更新日 2014年08月17日
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日韓併合前の政治状況
勢道政治(せいどうせいじ)
国王の委任を受け政権を握った特定の人とその追従勢力により成される政治形態。
元来、『世道政治』というのは「政治は広く社会を教化させ、世の中を正しく治める道理」という士林の統治理念から出た理想的な政治道義を意味していたが、王の信任と委任を受けて政権を握った特定の者とその追従勢力が強大な権勢を握り、専権をほしいままにする不正政治形態を勢道政治という。
『世道』→『勢道』へと変わり、『勢道政治』は朝鮮後期の腐敗した政治を指し示す言葉として多く用いられている。
1801年 第23代の国王、純祖が11才で即位 第21代王の妃の貞純王后が「垂簾政治」
1801年、正祖の後継者として第23代の国王、純祖が11才で即位しました。その在位34年の間、彼は全くロボット的な存在で、第21代の王英祖の妃であった貞純王后”金”氏の「垂簾政治」が行われました。
「垂簾政治」というのは、女性である権力者が簾の内側から王を操る政治のことです。そして、貞純王后の生家である安東金氏一族がほとんどの要職を占め、勢道宰相という世間の悪評をよそに私利私欲を追求していました。
1835年 第24代の国王、憲宗が8才で即位 憲宗の祖母純元王后金氏が「垂簾政治」
1835年になると第23代王純祖が没し、第24代の王憲宗がわずか8才で即位しました。この時も憲宗の祖母にあたる純元王后金氏の垂簾政治が行われ、金一族が要職を占め、その勢力をますます増大させました。
一時期、純元王后は世間の悪評をはばかり、趙寅永を要職に起用したところ、これを機会に豊壌趙氏が次第に勢力を伸ばし、金氏との間で熾烈な暗闘を続けましたが、結局は金氏が勝利を収めたのでした。
1849年 第25代の国王、哲宗が19才で即位 金氏一門による勢道政治が続く
金氏の支配する勢道政治においては、国王は全く飾り物で、例えば、1849年、憲宗が世子を残さず没した時、金氏一門は、江華島に住む王族の徳院君を捜し出して都に迎え、第25代の王哲宗としましたが、この19才の王は、書中の文字もよく理解できなかったという。金氏にとって国王は無能でなければならなかったのです。優れた人物だと、自分達の思うようにできないからです。
権力を握ってからの金氏一族は、常に王族を虐待しました。王族は高位の官職につく道を絶たれ、その多くが都を離れ貧困にさいなまれる日々を送っていた。そして、聡明な王族の人物は、金氏によって排除されていきました。
王族の中で俊英とうたわれた李夏銓は、憲宗没後には次の国王と目されていたほどの人物でしたが、そのために金氏一族から危険視され、”大逆不道罪”の名で処刑してしまったのです。
王族復権を望んでいたイ・ハウン(興宣大院君)
大院君は、幼少のころから父に才能をみこまれ”王族中の傑物”と評されていました。しかし、そうした評価を受けることは、金氏から目をつけられることを意味し、危険でした。そこで、わざと奇怪な行動にでたのです。その行いから、人々は彼を宮乞人(乞食貴公子)と呼びました。
大院君は王室章典に精通しており、それによれば、哲宗没後の王位の継承者の決定権は神貞王后趙大王大妃にあったのです。趙大王大妃は、かつて安東金氏との権力闘争に破れたあの豊壌趙氏の出であり、生家一門をあくどい手段で凋落させた金一門に深い恨みを抱いているはず、と彼は見抜いていました。
イ・ハウンは、まずは趙一門の若き官僚たちを味方につけ、金氏の勢道政治の腐敗を攻撃し、自分の第二子である李命福(当時14才、後の高宗)を最適の王位継承者と納得させ、王室の復権回復を訴えました。
さらに、元老や宮中の女官にとりいり、最後の仕上げとして、なんと金一門の金炳学に近づき、「わが子が王位についたら、あなたの娘を王妃として迎える」と協力を求めたところ、見事に成功しました。
1864年 第26代の国王、高宗が11才で即位 実父の興宣大院君が後見人
1863年、哲宗が急逝し、世子がおらず、王位継承者決定が緊急課題となりましたが、王室章典にしたがって趙大王大后が選定を行うこととなり、命福が指名された。有能な王族を排除することだけに力を注いでいた金一門にとっては寝耳に水の出来事でした。金一門が、大院君の根回しを知ったときには、もう手遅れでした。
金氏一族の没落が決まりました。大院君の執政決定とともに、金氏一族は次々に官職を追われました。例外は、密約を結んだ金炳学しかいませんでした。
【高宗王の実父の大院君】と【高宗王の王妃の閔妃】の権力闘争
【高宗王の実父の大院君】と【高宗王の王妃の閔妃】の権力闘争がおよそ30年間続けられた。
単なる嫁と舅のケンカではない。李氏朝鮮を2分する大派閥同士の権力闘争が繰り返されたのである。
  • 名門の閔氏一族と興宣大院君一族の対立
  • 富国強兵の改革派と既得権益にしがみつく保守派の対立
  • 自立改革が出来ないので、支援を求める外国による対立 親清国派・清ロシア派・親日本派
これらの対立には関係なく、農民・民衆は厳しい税の取立・役人の不正・貧困・飢饉などで苦しんでいた。
権力闘争より先に農民・民衆の生活を改善するべきだが、自らの贅沢な暮らし・復讐の為に国の存続を危うくしている。亡国へと進んでいるのである。
コロンブスの大航海時代から欧米列強の南北アメリカ・アフリカ・中東・中央アジア・東南アジアへの植民地獲得競争が始められた。そして最後の地域である北東アジアを取り巻く環境など一切理解していない。
当時朝鮮半島を訪れた外国人達は、李氏朝鮮が世界で一番貧しく文明が遅れている国と本国に報告し、新聞・雑誌・論文などに発表している。

ジョルジュ・ビゴーによる当時の風刺画(1887年)
日本と清国が互いに釣って捕らえようとしている魚(朝鮮)をロシアも狙っている
1864年に第26代国王の高宗王が年少(11歳)で王位に付き、
後見人として実父の興宣大院君が政治の実権を握る
1864年に第26代国王の高宗王が年少(11歳)で王位に付き、後見人として実父の興宣大院君(略して大院君)が政治の実権を握り、それまでの外戚(安東金氏)による勢道政治で乱れた政治を立て直すため政治改革に努めながら、農民闘争への対応・キリスト教の弾圧・開国を要求する西洋船の撃退・景福宮の再建・書院の整理・両班階級への課税などを行った。
しかし、大院君の政治は、朝鮮の貴族層である両班たちに改革を求めるもので、反感をいだく両班たちがおり、また、大規模な土木工事は民衆の不満をまきおこした。
大院君の政治は極めて排他的なもので、『衛正斥邪』(儒教以外の宗教思想を斥ける)の政策を貫き、フランス人神父9人を処刑し、8000人以上のキリスト教信者を惨殺しています。
『衛正斥邪』は、中華文明を正とし中華文明に従属しない民族を邪とすることも意味し、この考えに基づき大院君は日本国の開国要請を頑なに拒否した。

興宣大院君 1820-1898 大院君とは直系でない国王の実父に与えられる称号である。
1866年3月、丙寅教獄(へいいんきょうごく)
大院君によるフランス人宣教師とキリスト教への大弾圧
1856年、中国ではアロウ号事件に端を発して、同60年には英仏連合軍が北京に侵入し、清の咸豊帝が熱河に逃亡するという事件があった。
1864年にロシアは慶興にあらわれて通商を要求したが大院君は一且これを拒絶した。しかし1866年1月 日本海側の元山にロシアの艦船が通商と朝鮮内地移住権を求めてやってきた。だが、大院君はその要求の対応に苦慮していた。(やがて、ロシア側はその要求条件を固執せずに撤退して行くことになる。)
洪鳳周と南鐘三(両者ともキリスト教徒)は帝政ロシアの南下を防ぐために、キリスト教の自由を保障する事を条件として、フランスに同盟を求めてロシアの強要を斥ける事を大院君に献策した。
大院君はこの献策の返答を伸ばし、密偵張命福を使ってかれらの背後関係を調べ上げ、フランス人宣教師が潜伏している事実をつきとめた。1856年中国でのアロウ号事件のようなフランスによる侵略を阻止する為に、邪教は外敵の走狗であるとの理由でキリスト教の大弾圧を始めた。
パリ外国宣教会から派遣され、朝鮮に潜入して布教に当たっていたシメオン=フランソワ・ベルヌー司教ほか9名のフランス宣教師が拷問の末に虐殺され、その後6年間で、高宗の乳母(朴マルタ)を含んむ8,000名におよぶ信者が虐殺されることになる。

逮捕され、尋問されるベルヌー司祭
李氏朝鮮は19世紀にキリスト教を禁じたが、宣教師は潜入し信者の増加が絶えなかったので何度か弾圧を行っている。
  • 1801年 - 辛酉教獄 : 清国人宣教師周文謨・進士黄嗣永ほか300名あまりを処刑
  • 1839年 - 己亥教獄 : フランス人宣教師ローラン=マリ=ジョゼフ・アンベールほか200名あまりを処刑
  • 1846年 - 丙午教獄 : 金大建ほか20名あまりを処刑
1866年10月、丙寅洋擾(へいいんようじょう) 
丙寅教獄に対するフランスによる報復
1866年6月、助命された宣教師の一人フェリクス・クレール・リデルは朝鮮住民の信徒達に助けられて脱獄し、7月には海路を使って清帝国領内の天津にあるフランス租界地まで逃亡に成功した。そこでクレールはフランス極東軍の指揮官であったピエール=ギュスターヴ・ロゼ海軍少将に助けを求め、ギュスターヴ少将はキリスト教徒への弾圧に加えて「在外フランス人の通告なき処刑は国辱にあたる」として介入を約束した。
北京の駐留代理公使ヘンリ・デ・ベルネットもギュスターヴの行動を支持し、正式に朝鮮王国への軍事行動が決定された。背景には形式上、清国皇帝の封臣である朝鮮国王によるキリスト教や在外フランス人の弾圧を許せば、いずれ天津支配にも影響を与える事が危険視されていた。
ベルネット代理公使はフランス政府(Quai d'Orsay)に何の相談もせず独断で外交権を発動して清帝国の総理各国事務衙門に開戦に関する使者を送り、またピエール=ギュスターヴ・ロゼ少将指揮下のフランス兵600名と仏海軍の極東艦隊に遠征命令を出した。
遠征について、ギュスターヴ少将は以下の様に述べた。
『 彼らは9名のフランス人を処刑した対価として、9000人の死で償う事になるだろう。 』

沿岸部を攻撃するフランス海軍
海軍力と火力での圧倒的に有利なフランス軍は、短期間で江華島を侵略する事が出来た。火力で大きく上回るフランス軍に対し、李氏朝鮮の戦い方は内陸部に誘い込みゲリラ戦で奇襲攻撃を仕掛ける事で対応した。
朝鮮軍は、攻め込むフランス軍に一斉砲撃を加えることにより、フランス軍は戦死者6人を含む60人の死傷者を出した。これによりフランス軍は江華島を撤収した。
この戦いは、韓国史上初の西欧帝国主義の侵略を撃退したという歴史的意義があると拡大解釈しているが、後日、1867年3月に米国政府がゼネラル·シャーマン号事件で辛未洋擾を起こすとき、フランソワ政府との共同報復を提案したが、フランスではすでに朝鮮遠征を通じて報復したため、米国の共同遠征を拒否した。すなわち、フランス政府はこの戦いを成功だと正式に認めたのである。
勝敗は、歴史事実の認識により表と裏の関係で両者とも自らが表側と認識して、両者とも勝利を宣言する事になる。
李氏朝鮮は勝利と考えることにより、自国が植民地獲得競争の標的になっている事を理解する機会を失った。小さな紛争で勝利した事に喜び、国を失う事に向かっている事が気付かなかった。
フランス軍は、撤退した時に外圭章閣図書345冊と銀塊19箱を戦利品として持ち帰った。

2011年5月末までに、フランス国立図書館に残っている外圭章閣図書296冊を韓国に返している
詳しくは中央日報の記事を参照
◆外圭章閣図書=朝鮮王室の外圭章閣に保管されていた1007種5067冊に及ぶ書籍と文書を指す。外圭章閣は1781年(正祖5年)に王室所蔵蔵書と文書を体系的に保管・管理するために江華島に建てられた。丙寅洋擾(1866年)当時にフランス海軍が略奪した後、1975年にフランス国立図書館司書だったパク・ビョンソン氏によって存在が明らかになった。昨年11月のG20首脳会議の際に李明博大統領とサルコジ大統領が、フランスが韓国に外圭章閣図書を5年単位で契約を更新して貸与する形式で返還することに合意した。
1873年11月、反大院君派と改革派に支えられて閔氏政権が成立
閔氏一派が大院君への対抗勢力として台頭することになったきっかけは、閔妃の産んだ子が亡くなり、高宗が宮廷の女官に産ませた子を、大院君が世子(後嗣ぎの王子)に指名したことにあった。これによって閔氏一派は大院君の排斥へと積極的に動き出したのである。
閔氏一派は、大院君の専制的な強圧政治に批判的な見解を持つある有名な儒学者に、その治政を激しく非難させ、それに反大院君派の勢力を同調させていった。やがて大院君の弾圧をこうむっていた両班たちもそれに唱和するようになり、轟々たる大院君非難の声が沸騰していったのである。
そこには、高宗もすでに22歳になっているのだから、父王(注:正確には“王の父”)は政権を退き、国王親政とすべきだ、という理由も付け加えられていた。
大院君が病気と称し引退すると、閔氏一族は国王を動かして大院君派をことごとく退けて、新たに閔氏派の人脈によって政府機関の要職を固めた。大院君の改革は否定され、旧来の貴族層である両班官僚の支配体制による政治が再び行われることとなった。
1876年 日朝修好条約の締結
閔氏政権のもと日本と李氏朝鮮の間で修好条約が結ばれた。改革派官僚を多数抱える閔氏政権は、条約を締結して開国となる速やかに日本へ使節団・留学生視察団などを活発に派遣してきます
朝鮮が清朝の冊封から独立した国家主権を持つ独立国であることを明記されている。
それまで世界とは限定的な国交しか持たなかった朝鮮が、開国する契機となった条約である。その後朝鮮は似たような内容の条約を他の西洋諸国(アメリカ、イギリス、ドイツ、帝政ロシア、フランス)とも同様の条約を締結することとなった。そのため好む好まざるとに関わらず近代の資本主義が席巻する世界に巻き込まれていくことになる。
日朝修好条約の内容
修好条規は12款で構成され、条文は漢文と日本語で書かれた。また両国の外交文書は日本語と朝鮮真文(漢文)で書くこととし、日本側の文書には、先10年間は日本語に漢文を併記する事とした。両国の国名はそれぞれ「大日本国」、「大朝鮮国」と表記することとした
  • 第一款 朝鮮国は自主独立の国であり、日本と同等の権利を有す。従前の例を改め、双方とも安寧を永遠に期す。
  • 第二款 日本は15か月後に使臣を京城に送り、交際の事務を商議することができる。朝鮮は何時にても使臣を東京に送り、交際の事務を商議することができる。
  • 第三款 公用文は、日本は日本文を用いるが今後10年間は漢訳文を添える。朝鮮は朝鮮文を用いる。
  • 第四款 釜山の草梁にある公使館(以前の倭館)は、旧例を改め今回の条約に基づいて貿易する。かつ朝鮮は釜山のほかに2港を開いて通商する。その場所においては、土地を借りて家を建てたり、家を借りることができる。
  • 第五款 新たに開港する2か所の地名を指定し、20か月以内に開港する。
  • 第六款 (嵐や難破の際の取り決め)
  • 第七款 朝鮮沿岸を測量することができる
  • 第八款 開港した3港に日本の管理官を置き、交渉が必要な場合は当地を所管する朝鮮の地方長官と打ち合わせる。
  • 第九款 各自が自由に貿易し、官吏はこれに関与しない。貿易の制限・禁止はしない。犯罪は取り締まる。
  • 第十款 居留地における裁判は、日本人は日本の法により、朝鮮人は朝鮮の法による。
  • 第十一款 別に通商章程を定め、この条約の細則を補うため、6か月以内に京城または江華府において協議する。
  • 第十二款 以上を遵守し、両国の和親を固くする。
日朝修好条約は、不平等な条約なのか!?
韓国の歴史学者や日本人の一部人達が、李氏朝鮮にとって不平等な条約だと非難する事が多い。第九款の無関税の貿易と、第十款の片務的領事裁判権に対する不平等を指摘した意見の事である。
第十款の領事裁判権についてであるが、この条約を結んだ当時の李氏朝鮮では、治安時維持活動の権限(警察権)と司法の権限が、それぞれ独立した権限として確立されてはいなかった。犯罪者の取り締まりが役人の個人的な判断で決まり、裁判の判決がワイロで決まるような状況では、日本人の裁判権を委ねる事は出来ないであろう。両国の国民が同じレベルの警察権・司法権の権利で護られていて、公正な裁判を受ける事ができるのであれば、この条項は必要が無かったのである。実は江戸時代から日本人の犯罪者は日本で裁く事が行われていて、この条約締結時に李氏朝鮮側からは何の異議も出でいない。
第九款の無関税の貿易についても同じことが言える。当時は役職が売り買いされていて、国王が役職を販売して両班がそれを買い取っていたのである。両班が役職を買い取る為に支払った金額を、役職を利用して回収するのは当然だろうし、投資した金額の数倍を回収しようとする事も又当然だろう。この条約で関税を認めた場合には、税率を決めるのは役人であり、それを取り締まるのも役人が行うのである。ここに利権が生じ、役人の不正が商取引の大きな妨げになる事は明白である。だから『各自が自由に貿易し、官吏はこれに関与しない。貿易の制限・禁止はしない。犯罪は取り締まる。』の条文が必要になってくる。日本国・李氏朝鮮の両国に対して同じ条件だから、不平等とは言えない。
日本国側は明治維新からこの条約を結ぶ為に交渉を続けていたが、李氏朝鮮がそれを拒否してきたのである。李氏朝鮮側が有利な条件で条約を結ぶタイミングは幾らでもあったのである。
日本側の武力による強制的な条約締結だと不満の意見が有るが、当時の国際社会では問題にはならないし、不平等条約と訴えて被害者の立場になろうとしても国際社会では通用しない。李氏朝鮮自身が、国家主権の担当者が曖昧で、その担当者には国際社会の変化や将来を予測する事が出来なく、経済的に成長する基盤が無く、自らの国を守る軍事能力が無い事が問題であって、その原因は日本国ではない。
李氏朝鮮の経済が破綻状態なのは、条約が原因ではない。
李氏朝鮮が貿易収支で赤字になった事は、経済破綻の一因ではあるが、大きな要因とは言えない。商人や農産物の生産者・地主には日本人商人と取引を行う自由があるが、日本人商人に売らない自由もあるのである。
李氏朝鮮の国内で米の価格が3倍になったとの記録が残っている。悪徳商人の買い占め、生産者や地主の売り惜しみが原因である。国内消費の余剰分だけをを輸出していればいいのだが、国民生活に必要な米まで輸出してしまっている。結果として、下層階級の貧しい人たちが、マネーゲームの被害者となっている。
通常価格の3倍以上で日本国に輸出したのだから、対価として外貨を獲得できたのである。そのお金で日本国から綿を輸入したのである。その輸入量が多くなり貿易収支が赤字となっている。折角獲得した外貨を生活用品の購入で消費してしまい、外貨を有効に使うことが出来なかった。獲得した外貨を元に次の外貨を生み出す為に投資を行うべきであった。
李氏朝鮮の悲劇は、この時に優秀な指導者や政治家・実業家が居ないことである。それを育ててこなかった事が自ら亡国へと進んでいった原因である。
日本国の明治維新でも同じ現象が起きた。日本国内での金・銀の交換レートと海外で行われている金・銀の交換レートでは大きな差があり、それを利用されて日本国の金が大量に国外に流失してしまった。知識経験が無い事で大きな損失を受けてしまった事例である。しかし、この後が李氏朝鮮と大きく違ってくるのである。
開国したばかりの明治維新の頃は、欧米列強に比べて貧しく輸出する天然資源や工業製品・農産物が無かった。だが絹製品は品質の高いものを生産する事が出来ていた。アメリカやヨーロッパでも絹は生産していたが、当時、蚕に病気が発生してアメリカ・ヨーロッパ両地域とも絹の生産が壊滅状態となっていた。日本国はこの影響がなく品質の良い物を生産する事が出来ていたので、欧米諸国が群がって買い付けに来た。
桑の木を植え、蚕を飼い、繭をとり、生糸を繰り、それを輸出し続けた。明治初期には繊維産業の輸出に占める割合が 50%強にもなり、生糸が輸出の中心的存在であった。その後も長く生糸・絹が輸出品の主力として主要な外貨獲得の手段であり続け、富国強兵の足掛かりとすることが出来た。
その外貨で、多くの『お雇い外国人』を招いて若者の教育を行ない、産業基盤である鉄道・電気・通信・発電所を整え、鉱山・炭鉱開発を行い、軍隊を近代化し、軍艦を揃えて行くことになる。その元種が2寸の蚕である。
日本国には優秀な政治家・実業家・教育者が多く揃っていた。これらの優秀なリーダー達が短期間で欧米諸国に匹敵する国を作り上げたのである。
儒教社会である李氏朝鮮では長い間商人・職人を虐げてきたので、商業や産業を発展させる準備が全く出来ていなかった。海外との貿易が始まっても国を豊かにする事が出来なかった。支配者は私利私欲で無益な権力闘争を繰り返し、国家予算の浪費を続けている。これが経済破綻の大きな原因である。
韓国側は日本が朝鮮を滅ぼしたと主張するが、自ら亡んだのが現実である。日本が併合しなくてもロシアの植民地になっていたことは簡単に予想がつく。仮にロシアの植民地になっていた場合には、多くの事例が示すようにロシアの浄化政策で、朝鮮半島の人たちは中央アジアに強制移住されていたであろう。
1876年 朝鮮修信使が日本に来る(5月22日釜山出発~6月28日釜山に帰国)

朝鮮修信使来朝の図 歌川芳虎筆  多賀甚五郎  明治9年
朝鮮修信使の来日メンバーと人数
来日したメンバーは、
  • 修信使禮曹参議 金 綺秀 正三品
  • 別遣堂上嘉善大夫 玄 昔運 上々官
  • 別遣漢学堂上嘉義大夫 李 容粛 上々官
など上官以上13人、中官49人、下官18人の計80人である。(しかし実際に来日したのは76名。)
朝鮮修信使の日程とルート
朝鮮修信使のルートは、
  • 5月22日 に修信使を乗せて釜山を出発
  • 5月23日 午前8時に馬関(下関)着、上陸して一泊
  • 5月24日 午後4時発
  • 5月25日 夜12時神戸港着
  • 5月26日 朝上陸一泊
  • 5月27日 午前6時神戸港発
  • 5月29日 午前6時過ぎに横浜港着、上陸して横浜停車場へ。10時45分発の汽車に乗って東京新橋停車場に11時43分着、旅館に向かう
李氏朝鮮の要望で迎えの船の2隻を釜山まで迎えに出している。海軍中軍医の島田脩海が乗船し、釜山で待機の9日間に医療行為を行っている。この事は別途ページをつくり説明する。
復路は往路の逆で、6月28日に釜山に帰り着いている。
朝鮮修信使の見学した施設
朝鮮修信使が見学した施設 日本側はどこまでもフルオープンで案内している。
  • 神戸にて人民が祝賀として果物大籠一個を贈る。
  • 神戸では祝賀として市中に一般国旗を飾り、夜には街頭に紅燈を並べて歓迎の意を表す。修信使一行感激する。
  • 東京博物館見物(数回)。
  • 吹上禁園招待。
  • 演芸者を招いて演技を旅館で一覧。
  • 浜離宮見物。
  • 手品師を旅館に招いて演技、信使喜ぶ。
  • 紙幣寮見物。
  • 上野公園、浅草本願寺観音境内にて象の見物。
  • 花屋敷で電気器械などを見物。
  • 牛肉2百斤、鶏百羽、生魚百尾、葱2百把、大根2百把、菜2百把を差し入れ。
  • 日比谷歩兵、騎兵、砲兵の訓練を見物。その時たまたまイギリス・イタリア両公使と面接。
  • 兵学寮で大砲空砲、火矢、水雷、その他兵学教場を見る。
  • 修信使はじめ数名の写真撮影 内田九一写真館。
  • 宗氏別荘に招待。
  • 森山茂宅に招待。
  • 近衛兵営の砲兵本廠見物。
  • 工学寮製作所を見物。
  • 書籍館にて孔子木像を拝す。
  • 女子師範学校見物。
  • 開成高校教場見物。
  • 元老院にて議事堂一覧。
  • 舞楽の馬上打球を見物。
  • 旅館の前を通りかかった角兵衛獅子を招いて見せる。信使喜ぶ。
  • 信使属官が順天堂にて種痘法を学ぶ。(なぜ種痘法を学ぶことになったかは、後述するように日本の軍医の活躍があった。)
  • 大阪造幣局も予定にあったが、修信使急病のため中止になっている。
朝鮮修信使の驚きと感想
朝鮮修信使らは、日本の近代化の進む様子を見て驚愕している。
  • 横浜から新橋まで蒸気機関車が走っているのに驚き、それに乗り、
  • 電気・電信・電話に驚き、
  • 学校や病院がどこにでも有るのに驚き、
  • 近代政治制度を知り教育制度を知り、
  • 身分制度の無い事を知り、
  • 化学技術の導入や発展を知り、
  • 産業の興隆や貿易の振興を知る。
また彼らは当時の国際情勢を日本で初めて知ることになる。
1882年7月23日 壬午事変(じんごじへん) 大院君の陰謀
1882年7月23日に、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(ソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件である。
壬午事変(じんごじへん)の原因
日本国は李氏朝鮮に新式小銃を献納し、近代的な小銃部隊の編成を進めた。李氏朝鮮はこれを受けて旧軍とは別に、新式の編成で新式の装備を有する「別技軍」と名付けた部隊を作り、日本の軍人を教官(堀本禮造陸軍工兵少尉)の指導の元に西洋式の訓練を行ったり日本に留学させたりと、努力を続けていた。
開化派は軍の近代化を目指していたため、当然武器や用具等も新式が支給され、隊員も両班の子弟が中心だったことから、守旧派と待遇が違うのは当然だったが、守旧派の軍隊は開化派の軍隊との待遇が違うことに不満があった。
当時朝鮮では財政難で軍隊への、当時は米で支払われていた給料(俸給米)の支給が13ヶ月も遅れていた。そして1882年7月23日にやっと支払われた俸給米の中には、支給に当たった倉庫係が砂で水増しして、残りを着服しようとした為砂などが入っていた。これに激怒した守旧派の兵士達は倉庫係を暴行した後、倉庫に監禁した。(守旧派軍部も堕落していて、民間人から略奪を行い食料を確保していたとの報告がある。13ヶ月の間食事をしないでいられる訳がない。)
氾濫が起きる要因は、財政難・飢饉・権力闘争などが大きな原因となっているが、直接の切欠は役人の不正である。給料(俸給米)の不正転売で蓄財をしていた汚職官僚が引き金を引いたことになる。
財政難は、只でさえ少ない国家予算を閔妃は自分の息子(李君邦)を世子にする為に、清国に賄賂として銀2万両(他の説では20万両)を送り、自分の息子(李君邦)の長寿祈願祭に莫大な金額(銀1200万両参考値)の浪費をしたためである。当時の国家予算は80~100万両とされている。壬午事変の前年の1881年は飢饉で多くの餓死者が出ている。飢饉救済の為に予算を使うべきであるが、君主の妃の浪費が亡国へと導いている。
いったんこの暴動は収まったが、その後、暴行の首魁が捕縛され処刑されることとなった。そのため、再度兵士らが暴動を起こした。
これは、反乱に乗じて閔妃などの政敵を一掃、政権を再び奪取しようとする前政権担当者で守旧派筆頭である大院君の陰謀であった。

別技軍兵士 撮影年代不明。
明治14年中に朝鮮政府が日本から兵器類を購入した中に「二号定式胴乱帯革共・・百組、スナイトル銃負革・・百條(朝鮮政府ヘ送付兵器代払捨ノ件)」などとあるから、装備する銃はスナイドル銃であり、腰には二号定式胴乱(革製の入れ物、銃弾などを入れる)をしていることになる。
なお、この軍服装は通常軍も同様となり、後の日清戦争開戦翌年の明治28年(1895)に新官制服となるまで続く。
壬午事変(じんごじへん)発生時の漢城の状況
反乱を起こした兵士等の不満の矛先は日本人にも向けられ、貧民や浮浪者も加わった暴徒は別技軍の軍事教官であった堀本少尉や漢城在住の日本人語学生等にも危害を加えた。また王宮たる昌徳宮に難を逃れていた閔妃の実の甥で別技軍教練所長だった閔泳翊は重傷を負い、閔妃一族を中心とした開化派高官達の屋敷も暴徒の襲撃を受け、閔謙鎬や閔台鎬、閔昌植など多数が虐殺された。
壬午事変(じんごじへん)日本公使館員の脱出行
以下の記述は公使館駐留武官だった水野大尉の報告を基にしている。
朝鮮政府から旧軍反乱の連絡を受けた日本公使館は乱から逃れてくる在留日本人に保護を与えながら、自衛を呼びかける朝鮮政府に対して公使館護衛を強く要請した。しかし混乱する朝鮮政府に公使館を護衛する余裕は無く、暴徒の襲撃を受けた日本公使館は已む無く自ら応戦することになった。
当日はなんとか自衛でしのいだ公使館員一行だったが、暴徒による放火によって公使館は窮地に陥っていた。朝鮮政府が護衛の兵を差し向けて来る気配は無く、また公使館を囲む暴徒も数を増しつつあったので、弁理公使の花房義質は公使館の放棄を決断。避難先を京畿観察使(首都治安担当者)の陣営と定めて花房公使以下28名は夜間に公使館を脱出した。
負傷者を出しながらも無事京畿観察使の陣営に至ることに成功したが、陣営内は既に暴徒によって占領されており、京畿観察使金輔鉉は既に殺害された後だった。公使館一行は次いで王宮へ向かおうとするが南大門は固く閉じられていて開かない。ついには漢城脱出を決意し、漢江を渡って仁川府に保護を求めた。仁川府使は快く彼らを保護したが、夜半過ぎに公使一行の休憩所が襲撃される。襲撃した暴徒の中には仁川府の兵士も混ざっており、公使一行は仁川府を脱出、暴徒の追撃を受け多数の死傷者を出しながら済物浦から小舟で脱出した。その後、海上を漂流しているところを英国の測量船フライングフィッシュに保護された一行は長崎へと帰還することになる。
壬午事変(じんごじへん)清国の対応(日本国側の対応より早かった)
事変を察知した閔妃はいち早く王宮を脱出し、当時朝鮮に駐屯していた清国の袁世凱の力を借り窮地を脱した。
事変を煽動した大院君側は、閔妃を捕り逃がしたものの、高宗から政権を譲り受け、企みは成功したかに見えた。
しかし、反乱鎮圧と日本公使護衛を名目に派遣された清国軍が漢城に駐留し、鎮圧活動を行った上で乱の首謀者と目される大院君を軟禁。これによって政権は閔妃一族に戻り、事変は終息した。以後、朝鮮の内政・外交は清国の代理人たる袁世凱の手に握られることになった。 大院君は清に連行され査問会にかけられ、天津に幽閉された。大院君の幽閉は3年間続き、帰国は駐箚朝鮮総理交渉通商事宜の袁世凱と共とだった。
壬午事変(じんごじへん)日本国の対応(清国側より遅れた)
事変によって多数の日本人が殺傷された日本政府は花房公使を全権委員として、高島鞆之助陸軍少将及び仁礼景範海軍少将の指揮する、軍艦5隻、歩兵第11連隊の1個歩兵大隊及び海軍陸戦隊を伴わせ、朝鮮に派遣する。
日本側は当初、朝鮮政府による謝罪と遺族への扶助料、犯人の処罰、巨済島または鬱陵島の割譲を要求したが、清国軍とアメリカの軍艦派遣による牽制のため、領土の割譲は諦め交渉を終え日本と朝鮮は済物浦条約を結び、日本軍による日本公使館の警備を約束し、日本は朝鮮に軍隊を置くことになった。
このことは、朝鮮は清の冊封国であるという姿勢の清を牽制する意味もあった。こうして、朝鮮半島で対峙した日清両軍の軍事衝突を避けることができたが、朝鮮への影響力を確保したい日本と、冊封体制を維持したい清との対立が高まることになり、やがてこの対立が日清戦争へと結びつくことになる。
殺害された日本人のうち公使館員等で朝鮮人兇徒によって殺害された以下の日本人男性は、軍人であると否とにかかわらず、17人が戦没者に準じて靖国神社に合祀されている。
壬午事変(じんごじへん)軍乱に対する処罰
大院君は清に連行され、李鴻章による査問会の後、天津に幽閉された(1882年8月)。
「大逆不道罪」で、官吏である鄭顕徳・趙妥夏・許焜・張順吉、儒学者の白楽寛、金長孫・鄭義吉・姜命俊・洪千石・柳朴葛・許民同・尹尚龍・鄭双吉は凌遅刑により処刑され、遺体は3日間曝された。なお、その家族一族郎党も斬首刑となった(1882年10月)。
凌遅刑とは、、清の時代まで中国で行われた処刑の方法のひとつ。生身の人間の肉を少しずつ切り落とし、長時間苦痛を与えたうえで死に至らす刑。歴代中国王朝が科した刑罰の中でも最も重い刑とされ、反乱の首謀者などに科された。
1884年12月4日 甲申政変(こうしんせいへん)
当時の李氏朝鮮は、壬午事変(1882年)で興宣大院君が清へ連れ去られており、閔妃をはじめとする閔氏一族は、親日派政策から清への事大政策へと方向転換していた。
清国は新たに李氏朝鮮と不平等条約を結び、外交顧問を派遣し実質的な外交権を握り、それまでの宗主国支配に加えて、近代的な帝国主義支配を行うようになっていた。この時の駐留軍司令官が袁世凱である。
甲申政変(こうしんせいへん)の概容

金 玉均(1851年2月23日 - 1894年3月28日)は、李氏朝鮮後期の政治家。李朝時代後期の開明派として知られる。
清国の新たな李氏朝鮮の支配がはじまり、閔氏一族は清国の支配下のもとで改化を進めなくてはならなくなった。
このままでは朝鮮の近代化はおぼつかないと感じた金玉均・朴泳孝・徐載弼らの開化派(独立党)人士らは、日本と同じような君主を頂点とする近代立憲君主制国家の樹立を目指し、国王高宗のいわば「一本釣り」を計画した。外戚の閔氏一族や清国に実権を握られ何一つ思い通りにいかない【高宗】は、この近代化政策の実行を快諾した。
こうして日本の協力を得ながら朝鮮の独立を図ろうとする[独立開化派]と、清国に事えながら開化を進める[事大政策の守旧派]の対立が起こる。
金玉均らが計画したクーデター案は、1884年12月4日に開催が予定されていた「郵征局」の開庁祝賀パーティーの際、会場から少し離れたところに放火を行い、その後、混乱の中で高官を倒し守旧派を一掃。朝鮮国王はクーデター発生を名目に日本に保護を依頼。日本は公使館警備用の軍を派遣して朝鮮国王を保護し、その後開化派が新政権を発足させ、朝鮮国王をトップとする立憲君主制国家をうちたてて、日本の助力のもとに近代国家への道を突き進む、というものだった。
竹添進一郎在朝鮮公使など日本側の協力のもと、放火は失敗するものの概ね計画は順調に進み、閔泳翊ら閔氏一族を殺害、開化派が新政府樹立を宣言した。そして首謀者の金玉均は、首相にあたる「領議政」に大院君の親戚の一人の李載元、副首相に朴泳孝、自らを大蔵大臣のポストに置く事を表明した。そして、新内閣は国王の稟議を経て、その日の内に、
  • 国王は今後殿下ではなく、皇帝陛下として独立国の君主として振る舞う事。
  • 清国に対して朝貢の礼を廃止する事。
  • 内閣を廃し、税制を改め、宦官の制を廃する事。
  • 宮内省を新設して、王室内の行事に透明性を持たせる事。
等、14項目の革新政策を発表し、旧弊一新の改革を実現させようとした。
しかしながら、閔妃は清国に密使を送り、国王と閔妃の救出を要請した。袁世凱率いる清軍1500人が王宮を守る日本軍150人に攻め寄り、銃撃戦となった。結局竹添進一郎日本公使は、日本公使館に火を放って長崎へ敗走し、クーデター派は敗退。日本公使館に逃げ込まなかった日本人居留民、特に婦女子30余名は清兵に陵辱され虐殺された。その有様は通州事件に似ていたという。
親清派の守旧派が臨時政権を樹立。開化派による新政権はわずか3日で崩壊し、計画の中心人物だった金玉均らは日本へ亡命することとなった。残った開化派人士、及び亡命者も含めた彼らの家族らも概ね三親等までの近親者が残忍な方法で処刑された。
金玉均は日本各地を転々とした後に上海に渡り、1884年の甲申政変の10年後である1894年(明治27年)3月28日に上海のホテルで刺客洪鐘宇(ホン・ジョンウ)に暗殺される。その遺体は清国軍艦咸靖号で本国朝鮮に運ばれた後に、死体に対し凌遅刑を行ない、五体を引き裂かれたのち朝鮮各地に分割して晒された。

1894年4月14日 漢城(ソウル)郊外の楊花津でさらされた金玉均の遺体
甲申政変(こうしんせいへん)の影響

天津条約 清国側全権・李鴻章
この後、朝鮮に拘泥するのは双方の為にならないと考えた日本と清国の間で1885(明治18)年4月(時憲暦光緒11年3月)天津条約が結ばれ、双方とも軍事顧問の派遣中止、軍隊駐留の禁止、止むを得ず朝鮮に派兵する場合の事前通告義務などを取り決めた。
天津条約は、日本側全権・伊藤博文と、清国側全権・李鴻章で交わされている。
これから10年後、この事前通告に基づき清に続いて日本が朝鮮に派兵し、日清戦争の火蓋が切られることとなる。
金玉均ら開化派を支え続けてきた福澤諭吉らであったが、この事件で朝鮮・中国に対していわば匙を投げてしまうこととなる。とりわけ開化派人士や、幼児等も含むその近親者への残酷な処刑は福澤らに激しい失望感を呼び起こし、福澤が主宰する『時事新報』は1885年(明治18年)2月23日と2月26日の社説に「朝鮮独立党の処刑」を掲載した。さらに、天津条約締結の前月の3月16日に社説「脱亜論」を掲載し、8月13日には社説「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」を掲載するに至った。また、この事件で日本軍の軍事的劣勢もはっきりしたが、この時の経験が後の日清戦争に役立った。

『時事新報』3月16日に社説「脱亜論
脱亜論が掲載された時事新報。当時の新聞が慶応義塾図書館に保存されている
『時事新報』3月16日に社説 脱亜論の現代文はこちらです。
1885年(明治18年)には朝鮮の改革を実力行使で行おうとする大阪事件が起こった。
清国は弱国日本と侮るようになり、1886年(明治19年)8月には長崎事件が起こった。
天津条約に調印したのは、伊藤博文と李鴻章であったが、この二人は日清戦争の後、下関条約の調印の場で11年ぶりに再び顔を合わせることとなる。皮肉にも、この時、勝者と敗者の立場は入れ替わっていた。
1894年12月4日 甲午農民武装蜂起
当時の李氏朝鮮は、壬午事変(1882年)で興宣大院君が清へ連れ去られており、閔妃をはじめとする閔氏一族は、親日派政策から清への事大政策へと方向転換していた。