更新日 2014年08月17日
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日本の『華族』となった朝鮮貴族
大韓民国皇室の処遇が、日韓併合の争点となった
日韓併合の歴史的背景や日韓での認識の違いについては別途詳しく記とする事にする。
ここでは大韓民国の皇室の処遇について調べて見よう。
日本側の交渉担当は第三代統監の寺内正毅で、大韓民国側は首相の李完用であった。
日本側の日韓併合の目的は、朝鮮半島がロシアと中国の支配下になる前に日本国が国防の為に、国際社会に平和裏に併合を認められることである。大韓民国の目的を私(当サイト管理人)が記とする事は出来ないが、私の印象では国民の生活や国際社会での評価は意識していなかった事はわかる。大韓民国の皇室の優遇と地位の確保が最重要に交渉を進められた様に感じられる。
欧米の帝国国家がアジア・アフリカの国王に対する処遇
フランスがマダガスカルへの処遇
アフリカ大陸の西にある島マダガスカルには、中央の山岳地帯にインドネシア系のメリナ人が、沿岸部にはアフリカから連れてこられた奴隷やアラブ系の民族が住んでいました。19世紀にメリナ人による統一王国が成立し、、奴隷貿易の廃止や学校の設立、西欧的に訓練された軍隊の設立など、近代化が進められていきました。しかし、この近代化は、国王の意向に左右され、国王が代替わりするごとに、西欧化と西欧敵視政策の間を揺れ動いていきました。。
リナ王国の弱体化につけ込み、イギリスとフランスがマダガスカルの植民地化を狙いました。先んじたのはフランスで、1883年に、マダガスカルの一部を占領しました。行政改革を進めようとしていた女王ラナヴァルナ2世はその年に亡くなり、彼女の従妹がラナヴァルナ3世(下写真)として即位します。彼女は、イギリスやアメリカ合衆国と貿易や外交関係を強化することでフランスの支配に抵抗しようとしますが、1895年にフランスは王宮を占領し、彼女は退位させられ、アルジェに追放されました。

マダガスカルの王国 最後の女王ラナヴァルナ3世

1895年 マダガスカルに侵攻するフランス軍

1897年に女王ラナヴァルナ3世がレユニオン島に流され、メリナ王国は滅びた。
メナランバ(Menalamba)の反乱 [フランスによる植民地支配への抵抗]
もともと東南アジア起源のメリナ人は、マダガスカルの総人口の約30パーセントを占めている。彼らは後にメリナ王国になる中央集権的なアンドリアナ王国を建てた。
19世紀の初めにイギリスはメリナ王国と条約を結び、当時の王ラダマ一世を「マダガスカル王」に仕立てた。これに対してフランスが異議を唱えたが、1862年に王ラダマ二世を承認した。
ラダマ二世の謀殺が起きると、フランスはこの機をとらえて、植民地膨張政策に転じた。パリの国民議会でマダガスカル併合が叫ばれ、こうして1882年、フランス艦隊が島に向けて砲撃を開始、フランス・メリナ戦争が起きる。
1885年、和睦が成立、フランスはいくつかの利権を獲得した。この和睦条約では「保護領」という用語は一切使われていなかったが、フランスはこれによって保護領を獲得したものと考えていた。
1894年、王国の危機に乗じて、フランスは正式の保護領計画を提示したが、宰相ライニライアリブニはこの提案を拒否、フランスはただちに開戦を決め、翌年にはライニライアリブニを、島外へ追放し、事実上、王国を解体した。
マダガスカルでは1820年頃からキリスト教伝道が始まり、1869年にはキリスト教が国教として定められた。数千人単位で改宗が行われるなど、従来の価値や規範を衰退させ、古来の位階制を崩壊させ、従来の社会機構や政治機構の弱体化を誘発した。1896年のメナランバの反乱として知られる中央高知での武装抵抗は、キリスト教・西欧文化を拒否し、伝統への復帰を主張した。