま手も足も出ず、ゲリラ戦すら展開することができなかった。
すでに述べたように、李朝国家では軍事を司る要職のほとんどが文官によって占められており、武官には事実上政府要人への道が閉ざされていた。そして儒教的な文治主義の立場から、外国との間に生じる諸問題の解決は、可能な限り政治的な外交によって処理することがよしとされ、国土の防衛は宗主国である中国に頼る方向で考える傾向を強めた。
そのため、軍人の間の不満は慢性化していたが、軍事クーデターに対しては徹底した予防措置がとられた。わずかでも不穏な動きがあれば、そのたびに軍人を弾圧し、未然の鎮圧が周到に行われた。
こうした極端な文官独裁の文治主義政治によって軍事が軽視され続けた結果、無残なばかりの軍部弱体化を招来させてしまったのである。
兵役は常民階級に課せられていたが、賄賂による兵役のがれが広がり、また兵農分離がうまく進行しなかった。しかも財政難のために志願兵を集めることもままならず、兵員確保にこと欠く状態が長らく続き、兵力は急速に下降線をたどっていった。そして一九世紀に入った頃には、もはや外国の脅威に対して有効な抵抗をする力をまるでもたず、宗主国の中国に頼るしかない国家となっていたのである。
戦後の韓国に外交官として駐在したことのあるアメリカの朝鮮史家ヘンダーソンは、李朝が近代と触れるようになる1860年前後の政治と社会に触れて、次のように述べている。
「李朝はもはや経済的破産と崩壊の寸前であった。すでに軍事力はほとんどなく、政権の分裂と内紛で行政は麻痺状態となり、慢性的百姓一揆の機運に脅かされていた」(グレゴリー・ヘンダーソン著/鈴木沙雄・大塚喬重訳『朝鮮の政治社会』サイマル出版会)
まさしく衰亡のきわみにあったといってよい。およそ王朝国家というものは、栄枯盛衰の繰り返しのうちに交代を重ねていく。そういうことからいえば、他に有効な権力があれば王朝はいつ倒されてもおかしくない交代の時期にあったといえるだろう。
22~26ページより抜粋
そのように、少しでも中心へ近づこうとする「中央志向の共通性」が社会的リアリティとして確保されている限りは、活気に満ちた社会があり得る。しかしながら、世襲による権威・権力・身分の固定化が進む末期となると、もはや多くの人々にとって中央的な価値は手が届かないものとなり、遠くから羨望するしかないものとなっていく。こうして社会からは急速に活気が消え失せていくのである。そして、中央的な価値に手を触れているわずかな人たちの間で、限られた価値をめぐっての争奪戦が激しく展開されるようになっていく。
このような李朝末期、1860~70年の社会を体験した一人の西洋人は、次のように描写している。
「一般に、政治的活気とか進歩、革命といわれるものは、朝鮮には存在しない。人民は無視され、彼らのいかなる意見も許されない。権力を一手に掌握している貴族階級が人びとに関心を向けるのは、ただ彼らを抑圧してできるだけ多くの富をしぼり取ろうとするときだけである。貴族たちは、いくつかの派閥に分かれ、互いに執拗な憎悪をぶつけ合っている。しかし、彼らの党派は、なんら政治的、行政的原理を異にするものではなく、ただ尊厳だとか、職務上の影響力のみを言い争っている大義名分だけのものである。朝鮮における最近三世紀の期間は、ただ貴族層の血なまぐさい不毛の争いの単調な歴史にしかすぎなかった。」(シャルル・ダレ著/金容権訳『朝鮮事情』東洋文庫・平凡社)
著者のシャルル・ダレは、当時の李朝でキリスト教の布教活動を行っていたフランス人宣教師たちの証言をもとにこの本を書いている。
ここで「貴族階級」と表現されているのは、先に述べた李朝の国家官僚となる資格をもった支配階級、文班(文官)と武班(武官)を総称して両班と呼ばれた者たちのことである。
両班たちの「不毛の争い」が李朝末期にいっそう激しいものとなった第一の理由は、両班人口の増大にある。官職を得られなくても両班身分は世襲されたから、金で両班の地位を買ったり、ニセの資格証を売ったりということが、十数世代も繰り返されてきた結果、あやしげな自称両班が膨大に増加したのである。
京城帝国大学教授だった四方博氏の計算によると、両班人口は1690年には総人口の7.4パーセントだったが、1858年には、なんと48.6パーセントにまで増加しているのである(「李朝人口に関する身分階級別的観察」『京城帝国大学法学部論集・朝鮮経済の研究3』所収)。 人口の半分が支配階級の身分などという国がどこにあっただろうか。
彼らの職分は官僚であり、官僚以外の職につけば両班の資格はなくなる。しかし官職は限られている。というわけで、彼らの多くはなんら働くことなく、ただ官職獲得のための運動を日夜展開した。当然のようにあらゆる不正が蔓延し、両班という身分を利用して庶民から強奪まがいの搾取をすることが日常的に行われたのである。
高級官僚としての両班どうしの争いにも凄まじいものがあった。
彼らはいくつかの派閥のどれかに必ず所属して、派閥間での官職獲得闘争に血道をあげた。その闘争は陰謀と策謀に満ち、互いに血を流し合うまでに至るすさまじいものであった。この闘争が何百年間にもわたって繰り返されてきた。そのため、派閥間、各一族間の敵対関係がほとんど永続化してしまったのである。
ある派閥が政権を握ると、他の派閥はそれに協力して政治を行うことはない。次の政権奪取を狙ってさまざまな手を打つことに終始したのである。彼らにとっては派閥の主張が唯一の政治的正義であって、他派閥は不正義によって政治を行っていると考えた。したがって、派閥を超越して王権を支えるという発想はまったくなかった。そのため李朝にはついに王党派という存在が生まれることがなかった。
「これらの争いは、多くの場合、敗北した党派の指導者の抹殺を期として終焉する。ふつう抹殺の方法は、武力とか暗殺によらず、首尾よく敵対派の官職を剥奪した側がさらに国王を動かして敵に死を宣告させたり、少なくとも無期の流刑に処したりするのである。」(同前書)
しかも、こうした憎悪の関係は父から子へと世襲されたから、果てしない闘争の繰り返しとなるしかなかった。李朝では、先祖が受けた屈辱を子が晴らすことは、子孫にとっては最も大きな道徳的行為だった。
「朝鮮では、父親の仇を討たなかったならば、父子関係が否認され、その子は私生児となり、姓を名乗る権利さえもなくなってしまう。このような不幸は、先祖崇拝だけで成り立っているこの国の宗教の根本を侵すことになる。たとえ父が合法的に殺されたとしても、父の仇あるいはその子を、父と同じ境遇に陥れなければならず、また父が流罪になればその敵を流罪にしてやらねばならない。父が暗殺された場合も、同じ行為が求められる。この場合、犯人はたいてい無罪とされる。なぜなら、この国の宗教的国民的感情が彼に与(くみ)するからである」(同前書)
李氏朝鮮末期の政治は、支配者たちの紛争の明け暮れでまったくの麻痺状態にあった。まともな軍事力はなく、国家財政も社会の経済も破綻し、慢性的な農民一揆が頻発していた。1860年代の李朝の国力は、まさしく衰亡のきわみにまで至り、崩壊寸前にあったのである。
李斯朝鮮 末期の農業・商業および工業
『 日韓併合小史 』山辺健太郎 著

「日韓併合小史」山辺健太郎 著(岩波新書、1966年)
5~6ページより抜粋
農業の生産力はひじょうに低かった。1905年(明治38年)に日本の農商務省の技師が調査した『韓国土地農産調査報告』によると、農業生産力の高い南朝鮮でさえ反当収量は平均9斗で、そのころの日本の反当収量は1石6斗あまりだったから、朝鮮の反当収量は日本の約半分である。
農具も幼稚で鉄を使わない鋤もあった。農業と工業とは分離しておらず、たいていの農家では、生活必需品、つまり糸、布、履物、家具、農具などは、たいてい一家で製造していたのであるが、この自給自足の程度は、徳川時代の日本よりは徹底していたようだ。
農地はせまい共同体のなかで生活し、そこには入会地があって、肥料や燃料に使う草木などは自由に採取して農業に従事していたのである。
製造工業は陶磁器製造がさかんに行われていたが、そのほかの家内工業製品としては綿布があり、奢侈品の製造を官奴婢がやっていた。
要するに日常生活の必需品の大部分は自家生産や家内副業でやっていたので、商品生産はあまりひろく行われていない。したがって商業もあまり発展していなかった。店舗をかまえているのは、ソウルにあった六矣廛(りくいてん)という絹織物、綿布、綿紬、紙、苧布、塩魚をあつかう六つの特権商人がおもなもので、その他は負褓商(ふほしょう)という行商人による行商が行われていた。
やや大衆的消費資材である陶磁器の取引について説明すると、生産された商品は居間(きょかん)という仲買人を通じて、客主(きゃくしゅ)あるいは旅閣(りょかく)という問屋におさめられ、ここからまた居間の手を通じて商廛(しょうてん)という常設店舗や負褓商のもとへとどけられる。負褓商はこれらの商品をふつう市にだし、ここから消費者にわたるようになっていた。
この負褓商は、強固な同業組合をつくり、しばしば政治団体としても活躍したことで有名である。大院君などもこの負褓商をたびたび利用したのであるが、ある場合は隠密のような役割もはたし、情報などもあつめたがそのうごきはたいてい保守的なものであった。
そのほか、経済が自給自足の自然経済だったので市を通じて行われる物々交換がむしろ多かったのだが、この市は全国にわたっており、市と市との距離はだいたい往復一日行程くらいである。