更新日 2014年08月17日
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竹島領土問題 ラスク次官補の紹介
ディーン・ラスクの経歴

1961年1月(キューバ危機6日目)国務長官ディーンラスク、ジョン·F·ケネディ大統領が国防長官ロバート·マクナマラと閣議室で会う。
(アビーロウ。ホワイトハウスの写真。ジョン·F·ケネディ大統領図書館および博物館、ボストン)
1909年2月9日 貧しいジョージア州チェロキー郡で生まれた(これを記念し、同郡の中学校に彼の名が付けられている)。彼はアトランタで高校教育を受ける。
1925年 高校卒業してからは弁護士事務所で2年間働き大学入学資金を蓄えてノースカロライナ州のデビッドソン大学に入学した。
1931年 英国のオックスフォード大学のセント・ジョンズ・カレッジへ、ローズ奨学生として留学した。そこで1学期間ドイツに留学しナチスの台頭を目の当たりにする。
1934年~1940年 ミルズ大学(カリフォルニア州オークランド)で教鞭をとり30歳で学部長になった。カリフォルニア大学バークレー校で法律を研究した。
1940年 大学で予備役将校訓練過程(ROTOC)を受講していたラスクは現役復帰し、陸軍大尉に任官した。真珠湾攻撃によりアメリカが第二次世界大戦に参加すると、英領東南アジア情報活動の責任者になった。ニューデリーに本部を置き中国、ビルマ、インド戦線を担当するジョセフ・スティルウェル将軍下の参謀次長として活躍し、勲功章と樫葉章を受け大佐に昇進した。戦争の終結が近づくと、戦後の政治問題を検討する為に陸軍省内に設けられた部署に抜擢された。朝鮮半島の分断線を北緯38度(38度線)と決定したのはラスクであるといわれている。
1945年2月 ジョージ・マーシャルに引き抜かれる形で国務省へ移り、国連局で国連の設立に携わった後、特別政治問題局長になった。
1949年 国務次官代理
1950年 極東担当国務次官補となり、朝鮮戦争に関するアメリカの決定に影響力を及ぼした。また同時期に、戦後の日本海の日本領土(竹島を含む)に関して韓国にラスク書簡を発行している。
1950年 ロックフェラー財団の理事
1952年 国務省を辞してロックフェラー財団理事長の職に就いた。
1960年 大統領選でケネディが勝利するとその年の12月12日に国務長官に指名された。さらに外交問題評議会(CFR)とビルダーバーグ会議の正式メンバーにもなった。国務長官としての彼は一貫して、共産主義との対抗に軍事行動をためらわないタカ派で、キューバ危機では当初、即時の軍事攻撃を主張したが、程なく外交交渉へと転じている。ベトナム戦争に当たってはアメリカの行動への弁明ゆえに、しばしば反戦主義者から攻撃の的となった。
1970年~1984年 引退後は、ジョージア州アセンズのジョージア大学で国際法を教えた。
1994年12月20日 ディーン・ラスク歿
1951年9月2日 日米安全保障条約の交渉にディーン・ラスク次官補が参加
1951年9月2日午後6時、吉田茂首相はアチソン米全権を宿舎パレスホテルに訪問、40分間にわたって懇談した。1951年9月8日に行われるサンフランシスコ講和条約の調印後に行われる、日米安全保障条約の調印に向けての最終打ち合わせの為の訪問である。
アメリカ側出席者は、
  • アチソン国務長官(アメリカ主席全権)
  • ラスク次官補(後に、ケネディ、ジョンソン政権で国務長官)
  • ダレス大使(後に、アイゼンハワー政権で国務長官)
  • シーボルト大使
日本側出席者は、
  • 吉田茂総理大臣(日本主席全権)
  • 西村外務省条約局長(後に、フランス大使)
  • 武内全権団スポークスマン(後に、外務次官・駐米大使)
  • 松井首相秘書官(後に、国連大使、フランス大使)
国際交渉で、首相と国務長官では対等とはならないが、この会合では両者共に主席全権である。だから日本側が、アチソン米全権を宿舎パレスホテルに訪問しているのである。当時は、アメリカは多くの問題を抱えていて、同時に対応を進めなければならない状況であった。問題事に主席全権を任命し対応していた。米側のトルーマン大統領は、それらの上に君臨する形だった。
後に、韓国がディーン・ラスク極東担当国務次官補の肩書きを不満に『ラスク書簡』を無効と主張し、ただのメッセンジャーの様な扱いをする。ディーン・ラスク次官補の経歴と役割(サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約)を考えれば、これら条約の重要な実務担当者で有った事は間違いのない事である。これらの業績を評価されて、後にケネディ、ジョンソン政権で国務長官に成っている。
ディーン・ラスクのエピソード
キューバ危機の最中、ラスクはソ連外相アンドレイ・グロムイコを晩餐の席に呼び、キューバに配備されているソ連のミサイルについてグロムイコを問いただした。このとき、ラスクはしこたま酒を飲んで酔っており、グロムイコが「あんな状態の彼を見たことがない」と表現したほどであった。ラスクはグロムイコに「あなた方はミサイルに取り囲まれることに慣れているが、私達は慣れていない。どうして平静を保てようか。」と吐露したという。グロムイコはミサイルの存在を肯定も否定もしなかった。
1962年のある高官会議で「道義的指導力の問題は過大評価されている。私としては一歩たりとも譲歩することはない」と述べた。
彼が出世し、国務長官に長くとどまった理由(順不同)。
  • ローズ奨学生に選ばれた知性派。ROTOC(予備役将校訓練団)8年間(極めて長い)と隊長の軍事訓練。両方を併せ持つ。
  • ニューデリー司令部では対立する2つの勢力から信頼された。蒋介石の中国の崩壊でも、朝鮮戦争でも傷つかなかった。嫉妬渦巻くロックフェラー財団理事長としてももめ事に巻き込まれなかった。
  • まれに見る文章能力。ニューデリーから送る見事な電文が、ジョージ・リンカーン将軍の目にとまった。
  • 何の背景も持たず、高慢だったり気位が高いところがなかった。上官に対して忠誠心にあふれ、重要問題で自分が泥をかぶることをいとわなかった(ベトナム戦争の批難を受ける役を一手に引き受けようとした)。
  • 忍耐強さと体力。大学時代はバスケットボールとテニスの選手だった。
  • 共産主義への恐怖が支配する時代にあって家族共々敬虔なキリスト教信者。高校では教会の青年部で、大学ではYMCAメンバーとして積極的に活躍。
  • 家族への奉仕と愛情。国務次官補時代に子供の猩紅熱の看病と洗濯を自分一人で徹夜でやった(高官であるのに役所関係者に一切援助を求めなかった公徳心)。別の時妻の看病もした。
  • アメリカが自国の正しさと強さを無条件に信じる時代から変わっていく中で、アメリカのすばらしさを信じ切っていた。マクナマラ国防長官までが懐疑派になっていく中で、政策の継続性を任せられた。
  • 軍の背景を持ち、知性派である、東南アジア外交の専門家。マッカーシズムの後に残った専門知識を持ちベトナム問題に対処できる高官は彼しかいなかった。
  • 米国の国家安全保障関係首脳部には、注目を浴びる個性・地位・経歴を持つマクナマラ、バンディ、ハリマン、ロッジ、ボール、テーラー、ウェストモーランドなどがいるので、黙々と仕事をするラスクが逆に浮かび上がる。特にケネディ政権で片隅に追いやられていたジョンソンとラスクには共感できるものが多かった。
  • 重要かつ緊急な事態における冷静さがある。朝鮮戦争で米国が全く予期しない中国の参戦があったときに米国政府はパニックに陥ったが、事態をマシュー・リッジウェイ将軍(後に陸軍元帥)と協力し鎮めた。またキューバ危機では始めは攻撃派だったが、徐々に立場を変え、ケネディ大統領に協力して和平を追求した。