更新日 2014年08月17日
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日韓併合前 公共施設の発達 道路
日韓併合前の朝鮮の交通事情 道路

撮影年・場所不明
清国の国を代表しての使節団ではないでしょうか。左側の黒い旗は龍が描かれています。頭髪が清国風です。
ランクは不明ですが国の代表者が通る様な道路ではありませんね。

1890年 漢城府の彰義門 (北門・紫霞門とも呼ばれています)
横方向に傾斜がある。人・牛・馬は通れるが、車輪の付いた人力車・馬車・牛車等は通行できない。

撮影年不明 平壌城の北門で北斗七星の方向に建つ
平譲の門の一つでさえ、道幅は1m位で、人がすれ違う程度の幅

撮影年不明 大同江の畔の路
朝鮮半島北西部を流れる朝鮮半島第5の大河である。下流に平壌城が広がる。道幅は1m位で、人がすれ違う程度の幅

撮影年・場所不明 
写真の画質が良いのでそれほど古くないでしょうね。
日韓併合前の朝鮮半島での車輪の発達

撮影年・場所不明 両班が乗る一輪車
 1910年日韓併合前に車両が写っている写真はこの乗物の写真だけです。
ここからは私(管理人)の感想です。
人が乗物に乗るのは、早く移動できる・楽に移動できる・権力を誇示できるからでしょうね。
車軸と乗物の重心(人が乗っている場合)が離れすぎていて不安定です。前後は3メートル位の棒で支えていますから、前後に倒れる事は無いでしょう。横幅は2本の棒の間隔が人の肩幅しかないので、人が乗って重心が高い場合は横揺れや転倒の可能性が大きいでしょうね。
車輪の幅が狭いですね。車輪の左側に細い線が出来ています。これが車輪の移動した跡です。地面が柔らかいと刺さってしまいますね。車輪が小さいので地面の凹凸による振動は可也伝わるでしょう。
乗り降りはどうやってするのでしょうね。乗り心地は振動や横揺れなどで疲れるでしょうね。速く移動すればそれだけ危険が増します。
車輪を外し重心を低くして、幅を広げ前後をそれぞれ2人づつにして横並びにすれば安定して、乗っていても座っているだけでいいので楽でしょうね。車輪が付いている意味が理解できない写真です。結局は権力を誇示するための乗物なのでしょうね。
中国にこの車輪を利用した2輪車・4輪車が有るのではないでしょうか?朝鮮半島に伝わった時に車輪を1個づつに個別にして作ったのではないでしょうか。
1910年頃の世界の交通事情 道路
1880年 アメリカの馬車と道路

1880年 アメリカ マンチェスター州ニューハンプシャー市で撮影された。
自動車が出来るまでは馬車が移動手段の主流でした。
道路の路面状況は馬車の通行を考慮して整地されています。幅も馬車同士が擦違える余裕が十分あります。
車道と歩道が区別されて、都市計画に基づいて開発が行われている事が解ります。
1897年 イギリスの馬車と道路


1897年6月22日 英国 ビクトリア女王のダイヤモンドジュビリー。
ビクトリア女王の女王在位60年を記念した馬車(8頭立)によるパレードです。
当時はイギリスが世界の第一等国である。李氏朝鮮との国力・伝統・民度の違いが表れている写真です。
1876年 日本の乗合馬車
越谷で乗合馬車が始まったのは1876年(明治9年)8月からです。東京の千里軒から宇都宮までの長距離運行が始まり、浅草広小路から越谷までは一人49銭と高額だった。1里7銭の割合です。明治20年頃白米10キロで10銭でした。

大日本道中記大全 東京ヨリ宇都宮迄乗合馬車並荷物賃金 東京・求古堂 明治16年(1883)10月

東京景色写真版 明治26年(1893)刊 眼鏡橋乗合馬車停車場 眼鏡橋は現在の万世橋付近
写真と越谷乗合馬車とは関係ありません。

1896年(明治29年)発行 写真:生野銀山町物語P213 中央公民館 但馬開発推進協 議会 生野同友会
馬力(ばりき)という運搬車。ゴムタイヤになる前ですね。
1870年 日本の人力車

人力車に乗られるロシア皇太子殿下 1891年ロシア国立図書館所蔵
日本の交通文化の特異である人力車が発明され、その営業願が東京府役所に届けられた最初の記録が、1870年(明治3年)3月17日でありました。
発明者は当時東京箔屋町在住の和泉要助という人で、横浜で西洋人の馬車にヒントを得て、荷車に腰掛を附けた人力車を考案してみたのに始まり、次第に改良をほどこし、間もなく3月22日に営業が許可されています。
車の種類は一人曳一人乗、または合乗り、二人曳四人乗りなどがありましたが、四人乗りは間もなく廃れてしまい、他の一人乗りと合乗りの人力車がたちまち辻侍駕籠(かご)を圧倒して盛んに流行し出したのでした。
駕籠よりも楽に乗れて早い、そして賃金も安い、という三拍子揃っているのだから、気の利いた駕籠屋は人力曳きに転向する、さもなくば失業する外はありません。
もっとも初期の人力車は鉄輪の車にバネの仕掛けも無かったので、ガラガラと大きな音を立て、石ころ道なぞにかかると、乗っているお客も楽では無かったが、明治5,6年頃から全国の町々に拡がり中国まで輸出されるという盛況であり、明治9年には東京府下で2万台を超えるにいたります。
1870年 日本の大八車

製造年不明 撮影年場所不明
車輪の歴史
カンボジア 12世紀に作られたバイヨンの壁画

12世紀に作られたバイヨンの壁画。象や大八車で荷物を運んでいる様子。
写真の参照先は、こちらです。
バイヨン (Bayon) は、カンボジアのアンコール遺跡を形成するヒンドゥー・仏教混交の寺院跡。アンコール・トムの中央付近にある。
アンコール王朝の中興の祖と言われるジャヤーヴァルマン7世がチャンパに対する戦勝を記念して12世紀末ごろから造成に着手したと考えられており、石の積み方や材質が違うことなどから、多くの王によって徐々に建設されていったものであると推測されている。
トルコのカマン・カレホユック遺跡 紀元前19世紀頃 世界最古の鉄製品が出た

紀元前19世紀頃 トルコのカマン・カレホユック遺跡(戦車で戦うヒッタイト戦士)(アンカラ考古学博物館蔵)
写真の参照先は、こちらです。

『朝日新聞』2010年8月7日付朝刊
カマン・カレホユック遺跡からの鍛鉄の出土を見て、その地層の判定から前19世紀のものと断定されて、鉄器でオリエントを席巻したヒッタイトが先住アッシリア人から鉄器の製法を継承したものされる、という説が有力と成っている。
エジプト アブ・シンベル神殿にあるカデシュの戦いでのラムセス2世

カデシュの戦いは、紀元前1274年にシリアのオロンテス川一帯で起きた、古代エジプトとヒッタイトの戦いである。史上初の公式な軍事記録に残された戦いであり、成文化された平和条約が取り交わされた史上初となる戦いであるともいわれている。
写真の参照先は、こちらです。
中国 西安の兵馬俑博物 秦の始皇帝(紀元前259年~紀元前210年)の乗っていた馬車

1974年 中国の西安で秦の始皇帝の陵墓が発見された。その中に有った始皇帝が巡行に使っていた馬車の復元です。
日本 最古の車輪 7世紀後半に完成度の高い車輪が有った

奈良県桜井市の磐余(いわれ)遺跡群で、木製の車輪の一部が出土し、同市教委が(平成13年12月)四日、発表した。同じ場所で出土した土器から飛鳥時代後半(七世紀半)で日本最古のものとみられる。
写真の参照先は、こちらです。

見つかった車輪はアカガシ材で一部は摩耗しており、実際に使われていたとみられる。ともに出土した土器から飛鳥時代後半と判断されたが、奈良文化財研究所考古第一調査室の井上和人室長(考古学)は「木製車輪の構造がこの時代に完成していたことを物語っている。今まで判明していなかった車輪や、古代の輸送手段の歴史がうかがえる。今後の調査が期待される」と話す。
写真の参照先は、こちらです。
朝鮮半島で車輪が普及しなかった訳
人間が進化してくる過程で多くの物を発見・発明してきた。
道具として石・木・骨・紐・織物・土器・弓・車輪・紙・鉄・ガラス・ゴム・金属など、
暖房・調理・動力として風・火・水・動植物油・火薬・石炭・水蒸気・電気・ガス・石油・原子力など、
文化としてことば・文字・手紙・電報・電話・ラジオ・テレビ・インターネットなど、
移動手段として徒歩・動物に乗る・車両・帆船・蒸気機関車・蒸気船・電車・自動車・飛行機・ロケットなど、
それらの多くが戦いの道具に使われてきた。
ここで車輪の出現は文明の進歩となった。地球上でいくつも文明が生まれてきたが、車輪の発明が文明を大きく栄えるきっかけとなったのは事実である。但し中南米の文明では車輪が使われた痕跡が出ていない。
朝鮮半島で車輪が発明できなくても、中国と日本には高度な車輪が存在していました。中国から文字や稲作が伝わって来ているのですから車輪も伝わっているはずです。日本の前方後円墳が朝鮮半島に存在していますから、日本からも車輪は伝わっていると思います。
なぜ朝鮮半島には、車輪を使った乗物や荷物を運ぶ台車が普及しなかったのでしょうか??
ここから先は、学者さんにお任せしますが、私なりの仮説を書いてみます。
朝鮮半島での身分制度は世界の歴史の中でも極めて厳しい身分制度だったと思います。支配する貴族階級にとって自ら使うには便利な乗物になります。だが支配される奴隷階層が車両を使うと、早く移動できて大量に運べる様になり反乱や革命の可能性が高まります。支配者の都合で文明の進化を留めた事が、車輪を使う車両が普及できなかった原因だと思います。これらの事情で制限を掛けた政策は世界中でみられる事です。
車両が擦違う事が出来る道幅にし平たんにするには費用が掛かるが、李氏朝鮮の歴代の王様は庶民の生活には全く興味を示さなかった。インフラ整備には予算を使うような様子は全く見受けられていない。
人口構成での奴隷の割合が多いのが、李氏朝鮮の特徴である。経済状況も停滞していて、奴隷が背負子で運べば物流は間に合っていたのです。
仮定の話ですが、奴隷制度が無くなり平民として自由があり納税の義務があれば、商業・文化が成熟しインフラ整備を要求してくるでしょう。要するに社会の在り方が間違っているのです。朝鮮半島は李氏朝鮮時代の500年間発展が止まっていたのです。
健全な社会でも政治的理由で制限を掛けることはあります。制限を掛けた事項は発達が止まってしまうが、それに代わる事項が大きく発達する事はよく見受ける現象です。日本の徳川幕府は車両を規制しましたが、その代わりに海運業が大きく発達しました。