更新日 2014年08月17日
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賤民(チョンミン)の身分
李氏朝鮮の奴隷制度
李氏朝鮮は奴隷制国家であり、16世紀末辺りから徐々に奴隷制度が崩壊し始めていたが、それでも19世紀末まで奴隷制を堅持した。奴婢には大きく、
  • 官奴婢 国の所有物
  • 私奴婢 個人の所有物
が居る。
官奴婢は1801年頃崩壊し、私奴婢は甲午改革(1894年)まで残った。それらは、地主や両班の小作人や使用人として組み込まれており、制度としては消滅したものの事実上残っていた。
また、その居住形態で3つに分ける事が出来る。
  • 率居奴婢 主人の家に住み、主に雑用などをこなす。
  • 外居奴婢 主人の家の外に住み、主に国や主人の土地の土地を耕作する。一種の農奴。
  • 独立奴婢 身分上は奴婢であるが、名目上の主人を持つが、経済的には完全に独立した奴婢。こうした奴婢は自ら奴婢を持つことができ地主になっている事もあった。
実は奴婢制度崩壊の最初の要因は、秀吉の朝鮮出兵と清の二度の出兵である。これにより朝鮮の国庫は破綻し、銭を収める事で身分解放する制度を導入した。
要するに奴婢でも金さえ持っていれば常民、両班になれた。官奴の場合、徴税を行う場合もあるので農民から税金をくすねれば相当の金品がため込められたと考えられる。従って、下手な農民より奴婢の方が富んでいると言う矛盾が生じていた。
また、朝鮮が焦土戦術を取ったために、戦乱後、人口が激減し、労働力が枯渇したために奴婢を優遇しなければ為らなくなったと言う点である。ちょうどヨーロッパでペストにより人口が激減したために農奴の経済力が向上し、農奴解放につながったのと似ている状況である。
もう一つは片親が奴婢であればその子は自動的に奴婢になると言う制度の矛盾である。両班が奴婢に産ませた息子でも管理上は奴婢になる。ところが、この奴婢は両班の財産をある程度受け継いだので、地主奴婢と言うべきものが産まれ、その奴婢が奴婢を使役すると言う矛盾が生じていた訳である。常民には軍役かその代わりになる軍布の義務があったから、不都合がなければあえて金を払って身分を買い重税に苦しむ常民になるメリットは無い。従って18世紀に入ると3番目の奴婢が大幅に増えた。
常民になるぐらいであれば族譜と官位を買って一気に両班に為った方がメリットが大きいのである。
それ以外の奴婢、つまり人権を持たず主人の虐待を受けていた奴婢は、北へ南へ、山の中へ場合によっては海を越えの逃亡を図った(李氏朝鮮が鬱陵島を空島にした理由の一つに奴婢が逃げ込むからと言うのがあったとされる。)
こうして朝鮮の奴婢制度は17世紀から18世紀にかけて崩壊していったと言われている。この奴婢逃亡、奴婢制度の事実上崩壊によって朝鮮宮廷も方向転換せざる終えず、1801年に内侍奴婢を廃止した。事実上の官奴婢制度の廃止である。これによって奴婢から解放された数は6万6067人とされる。結構な数である。
しかし私奴婢はそのまま残った。しかし奴婢制度はそのまま崩壊を続け、1894年の甲午改革により奴婢制度は廃止される。それに対する強い反対は無かったようである。
なお、1894年に白丁(ペクチョン)などの他の賤民も廃止されたがペクチョンだけは、未だに差別されている。
李氏朝鮮時代の奴婢の値段 『ソウル城下に漢江は流れる』159ページ

ソウル城下に漢江は流れる―朝鮮風俗史夜話 [単行本] 林 鐘国 (著), 朴 海錫 (翻訳), 姜 徳相 (翻訳)
壬辰の乱、丙子の胡乱〔1637~38年の清の侵入〕の時代には、牛や馬一頭で10人の奴絶と交換 することができた。
甲午農民戦争の当時は牛一頭で奴婢5人とされ、この場合5人のうちに少なくともひ とりの美貌の婢が含まれていることが条件で交換された。
『独立新開』〔1896年創刊〕には女奴隷ひと りを100両で売ったという記事もあった。当時は米一斤が3両であったから、現在ならば一万円にもな らない安値であり、300両ならば完全に良人の身分を買うことができたので、たいへんな安さというべ きである。
1万で売買され、3万あれば自由になれるのにその金も貯められない奴隷制度。
日韓併合後も両班は奴隷売買を続けた。
併合後も日本が1923年戸籍制度改革するまで韓国人の両班は奴隷売買を続けていた

1921年(大正10年)の奴隷売買文書
統監府は1909年に戸籍制度を朝鮮に導入し、李氏朝鮮時代を通じて人間とは見なされず、姓を持つことを許されていなかった白丁などの賤民にも姓を名乗らせて戸籍には身分を記載することなく登録させた。これにより、身分開放された白丁の子弟も学校に通えるようになった。身分解放に反発する両班は激しい抗議デモを繰り広げたが、身分にかかわらず教育機会を与えるべきと考える日本政府によって即座に鎮圧された。
通名も参照のこと。しかし履歴書などに身分を記入するようにして、戸籍上白丁は一般人と区別されるなど差別は消えなかった。
1923年に白丁差別解消のための朝鮮衡平社が作られ、日本の水平社と協力して身分差別解消の運動が行われ、1907年に導入された戸籍制度が改正され、身分の記入が無くなった。
若狭和朋著「日本人が知ってはならない歴史」より
まず日本政府、総督府は何をしたのか、戸籍を編成したのである。朝鮮半島の村(面という)によっては人口の半分近くを占める奴婢身分には「戸籍」は無かったが、総督府は戸籍を認めた。このとき多くの日本人名が誕生した。堤防工事で奴婢が住んでいた河川敷の多くが農地になった。
1911年246万町歩の水田は20年後の1932年には449万町歩に倍増した。日本人地主も増えたが、新たに日本人式の名前になったもと奴婢身分の地主も増加した。そこは彼らの住所地だったのである。奴婢身分であった人々の多くは、日本人式の名前を申請して総督府は受理している。
学校教育については総督府の当初1905年には朝鮮全土で4校にしかすぎなかった小学校は、一面(一村)一校を目標に設置が進められ、1923年には2500面で整備され、1936年には全面(全村)に小学校が整備された。小学校ではハングルが教えられた。
980万人の人口は2500万人に増加していた。平均寿命は24歳から48歳に延びて、日本人の平均寿命とほぼ同じになっていた。小学校が全部の村に設置された。
小学校教育を通して、ハングルが普及した。両班や奴婢の身分差別が禁止された。科挙が廃止された。破瓜の歳(十六歳)未満の女子のキーセン(売春)が禁止された。